ルナ・クルーズ
それは季節が夏から秋へと静かに移り始めたある日のこと。部屋に帰ってきた僕は窓の下で一枚の紙きれを見つけた。その紙きれには次のような文が書いてあった。
――おめでとうございます!厳正なる審査の結果、あなたを今月の月クルーズに招待することが決定しました!来週の日曜日、一九時にあなたのお家の近所で最も空に近い場所にお越しください。心からお待ちしております。――
もちろん自分で置いたはずがない。きっと誰か、友達の悪戯だろう。わざわざ手の込んだ細工の手紙を用意して、すぐには見つからないような場所に置いておくなんて。何かと忙しいと宣っている割には暇に違いない。だったら折角だ、乗ってやろう。正確には乗ったふりだ。悪戯の報いを受けてもらおうじゃないか。奴もなかなか趣味の良いことを考えたものだ。僕は明日が来るのを心待ちにしながら仕返しの準備に取り掛かった。
そして日曜日、僕は原付に乗って、部屋から少し離れたある山へとやって来た。大したビルもないこの町で一番高い場所がここなのは間違いないだろうし、僕がこの場所を好きなのをあいつは知っているからだ。
山の頂上には独り建つ電波塔がある。ここが僕の目的地だ。地面と空とを繋ぐように存在していて、何処とも知れない場所に向かって電波を送る金属の塔。そんなロマンチックな場所に思えて僕は ここが好きだ。
初めてここへ来たのは中学生の時、校外学習でこの山の天文台に訪れていた時だった。その時、山の頂上に見えたこの電波塔が気になって休憩時間に天文台を抜け出して来たのが最初だ。その時に僕についてきたのが例の友達だ。だから僕がここに来ると奴は 踏んで待ち伏せにしているに違いない。
時刻は一八時五六分、もう少しすれば約束の時間だ。僕は辺りの様子を伺い、さも悪戯に騙されたように自然な表情を作ると、その時が来るのを待った。
そしてその時はやって来た。木々の陰から誰かが姿を現した。
「お待ちしておりました。」
その声は友達のものではない。陰から現れた人物、それはワイシャツにベストを身に着けた、二足歩行の黒猫だった。
黒猫が不思議そうに尋ねる。
「あなたが今月の招待客ですよね。チケットはお持ちですか?」
戸惑いながらも僕は黒猫の姿を観察する。艶やかで黒い毛並みに丸く黄色い瞳。とても作り物には見えない。悪戯にしては無駄に力がこもり過ぎだ。そんなことを 考えている内に僕の中に少しだけ落ち着きが戻ってくるのを感じた。
「チケットですね。少々お待ちください。」
そう答えて僕は財布を取り出すと、チケットを彼に手渡した。こんな大それた悪戯を仕掛けてくるとは夢にも思わなかった。降参だ。だったらこちらも悪戯に乗ってやるのが礼儀と言うもの、こうなったらとことん騙されよう。それが僕の出した考えだった。
チケットを受け取った猫はしっかりとそれを確認すると目を細め、そして仰々しく礼をした。
「それではご案内しましょう。ようこそ月クルーズへ!」
彼の声と共に、黄金色の光が辺りを照らし出す。ようやく、僕はこれが友達の悪戯ではないということを理解した。
光に目が慣れると、光は夜空に浮かぶ物から降り注いでいることが分かった。それが何かは知っている。それは月。月だ。まるですぐそこにあるかのように感じるほど、力強く輝く月がそこにはあった。
混乱する僕をよそに黒猫が一声鳴いた。黒猫がふわりと宙に浮き上がる。それと同時に僕の体も宙に浮きあがった。
「これは現実じゃない、夢だ! 夢!」
思わず思ったことが口から飛び出した。そんな僕を見てクスクスと笑う黒猫。ペロリと舌を出して彼は僕に言った。
「こんなにも初心なお客様は初めてです。夢だとお思いなら頬を つねって見てください。」
そう言われて僕はすぐに自分の頬をつねった。頬に痛みが走る。ということは 夢じゃない。現実なのか。いや、そんなはずはない。
「だったらどうして僕は空を飛んでいるんだ?」
僕が黒猫に尋ねると、彼は平然と答えた。
「万有引力ですよ、お客様。私どもと月は互いに引かれあっているのです。もっとも、私たちは月に比べるとはるかに軽いので総合的には月に引っ張られていると言っても良いでしょう。」
「それはおかしい! だったら僕達だけが月に引き寄せられているわけがない!」
僕がそう食い下がると猫は顔を下げて言った。
「申し訳ありませんが、それ以上のことに関しては私には説明しかねます。私は物理学者ではないので。」
そんなやり取りをしている内にも僕と黒猫は空を飛んでいた。夜風を全身に浴び、湿気をはらんだ残暑の空気をかき分けて一人と一匹は月へ向かって飛んで行く。下の方ではどうなっていただろう。空を人と猫が飛んでいるのだから、ちょっとした騒ぎにはなっているだろう。あるいは誰も空を飛ぶ一人と一匹に気が付いていないかもしれない。地上で何が起こっているのか僕にはわからなかった。なぜなら僕には取り乱しながらも心に決めていたことがあったからだ、決して下の方は見ないと。
やがて月が僕の視界に収まりきらない大きさになり始めた頃には僕はもう取り乱すのをやめていた。取り乱したところで僕が月に 引き寄せられていることは変わらないし、黒猫はどうにもしてくれないからだ。あるいは夜風に吹かれて冷静になったからかも しれない、もっとも正気の沙汰とは思えない状況だが。とにかく、僕は夢とも現実ともつかない月クルーズに参加することは変わらないのだから。
そういった経緯で心に余裕を取り戻した僕は自分が向かおうと する月を目を凝らして観察することにした。するとどうだろう、荒涼とした岩と砂の大地にいくつもの建物が立っているのが見えてきた。建物だけではない、森や池も月面には存在していた。
「お客様、そろそろ港に到着しますよ。衝撃に備えてください」
そう言って黒猫が僕の背中に抱きついた。すると僕達の体が急激に速度を上げて月面へと降下し始めた。米粒ほどの大きさに見えていた月面のホテルが瞬く間に大きくなっていく。僕は僕の体が縮み上がるのを感じた。確かにこの非現実に置かれた状況を諦めて受け入れてはいる。とは言ってもそれでも限度と言うものはあるだろう。絶叫アトラクションは嫌いだ。そして今置かれている状況はそれよりも遥かに恐ろしく、と考えたところで僕の意識は遠ざかっていった。
気が付くと、僕は布団の上に転がっていた。
「お客様、お目覚めになられたのですね。」
黒猫が心配そうに僕の顔を覗き込む。起き上がるとそこは上等な調度品で設えられた和室だった。
「お客様に恐ろしい思いをさせてしまい、誠に申し訳ございません。」
黒猫が深々と頭を下げた。ひとまず、怪我がないかどうか体を動かしてみる。普通に動くし痛みもない。どうやら怪我は無いようだ。そこで僕は黒猫に怪我は無いから心配しなくて良いと伝えると、彼は不安そうな顔をして僕の体を前脚で触り始めた。どうやら素人なりに触診をしているつもりらしい。一つ部位を触れば僕の顔つきを伺い、また一つ触れば伺いを繰り返している。そしてどこを触っても僕が平気であることを理解すると、心底ほっとしたような顔をした。
「お詫びと言っては何ですが、お客様には一等船室をご用意させていただきました。ただ今、自慢の料理人たちがお客様のために腕を振るっている最中でございます。よろしければ食費の準備ができるまで、外でお散歩などいかがでしょうか?」
黒猫に連れ出されて見た月面の世界、それは例え夢だと分かっていたとしても心動かずにはいられないようなものだった。月の引力に引き寄せられてきた小さな星屑の数々が幽かな光で辺りを照らしている。道に沿って植えられた松の並木が静かに揺れ、宙を舞う泉では月水魚が優雅に泳いでいる。
「どうです、お気に召したでしょう?」
黒猫が尋ねる。もちろん、と僕が彼に伝えると彼は満足そうに目をつぶった。
「ありがとうございます。しかし、これだけではありませんよ。ささ、行きましょう。お客様にはもっと沢山の月の景色を目に焼き付けていただきたいのです。」
そう言って黒猫は僕を促すと、歩調を速めた。案内役としてそれはどうなんだ、黒猫の様子を見て僕は苦笑いをしてしまう。きっと彼は心底、この美しい月の景色を愛しているのだろう。僕はそんなことを考えながら、歩幅を広げて彼の後をついて行った。
それから先で僕が見たものは正に絵にも描けない美しさだった。瑠璃色の蝶、銀色の鷺。月面を流れる川の水は透き通っていて、液体の宝石のように光を反射している。それだけではない。翡翠の橋、白磁の塔、。絵にも描けないどころか言葉にさえできないその 風景は僕を無口にさせた。
月の道を歩いていると、地平線の向こうから誰かが歩いてくる のが見えた。そしてそれが近づいてくると、狐の頭をした女性であることが分かってきた。
「ごきげんよう、旅人さん。」
女性が僕に向かって微笑んだ。身に着けた衣が軽やかに揺れる。僕が挨拶をすると、彼女はため息をつきながら辺りを見回した。
「何度見ても美しいわ、月の世界は。いつまでもここでいたいものね、できるものなら。旅人さんは初めてかしら、月の旅は。」
月に来た経緯を僕が話すと、彼女は上品に品良く笑い僕の手を 握った。
「それは素晴らしいことよ、あなた。月が選んだのですから。望んでも叶わないことも多いの、月の旅は。」
彼女の発する言葉と声を聴いていると、まるで心が浮き上がる ような気分になる。
「一緒に散歩しましょう、どこか。」
そう言って彼女が僕の手を引く。その時、誰かが僕の後ろで咳払いをした。それは黒猫だった。
「お邪魔するようで申し訳ありませんが、たった今、調理人たち から連絡がありました。お食事の支度が出来たそうです。ご婦人には申し訳ありませんが失礼いたします。」
「月面の景色は素晴らしかったでしょう。」
黒猫が誇らしげに尋ねた。
「ええ、とても。それにこの料理だって。」
僕がそう答えると黒猫は目を細めて胸を張った。机の上には目にも鮮やかな料理の数々が所狭しと並んでいる。調理人たちの連絡を受けて僕たちが船室に戻った時には既に全ての準備が終えられて いた。
「自慢の料理です。冷めないうちにどうぞ、お召し上がりください。」
また黒猫が僕を促す。散歩に出た時もそうだったが、僕に月を楽しんで欲しくて仕方がないのだろう。彼の眼差しを受けて、僕は溢れんばかりの料理に箸を付けた。柚子の吸い物に野菜の天ぷら、月水魚の刺身、どれも今まで食べたことも無いような上等な味だ。白いご飯でさえ、米の一粒一粒が真珠のように見えるほどだ。僕は口にした料理に対してことごとく舌鼓を打たずにはいられなかった。
やがて料理を全て食べ終えた頃には僕のお腹はまるで満月の様に膨れているように見えた。
「ごちそうさまでした。」
手を合わせて黒猫に礼を言うと黒猫はまた目を細めた。
「気に入っていただけたようで何よりでございます。次は月のお酒をご用意しましょう。」
そう言うと黒猫はナアン、と一声高く鳴いた。
「しばらくお待ちください。直に給仕のものがやって参りますので。」
黒猫がそういうので僕は給仕係が来るまでの間、外を見て待っていることにした。船室から見える月は黒猫と散歩した時とはまた 違った眺めをしている。空に浮く地球、果てしなく広がる地平線は僕が知っている月面に限りなく近いが違っていて、極彩色の船が 音もなく行き来している。その風景は例えるなら、海だ。きっと月はこれ以外にもたくさんの姿を持っているのだろう。散歩のときに 出会って女性が言っていた事が僕にもよく分かる。
やがて襖を二、三度軽く叩く音がして、僕はようやく我に返った。
「失礼します。」
落ち着いた声がして、音もなく襖が開く。
「月酒をお持ちしました。」
給仕の姿を見た黒猫が、それまでの人懐っこい表情から一変してその丸い目をむいた。そこに立っていたのは深い青色の衣を身に 着けた、清らげな男性だった。
「自慢の月旅行は楽しんでいただけましたか?」
男性が三方を携えて僕の正面に座る。
「ツクヨミ様! どうして給仕などなさっているのですか!?」
襖が開いてから意味不明な呟きばかりしていた黒猫が声を上げた。
「これ、お客様の前でそのように取り乱してはいけませんよ。」
ツクヨミと呼ばれた男性は子供に言い聞かせるかのように黒猫に言いきかせる。
「申し遅れました。この館の主人、ツクヨミと言うものです。乗船の際、お客様を危険な目に遭わせてしまったことをお詫びに参った 次第です。」
そう彼が名乗った時、僕は彼の放つ雰囲気の正体を理解した。
「ツクヨミ、ツクヨミ様ってあの、ツクヨミ様ですか?」
驚き、戸惑いながらも尋ねる僕。ツクヨミは月酒を酌みながらも、快く答えた。
「その通り、月の神のツクヨミです。ささ、どうぞ。」
ツクヨミが杯を差し出す。僕は差し出されるままに月酒を飲み 干すと、体が芯から暖かくなるのを感じた。
「ところでツクヨミ様はどうしてこんな事をしているのですか?」
そう尋ねると、ツクヨミ様は目を細めた。
「広い月の世界で一人と言うのも淋しいでしょう。神と言うのは 案外淋しがりなのですよ。」
そう言って彼はさらに杯を僕に差し出した。
「そう言うものなんですか。でも、どうして何の変哲もない僕なんかを。」
そう言って僕は月酒を体に流しこむ。酔いが回って来たのか、体が軽くなるような感覚を覚える。
「皆さんの言うところの神様の言う通り、と言うものですよ。」
ツクヨミが答えた。細部はいくらか違っているかもしれない、というのもこの時、月酒の酒気がすでに僕の体中に充満していた からだ。お酒を飲みなれていないのもあるだろうが、月酒とは相当強い酒らしい。
それでも僕は初めて見る神様に対して様々な質問をした。他の神話の月の神々の事、彼の姉のこと、そして地上はどう見えているかと言うこと。ただ、どれもツクヨミの答えは覚えていない。一時は軽かった体が良いのせいか今度は重くなり、意識もぼんやりしていたからだ。
そして気が付くと、僕の体は知らない間に畳の上に転がっていた。
「おやおや、もう下船の時間の様ですね。」
ツクヨミが僕の浮ついた瞳を覗き込む。曇った意識の中で彼の まなざしだけが真っすぐに僕を捕らえている。
「この度は我が船にご乗船いただき、誠にありがとうございました。」
ツクヨミの声だけが僕の鼓膜を震わせる。
「もう、少し、だけ。」
動かない体を動かして僕は彼に伝えた。それを聞いたツクヨミは困った顔をして、そして僕の目を掌で覆った。
「長居しすぎると良くありません。あなたはまだ若い。」
真暗な闇の中、ツクヨミの声だけが僕の外にあった。
「またお会いできることを楽しみにしていますよ。」
そして、この言葉が聞こえたのを最後に僕の外側には何もなくなり、内側は外側と混ざり合いながら闇の中へと溶け落ちて いったのだった。
それから次に見た顔はツクヨミのものでも、黒猫のものでもなかった。
「お、やっと目が覚めたのか。」
それは何年もの間、何千回と見てきた顔。僕の友達の顔だった。
「こんなところでぐっすり眠っているなんてよ、俺の方が驚かされちゃったよ。俺がお前を驚かすはずだったのに。」
ため息をつく友達。ふと彼の隣を見ると安っぽいゾンビのマスクが放られていた。
「悪い悪い。」
そう言いながら起き上がった僕は友達と肩を並べるようにして 地面に腰掛ける。
「なあなあ。」
「何さ。」
「お前、何か寝言を言ってたんだけど、どんな夢を見ていたんだ?」
友達の何気ない質問に、僕は言葉を詰まらせる。少し考えた後、 僕は答えた。
「よく分からない夢。」
夜風からほんの少しだけ、あの幻想的なお酒の匂いがしたような気がした。