5
冬の日の、暗い黄昏にまぎれるようにして、大狼は舞波の館の門前に辿り着いた。
出てきた家人は、驚いて大狼を迎え入れた。
風嵐の若殿の旅好きは有名だが、目の前の彼はまるで数年もどこかを放浪してきたような憔悴ぶりだ。乱れた髪は言うに及ばず、上衣も袴も泥と埃をかぶり、はりを失った顔に目だけが異様なかがやきを帯びている。
「すまんな」
大狼は、主人とほぼ同じありさまの馬を家人に渡した。
「世話してやってくれないか。こいつも飛ばしっぱなしで疲れてるんだ」
庭を横切って母屋の前に行くと、沓脱ぎのところで稀於が待っていた。
報せを聞いて来たらしい。目を見開いてまじまじと大狼を眺めている。
稀於の顔を見て、大狼はようやくひと息つけたような気がした。手白香からここまで来る間、ずっと追い求めていたのは彼女の姿だった。
こんな時でも、いや、こんな時だからこそ、稀於を失うわけにはいかないと大狼は思う。
「だいぶ」
稀於は、いたましげに眉をひそめて、ぽつりと言った。
「ひどい姿だわね」
「稀於どのに会いたい一心で、急いで来たからな」
本心だったが、口調はつい冗談っぽくなってしまう。
「まずは、お湯を使った方がよさそうね」
稀於は聞く耳持たぬといったふうに背を向けて、
「入って。湯殿に案内させるわ」
大狼は熱い湯にとっぷりと浸かり、何日かぶんの垢と疲れとをいっしょに流した。凍えた手足がほぐれると、なんとか生気も甦ってくる。
湯の中で、手白香でのことを稀於にどう説明すべきか考えた。
結局、見てきた通りのことを語るしかないだろうと思う。ありがたいことに、稀於はめったなことで取り乱すような人間ではなかったから。
湯気をたてて脱衣所に戻ると、汚れた衣の代わりに、着替えが用意されていた。
少しばかり丈が足りなかったが、そんなことは気にもならない。ここ何日も味わえなかった清潔な洗いざらしの感触だった。
母屋の奥まった部屋で、稀於が待っていた。
火桶の炭が気持ちよく室を暖めていた。室の四隅に置いた燈台に、明るく火が点されている。とうに陽は落ちたのだ。
大狼のために、酒膳がひとつ置いてあった。焼き魚と熱い野菜汁でさっそく腹を満たす。その後で、稀於は給仕の侍女を下がらせた。
「手白香から、まっすぐこちらへ?」
侍女の足音が聞こえなくなると、ささやくように稀於が言った。
「ああ。まず、あなたに話したくて遠まわりした」
「なにがあったの?」
大狼は、稀於の黒々とした瞳を見つめた。
稀於は、たじろぎもせずに大狼を見返した。
そこで大狼は、手白香であったことを一部始終物語った。
風が出てきたらしく、締め切った座敷の戸が音をたててきしんでいた。
燈台の火はそのたびに横に長くたなびき、消えかけてはまたもとに戻る。室内の影は、水の中にでもいるかのように大きくゆらめいた。
語り終えた大狼は、乾いた口を潤すために、杯の酒を一気に呑み干した。
「神官たちみなが死ななければならない何かが、大那に起こっているわけね」
稀於はゆっくり口にした。
「いったい、なにが……」
「わからない」
「あなたが会った子のこともね」
「ああ、〈龍〉には違いない。羽白を思い出した。だが、生きている者なのか、それとも幻だったのか、それすらわからない。ただ、西の方角を指し示した」
外の風は、一段と強くなっているようだ。
明日には凪ぎればいいが、と大狼は思った。
風嵐に帰り、この気の重い報せを父にも伝えなければならないのだ。
翌朝、大狼は不覚にも寝過ごしてしまった。
早起きの稀於は、日課の朝駆けからもう戻って来ている。
大狼の衣は昨日のうちに洗濯し、きれいに干されていた。この館の女たちは、主人に似て働き者だ。
朝食を終えて出かけようとしていた矢先、二人のいた部屋に入って来た者がいる。
稀於の家人頭の斎だった。
去年死んだ父親の後を継いで稀於の片腕になっている彼は、まだ三十代の半ば。骨ばった身体と、歳のわりには老けて見える思慮深げな顔の持ち主である。
ふだんでも寄っている眉間の皺が、ますます深くなっていた。その目には、彼にしてはめずらしい困惑がありありと浮かんでいる。
「どうしたの? 斎」
すかさず稀於が尋ねた。
「風嵐から急使が来ました。たった今です」
「風嵐?」
大狼は稀於と顔を見合わせた。
「おれのいることを知っていたのかな」
「いえ、そうではなく」
斎は弱々しく首を振った。
「何の報せなの?」
いつもの彼らしからぬ態度に、稀於は不安を覚えたようだ。
「申し訳ありません、お館さま」
斎は片手で顔を擦り、呼吸を整えてから一息で言った。
「わたしも混乱しています。悪い報せです。使者から直接話を聞かれますか?」
「そうしましょう」
稀於は、その悪報に身構えるかのように肩をそびやかした。
「すぐ行くわ。広間に通していて」
使者は、大狼も知っている若い男だった。稀於といっしょに現われた大狼を見て驚いたように、
「ここにおられたのですか、若殿」
「ああ。だが、今日帰るつもりだったんだぜ」
思わず弁解がましい口調になる。
「話してください。何の報せです?」
使者は、大狼から稀於に視線を移して一礼した。稀於は彼の真向いに腰をおろした。
「昨夜のことです」
使者の顔はこころもち青ざめて見えた。
「風嵐から西の海に炎が見えました。伊槻島の方角です。ご存じのように、伊槻は風嵐からようやく見えるほどの離島ですが、その炎は凄まじいものでした。これはひどい山火事でも起きているのかもしれぬと、漁師の若い者たちが舟を出しました。そして、沖からほうほうのていで逃げ帰って来たのです」
使者は口をつぐみ、大狼と稀於を交互に眺めて言葉をついだ。
「燃えさかる伊槻のまわりを、夥しい船団がとりかこんでいたそうです」
「船団?」
大狼と稀於は同時に声を上げた。
「どこの船だ」
「わかりません、若殿。ただ、大那では未だかつて見たことのない巨大な帆船だと」
稀於が、大きく息を吸い込んだ。
「それでは」
ようやく声を出す。
「大那の船ではないということ?」
「異国?」
大狼は、呆然とつぶやいた。
もちろんその存在は、おぼろげながら大那の人間も知っていた。海人族が証明している。彼らはその昔、大那に流れ着いた異人たちの末裔なのだから。
しかし、彼らがやって来たのはほんの一時期にすぎなかったし、彼らの故郷のことをあれこれ穿鑿する者もいなかった。大那人の目は、常に内にばかりに向けられていたのだ。異国は、過去の伝説よりも遠かった。決して交わらぬ永遠の異界とも言っていいほどに。
それなのに──。
「風嵐の殿は、すぐに沿岸の館と都に急使を送りました」
使者は言葉を続けた。
「わたしもその一人です。こちらからは、国府に使いを立てていただければありがたいのですが」
「わかったわ、すぐにそうしましょう」
稀於は斎に目くばせした。
「おまえさんは、このまま風嵐に帰るんだな」
「そのつもりです、若殿。風嵐も混乱しています」
「だろうな」
大狼は、くしゃくしゃと髪の毛をかきまわした。
混乱しない人間などいない。異人の襲来なんて、誰が想像していただろう。
ぶるっと頭を振って使者に言った。
「おれも舟に乗る。急いで帰ろう」
稀於の館は、にわかに慌ただしくなってきた。
大狼は、廊下で立ったまま稀於に別れを告げた。
青ざめた稀於は、表情をいっそうきつくしている。昨日と今日、つづけざまに想いもかけない報せを受けたのだ。稀於だからこそ、耐えていられると思い頭が下がる。
「わからないわ」
稀於が言った。
「これは、神官たちの死と関係あることなのかしら」
大狼は首を振った。
「ただ、あの〈龍〉は異人が来た方向を指さした」
「警告してくれたってこと?」
「かもしれない。だが遅すぎたな、準備する間もない」
「若殿」
廊下の曲がり角から、風嵐の家人がうながした。船の準備はとっくに出来ている。大狼は、あわてて彼を追いかけた。
「大狼さま」
稀於が短く呼びかけた。大狼は立ち止まって振り返り、彼女を見つめた。
「また会えるわね」
潤んだような稀於の目は、暗い光をやどしていた。大狼は、おもいきりうなずいた。
「もちろんだ、きっと会う」
それは、なかば自分に言い聞かせた言葉だった。