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カラ、カラカラカラ。


十夜が店を出て行ってすぐ、引き戸が引かれた。


「十夜? 何か忘れ物ですか?」


作業の手を止めぬまま、厨房から声を張る。タイミング的に、十夜が戻ってきたと思って疑わなかった。


「……幸子さん、私です」


聞こえた声に、私は慌てて厨房から顔を覗かせた。


「懸人さん!? すいません、今しがた十夜が行ったところだったので、うっかり勘違いをしてしまいました」


入口にかしこまった様子で佇むのは、懸人さんその人だった。


出航前の時間に、こんなふうに懸人さんが顔を出す事はあまりない。


「懸人さん、何かありましたか? 十夜は堤防を見に行っていて不在にしているんです」


「幸子さん、ちょっとだけ来てもらっていい?」


懸人さんは曖昧な笑みを浮かべて言った。懸人さんの笑みに、何故だか言い知れぬ恐怖を感じた。


「え? もうじき開店時間ですし、懸人さんも出航準備があるんじゃないですか?」


素直に付き従う事が憚られ、言い淀む。


けれど一方で、懇意にしている懸人さんにこんな不信感を抱く事自体、申し訳ないという思いもあった。


「おかしいね。かつてお前は微笑みを浮かべて私の腕に抱かれてくれたのに」


懸人さんの瞳の奥、燃ゆる焔は何を映しているのだろう?


そうして懸人さんが語る言葉の意味は何なのか……。私と懸人さんに、懸人さんの語るかつてなど、存在しないというのに。


さすがに危機感を覚え、懸人さんと二人きりのこの状況から脱しようとした。けれど『ほほえみ茶屋』の出入り口はひとつだけ。今は、懸人さんが出入り口を背にして立っていた。


「懸人さん、仰っている意味が分かりません。すみませんが私、どうやら屋敷に忘れ物をしてしまったみたいで、……っ!!」


愛想笑いを貼り付けて、懸人さんの脇を通り過ぎようとした。


すると懸人さんが、私の腕を強引に掴み上げた。指が食い込む力で掴まれて、痛みに息が詰まった。


「待てよ。行かせる訳がない」


明確な意図を持って私の腕を掴む手も、低く冷たい声も、私の知る懸人さんとは別人のようだった。


「なぁ、どうしてお前はただの人として輪廻を回ってくれない? 私はいつか巡ってくるお前の魂を私の船で送る為に、気が遠くなるほどの長い時を、船頭をして待っていた。お前が人として幸福を掴む分には、私は心から祝福してあげられる。それがお前を人に落とした私に、唯一許された贖罪だとも思ってた」


「あの? 懸人さん、待って下さい。仰っている事が分かりません」


懸人さんの目は、私を見ているようでいて、私じゃない何かを見てる。


懸人さんの手が、私の両手を後ろ手に回し、乱暴に纏めて掴む。


私は必死で振り解こうと、渾身の力を篭めるのに、懸人さんはびくともしない。


「っ、やめてっ!」


直面する暴力に、意思とは無関係に体が震えた。


それくらい懸人さんは常軌を逸して見えた。


「そうして長い時を経てやっとお前は現れて、なのにどうしてお前は再び神として君臨しようとするんだ? どこまでお前は私を貶めれば気が済むんだ?」

「やっ、やだっ!! 放して下さい!」


懸人さんは、私の抵抗を物ともしない。


私は容赦なく懸人さんに引き摺られ、店から船乗り場へと連行されていた。


「いやっ、船には乗りません! 船に、乗せないでっ!! お願い! お願い!!」


懸人さんのしようとしている事が、手に取るように分かった。私を船に乗せ、強引に輪廻へ舞い戻そうとしている!


『船に乗せさえすれば、記憶があろうがなかろうが、そんなのは大きな問題ではない。向う岸に行けば、魂はすぐに選別にかけられて、また新たな生を得て生まれ変わる』


かつて十夜が、言っていた。


「やだ、お願い! 船に乗せないでーーっっ!! いやだ、十夜っ、十夜ーーっっ!!」


私は半狂乱になって懇願していた。


十夜の事を忘れるなんて嫌だ! 


十夜との別れなんて、絶対に嫌だ!


十夜との二十年を、消さないで!! 十夜と共にある、これから先の未来を、消さないで!!


頭の中は全部、全部十夜だけが占めていた。それ以外が浮かぶ余地など、寸分もなかった。


「懸人さんお願いします! どうか船に乗せないでっ!! いやだ、十夜っ!!」


懸人さんに引き摺られ船乗り場に辿り着く。


一歩跨げば、船に乗ってしまう。私は渾身の力で、両足を踏ん張った。


「幸子さん、煩いよ」


懸人さんは身を捩って暴れる私に舌打ちすると、一旦立ち止まり腰に掛けていた係船用のロープで私の両手を後ろ手に縛り上げた。


「懸人さんお願い! やめて下さい!! こんなのは間違ってます!」

「いい加減、黙らないか!」


懸人さんは氷点下の声音で突き放すように告げた。


「っっ!!」


同時に背中をドンッっと、容赦のない力で押された。


私は船内に突き飛ばされていた。両手の拘束で受け身も取れぬまま、船底に強かに頭を打ち付けて、視界がぐにゃりと撓む。


霞みゆく視界に、十夜の残像が過ぎる。


……十夜、嫌だ。十夜と離れたく、ない。私はまだ、十夜に一番大事な事を、伝えていない……。


涙が一滴、頬を伝って落ちた。






「……娘さん、……娘さん?」


ヒタヒタと頬を叩かれながら、私は呼ばれているようだった。


だけどなんだか、思考には靄が掛かったようで、瞼も鉛のように重い。


「これっ、いい加減に起きんさいっ!」


ペチンッ。


「っ!」


頬を強めに叩かれて、ついに私は重たい瞼を開けた。


起き抜けの視界に飛び込んだのは、ムシロの下に隠れギョロリと目元だけ覗かせた、皺枯れた老婆。


「起きたかい?」

「タ! タタタッ、タツ江さっ、ぅぶっ!」



ビタンッ!



「シーッ! これ、声を潜めんかい! 声を!」


容赦のない力で今度は口を手のひらで塞がれた。


正直、かなりの威力だった。けれどお陰で、ぼんやりとしていた意識は鮮明になった。


一番望んだ十夜の顔ではなかったけれど、見知った顔を見て起きられた事が、涙が出るほど嬉しかった。


周囲は既に日が傾き始め、船に乗せられてからかなり時間が経っていそうだ。


けれど幸運にも、私はまだ忘却の渦中に落とされてはいないらしい。


目元を拭って、はたと気付く。拘束されていた両手が解かれ、自由になっていた。


「全く、懸人に気付かれてしまっては元も子もないわい。手を離すから、静かにできるね?」


タツ江さんは身を潜める長椅子の下から、首を巡らせて船首を確認した。


タツ江さんの念押しに、私は首を上下に振らせて答えた。


「タツ江さんが、どうして!?」


タツ江さんの手が離れるのと同時、潜めた声で問う。


「納品に来た呉服問屋から偶然、船が天界の西岸あたりを航行してたって聞いたんだ。だけどそこは定期運航のルートじゃない。あたしゃすぐに、懸人が事を起こしたんだってピンときたよ。それに天界の西岸付近なら、懸人は絶対にあそこに向かってるって思った。それで先回りして待ってれば、案の定懸人は来た。そこで懸人の目を盗んで船に乗ったのさ」


懸人さんは途中どこかに寄港したらしい。


敢えて私を乗せて、懸人さんは一体どこに寄ったんだろう。けれどその寄港があったお陰で、私はまだ船上を漂っていた。


「タツ江さん、ここはどこですか?」

「懸人が船を漕ぎ出してから、結構経っちまってるんだ。何か感じ取ったのか、こちらを気にしてなかなか目を離さんかった。だからもう、幾らもしないで対岸だよ」


……もうじき、船が対岸に着く。緊張に、ゴクリと空唾を呑み込んだ。


タツ江さんの視線の先を追えば、船首に立ち、オールで舵を取る懸人さんの姿があった。タツ江さんが懸人さんを見る目が、どこか熱を帯びているように感じた。


「あんまり時間がないよ。あたしの言う事をよくお聞き? 対岸に足を踏み入れれば、魂の浄化が始まっちまう。だから着くと同時に、あたしがなんとしても懸人を対岸に引き摺り下ろす。お前さんはその隙に船を出すんだよ。船さえ出しちまえば、後は何とでもなる。三途の川を漂っていれば、十夜がきっと見つけてくれる」


「……どうして、タツ江さんが?」


先ほどと同じ「どうして」を繰り返すのは、タツ江さんがそうまでして私を助ける理由がまるっきり分からないからだ。


何故? どうして? 多くの疑問符が、浮かぶ。


「うん、あたしにもね、色々思うところがあるんだよ。でもそうだね、あんたに対しては、団子の礼が建前でどうだい?」


私の問いに、タツ江さんは薄く微笑んで、肝心なところをはぐらかす。


「でもタツ江さん、」


それでもタツ江さんのしようとしている事は、タツ江さんのリスクが大きすぎる気がして、待ったを掛けようと口を開いた。


「でもとお言いじゃないよ。輪廻に回りたくないのなら、十夜と共にいたいなら、なんとしてもおやり? いいね?」


タツ江さんは私の唇に人差し指をトンと突き付けて、それ以上を言わせない。


私だって、十夜と離れたくなんかない。


「……分かりました。タツ江さん、必ず十夜と相談して、お礼をさせてもらいます」

「いやだよこの娘は。団子の礼だって言ったじゃないかい。礼に礼なんてされちゃ、困っちまうよ。だからこれきりに、しとくれよ」


タツ江さんの告げる「これきり」がとても重く、頭の中で反響していた。


「さ、もたもたしてる間はないよ。もうじき船が、接岸するよ」


タツ江さんは、船の内壁に嵌め込まれている予備のオールを握り締めた。


対岸が見えた。白く靄がかかり、対岸の状況は見通せない。


だけどふんわりと、胸が温かになる。それはまるで、懐かしい故郷に戻ってきたかのよう。


ここは魂が還る場所。だからここは皆人の故郷に他ならない。


そしてこの場所は、かつて赤ん坊の私が、兄の手で落とされたところ……。


鼓動が煩いほどに早鐘を刻む。荒い呼吸を落ち着けるように、ほぅっと大きく一息吐いた。


失った意識の中で、私は久しぶりにあの夢を見ていた。


病床でよく見た夢。三途の川に来てからも見た、あの夢。


けれどいつも同じはずのあの夢は、今日に限っては同じじゃなかった。


落ち行く私の網膜上、初めて兄の顔が映っていた……。




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