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風の狼  作者: ginsui


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16/19

16

 目の前に、一振りの飾太刀があった。

 深紅の布を敷きつめた古い木箱に、しっかりと収められていた。柄に銀で象眼されているのは、向き合って吠える二頭の獅子だ。黒い鞘にも、花をかたどった美しい銀箔の絵模様がほどこされている。

〈獅子〉に伝わる由緒ある品。一目でわかるみごとさだった。

「内臣に渡すがいい」

 吐いて捨てるように名織は言った。

 あいかわらず青白い顔色のうえに、目の下にはくっきりと隈ができていた。昨夜は一晩寝ていないらしい。

「返事の代わりだ。あとのことは内臣に任せる」

 大狼は、深く頭を下げた。

 常に主導権を握っている鎌に対して、名織の方はしだいに屈託がたまっているようだ。鎌の手腕を知っているだけに、彼としてはやりきれないところなのだろう。

 が、今は無視を決め込むことにする。ともあれ大狼は、望んでいた返事を手に入れたのだ。

 大狼は、宮殿からまっすぐに沼多に向かった。

 狼屋敷の者たちには、すでに別れを言ってある。励ますどころか、反対に汐華に励まされるかたちになってしまったが、伯母に会えたのは嬉しかった。

 伯母のおかげで、羽白の姿も見ることができた。もちろん夢の中だったけれども。

 だが、普通の夢ではない。たしかにあれは、いまの羽白の様子を知らせるものなのだと大狼は思った。

 夢から醒めた後でも、羽白の紫色の瞳はずっと頭から離れなかった。

 こちらの方が辛くなるほど哀しげなあの目……。

 大狼は、愕然とせずにはいられない。

 羽白は、本当に琵琶弾きをやめたのだ。そうでなければ、羽白があんな表情をするはずがない。

 夢の中で聞こえていたのは、竹の葉のざわめきだった。

 羽白が育ったのは奈瀬の竹林の中だったという。

 養い親の萌が死ぬまで、彼はそこで暮らしていたのだ。

 風が竹林の中を、年中吹き抜けているようなところだと言っていた。耳を澄ますと、聞こえるのは竹の葉音ばかりだと。

 おそらく、羽白は故郷に帰ったのだ。萌との思い出深い、奈瀬の竹林に。

 今すぐ奈瀬に行って、羽白の口から何があったのか聞き出したかった。

 彼が抱えているらしい苦しみを、いくらかでも楽にしてやりたいと思う。自分にできるものならば。

 とはいえ、大狼の身体はひとつしかなかった。ハイラとの約束は五日以内。

 沼多の内臣に大王の返事を伝え、急いで津木に戻らなければならないのだ。

 吹雪がおさまっていたぶんだけ、帰りの道は来た時よりも楽だった。翌夕には沼多に着くことができた。

 鎌に大王の返事を伝え、賜わった太刀を和議の証としてハイラに持って行くことにする。

 その夜に、大狼は一沙の宿舎を訪ねてみた。今のところ、大狼の相談相手は彼しかいなかった。

「大王は、大人しく言うことを聞いたんだな」

 いつもの皮肉っぽい口調で一沙は言った。

「ちょっとばかり、拗ねていたがね」

「痴話喧嘩のようなものだろう、あの二人はしょせん離れられないさ」

「それはともあれ」 

 大狼は真顔に戻って言った。

「一沙どの。どうも悪いことが起きているようなんだ」

「これ以上悪いことが、まだあるわけか?」

「そうらしい」

 大狼は、羽白についての噂と、自分の見た夢のことを一沙に話した。

 一沙は黙って大狼の話を聞いていた。

 最後にひとつうなずいて、

「地霊がむかしに戻りつつあることは確かだ。おまえさんの夢は、本当に現在(いま)の羽白を見せたと思うぜ、大狼。羽白はなにか、抜き差しならない事態に陥っているのかもしれん」

「ああ」

 大狼は、髪の毛をかきむしった。

「おれには、どうしていいかわからないよ、一沙どの。羽白が琵琶弾きをやめるなんて、よっぽどのことがあったに違いないんだ」

「だろうな」

 一沙は気むずかしい顔で腕組みをした。

「内臣には、そのことを話したのか?」

「うん。奈瀬に人を送ってもらうようにした」

 大狼はため息をついた。

「だが、羽白はまるで、まわりのものすべてを拒んでいるような感じだった。おれにさえ、ほんの一瞬しか振り向いてくれなかった。そんな羽白に、内臣の使いが行ったところで、どうなるだろう」

 一沙はふんと鼻をならし、

「どうにもならんだろうな」

「ますます自分の殻に閉じこもってしまいそうだ」

「奈瀬は安見(やすみ)の国か」

 一沙は、大那の地図を想い描くかのように視線を空に向けた。

「安見と香嶋じゃ、大那の東西だ。遠すぎるな、実際」

 大狼うなだれた。

「おまえさんは、羽白にとってかけがえのない友人だ」

 一沙は、力づけるように大狼の肩をゆさぶった。

「とにかく、呼び掛けてみろ。羽白だって、おまえさんの気持ちがわからないほど馬鹿じゃない」


 その夜、大狼はもう一度試みた。

 羽白の夢を見ようと念じてみる。

 目を閉じて、眠りの波が引き込みに来るのを待ったが、意識しすぎたせいかなかなか眠れなかった。

 羽白は、頑なに自分を閉ざしているようだ。

 かわりに、もうひとりの人物のことが頭に浮かんだ。

 羽白の夢が見れたのだから、稀於の夢だって見れるはずだ。

 彼女の無事を確かめ、その行方を知ることもできるのでは?

 伯母に夢の話を聞いた時、羽白のことと同時に稀於のことも考えたのだ。

 羽白を先に選んだのは、彼が琵琶弾きをやめたなどという、とんでもない噂を聞いたから。と、稀於の面影に弁解してみる。

 羽白のことと同じぐらい、稀於のことも知りたかった。あてもなく羽白を捜し続けているに違いない稀於に、せめて羽白の居場所を伝えることができるなら。

 羽白と稀於と、大狼の想いは行ったり来たりを繰り返した。

 そうしている間に、いつのまにか眠ってしまったようである。

 気がつくと、明るい浜辺に大狼はいた。

 足元の砂に、波が打ち寄せていた。

 太陽は高く昇り、目の前の海をまぶしくきらめかせている。

 数か月ぶりに見る陽の光だった。大狼は、思わず両手で目をかばった。

 海の向こうにはくっきりと風嵐島──あの位置からすれば、ここは舞波の浜のあたりだ。

 大狼は、海から陸に視線を移した。

 と、すぐそこに立っている人物に気づいて声を上げた。

 稀於が現われていた。夢のように忽然と。

 あたりまえだ。

 大狼は、自分に言い聞かせた。

 これは夢なのだ。

 稀於は桜色の上衣に紅の裳をつけ、髪をきちんと結い上げていた。いくらか日焼けが残っている顔もこのうえなく健康そうだ。

 異人の襲来も、〈大主〉の脅威も知らなかったころの稀於。

 大狼が、本当はいまもそうであってほしいと思っている稀於の姿だった。

 稀於の大きな瞳が、驚きに見開かれていた。大狼は、我が身の姿をたしかめた。

 夢だというのに、妙な実感をもって自分の手足が認められた。着ているものも、どろどろに汚れた衣ではなく、洗いざらしのさっぱりとしたものだ。

 これは、自分の願望のこもった夢らしい。

 そう思ったとたん、稀於が口を開いた。

「大狼さま」

 目を潤ませてささやきかける。

「こんなふうに会えるのは、夢だけなんて。でも、わたしはまだ信じられません。本当にあなたは死んでしまったの?」

「違う」

 あわてて首を振った。

「おれは生きているんだ、稀於どの」

 大狼は、稀於の両手をとった。その手の温かささえ感じられるような気がした。

 稀於はされるがままになって大狼を見上げている。

「おれは死んじゃいない。今は津木にいるよ。あなたは、どこにいる?」

「旅しているわ。羽白を捜しているのよ」

 稀於は口をつぐみ、眉をひそめた。

「変だわ。これは、ただの夢ではないみたい」

「そうだよ!」

 大狼も、はっきりと気がついた。

「おれたちは、夢の中で会っているんだ。むかしの人間がしたみたいに」

「そんなことが」

 稀於は首を振った。

「絶対に本当のことだと思い込んでいて、醒めた夢ってあるでしょう。いい夢にかぎって、きっとそうなのよ」

「こっちまで自信がなくなるようなことは言うなよ、稀於どの。あなたらしくもない」

「だって」

「おれは、あなたのことを想ってこの夢を見た。あなたも、おれのことを想ってくれたんだろう? だから、夢がひとつに交わったんだ」

「本当に?」

 稀於は、まだ信じられないように大狼を見つめた。

「本当にあなたはまだ生きているの?」

「ああ」

 大狼は、まさしく夢中でうなずいた。

「生きている」

「よかった」

 稀於は泣き笑いの表情をつくった。

「津木にいるのね」

「ああ。あなたは?」

「安見の国に入ったところよ」

「安見」

 大狼は、思わず叫んだ。

「奈瀬へ?」

「ええ、行くつもり。都を出て、かたっぱしから旅芸人に訊ねてまわったの。そうしたら、羽白が琵琶弾きをやめたという嫌な噂を聞いたわ。でも、だとすれば羽白は故郷に戻ったんじゃないかと。あなたが、羽白の故郷は奈瀬だって言っていたから」

「その通りだ」

 大狼は大きくうなずいた。

「おれも、そう思うよ、稀於どの。羽白は奈瀬にいる」

「わたしの考えは正しかったわけね」

 稀於は、にっこりと笑った。

「目的地がはっきりして、元気がでたわ」 

 大狼は、稀於を見つめた。

 西から東へ。稀於は、なんとはるばる旅をしていることか。しかも、大那は普通の状態ではない。至る所、飢饉と悪病がむしばんでいるのだ。

 夢の中の彼女は、昔ながらの美しさ。

 しかし、本当の姿はどんなふうになっているだろう。思っただけで胸が痛んだ。もういいから、すぐに引き返せと言ってやりたかった。

「大丈夫よ、大狼さま」

 大狼の思いを察したかのように稀於は言った。

「今までだって乗り切ってきたわ。わたしが何を食べてるか知りたい?」

 大狼は、困って首をかしげた。あまり知りたくはないような気がする。

 稀於は、くすくすと笑っていた。

「わたしの弓は、百発百中よ。飛んでいる鳥だって射落とせるもの」

「そりゃあ、帝国人の食事よりは豪勢だな」

 大狼も、冗談めかして応えるしかない。

 稀於の気力は充分らしい。が、彼女に何もしてやれない自分が悲しかった。

「心配しないで」

 稀於は、真顔になって、

「羽白に会うまでは、死んでも死にきれない」

「ああ、そうだな」

 大狼とて、羽白に何が起きているのか知りたかった。羽白とも、こんなふうに夢の中で話すことができさえすれば。

 しかし、今の羽白は大狼さえ拒んでいるようなのだ。

「できるなら、おれだって奈瀬に行きたい」

「羽白には、よろしく伝えるわ」

 いつの間にか、まわりの景色が淡い黄昏にも似た靄につつまれはじめていた。

 もう風嵐島は見えなかった。空や水平線といっしょに、ぼやけながら流れるように消えていく。

 夢もまた醒めつつあることを大狼は感じた。

 自分の身体が希薄になってくる。稀於を見ると、彼女の身体もまた輪郭を失っていた。

「また会えるわね」

 声ばかりがようやく聞こえた。

「ああ」

 大狼は答えた。

「きっと、また」



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