教授棟
アキは教授棟の一室に設置された応接セットのソファに座り、コーヒーを飲んでいた。
手に持ったカップから白い湯気が立ち上っている。
部屋の奥には重厚感を感じさせる焦茶色のデスクと黒革のデスクチェアが据えられている。
そのデスクチェアに座っていた小太りの中年男性が、手にしたレポート用紙の束から顔をあげた。
シャツの上にベージュのボアフリースジャケットを着込んでいる。
「………うん。良いんじゃないかな。よく書けているよ。なかなか面白い観点だね」
「ありがとうございます」
「本来はデータだけでも良いんだが、チェックなんかを入れるのには紙の方がやりやすくてね。あとは印刷しておかないと受け取ったんだかわからなくなる」
「教授もお忙しいですから」
「僕も時間があればここで全部読みたいのだけれど、あいにく予定が詰まってしまっていてね。来週も出ずっぱりだ。移動中にでも読んでおこう。土曜なんぞに来てもらってすまなかったね」
「いえ。自分も今日こちらに用事がありましたので、気にしないでください」
「ん?ああ、小松原先生のアシスタントのアルバイトか。よくやる物だね。今回はどこまで行くんだい?」
「東北ということしか聞いていないんですよ。『温泉に入れてやるから、楽しみにしておけ』って」
アキの言葉を聞いた梅田教授は苦笑いした。
自分のコーヒーを一口飲む。
「昨日の天気ではないけれど、雪には注意なさい。……それと、小松原先生は研究熱心が過ぎるあまり、無理をすることがあるそうだ。もしも君たちに無理を言うようであれば、ちゃんと断りなさい」
「何かあったんですか?」
「僕も聞いた話だがね。10年ほど前かな、切り立った山の斜面の御堂の写真を学生に撮影しに行かせた事があるようだ。まあ、先生もお若くはないから」
「はい」
「その際に、学生が滑落して足の骨を折ったそうだ。怪我人を抱えて山を降りるのに難儀するわ、学生の親族から突き上げを食うわ、色々大変だったらしい」
「その、怪我をされた学生さんは?」
「ああ、彼なら自動車メーカーに就職したと言う話だ。この前も結構な高級車のカタログを持ってきて、私らに売り込んでいったね。先生に蹴飛ばされていたよ」
「お元気なら何よりじゃないですか」
アキが壁の時計を見ると10時45分を過ぎたところだ。
アキはソファから立ち上がった。
「教授、そろそろ失礼します。コーヒー、ご馳走様でした」
「いや。お粗末さまってやつだね。レポートの感想は後でメールで送ろう。気をつけて行ってきなさい」
アキはドアの前で梅田教授に一礼し、教授の部屋を後にした。
エレベーターで上の階に上がり小松原教授の部屋のドアをノックすると、中から声がした。
「鳴海くんか!入りたまえ!」
ドアを開けると、白髪の高齢男性がスーツケースの中に数台のカメラや三脚、ICレコーダーなどを入れている。
書籍も何冊も詰め込んでいるようだ。
男性は高級感漂うオーダースーツに身を包んでいる。
とはいえ、内側にニットを着込んでいるため暖かそうだ。
小松原教授は文化人類学者で、多数の著書を出版している。
当大学では民俗学・文化人類学研究という講義を担当している。
話が面白いという事でゼミの希望者は多い教授だ。
「おはようございます。教授……、一泊二日にしては荷物が多くありませんか?」
「いやあ、すまん。明日の夜に村山大学の根岸教授と仙台で会おうという話になったんだ。私はこちらに戻らないことになったから、明日は適当な駅で降ろしてくれるか。来週の講義は休講だな」
「先生はいつも急なんですよ。本当頼んますよ〜」
「先生、休講にするなら事務局に連絡してきてくださいね。来週火曜も講義あるじゃないですか」
腕組みして立つ男性の横に、女性がスーツケースに腰掛けていた。
部屋に入ってきたアキを見ると軽く手を振る。
「秋人くん、おつ〜」
男性はラグビー選手を思わせるがっしりとした体格で、身長は170センチくらい。
ブラックとオレンジのヌプシダウンを着てカーキのカーゴパンツを履いている。
男性もアキに笑いかけた。
「意外と早かったな。待ってたぜ」
女性はブラウンのボストン型メガネをかけている。
大きめのフレームが似合っていて可愛らしい。
ホワイトのミドル丈ダウンコートにブルーのデニムパンツ姿だ。
加藤マサムネと向井葵だ。
この二人は希望者の多いゼミに入れた幸運な学生ということになる。
葵から指摘された小松原教授は、手を叩いた。
「おお、それじゃあ事務局に顔を出してこよう。すまないが、荷物を車に積んでおいてくれるかね。このスーツケースとボストンバッグだ。それとこのコートも頼むよ」




