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風の狼  作者: ginsui


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15/19

15

 河原には、溶ける間もなく次の雪が降り積もり、泥まじりの雪と白い雪とが交互に層をなしていた。

 大狼は、一番上の新しい雪を踏みしめて、冷たい風に吹かれていた。足元の川は茶色に濁り、泡立つように流れている。

 大王祭の終わった翌日、稀於といっしょにここいらを歩いたものだったが、今は野営の旅芸人すら見あたらない。

 都の中には大王祭の時のような仮屋が何箇所か設けられていて、地方から流れてきた人々はみなそこに収容されていた。

 飢饉でどうしようもなくなった村を捨て、都に上る人々は後を絶たなかったが、仮屋からあふれるほどではなかった。飢えや病で、毎日何人もが死んでいたから。

 都の西の名捨ヶ原には、何百という死体が雪に埋もれたままになっているということだった。

 日に二回、仮屋の側で椀一杯の粥が施されていたし、薬師もこまめに巡回している。それでも、こんなありさまなのだ。地方の悲惨さは、想っただけでも辛かった。一沙の言うとおり、全滅する村があっても不思議はない。

 大狼は、深く息を吐き出した。

 雪の中を急ぎに急いで、都に着いたのは今日の昼過ぎだった。

 やむなく野宿を一晩したが、とても寝てなどいられなかった。絶えず火を焚いて用心していないと、餓えた獣がいつ襲ってくるかわからなかったのだ。

 それでも大狼は休む間もなく宮殿に行き、大王との謁見を申し出た。

 正門の番士は大狼の風采を見て、どこかの身の程知らずが大王に直訴に来たと思ったらしい。あやうくつまみ出されるところだったが、大狼の顔を知っている者がいた。それに、内臣鎌の直筆を持っているのだ。

 番士はあわてて報告に行き、すぐに取り次ぎの者が現われた。

 大狼は、彼に連れられて広い宮殿の敷地に入った。大王祭の時は儀式の場である正殿に入ったが、それより奥の建物に入るのははじめてである

 大王が日常暮らしているのは、正殿の真後ろの殿だった。正殿とは、長い渡り廊下でつながっている。さらに後には後宮があり、この三つの建物を中心にして両脇に武官文官の詰め所が連なっていた。

 敷地内にふんだんに植えられた樹木も、建物の瓦屋根も、今は重たげに雪をかぶっていた。

 通りすがりの官人や女官が、時おり立ち止まっては不思議そうに大狼を眺めた。

 正殿は風嵐の館の二倍はあり、大王の住居もそれに劣らず大きなものだった。

 若い近侍が現われ、大狼を案内した。控えの間に導くと、彼は女のようなかん高い声で言った。

「内臣の御文は、ここでお預かりいたしましょう」

「いや、直接大王にお渡ししたい」

「しかし」

「おれは〈狼〉の惣領だ。謁見の資格は持っている」

 近侍は困ったように、

「では、着替えを用意致しましょう。大王にお会いになる前に、身繕いなさってはいかがです」

「急を要することなんだ」

 大狼は、きっぱりと首を振った。

「失礼ながら、このまま会わせていただく。早く大王に伝えてくれ」

 彼は露骨に顔をしかめて姿を消した。

 しばらくして、別の近侍が呼びに来た。通されたのは、私的な謁見の間ともいうべき室だった。

 さほど広くはない板間で、上座にだけ数枚の畳が敷かれてあった。警護の者が室の両隅にひかえている。

 大狼は、自分の顔が映るほどつややかに磨き込まれた板間に座り、頭を下げた。

 上座に人の気配がした。大狼は、ほんの少し顔を上げた。

 大王名織(なおり)が、紫紺の盤領の衣の裾をさばいて座についた。

 大王祭の時よりも、いっそうやつれて見える。もともと青白かった顔色は、病的なほど蒼白だった。目は暗く沈痛で、時おりこめかみが癇癖強そうにぴくぴくと動く。

 唇の色だけが、いやに赤くて生々しかった。彼は、その唇を開いて大狼に手を差し出した。

「文をもらおう」

 近侍が進み出て大狼から文を受け取り、名織に差し出した。長い巻き物となったそれを、名織は無言で読みはじめた。

 頭を下げながらも、大狼は上目づかいで名織の顔を観察した。

 読み進むうち、こめかみの痙攣がいっそう強くなっていた。文を持つ手も、かすかに震えはじめている。

 赤い唇を噛みしめるようにして、名織は鎌の文を読み終えた。両手でくしゃりと握りしめたまま、喰い入るように大狼を見つめる。

 名織は、なにか言いかけた。が、すぐに口をつぐみ、すっと立ち上がった。

 名織はそのまま室を出た。近侍たちがあわてて後を追った。

 明日の朝まで返事を待つようにと伝えられたのは、それからしばらくしてからだった。

 大狼は鎌の手紙を読まなかったが、帝国人との交易がいかに必要かはくわしく説明されていると思う。鎌も一晩考え抜いたことなのだ。

 すぐに答えが出だせるほど、名織は潔くよくないらしい。大狼は、名織の返事を待つしかなかった。

 明朝また来ると言い残して、宮殿を出た。都の様子もよく見ておきたかったのだ。


 陽はいつしか傾いていた。

 大狼は、河原を離れて歩き出した。今晩は、狼屋敷に泊まるつもりだった。

 河原の上は、すぐ区画された市街地になっている。といっても、このあたりは宮殿近くの官庁街とは違い、一般の民が住むところだ。ひしめき並ぶ家々も、草葺きの小さなものである。ところどころ空き地があって、そこに浮浪民の仮屋が出来ていた。

 歩いていると、悲しいほどいい匂いがただよってきた。

 広場で、夕の施粥がはじまっている。湯気をたてる大鍋に向かって、長い列が出来ていた。

 大狼は、そちらに向かった。どこかで子供が弱々しい泣き声をたてていた。

 並んでいる者たちは、もう泣く力も残っていないほど疲れ果てて見えた。戦や飢饉で家族を失った者も少なくはないだろう。

 大狼が彼らに近づいたのは、その中に旅芸人らしい者の姿を見かけたからだ。

 大那で一番の情報網を持っているのは旅芸人である。大狼は、旅芸人に会ったら、かたっぱしから尋ねることにしていたのだ。

 琵琶弾きの羽白を知らないか?

 それとも、羽白を捜している女のことを知らないか?

 大狼は、彼の前に立った。彼は、ぎろりと大狼をにらんだ。

 浅黒い顔に、頬骨が異様に出ている中年男だ。

 痩せた背中に、大事そうに背負っているのは一面の琵琶。羽白と同じ、琵琶弾きなのだ。

「おう、あんた」

 琵琶弾きは、むっとした顔つきで列の後ろを示した。

「割り込みはやめな。みな並んでいるんだぜ」

「いや、違うんだ」

 大狼はあわてて首を振り、一歩退いた。

「ちょっと、あんたに訊きたいことがあってな」

「なんだよ?」

「知り合いを捜しているんだ。羽白という琵琶弾きを知らないか」

「羽白?」

 彼は、琵琶の背負い紐をいじくりながら首をひねった。

「琵琶弾きの羽白か。同じ名前なら、聞いたことはあるぜ」

「そりゃあ、ほんとかい?」

 大狼は、思わず大声を上げた。

 尋ねてみるものだ。どんな手がかりでもいい。知ることができれば。

「なんでも、すごい名手だったそうだが」

「その羽白だ!」

 まちがいないと言おうとして、大狼は、はっと口をつぐんだ。

 名手だった?

 琵琶弾きの肩をゆさぶるようにして、

「だった、って言ったな。いまは違うのか? どういう意味だ?」

「意味もなにも」

 琵琶弾きは大狼の手をふりほどいた。

「おれは、聞いた通りのことを言っただけだぜ。つい最近耳にした噂よ。その男が琵琶弾きをやめたってな」

「やめた?」

 大狼は、自分の耳を疑った。

 唖然としてつぶやき、

「そんな、馬鹿なこと……」

「信じられないなら、あんたの知り合いとは別の羽白だろうさ」

 もちろん、そう思いたかった。

 話しながら進んでいるうちに、琵琶弾きの番がまわってきていた。黒い鉄の大鍋が、目の前でさかんに湯気をたてている。

 配給係が、琵琶弾きの椀に一掬いの粥を注ぎ込んだ。湯のようなに薄い粥だった。

 琵琶弾きは大事そうに椀を抱え、大狼に背を向けて列を離れた。

 ぼんやり立ちつくしていた大狼は、あわてて彼の後を追いかけた。

「なぜなんだ。理由を教えてくれ」

「知るかよ」

 琵琶弾きは、振り向きもせず言い捨てた。

「こっちは、自分のことだけで精一杯だぜ。本人に訊いてみるんだな」

 大狼を残して、琵琶弾きはさっさと行ってしまった。大狼は、呆然とその後ろ姿を目で追った。

 信じられるわけがない。

 ただの噂にすぎないのだと大狼は自分に言い聞かせた。

 羽白は、琵琶を弾くためにだけ生まれてきたような人間だ。

 その彼が琵琶弾きをやめた?

 こわばった自分の顔を、大狼は両手で思い切りこすった。きっと歯を喰いしばり、その場から駆け出した。

 ことの真相を、確かめたかった。しかし、今の自分に何ができるだろう。


 狼屋敷の門前に立った時には、夜もだいぶ更けていた。月も星もない。あいかわらず、闇に凍えるような夜だ。

 門の前で赤々と燃えさかる篝火にほっとした。奥の屋敷の中からも、ぽっと明かりがにじみ出ている。一門の女とその子供たちは、戦のはじまる前に風嵐からここに避難をしていたのだ。

 とはいえ、屋敷の中に入るのは、ためらいがあった。ここにいるほとんどの者たちが、戦や津波で夫や肉親を失っている。生き残った自分は、いったいどんな顔で彼女らと会えばいいのか。

 大狼は、門の前で二三度足踏みした。このまま後戻りすることはたやすい。しかし、都で頼る者もなく身を寄せ合っている者たちに、いくらかでも力をつけてやらなければ。

 見まわっていた警護の者が、大狼を見つけて声を上げた。

「殿! 若殿」

「おお」

 大狼は、曖昧に片手を上げた。

汐華(しおか)さまがお待ちかねです。ささ、早く中へ」

「伯母上が?」

 大狼は、あっけにとられて沓脱ぎの所まで行った。廊下から明かりが近づいた。

 手にした燭台が、小柄なその人の顔を照らしている。ほんのりと優しい微笑が浮かんでいた。

 大狼は、身体中の力が全部抜けていくような気がした。

「伯母上」

「早くお上がりなさい、大狼どの。さぞ、お疲れだったでしょう」

 あやうく涙があふれそうになった。子供のころからずっと、大狼はこの温かい伯母の声に迎えられて風嵐の館に帰っていたのだ。

 しかし、

「驚かないんですか?」

 大狼は、我にかえって問いかけた。

「伯母上、おれは……」

「大狼どのがご無事なことは、わかっておりましたよ。都に来られたこともね」

「なんで?」

 大狼は、あっけにとられて伯母を見つめた。

「とにかく、お入りなさい。寒いでしょう、湯を沸かさせていますからね」

 大狼は、よく暖めた座敷に導かれた。

 伯母の汐華(しおか)は、姿を消したかと思うと、すぐに膳を持って現われた。湯気をたてているたっぷりの野菜粥に、干し魚までついていた。

 大狼は、朝から何も口にしていなかったことを思い出した。慢性的な空腹に慣れっこになっていた大狼の胃は、小躍りして喜んだ。

 あっという間に平らげる大狼を、伯母は目を細めて見つめていた。

 汐華は父のただ一人の姉である。若い時の結婚はどうも縁がなかったようで、大狼が生まれる前には風嵐の館に戻って来ていた。

 大狼の母が早くに亡くなってからは、代わって館の台所を切り盛りしていた。大狼にとっても、幼いころから母親がわりの人なのだ。

 父とはだいぶ歳が離れていて、頭の後にきっちりと結い上げた髪もほとんどが白髪。小さな顔にも、歳相応の皺がよっていた。

 可愛らしい老女といった感じで、大狼の前にちんまりと座っている。

 稀於にも、こんなふうに歳をとってもらいたいものだと、大狼は勝手に思っていたものだった。今となっては、互いに伯母の歳まで生きれるかどうかもわからないけれど。

 大狼は箸を置き、一息ついた。それが、深いため息となる。

「伯母上」

 大狼は、頭を垂れた。

「今の風嵐がどうなっているかは、ご存じですね」

「はい。ずいぶん恐ろしい思いをなさいましたね、大狼どの」

「おれは、どうにか生きているから、まだいいんです。親父どのや、他の者は……」

「痛ましいことでした」

 汐華は目を閉じ、静かに首を振った。

「大狼どの。都にいると、さまざまな話が耳に入ってきます。大那で起きている天変地異は、津波や地震ばかりではないそうです。多冶(たじ)では、ひどい竜巻があったと聞きますし、綾織(あやし)の方では突然山が噴火して、麓の村が全滅したとか」

「……」

 大狼は、うつむいたまま歯を喰い縛った。

 みんな〈大主〉のしわざなのだ。

〈大主〉は、飽くことも知らず大那を痛めつけている。

「いたるところで流言が飛びかっているようです。もう、大那の終わりではないかと」

「いや」

 大狼は、夢中で首を振った。

「大那は滅びません。生き延びなければならないんです、絶対に」

「そうですね」

 汐華は穏やかに言って大狼を見つめた。

「ここにいる者たちはみんな、悲しむだけ悲しみました。あとは希望しかありません。わたしたちに希望をもたらすのは、あなただと信じていますよ、大狼どの」

 まるで疑いのない、澄んだまなざしだった。大狼は、思わず座り直した。

「おれも、やれるだけはやってみるつもりでいます、伯母上。それにしても」

 不思議そうに汐華を見つめ、

「伯母上は何でもご存じのようですね。おれが都に来たことだって。どうして?」

「夢のせいです」

「夢?」

「風嵐を出てから、さまざまな夢を見ました。どれも悲しいものばかりでした」

 汐華は、ひっそりと微笑を浮かべた。

「でも、ひとつだけ嬉しい夢。大狼どのが生きておられました」

「それは」

 大狼は、わけがわからず髪の毛をかきまわした。

「なにかの呪力なのですか?」

「わかりません。わたしは呪力者ではありませんもの。ただ、あなたがたのことを知りたいと、ずっと念じていただけなのです」

「心に念じれば、そんなことが?」

「はい。無事なあなたのお姿を見ることができましたよ。沼多で、内臣と話しておられたでしょう」

「その通りです」

 大狼は、ただただ驚いた。伯母は、夢の中で自分たちの会話を聞いていたというのか。

 あるいは……。

 大狼は、はっと思い当った。増えてきた地霊のせいなのだろうか。大那の死者は日に日に増える一方だ。それだけ地霊も満ちてきている。

 むかしの人間は、互いの夢を通して会話ができたという。普通の人間でも、呪力者に近い力が発揮できたのだ。地霊の密度も、むかしに近くなりつつあるのかもしれない。

「伯母上」

 大狼は言った。

「おれにも、そんな夢が見れるでしょうか」

「見れますとも」

 汐華は、優しい童女のような笑みを浮かべた。

「心に強く念じさえすれば。その人と、本当に会いたいと思いさえすればね」 


 闇の中に彼はうずくまっていた。あたり一面、漆黒の闇だというのに、彼の姿だけははっきりと見えた。

 首をうなだれた後ろ姿だった。長い髪がかかった肩の線が、頑なに強ばっていた。

 大狼は、彼が誰か知っていた。声を出して呼んでみる。

「羽白」

 しかし、羽白は振り向かなかった。

 遠く、海鳴りのような音が聞こえていた。

 乾いた繊細な音が、いくつもいくつも重なり合って風にどよめいている。

 これは、竹だ、と大狼は思った。風にしなう竹の葉音だ。

 羽白は、闇と冬の海のように寂寞とした竹の音につつまれて、ひとり座っている。

「羽白」

 大狼は、もう一度呼び掛けた。

 そのあまりにも淋しい後ろ姿に、たまらなくなったので。

「こっちを見てくれ、羽白」

 羽白はぴくりと頭を上げた。端正な美しい顔が、ゆっくりと振りかえる。

 大狼は、息を呑んだ。

 羽白の瞳の色が、鮮やかな紫色に変わっていたのだ。龍が大那の空を翔けていたころの、いにしえの彼の一門のように。

 そしてその目には、言いようもない悲しみがやどっていた。

 彼自身、とほうにくれたような表情だった。

「どうしたんだ? 羽白」

 大狼は、夢中で問いかけた。

「何があった?」

 羽白は、大狼の言葉が耳に入らないかのように、再び向こうを向いた。

 大狼は、彼の側に駆け寄ろうとした。が、どうしても手足が動かない。

 これは、夢なのだ。

 だが、叫ばずにはいられない。

 羽白にだって、自分の声が届くはずだ。

 大狼は、もう一度羽白の名を呼んだ。

 しかし、

 羽白の後ろ姿はそのまま小さくなり、闇に溶け込むように消えてしまった。

 大狼は目醒めた。

 自分の声の余韻ばかりが、むなしく耳に残っていた。


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