知りたがりの少女が夢に別れを告げる。
「なんだか、負けた気分」
リヴァが穏やかな表情で泣き崩れたマタンを見つめながらも、少し不貞腐れたように言った。
「そりゃあ、エレに勝てないのはわかってたけど」
「別に、分野が違うだけでリヴァもマタンの一番でしょ」
「そうかしら?」
リヴァが首を傾げたところで、鼻をすすったマタンが顔を上げた。泣いているマタンなんて、本当に珍しい。感情を顔に出すこと事態未だに少ないのだ。
「エレは特別で……リヴァは、俺の片割れだから、違う」
「か、片割れ?」
「ん。俺の中ではそんな感じ」
「片割れ……」
ほら、リヴァだってマタンにとっては唯一無二の存在だ。
「存在的にも片割れっていうのは正しいけどー、ぼくは『特別』なんだ?」
「エレは助けてくれた人で、色々教えてくれた人で、保護者って感覚も残ってるから」
「なるほどねー。じゃあ、リヴァちゃん。ルルのこと……マタンのことをよろしくねー。ぼくはもう、十分ルルと楽しく過ごしたから」
「ええと、むしろ私が助けてもらうと思うのだけど」
「うん、それでいいよー。リヴァちゃんはね、マタンをいっぱい振り回して我が儘言って助けてもらえばいいんだよ。文句は言われるけど結局全部やってくれるし、本人はぼくやリヴァちゃん相手なら満更でもないから」
「おいこら余計なことを言うな。リヴァに妙なこと吹き込むんじゃねーよ」
「でも、自由に生きてほしいんでしょー?」
マタンはその言葉に反論しようと口を開くが、その前にリヴァが笑い声をあげた。
「ふふっ、わかったわ。これからもたくさん助けてもらうわね」
「うんうん、そうしなよー」
綺麗に笑うリヴァを見て、マタンは諦めたのかため息一つで黙った。
まぁ、エレが言ったことはすべて図星なのだろう。リーナも同じようなことを言っていたのだし。
「さーて、じゃあ行きなよ。外にも待ってる人いるんでしょ?」
「ん」
マタンが頷いた通り、ルクスたちだってマタンの目覚めを待っている。マタンがそれを自覚しているようで安心した。
「その、エレもマタンも本当に良いの? これでもう会えなくなるのに」
「会えたのが奇跡なんだよ。ぼくもうとっくに死んでるからねー」
「それはそうだけど」
「それにぼくはリヴァちゃんの魂の一部だからさー、ルルがこの夢の外に出たら吸収される。つまりリヴァちゃんと一緒の限りぼくも一緒ってこと!」
「……ん。別に、エレだって一緒に行くようなものだ。リヴァは気にしすぎ」
「そう? ならいいけど」
……リヴァも私もマタンがエレを手放せるか心配していたけれど、実は的外れだったかもしれない。このエレは姿を見せたり会話したりはできないとはいえリヴァの一部であり、リヴァが一緒にいればエレだってリーナだってその手にあるも同然だ。あくまで魂を重視する人間味の薄い神や精霊の価値観を適用した場合ではあるが。
マタンとしては、本当にちょっとだけエレと普通に生活する夢を楽しんでおこうという、例えるなら息抜きの旅行に近い感覚だったのでは。最近は特に働きすぎだったし、あれ、慌てて連れ戻す方法考えなくて良かった?
こんな考えが頭を過ったが、第三者の声がないと戻るきっかけが掴めず結局いつまでも夢に囚われていた可能性だってある。来て良かったのだと思考を軌道修正した。
「じゃあ、出るか」
そう言ったマタンは地を軽く蹴って私が入って来たところから空中に飛び出した。
「ぼくたちも行こっかー」
のんびりとした口調とは裏腹に私とリヴァの腕を片方ずつがっちりと掴んだエレは、マタンに続いて飛び上がった。当然私たちも一緒に宙に浮かぶ。
「えっ!?」
「エレ、放して。私は自分で行ける」
「そっかー」
「ちょっと、スキアもそこなの!?」
エレに腕を放してもらった私は魔術で宙を漂った。いつも書庫で行っている動作だから慣れたものだ。慌てるリヴァはきっと、今まで空中で何かする必要がなかったのだろう。
そうして私たちは青空の下で大鎌を手に浮かんでいるマタンのところへ近づいた。
「待って。どうして今、鎌を構えてるの」
「ここぶっ壊すためだけど」
ん? 真面目な顔で何を言っているの、マタンは。
確かに空間の破壊をするなら、その鎌を使うのは最適だろう。空間をうっかり斬り裂ける武器なのだから。
しかし、何故ここを破壊しようとしているのか、その理由が不明だ。
「なんで? 普通に魔術で出よう? 夢渡りで出られるよ? マタンなら私たち連れてファウストに戻れるでしょ?」
「できるけど、ぶっ壊した方が早いだろ」
「それ、むしろ戻れなくならない?」
下手したら崩壊した夢に巻き込まれて死んだり、永遠に夢とも現実ともつかぬ場所を彷徨うことになったりする。とっても危険だ。
だがマタンにとってはそうではないらしい。
「お前らも俺も、精神だけでここに来てる。そうだろ?」
「うん」
「つまり寝てるのと同じだ。で、俺は朝の精霊だ。夜を終わらせて朝を迎えに行く精霊なんだ」
「朝の精霊?」
黒の精霊と呼ばれていることは何度も聞いたけれど、朝というのは聞き慣れなかった。
そうだったっけと疑問に思って聞き返すと、黒の精霊というのはあだ名のようなものだという。
「アンなら水、ムースなら嵐、マカミは知らねーけどたぶん何か守護系。それぞれ司るものがある。まぁ、得意分野と思えばいい。リヴァの精霊レイなら光、みてーに神に限らないことだ。で、俺は朝。夜を晴らす、闇を晴らす、眠った死者を迎えに行くことも俺の仕事だった。ファウストが滅ぶ前の話だけど」
魂を輪廻に送って逃がすなんてことを独断で行えたのは、元々そういう力を持っていたからというのもあるのか。自分が精霊になってからよりその力を感じたことで、"天"を出し抜くなんてどれだけ規格外なのだと思っていたのだ。
「だから眠ってる間に見る『夜』の存在たる夢をぶっ壊して朝、つまり目覚めを迎える」
まぁ、そうやって物理的な解決法に走る理由にはなっていないと思うけれど。
「全員叩き起こすのが一番早く戻れるんだよ。夢渡りで体探して戻るなんて面倒なこと、やってられるか」
「面倒だってことには同意するけど」
「ええと、そんなに面倒なの? 壊すって危険はないの?」
「大丈夫だよー、たぶん」
「たぶん!? ねぇ、本当に!?」
「うるせー、これが一番早いし楽なんだよ。何より」
懐かしいはずの遺跡や森を見下ろしたマタンの目が据わっていた。
「紛い物の世界なんて、不愉快なだけだ。ここは俺が生きて、愛した世界じゃない。出ていくだけなら残っちまって許せねーけど、俺の手でぶっ壊せばスッキリするだろ」
「マタンが破壊したいだけじゃない!」
「私怨だね」
「悪いか」
言い捨てたマタンは返事を待たずに鎌を大きく振りかぶり、何もない空中に振り下ろした。だがガツンと何かにぶつけたような大きな音が響き、その刃の周囲がひび割れる。
そのひびは段々と広がり、やがて目に見える範囲全てを埋め尽くす。そして世界が割れるように砕け散った。
「行くぞ」
マタンが暗闇に向かって足を踏み出した。私の体は勝手にその姿を追って歩き出す。リヴァも同じようだった。ただエレだけがその場に立ち止まって離れていく私たちを見ている。
「いってらっしゃーい」
思わず振り返った私が見たのは笑顔で手を振るエレだった。かけられた言葉だって、ちょっと買い物に出かける家族を見送るかのように軽いもの。
「……いってきます」
同じく振り向いたマタンが小さく呟き、それから前に向き直った。
「いってきます!」
「いってきます」
リヴァがエレに叫んだので、私もつられて同じ言葉を言った。私が言っていいのかと思ったが、エレは嬉しそうだからいいのだろう。
そうして私たちは、エレに見送られながら今のファウストへと歩いていったのだった。
暗闇を歩いて、歩いて。意識が薄れ始めた頃。ああ、そろそろ体に戻るのかなと思っていたら。
『ありがとう』
頭の中に女性の声が響いた。
リーナ?
そう心の中で問いかけると、返事が聞こえてくる。
『ええ。ルルを夢から出してくれてありがとう』
それはリヴァに言うべき。あとエレに、かな。リーナのおかげでもある。
『スキアのおかげでもあります。だからありがとう』
……どういたしまして。エレはリーナのこと話すなって言ったけど、あなたはそれで良かったの? マタンと話さなくて良かったの?
『私は、いいのです。私はエレやリヴァと違って完全に庇護対象でした。だからマタンに送り出されることしかできないのです。エレのようにマタンを送り出すことも、リヴァのように連れ出すこともできない。だからここに顔を出すべきではなかった。そういうことです』
あなたがいいなら、いいけど。
じゃあ、伝言でも受けようか?
『伝言ですか?』
何かマタンに伝えたいことがあったら、私から伝えておく。
『……では、私だってルルのこと、お慕いしておりますからね! と』
了解。