16
目の前に、一振りの飾太刀があった。
深紅の布を敷きつめた古い木箱に、しっかりと収められていた。柄に銀で象眼されているのは、向き合って吠える二頭の獅子だ。黒い鞘にも、花をかたどった美しい銀箔の絵模様がほどこされている。
〈獅子〉に伝わる由緒ある品。一目でわかるみごとさだった。
「内臣に渡すがいい」
吐いて捨てるように名織は言った。
あいかわらず青白い顔色のうえに、目の下にはくっきりと隈ができていた。昨夜は一晩寝ていないらしい。
「返事の代わりだ。あとのことは内臣に任せる」
大狼は、深く頭を下げた。
常に主導権を握っている鎌に対して、名織の方はしだいに屈託がたまっているようだ。鎌の手腕を知っているだけに、彼としてはやりきれないところなのだろう。
が、今は無視を決め込むことにする。ともあれ大狼は、望んでいた返事を手に入れたのだ。
大狼は、宮殿からまっすぐに沼多に向かった。
狼屋敷の者たちには、すでに別れを言ってある。励ますどころか、反対に汐華に励まされるかたちになってしまったが、伯母に会えたのは嬉しかった。
伯母のおかげで、羽白の姿も見ることができた。もちろん夢の中だったけれども。
だが、普通の夢ではない。たしかにあれは、いまの羽白の様子を知らせるものなのだと大狼は思った。
夢から醒めた後でも、羽白の紫色の瞳はずっと頭から離れなかった。
こちらの方が辛くなるほど哀しげなあの目……。
大狼は、愕然とせずにはいられない。
羽白は、本当に琵琶弾きをやめたのだ。そうでなければ、羽白があんな表情をするはずがない。
夢の中で聞こえていたのは、竹の葉のざわめきだった。
羽白が育ったのは奈瀬の竹林の中だったという。
養い親の萌が死ぬまで、彼はそこで暮らしていたのだ。
風が竹林の中を、年中吹き抜けているようなところだと言っていた。耳を澄ますと、聞こえるのは竹の葉音ばかりだと。
おそらく、羽白は故郷に帰ったのだ。萌との思い出深い、奈瀬の竹林に。
今すぐ奈瀬に行って、羽白の口から何があったのか聞き出したかった。
彼が抱えているらしい苦しみを、いくらかでも楽にしてやりたいと思う。自分にできるものならば。
とはいえ、大狼の身体はひとつしかなかった。ハイラとの約束は五日以内。
沼多の内臣に大王の返事を伝え、急いで津木に戻らなければならないのだ。
吹雪がおさまっていたぶんだけ、帰りの道は来た時よりも楽だった。翌夕には沼多に着くことができた。
鎌に大王の返事を伝え、賜わった太刀を和議の証としてハイラに持って行くことにする。
その夜に、大狼は一沙の宿舎を訪ねてみた。今のところ、大狼の相談相手は彼しかいなかった。
「大王は、大人しく言うことを聞いたんだな」
いつもの皮肉っぽい口調で一沙は言った。
「ちょっとばかり、拗ねていたがね」
「痴話喧嘩のようなものだろう、あの二人はしょせん離れられないさ」
「それはともあれ」
大狼は真顔に戻って言った。
「一沙どの。どうも悪いことが起きているようなんだ」
「これ以上悪いことが、まだあるわけか?」
「そうらしい」
大狼は、羽白についての噂と、自分の見た夢のことを一沙に話した。
一沙は黙って大狼の話を聞いていた。
最後にひとつうなずいて、
「地霊がむかしに戻りつつあることは確かだ。おまえさんの夢は、本当に現在の羽白を見せたと思うぜ、大狼。羽白はなにか、抜き差しならない事態に陥っているのかもしれん」
「ああ」
大狼は、髪の毛をかきむしった。
「おれには、どうしていいかわからないよ、一沙どの。羽白が琵琶弾きをやめるなんて、よっぽどのことがあったに違いないんだ」
「だろうな」
一沙は気むずかしい顔で腕組みをした。
「内臣には、そのことを話したのか?」
「うん。奈瀬に人を送ってもらうようにした」
大狼はため息をついた。
「だが、羽白はまるで、まわりのものすべてを拒んでいるような感じだった。おれにさえ、ほんの一瞬しか振り向いてくれなかった。そんな羽白に、内臣の使いが行ったところで、どうなるだろう」
一沙はふんと鼻をならし、
「どうにもならんだろうな」
「ますます自分の殻に閉じこもってしまいそうだ」
「奈瀬は安見の国か」
一沙は、大那の地図を想い描くかのように視線を空に向けた。
「安見と香嶋じゃ、大那の東西だ。遠すぎるな、実際」
大狼うなだれた。
「おまえさんは、羽白にとってかけがえのない友人だ」
一沙は、力づけるように大狼の肩をゆさぶった。
「とにかく、呼び掛けてみろ。羽白だって、おまえさんの気持ちがわからないほど馬鹿じゃない」
その夜、大狼はもう一度試みた。
羽白の夢を見ようと念じてみる。
目を閉じて、眠りの波が引き込みに来るのを待ったが、意識しすぎたせいかなかなか眠れなかった。
羽白は、頑なに自分を閉ざしているようだ。
かわりに、もうひとりの人物のことが頭に浮かんだ。
羽白の夢が見れたのだから、稀於の夢だって見れるはずだ。
彼女の無事を確かめ、その行方を知ることもできるのでは?
伯母に夢の話を聞いた時、羽白のことと同時に稀於のことも考えたのだ。
羽白を先に選んだのは、彼が琵琶弾きをやめたなどという、とんでもない噂を聞いたから。と、稀於の面影に弁解してみる。
羽白のことと同じぐらい、稀於のことも知りたかった。あてもなく羽白を捜し続けているに違いない稀於に、せめて羽白の居場所を伝えることができるなら。
羽白と稀於と、大狼の想いは行ったり来たりを繰り返した。
そうしている間に、いつのまにか眠ってしまったようである。
気がつくと、明るい浜辺に大狼はいた。
足元の砂に、波が打ち寄せていた。
太陽は高く昇り、目の前の海をまぶしくきらめかせている。
数か月ぶりに見る陽の光だった。大狼は、思わず両手で目をかばった。
海の向こうにはくっきりと風嵐島──あの位置からすれば、ここは舞波の浜のあたりだ。
大狼は、海から陸に視線を移した。
と、すぐそこに立っている人物に気づいて声を上げた。
稀於が現われていた。夢のように忽然と。
あたりまえだ。
大狼は、自分に言い聞かせた。
これは夢なのだ。
稀於は桜色の上衣に紅の裳をつけ、髪をきちんと結い上げていた。いくらか日焼けが残っている顔もこのうえなく健康そうだ。
異人の襲来も、〈大主〉の脅威も知らなかったころの稀於。
大狼が、本当はいまもそうであってほしいと思っている稀於の姿だった。
稀於の大きな瞳が、驚きに見開かれていた。大狼は、我が身の姿をたしかめた。
夢だというのに、妙な実感をもって自分の手足が認められた。着ているものも、どろどろに汚れた衣ではなく、洗いざらしのさっぱりとしたものだ。
これは、自分の願望のこもった夢らしい。
そう思ったとたん、稀於が口を開いた。
「大狼さま」
目を潤ませてささやきかける。
「こんなふうに会えるのは、夢だけなんて。でも、わたしはまだ信じられません。本当にあなたは死んでしまったの?」
「違う」
あわてて首を振った。
「おれは生きているんだ、稀於どの」
大狼は、稀於の両手をとった。その手の温かささえ感じられるような気がした。
稀於はされるがままになって大狼を見上げている。
「おれは死んじゃいない。今は津木にいるよ。あなたは、どこにいる?」
「旅しているわ。羽白を捜しているのよ」
稀於は口をつぐみ、眉をひそめた。
「変だわ。これは、ただの夢ではないみたい」
「そうだよ!」
大狼も、はっきりと気がついた。
「おれたちは、夢の中で会っているんだ。むかしの人間がしたみたいに」
「そんなことが」
稀於は首を振った。
「絶対に本当のことだと思い込んでいて、醒めた夢ってあるでしょう。いい夢にかぎって、きっとそうなのよ」
「こっちまで自信がなくなるようなことは言うなよ、稀於どの。あなたらしくもない」
「だって」
「おれは、あなたのことを想ってこの夢を見た。あなたも、おれのことを想ってくれたんだろう? だから、夢がひとつに交わったんだ」
「本当に?」
稀於は、まだ信じられないように大狼を見つめた。
「本当にあなたはまだ生きているの?」
「ああ」
大狼は、まさしく夢中でうなずいた。
「生きている」
「よかった」
稀於は泣き笑いの表情をつくった。
「津木にいるのね」
「ああ。あなたは?」
「安見の国に入ったところよ」
「安見」
大狼は、思わず叫んだ。
「奈瀬へ?」
「ええ、行くつもり。都を出て、かたっぱしから旅芸人に訊ねてまわったの。そうしたら、羽白が琵琶弾きをやめたという嫌な噂を聞いたわ。でも、だとすれば羽白は故郷に戻ったんじゃないかと。あなたが、羽白の故郷は奈瀬だって言っていたから」
「その通りだ」
大狼は大きくうなずいた。
「おれも、そう思うよ、稀於どの。羽白は奈瀬にいる」
「わたしの考えは正しかったわけね」
稀於は、にっこりと笑った。
「目的地がはっきりして、元気がでたわ」
大狼は、稀於を見つめた。
西から東へ。稀於は、なんとはるばる旅をしていることか。しかも、大那は普通の状態ではない。至る所、飢饉と悪病がむしばんでいるのだ。
夢の中の彼女は、昔ながらの美しさ。
しかし、本当の姿はどんなふうになっているだろう。思っただけで胸が痛んだ。もういいから、すぐに引き返せと言ってやりたかった。
「大丈夫よ、大狼さま」
大狼の思いを察したかのように稀於は言った。
「今までだって乗り切ってきたわ。わたしが何を食べてるか知りたい?」
大狼は、困って首をかしげた。あまり知りたくはないような気がする。
稀於は、くすくすと笑っていた。
「わたしの弓は、百発百中よ。飛んでいる鳥だって射落とせるもの」
「そりゃあ、帝国人の食事よりは豪勢だな」
大狼も、冗談めかして応えるしかない。
稀於の気力は充分らしい。が、彼女に何もしてやれない自分が悲しかった。
「心配しないで」
稀於は、真顔になって、
「羽白に会うまでは、死んでも死にきれない」
「ああ、そうだな」
大狼とて、羽白に何が起きているのか知りたかった。羽白とも、こんなふうに夢の中で話すことができさえすれば。
しかし、今の羽白は大狼さえ拒んでいるようなのだ。
「できるなら、おれだって奈瀬に行きたい」
「羽白には、よろしく伝えるわ」
いつの間にか、まわりの景色が淡い黄昏にも似た靄につつまれはじめていた。
もう風嵐島は見えなかった。空や水平線といっしょに、ぼやけながら流れるように消えていく。
夢もまた醒めつつあることを大狼は感じた。
自分の身体が希薄になってくる。稀於を見ると、彼女の身体もまた輪郭を失っていた。
「また会えるわね」
声ばかりがようやく聞こえた。
「ああ」
大狼は答えた。
「きっと、また」




