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速良の国の早波は、大那南端の領だった。
官道は速良の国府まで通っているし、それから先もさらに南をめざせばいいのだから、いささか方向感覚の鈍い大狼にとっても楽な道筋のはずだ。
にもかかわらず辛い旅になったのは、通りすぎる村々の痛ましさを嫌でも目にしなければならなかったからである。
内陸では米どころか雑穀でさえ、収穫できないところもあったようだ。各領主の館には、凶歳にそなえて備穀が貯えられているが、配給の量はたかが知れている。
これが他の季節ならば、山野に出てなにかしらの食物を手に入れることができるかもしれない。だが、冬ははじまったばかりなのだ。
つてを頼りに、子供たちを海岸地方に里子に出す家も少なくないようだった。海がひかえていれば、漁がない時でも、貝やら海藻やらを採って喰いつなぐことができるから。
大狼は、宿を頼んだ家にはできるかぎりの礼金を置き、自分の持っている食糧を分け与えもした。
だが、それが焼け石に水だということは充分すぎるほどわかっている。
民家が見つからない時の野宿の方が、ずっと心が休まった。村人たちの暗い目を見るのが辛かったのだ。
馬を飛ばし、早波の領に入ったのは都を出てからちょうど十日目のことだった。
久しく嗅いでいなかった潮の匂いが感じられるようで、大狼は顔をほころばせた。
桟橋のような形で大那の南海にせりだしている半島一帯が早波の領だ。手白香に一番近く、半島の突端には神官たちの使う船着き場も造られている。
手白香に俗人が踏み込むことは許されていなかった。早波の人々も、まるで手白香の番人のように来訪者には敏感だと聞く。
大狼は、半島の手前の漁村で舟を借りることにした。
村には、持ち主の家が死に絶えたかどうかして、使われていない舟が一艚あった。
「だがのう」
身体も顔も、すべてがちんまりとしたつくりの村主が、他の村人たちと相談しながら言った。その小さな目が、勘定高くきらめいている。
「舟は漁師の生命でしての」
「使ってないんじゃないのかい」
「今はそうでも、いずれどこかの家の倅が分家して使うことになりますがの」
大狼は、頭をぽりぽりと掻いた。
「いくらなんでも、それまでは戻ってくるぜ」
「べつに、おまえさまを疑っているわけではありませんがの、万一ということもあるじゃろうし」
「銀一粒ではどうだい?」
「この村には舟大工はおりませんでの、よそのもんに頼むとなると、なかなか」
「じゃあ、銀二粒」
「街の市では、だいぶ物価が上がっているそうですがの」
「わかった、わかった。銀二粒と半だ」
大狼はかなり多額の礼金を求められ、もし長く戻らないことがあれば、馬を好きにしてもいいという条件までつけられた。
話がまとまったのは夕刻だ。その日は村主の家に泊めてもらい(さすがに宿賃はとられなかった)、翌朝夜明けとともに沖に漕ぎ出した。
島育ちの大狼は、舟を扱うことには慣れている。風があり、海はいくらか荒れていたが、大狼は器用に櫓を操って波を分け進んだ。
昨日のことを思い出し、腹が立つよりもおかしくなった。
不安で打ちひしがれた人々を見るより、あんなしたたかな人間に会った方がずっといい。
日はだいぶ昇ったはずだが、厚く雲のたれこめた空は薄暗かった。
それでも目をこらしていくと、鉛色の海の彼方に、美しい円錐形の山頂が現われた。島影が波頭に見え隠れしている。
あれが手白香、めざす島だ。
大狼は、いっそう漕ぐ手に力をこめた。
舟が手白香に着いたのは、昼前だった。
泡立つ波が、白く、いかにも清浄な砂浜を洗っていた。舟を降りる時、大狼は思わず沓裏の塵を払ってしまった。
俗人禁制の神聖なる島であることを今さらながら思い出す。神官たちは、自分が来たことを気どっただろうか?
ままよ。
髪の毛をぐいと掻きあげて、大狼は意を決して島の奥へ歩き出した。
海岸から島の中腹にかけて、一本の道が続いていた。誰も通る者がいないかのように、枯葉が厚く降り積もっている。そう、不思議なことに人影はまるでなかった。
時おりがさりと音がして、はっとそちらに目を向ける。しかし現われるのは、この島に棲む鹿の黒ぐろとした目だったり、猿の物見高そうな赤ら顔ばかり。
道の両脇には、見上げるほどの杉の老木が高みの枝に薄い霧をまといつかせ、数知れずそそりたっている。風にどよもす木々の音が、島の中の静寂をいっそう深いものにした。
しばらく行くと道は枝分かれし、本道からそれた小道の向こうに草葺きの建物が見えてきた。
神官たちの房のひとつだろう。大狼は、それに近づいた。
さほど大きくはない、長屋ふうの建物だった。大狼は、戸口の前にしばし立ちつくした。
中からは、人の気配がまるで感じられない。大狼は、そっと戸に手をかけ、のぞき込んだ。
誰もいない。
がらんとした空虚。
手前が土間の厨になっていて、奥はひとつづきの部屋だった。何人かがひと組みになって、ここで共同生活をしていたはずだ。衣類を入れているらしい長持がいくつか、きちんと壁ぎわに積み重ねてある。
大狼は、小綺麗に片付いている厨の中に入った。竃の中には厚い蜘蛛の巣がはり、水瓶の水は濁って虫が湧いていた。
大狼は、ぞくりと寒気をおぼえた。
夜彦山の神官屋敷と同じではないか。
だが、もともと使われていない建物だということもありえる。
大狼は、自分を励まして外に出た。それからさらに二つの房を見つけ、中をうかがった。
どれも同じ。長い時、人の住んだ気配がない。
「どこに行ったんだ、神官たちは」
大狼は、当惑しきってつぶやいた。むろん、返事をしてくれる者はいない。
しかたなくまた本道へ出、島の坂道を登りはじめた。道は中腹を過ぎたあたりから急になり、石段に変わっていた。
やがて、欝蒼とした木々に抱かれるようにして、講堂らしい大きな扁平な建物が現われた。
大狼は、ゆっくりとそこに近づいた。
板葺きの頑丈な建物だ。だいぶ旧いものであることがわかる。
床が高くなっていた。両開きの大きな扉の下に、数段の階がある。段は長い年月で中央が磨耗し、黒ずんでいる。
大狼は、階を登り、扉に手をかけようとした。
ふいにその手をひっこめて、立ちつくす。
しんと静まりかえってはいたが、人を躊躇させる何かが、堂の中には篭もっていた。
大狼は、しかし思い切って扉を押した。
湿っぽくきしんだ音がし、かすかな異臭が鼻をついた。
そして、声にならない声を上げた。
何の調度もない広い床一面、はじめは茶色の衣をまとった人々がうずくまっているのかと思った。
だが、人間にしてはみながみな小さく嵩がない。
明かりといえば、開いている扉からもれる光だけのほの暗い堂の中へ、大狼はなおも目をこらした。
嵩がないのは当然だ。それらはみな、血肉を枯らした骨である。
頭蓋骨と頭蓋骨は重なりあい、わずかにとどめた髪をもつれあわせていた。茶色の衣は流れた血が変色した浄衣に違いなく、白骨の間に錆びた短刀がいくつもころがっていた。
数十体の白骨死体。
しかもそれらは自分の喉を貫き、あるいは互いに刺しちがえた形跡をありありと残している。
その時の血の海が黒い大きな染みとなって床に残り、なかば床板を腐らせていた。
大狼は、今この時にここに来たことを、誰にともなく感謝した。
時期がもう少し早ければ──白骨以前の状態だったならば──とても耐えきれなかったろう。
「なぜなんだ、いったい……」
大狼は、呆けたように繰り返した。
「なぜだ」
言葉は、自分のものではないかのように虚ろに聞こえた。
枯れた骨が響きあわせたこだまのように。
大狼は後退りし、とうとう講堂を飛び出した。
外気がこのうえなく新鮮に感じられた。深呼吸を繰り返し、階段の下にどっかりと腰を下ろした。髪の毛を両手で掻きむしる。
わけがわからない。
あれは、もしかすると神官たち全員なのだろうか?
大王祭になど来れないはずだ。とっくに死んでいるのだから。
それにしても、いったいどういうわけで。
神官たちは大那を守るのが務めなのではなかったか。
なのに、大那がこんな状態の時に、そろって命を断ってしまうとは。
大王の使者も手白香に来たはずだ。これを見て、さぞかし肝を潰したに違いない。
祭りの時の大王は、その報せを聞いていたのか、まだだったのか。
たしかに、まだ公表できる時ではない。
大狼は、若い大王にはじめて同情めいたものをおぼえた。こんなことが民人に知れてしまったら──大那の動揺は、はかりしれないものになる。
大狼は、顔をごしごしと擦った。
いっそ冷水でもかぶって頭をはっきりさせたい気分だ。自分は、これからどうすべきだろう。
神官は〈大主〉に仕えている。〈大主〉とは、いわば大那の地霊そのものだ。神官は大那の地霊を守っていくことを信条としており、それにはなにか形のある象徴が必要だったのだと父が教えてくれた。
彼らは手白香の山頂に〈大主〉を祀った。長い年月のうちに手白香は中央の政権に組み込まれ、大神官は大王祭にはなくてはならない存在になった。
神官たちが生に執着していないことは、よく知っていた。地霊の衰えた大那に、さっさと見切りをつけてしまったのだろうか。もはや、自分たちの手にはおえないから。
それとも、彼らの死は、地霊にとって必要なことだったのか。大神官が天香で地霊に還るよりも先に、すべての神官がそうしなければならなかった。
地霊を満たすため?
大狼は首を振った。神官がみな命を絶ったところで、いまの大那には焼け石に水のような気がする。
講堂を後に、大狼はぼんやりと歩きだした。
講堂を過ぎると石段はなくなり、沢ぞいの狭い坂道がうねうねと続いた。
道の両脇の木々はいっそう深く生い茂り、高いこずえからはほんの少しの空しか見えなかった。踏みしめる枯葉は、湿ってずぶずぶと言うようである。大狼は、一二度足をすべらせて、あやうく転びそうになった。
坂道をひとつ越えると、唐突に視界が開けた。
手白香の山頂だ。大狼は、ひょうしぬけしてあたりを見まわした。そこには、なにもなかった。
いくらかまばらになった木々が平地に茂り、また下り坂へと続いているばかり。
〈大主〉の祠くらいはあるかと思っていたのだが。
一番高い所に立って、ぐるりと海を見まわした。空も海も、重たい灰色に沈んでいる。早波の半島は影の一部のようにかすかにその姿を見せていた。
と、大狼は振り返った。
すぐ後ろに、松の古木が生えている。
その枯れた灰色の幹のあたりに、誰かが立っていた。
小柄な姿。
まだ少年だ。
神官の生き残り?
大狼は、息を呑んだ。
こちらに向けられた少年の双の目は、明るい紫色だったのだ。
目に紫を持つ者は、かつて大那を支配していた龍の一門しかいない。
そういえば、少年の顔には、どこか馴染みがあった。少し顎のとがった美しい面立ちは、羽白に似ている。
羽白は、〈龍〉──。
少年は、黙って西の海を指さした。
大狼は、思わず少年の指の先をたどり見た。
重く波打つ鉛色の海と、暗い空が広がっているばかりだった。
視線を戻したとき、少年の姿は消えていた。