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日に日に募る、幸子への恋情。けれど俺は、三途の川の管理者としての良識もまた、備えていた。


俺の恋情は偲んで然るべき。


幸子は本来、船に乗せるべきだ。


頭では理解している。けれど俺は、幸子を船に乗せたくない。幸子と過ごすこの日常を、手放したくなかった。


「……幸子、あと何年お前はここにいてくれる? あと何年、俺と共にいてくれる?」


臆病な俺は、この問いを直接幸子には掛けられない。


幸子が俺の元から消えゆく事、それ以上に恐ろしい事などなかった。


毎日、船の最終便の時分には、お茶屋に行かずにはいられない。幸子が万が一にも船に乗り、俺の元から去っていないか、この目で確かめずにはいられなかった。


「今日も船に乗らなかったのか?」さり気なさを装ったその問いは、俺の精一杯の虚勢でもって成り立つ。


その問いをまた掛けられる事に、俺はいつだって心の底から安堵している。幸子がこの地に留まった事に、まるで俺自身が命を繋いだかのように愁眉を開く。


「俺の元からいなくなってくれるな。幸子がいなくなれば俺はもう、今まで通りにここでの役目を全うできない」


俺が腰掛ける居間の長ソファ。かつては一人悠々と中央に腰掛けていたが、今では右端に座るのが習慣になっている。そうして俺の左隣が、幸子の定位置。


左を振り向けば、いつも幸子の横顔がそこにある。そうして艶やかな黒髪から香る清涼な香りが俺の鼻腔を甘く擽る。


もう二十年、変わらない日常の風景だ。


二十年前と変わらない幸子の艶やかな黒髪。けれど二十年前よりも光沢が増している気がした。


ここにある限り、死した魂は没年齢を映したまま、老化の概念はない。なのに幸子は二十年前に出会った時から日々、眩ゆさを増していく。清廉として美しく、俺を虜にしていく。


「神威様、もしかすると全知全能の貴方には、俺と幸子の出会いも行く末も、本当は全て分かっておられるのだろうか……」


良識と本能のはざま、俺はギリギリの均衡の中で幸子との同居生活を過ごしていた。



***



懐かしい夢を見た。



それは三途の川に来る前、病床でよく見た夢だ。夢の中の私は赤ん坊で、生前の両親とは別の両親に抱かれている。


夢の舞台は見覚えのない場所で、日本とは異なる場所だ。


あぁそう言えば、少しだけ三途の川の雰囲気に似ているような気もする。


でも、あそこは三途の川のじゃない……。


ならば、あそこはどこなのだろう?




夢の始まりはいつも同じ。光あふれる場所で、私は柔らかな生絹に包まれて、嫋やかな母の腕に抱かれている。そんな私を蕩けるような笑みを浮かべた父が、覗き込んでいた。


方々からの言祝ぎに、両親は微笑んで応えていた。


「よう女児を授かって下さった」

「これは目出度い」


皆が皆、私の誕生に喝采を送る。そこかしこに祝福が溢れていた。


けれど、そんな祝福の中に潜む、確かな敵愾心。


物心つかない赤ん坊でありながら、私だけが気付いてた。


父の長衣の後ろに身を隠し、怨嗟の篭った目で私を睨みつける存在を感じていた。


両親の温かな手が、優しい眼差しが、私だけに注がれていた。


父の長衣の裾を握り、唇を噛みしめる少年に目をとめる者は、私以外誰もいない。


少年は、私の兄。


あぁ、私はきっと、この兄に淘汰されるのだろう。それは確かな予感。この世で唯一同じ血を分け合った兄妹だからこそ、そう感じた。


祝福の余韻覚めやらぬその晩に、両親の目を盗んだ兄に、私は抱えられていた。


「お前が男の子だったらよかった。そうすれば僕は、こんな醜い感情に苦しまなくて済んだのに……お前を弟として愛せたのに……」


予感は、現実となって私を襲う。


兄の切ない告白を耳にした次の瞬間、私は暗闇の中へと投げ落とされた。


落ち行く私を見下ろす兄の表情は、苦渋に歪んでいた。


兄により、私が麗しい両親の腕に抱かれる機会は永遠に断たれた。それは、とても悲しいこと。


だけど不思議と、兄への恨みや怒りといった感情は湧かなかった。


心優しい兄が、私のせいで嫉妬心に苦しむのを申し訳ないとさえ思った。


なにより、この世で唯一同じ血を分け合った兄との別れが寂しい。兄に咎がなければいいと、落下の中で私は願っていた。


夢はいつもここで終わる。


この夢で目覚める朝は、いつも不思議な心地がする。


懐かしいような、切ないような……上手く言葉で言い表せないけれど、心の奥、深いところに訴えてくる。


「何か、伝えたいのかな?」


繰り返し同じ夢を見る時。それは一般的に、何かのメッセージを含んでいると言われている。


「……これは何かのメッセージ?」


私は身を起こし、起き抜けの鈍い頭で考えを巡らせた。


……そういえば、夢の中の私は兄の苦渋の表情を認識してる。なのに不思議と、私は兄の顔の造作を覚えていない。



コンコンッ。



「おい幸子? 起きてるか?」 


ノックと共に、十夜が寝室の扉越しに声を掛けてきた。


「あ、起きてます。ちょっと考え事をしちゃってて……すぐ下りて、朝ごはんにしますね!」


壁掛けの時計を見れば、いつもならとっくに朝食の準備をしている時間だった。考えても答えの出ない堂々巡りに、随分と没頭してしまったらしい。


「いや、具合でも悪くして起きられないのではないかと気になっただけなんだ。何でもないのなら急がなくていい、朝飯などある物で構わん」


これは十夜の優しさだ。


三途の川にあって、体調不良という事はあり得ない。


ならば十夜が心配したのは私の精神面。


かつてのように、私が一人泣いていやしないかと、そんなふうに気を回してくれたのだろう。


ここに来た当初、私は夜が来るたびに枕を涙で濡らしていた。


けれど一年が経ち、二年が経ち……。三途の川で過ごす月日に反比例をするように、泣き濡れて目覚める朝は減っていった。


「ありがとうございます。でも昨夜、朝食用にフレンチトーストを卵液に浸してあるんです。支度をしたらすぐ下ります。焼きたてを一緒に食べましょう」


……同時に悟志さんの記憶もまた、霞んでいく。悲しいけれど、記憶は時の経過で色褪せる。どんなに願っても、当時の鮮明度のまま胸に留まってはくれない。


「! そうか、それなら先に下りている」


十夜の気配が遠ざかり、階段を下る軽快な足音が聞こえてきた。


ここ一~二年は、悟志さんには夢でも逢っていなかった。けれど夢で逢えない事に対して抱くのは、悲しさや寂しさじゃなかった。


……逢えない事は、怖い。逢わない事で悟志さんへの想いが一層熱を失っていくのが怖かった。


あんなに愛した当時の想いが、明らかに温度を下げている現実が、言いようのないくらい恐ろしかった。


食卓を挟んだ向かい、十夜にチラリと目線を向ける。


十夜は、絶妙の甘さと焼き加減のフレンチトーストがいたく気に入った様子で、ご満悦だった。


「十夜も、夢って見ますか?」


十夜があらかた食べ終えたところで、水を向けてみた。


「夢くらい誰だって見るだろう?」


……そうか。神様でも、夢は見るんだ。


私にとっては、はじめて知る衝撃の事実だ。けれど今、私が聞きたいのはそこではない。


「なら、同じ夢を繰り返し見る事ってありますか?」


十夜は首を傾げて、少し考える素振りを見せる。


「うむ。……ない事も、ないな」


長い間を置いて、十夜は随分と歯切れ悪く答えた。


十夜が繰り返し見る、夢。なんだかそれは、とても意味がある物のように感じた。


「それってどんな夢ですか?」


俗世と切り離され、長い時を生きる十夜。その十夜が、繰り返し見る夢が持つ意味……。


それには何かのヒントが、隠れているかもしれない。


「……あまり、言いたくない」


十夜は私からツイっと視線を逸らし、ぶっきらぼうに告げた。


言いたくない、の前に、あまり、と付いていた……。十夜には申し訳ないが、私はかなり、聞きたい。


私は自分の皿に三分の一ほど残るフレンチトーストを、フォークとナイフで器用に掴み上げると、十夜の皿に素早く移動させた。


それを横目に見て、十夜が目を輝かせたのを私は見逃さない。


「食べきれなくなっちゃったので、よかったら十夜が食べてくれますか?」


これは決して賄賂ではない。


純粋に、満腹になってしまったので、十夜に協力を願ったのだ。


「……繰り返し見る夢なんてひとつしなかい」


十夜は溜息を吐くと、フォークで目の前のフレンチトーストを一刺しした。


フレンチトーストは、十夜の口を割らせるのに十分な効力を発揮してくれたらしい。


私は続く言葉を、生唾を呑んで待った。


「一人寝の夜に、情交に溺れる夢を見た事は一度や二度じゃない」


十夜は言い切ると、ひと口でフレンチトーストを頬張った。


「ふん。……むぐむぐっ」


私は咀嚼する十夜を、目を丸くして見つめていた。


「……え? え! えぇぇぇええええっ!?」


そうして一拍を置いて、やっと理解が追いつけば、羞恥の大波が私を呑み込む。頬に、一瞬で朱が昇る。


「聞いてきたのは幸子だぞ?」


思いもよらない十夜の夢の告白に、私は動揺しきりだ。


「……さて。飯も食ったし、さっさと出ないと開店に間に合わないぞ?」


真っ赤になってあたふたとする私を尻目に、十夜はひと息吐くと涼しい顔で席を立つ。


「え! あ、ほんとですね!」


言われてみれば、もうすっかりいい時間。


私も十夜の後に続き、あたふたと『ほほえみ茶屋』に向かった。


そうして難無く開店にこそ漕ぎつけたものの、この日の私はどこか平常心を欠いていた。常ならしない凡ミスばかりを連発し、数個の湯呑みと数枚の皿が犠牲になった。


けれど、それ以上にやっかいだったのは、十夜のカミングアウトが私の夢にまで多大な影響を及ぼすようになった事。この日を境に、私まで熱く情事に溺れる夢を見るようになった。


淫靡な夢は、私が目を逸らしたい現実を、容赦なく突き付ける。


……私が夢で抱き合う相手は、悟志さんじゃない。


熱くきつく私を胸に抱き締めて、吐息と共に甘やかに愛を囁く。深く優しい濃密な愛で私を翻弄するのはいつも、

……十夜だった。


「……ごめんなさい」


私は一体、何に対して謝るのか……。


意思とは無関係に展開される夢での情事、それは不貞とすら呼べないだろう。だけど私の心の奥深く、大事なところを占めるのは悟志さんだけじゃない。


悟志さんと同じ……いや、それ以上に十夜の存在が育ち始めている。


一途な愛を貫きたいのに、その思いとは裏腹に、日に日に十夜への想いが膨らんでいく。その想いがいつか、堰切って溢れ出てしまうのではないかと、私は恐々としてる。


「ごめんなさい……」


悟志さんが、大好きだった……。悟志さんを、愛していた……。


だけど二十年の年月が、当時の激情を穏やかな思い出に変えてしまう。


悟志さんの感触や温度、匂い、記憶に残るそれらにも、激情が迸る事はない。熱く燃え上がらせるには、二十年前の思い出は遠すぎるのだ。


「なんて薄情な、女なんだろう……」


滲んだ涙は一滴、球になって頬を伝った。雫はそのまま、スゥっと枕に染み込んだ。






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