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「……幸子、……幸子?」


目の前でヒラヒラと手を振られ、ハッと気付いて見上げれば、十夜が心配そうな表情で私を見下ろしていた。


「え!? あ、十夜!」


十夜は労わりの篭った目を私に向ける。


「ここのところ連日で盛況しているからな。少し疲れているんじゃないか? いつもは停船中まで船に張り付いている懸人も今日は休憩の折、珍しく船を離れていたようだしな。息抜きは必要だぞ」


十夜の手が、私が持ったままのお皿を取り上げた。


そうしてお皿を持ったのと逆の手で、十夜が私の背をそっと促した。


「え? 十夜?」


そのまま十夜の手で肩を押され、トンッと椅子に腰かけた。


十夜は疑問符を浮かべて見上げる私に、得意げに微笑んだ。


「幸子は休んでいろよ。これを洗えばいいんだろう? 皿洗いくらい、俺にも出来る」


かなり、驚かされた。


『ほほえみ茶屋』は私の独断で営業をしている。十夜は異を唱える事はないけれど、その代わり営業に関与もしない。


十夜に手伝いを申し出られたのは、お母さんを見送ったあの日を除けばこれが初めての事だった。


しかも十夜は私と同居している二十年の間で、皿一枚洗った事がなかった。


……そうか。十夜にも皿洗いは出来たのか。


とは言え、私は家事の一切を引き受ける事に全く不満はないから、十夜が皿洗いを出来ようが出来まいが、実はどちらでも構わない。


そもそも三途の川に来てからこっち、体が疲れるという感覚とはとんと縁なく過ごしている。


「あの、十夜? 今更だけど私が疲れないの、知っているでしょう?」


三途の川という場所は風邪も引かないし、体調不良という概念はない。


「体はそうだな。だが、労わられたり、思いやられたりすれば、心が軽くならないか?」


サラリと告げられた台詞。けれどそれは、なんて慈しみに溢れた言葉なんだろう。……十夜という人は、どれだけ広い懐を持っているんだろう。


私は弾かれたように椅子から立ち上がると、洗い場の前で腕捲りする十夜に駆け寄った。


「十夜! やっぱり私も手伝います!」


十夜は駆け寄る私に、困惑を滲ませて首を傾げていた。


「そのまま十夜が洗って下さい? 私がそれを、流して拭きますから」


隣りの十夜を見上げて告げれば、十夜は目を瞠り、次いで弾けるように笑った。


「なるほど。その手伝いは有難いな」


厨房に一緒に並んで立つ、互いに微笑み合う、たったそれだけの事なのに、ドキドキと胸が騒いだ。


「十夜、……ありがとう」


私の頭を、十夜の大きな手がさり気なく撫でる。ささやかな触れ合いは、こそばゆくてくすぐったい。


胸が確かな熱を持ち、忙しなく早鐘を打った。


「なに、もう二十年一緒にいるんだ。語らずともなんとなく分かるものもある」


十夜はきっと何気なく口にした。


けれどその一瞬、私は想像した。ならば、十夜と共に更に月日を重ねたら? その時は隠し立てなんて欠片も通用しないくらい、全て見透かされてしまうんじゃないだろうか。


心に育ち始めた、十夜への恋心まで、余さずに全部……。


「幸子?」

「! あ、すいません!」


見れば十夜が洗った皿を持って所在なさげにしていた。私は慌てて布巾を持った手で皿を受け取った。


皿洗いは二人で熟せば、あっと言う間に終わってしまった。




それからしばらくは、ふとした瞬間に老婆から聞かされた伝言が思い浮かんだ。


けれど一週間もすれば、段々と記憶の彼方に追いやられる。


十日目になれば、思い浮かぶ事もなくなった。



***



昼といわず夜といわず、常に幸子の身辺を警戒しながら過ごしていた。

神威様との面談から二週間、これまで幸子を狙う不届き者は現れていない。しかし慢心は命取りだ。



「……ふむ。大丈夫そうだな」


この日は、改めて屋敷周辺の結界に綻びがないか、確認してから寝台に潜ったが、なかなか眠りが訪れない。


そうして、まんじりともしないまま夜半が過ぎた。


誰だ!?


肌を刺すような違和感で、一気に神経が研ぎ澄まされた。


寝台を下りると、カーテン越しに窓の外に意識を集中させた。


視界が遮られようと、気配で知れる。


招かざる侵入者は二人、……いや、一人は使徒だ。使徒は俺の敵ではない、相手は上級神一人だ。


俺は足早に寝室を後にして、屋敷の外へと飛び出した。


「人の屋敷の敷地に許可なく侵入するとは、一体どういう了見か?」


気配を読んでまず、まさかと疑った。けれど何度神経を研ぎ澄まして透かし見ても、気配は間違いようがなく……。


「出て来られませ、太一様?」


侵入者は俺にとって、あまりに意外な人物。


「……ほう、分かっているなら話は早い」


太一様は天界の良識者とも称えられる、天界の最長老だ。


神威様の先代が大天神であった時代から、天界第二位の権天神としておわし、長きに渡りあまねく輪廻転生を見守ってきた天界の功労者でもある。


「十夜、其方が匿う女神を我に渡せ。其方のような若輩が女神と番おうなど百年早いわ」


予想の上をいく重鎮の登場に、俺は僅かに動揺していた。


姿を現した太一様は血走った目に、常軌を逸した異様な気配を身に纏っていた。


その後ろに、太一様とは対照的に、どこまでも凪いだ目をした使徒の娘が寄り添っていた。


太一様は既に数百年という年月を過ごした晩年の神だ。独身を貫き、頑なに使徒や死した魂を遠ざけ、女神だけを一途に求め続けてきた方でもある。


けれど幾度か女神の夫神候補として選ばれながら、全て最後の最後であぶれて番えなかった経緯は、天界において知らぬ者の無い有名な話だ。


「女神を力技で己の手にしようなど、貴方様らしくもない」


「綺麗ごとでは女神は己が手に入らん。この年まで女神と番う男神を指を咥えて眺めてきて、やっと分かったのだ。力技で女神を手にしたそ奴らを野蛮と見下げ、同じには落ちまいと綺麗ごとに生きた結果がこれだ。手段というのは、あまり重要ではないのだと、今になって気付いた。随分と長い遠回りを経て、我はすっかりこんな年になってしまった。この老いぼれに今更、女神の夫候補は巡ってくるまい。ならば奪うしかあるまいよ?」


太一様ほどの神だ。女神と番うチャンスは幾度かあった。けれど、夫候補者の中には、強硬な手段に走る血気盛んな者が多かった。半ば強引に女神を懐柔し、事実婚に丸め込む。


太一様はそれにより、番う機会をことごとく失っていた。


「太一様、女神のあるなし、子のあるなしなど関係ない。これまで貴方が成した功績は、全て貴方自身が積み上げてきた貴方の軌跡だ。貴方がこれまでの功績をふいにしてまで、女神に固執する意味はあるのでしょうか?」


女神と番える事は確かに栄誉だ。純血の子を持つ事は誉れだ。


けれど俺には、数百年一歩一歩積み上げてきた功績の方が、余程価値あるものに思えた。


「其方には永遠に分かるまい。……十夜、そこをどけ。私の目的は女神だ。其方とて、我と真正面から打ち合えば勝てるかは五分五分ではないか?」


太一様は揺らぎない目で、俺を見上げた。


「どきません。幸子は、俺が守る!」


俺もまた、太一様から視線を逸らさぬまま、告げた。


太一様との対峙は、避けられなかった。


相手は天界第二位の権天神で、俺など足元にも及ばぬ積年の大重鎮。膨大かつ、老獪な神通力を展開されれば窮する場面も多々あった。


けれど俺とて、みすみす幸子をくれてやる訳にはいかなかった。


太一様から放たれた渾身の神通力を、後ろにたたらを踏みながらなんとか潰さずに受ける。受けざまに、その神通力を太一様に向けて弾き返した。


己の神通力を返されて、虚を突かれた太一様がほんの一瞬、怯んだ。その僅かな隙を見逃さず、俺は持てる神通力の全てを集約し、太一様の神通力に被せて放った。


俺の神通力は、太一様の胸を貫通した。


「う”ぁぁっっ……」


苦渋に満ちた、太一様の声が響く。


心臓を一刺しに貫かれ、太一様が倒れ込む。


太一様は目を見開き、定まらぬ目線で宙を見ていた。


ビクン、ビクンと太一様の体が痙攣していた。すると太一様が纏う気に、徐々に変化が現れた。


神通力は、目に見える凶器とは違う。


奪うのは、命ではない。


神通力が奪うのは、神性。神としての、性を奪う。


太一様は神としての格を失い、只人へと変化する。見る間に太一様の神性は滅し、そこにはただ、老爺がいた。


「……太一様」


俺の横をすり抜けて、ゆっくりとした足取りで太一様に歩み寄り、その側にぺたんと膝を突いたのは、太一様が伴っていた使徒の娘。


「太一様、失礼いたします」


娘は一声かけ、伏した太一様の頭をそっと持ち上げて、膝に置く。小さな手を、半ば放心状態の太一様の額にあてた。


「……小町、触るでない。いくら隷属を誓った使徒とはいえ、只人に成り下がった我に付き従う必要などない。誓いは、我が神性を失った今、なんの効力も持たん」


「効力? おかしな事を申します。私の誓いは、己の心に立てたもの。他の何に対して立てたものでもないのです。私の誓いは、私だけのもの。そして、私が誓ったのは隷属とは似て非なるもの」


寂し気な、けれど慈愛の篭った笑みを、使徒の娘は太一様に向けた。


太一様の体の震えは治まり、焦点を結ぶようになった目で、不思議そうに使徒の娘を見つめていた。


「……小町、我の使徒として迎え早十年、我はいまだに其方という者が掴みきれん。こんな事はこれまでの使徒には、なかったのだがなぁ」


使徒の娘は笑みを深くした。


「太一様、私がおります。私では役者不足は重々承知しておりますが、それでもいつだってお側におります」


「其方など側におろうがおるまいが、どうでもよいわ。……我が、我の隣にと望むのは、古の血を引く至高の女神だ。番のおらぬ我を高笑いした兄が、一族の恥と失笑した伯父上が一様に口を噤む、至高の女神でなければ……」


太一様が、力なく地面に投げ出していた手を持ち上げて、宙に翳した。


今はもう一切の神気を発しない、ただ皺がれた老爺の手。


「ははっ。我はやはり、所詮この程度であった。其方に対し、五分五分だなど、全くどの口が言ったのか……。やはり我は、永遠に女神に縁がない」


太一様は俺を一瞥し、自嘲気味に吐き捨てる。


その瞳には、言葉には表せぬ、ありとあらゆる苦渋が透けて見えた。


「兄や伯父上が、我を腑抜けと笑っておるわ。一族の看板を背負うに相応しくないとずっと言われ続けてきた。しかし只人に成り下がった今は、相応しくないどころか、家の名に泥を塗ってしまったな」


「太一様、全て妄想でございます。貴方様の兄君も伯父上も儚くなって久しい。貴方様のお家は既に、伯父上からその孫の代へと継承しております。貴方様を笑う者など、誰一人おりません」


太一様の妄執を一刀両断するも、太一様の心の内にまで響いていかない。


「そんな事はあるまい? ほれ、そこに兄者と伯父上がおろう? 我を指差して、嗤っておるわ」


晩年に差し掛かる太一様の兄も伯父も、とうに生を終えている。けれど太一様はいまだ、死神の残した呪縛から解き放たれぬままだ。


それはなんと不幸で、憐れな事だ。


けれど使徒の娘は、そんな太一様をどこまでも愛おし気に見つめていた。


「十夜、天界一二の名家に生まれ、全てが約束された其方には分かるまい。……いや、あちらの御家が女神の弑逆で潰えた今、其方は天界一の名門の出という事になろう。その出自と高い神通力から、其方は天界において金の卵。其方が本気で望めば数百年後、天界の最高位に立てるだろう。そんな其方には、望まぬともいつかは女神が宛がわれように。今回は年功者を立てて譲ってくれればよかったものを、固執しおってからに。お陰で我は、只人じゃ」


衝撃から立ち直り、少し余裕を得たのか、太一様は冗談めかして言った。


「太一様、勘違いをしておられます。俺は女神に固執したのではありません。俺は幸子だから、譲らないのです。太一様、貴方は女神に固執するあまり、最も肝心なところが分かっていない」


けれど俺がどれだけ説こうと、太一様は分かろうとはなさらないだろう。


「太一様、天界に愚を犯した貴方の居場所はもう、ありません」


唯一、太一様にそれを教えられるのは俺ではない。


「はははっ、我に人の世に下れと言うのか。権天神の末路としては、最も不名誉で、そして我の末路としては上出来だ。……しかし十夜、天界と人の世は同じだなぁ?」


? 人界に下る事を屈辱としながら、同じと語る。


「人の世と同じ、神の世もいまだ悪しき風習のまま、年功序列で老害が蔓延っておろう? 若輩というだけで、其方を軽んじる阿呆ばかり。我も、そうであったろう? のう十夜、我の神通力を歯牙にもかけぬ、其方の力が末恐ろしい。けれど我がこの後、それを見聞きする機会は永遠にないだろう。達者であれよ」


すっくと立ちあがった太一様の目は諦観していた。全てを、諦めと共に受け入れて、穏やかに凪いでいた。


「神威様に、一目会っていかれないのですか?」

「会わす顔などないわ。かような愚を犯し、どの面下げて会いに行けと言うのだ。この足で人界に下るわ。ではな」


天界の最長老は欠片の未練がましさも見せず、俺に背を向け、三途の川に向かって歩き出した。


その背を、娘が追った。


「小町、其方はいいと言うておろうに? ここに残れ?」

「かつて私は、いつまでもどこまでもご一緒しますと、そう申し上げたではないですか? でまかせや安易な思いつきではございません。これは譲りません。ご一緒、いたします」


娘は太一様の隣に並びきっぱりと言い切った。


「奇特な事だ。……小町、其方は若い。心変わりがあれば、いつでも申せよ。とはいえ、我は後生きて数年だろうがな」


微笑みを絶やさなかった娘は、今も微笑んだまま太一様を見つめていた。


娘の真摯な愛は、いつかきっと太一様の心を溶かす。これは神である俺の勘。


今はまだ、太一様の心は憤怒が燃え盛り、視界を曇らせているかもしれない。それでも、太一様はいつか、お気付きになる。


長く果ての無いように感じる神という存在にも、いつか終りは訪れる。死期は、ある。


神が過ごす数百年の年月は長く、その分、目は曇りやすく、真実は見えにくくなってしまう。


けれど最期のその瞬間は、神も人も、全てのしがらみから解き放たれて真に自由な存在になるという。


太一様の気付きがいつになるかは分らない。


それが数ヵ月後か数年後か、はたまた最期の一瞬だけとなるかは、太一様の心次第。


人の身へと転じた太一様に、残りの時間は多くない。その残された時間の内、少しでも長くを、娘との相愛に生きられたらいい。


「娘、太一様を頼んだ」


遠ざかる、二人の背中に向かって呟いた。


振り返った娘は、俺に向かい深く頭を垂れた。


「十夜様、貴方様の温情に感謝いたします」


俺の呟きを、只人となった太一様はもう、拾わなかった。返ったのは、ひらりひらりと風に乗って舞う娘の言の葉だけ。







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