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Stranger

 知らなければよかった。そう後悔することは何度もあった。

 つまらない計算ミスをしていたことに気づかなければ、模試の結果におびえる日々はなかっただろう。同級生たちの曇りない笑顔の写真に、わたしは自分に欠けているものの大きさを思い知らされた。彼の気持ちを知ることがなければ、また明日となにげなく言える毎日は続いていただろうか。

 なにも知らないままで死ぬことができたら、忘れたいことをすべて忘れてしまえるのなら、どれほど幸せに生きられるだろう。




 緑の目立ってきた桜並木の下、わたしは点字ブロックを見つめながら、足を前に進めていた。ときどき顔を上げるが、目線はすぐに履きなれたスニーカーに落ちる。不安になったときの癖だ。レンガ造りの建物の群れが近づくにつれて、緊張の糸が張りつめていくのがわかった。


 わたしは上着のポケットに入れてある名刺に触れた。紙幣のような不思議な触り心地の紙は、指が切れてしまいそうなほどに硬く存在感を放っていた。



 その名刺を渡されたのは、深夜のファミリーレストランだった。ここ数ヶ月、寝つけないことが多くなってきたわたしは、たびたびそこに足を運んでいた。一品だけ注文し、食べ終わると問題集を開いてペンを持つ。手は動かないことがほとんどだ。問題文を読むことさえしない日もある。他の客の話し声や食器のこすれる音を聞きながら、思考が同じところをぐるぐると回り、一歩も前に進まない。三時間ほどで会計を済ませ、店を出る。帰り道で、時間とお金を浪費したことを後悔する。もう二度と来ないと思いながらも、数日後には同じことをしていた。こんな行為に意味があるとは思えなかったが、わたしの中のなにかは確かに救われていて、だからこそ頭で無駄だと思っていても足を運んでしまうのだろう。


 あの日も、地縛霊のように店の片隅でじっと座っていた。トラックだけが猛スピードで走り抜ける大通りを眺めながら、およそ三分に一回のペースで小さなため息をついた。

 不自然な人の気配を感じ、わたしは店内に目を向けた。直後、わたしはぎょっとして窓に身を寄せた。黒いコートの男が、テーブルのすぐ横に立ってわたしを見下ろしていた。どこか普通ではない空気をその男は(まと)っていた。わたしが彼に気がついてからも、彼はなにも言わずにわたしを見ていた。

「なにか?」わたしはおずおずと尋ねた。

「君、いいね」と男は言った。「うん、すごくいい。逸材だよ」

 わたしは声を出すこともできずに体を硬直させていた。この男はなんのために声をかけてきたのだろう。恐怖と不信が体を縛りつけ、息をするのも苦しい。


「ここ座っていいかい」男はわたしの返答を待たずにテーブルの向こう側に座った。「君にぴったりな話があるんだ。平たく言うと短期バイトなんだけど、興味ない? いや、そんなに難しいことをするわけじゃないんだ。僕らのやってることを見学してくれるだけでいい。どうだい?」

 早口でまくし立てる男の言葉を浴びているうちに、驚きと困惑で沸騰しかけていた頭はだんだんと冷めてきていた。いつの間にか、この状況に対する苛立ちが芽生えはじめた。

「あの、どちら様でしょうか」とわたしは尋ねた。

「ああ、失礼。自己紹介がまだだったね」

 男は名刺を差し出した。英語の筆記体のフォントで書かれた名前を読むのに、わたしは十秒ほど時間を要した。

「ワタ……ワタリ、ハジメさん」

「名前はそんなに重要じゃないんだ」

 ワタリはにやにやしながら名前の上の文字列を指差した。なにやら細かい文字が並んでいる。わたしは解読を試みたが、ものの数秒で頭痛が起き、名刺から目をそらした。

「すみません。英語が苦手で……」

「N大のシジュツ研究室。僕はそこで研究してるんだ。責任者は親父だけど、ずっと僕だけでやってる。最近は助手が一人増えたけどね」

「シジュツ?」

「見ればわかるよ。ところで、いつなら予定空いてるかな。君にはぜひ来てほしいんだけど」

「ちょっと待ってください。まだ行くなんて――」

「顔出してくれるだけでいいからさ。学生なんだし、休みの日くらいあるだろう?」

 わたしはテーブルの上に広げられた高校数学の参考書を、とっさに彼の見えないところに隠した。

「休日でも勉強しなきゃいけなくて。ごめんなさい」

「……そうか。じゃあ仕方ないな」ワタリは(ふところ)から封筒を取り出し、わたしの前に置いた。「それを読んでもし興味が出てきたら、名刺に書いてあるところに連絡して。しかし残念だな。同年代の子が来てくれれば、サエキも喜ぶと思ったんだけど――」

「待ってください」

 (きびす)を返そうとしたワタリを、わたしは思わず呼び止めていた。ワタリだけでなく、店内にいた多くの人が大声を上げた女を見た。

 なぜ、こんなに必死になっているんだろう。名前が同じだけ。きっと関係ないのに。

「次の土曜日なら丸一日空いてます。見学させてください」

 わたしはそう口走っていた。ワタリは目を輝かせて手帳を取り出した。

「本当に? その日ならこちらも問題ないよ。そうだな、朝の十時くらいに来てほしいんだけど、大丈夫かな」

「はい。わかりました」

「じゃあ、研究室で待ってるよ」

 ワタリは子供のように手を振り、ファミリーレストランを後にした。彼の残した名刺と封筒を握りしめ、わたしはしばらく誰もいないテーブルの向こうを見ていた。


 彼が口にした名前が、わたしの心を揺さぶった。偶然だろうか。そうだったとしても、わたしは自分の目で確かめたかった。確かめなければならないような気がした。

 行こう。N大、シジュツ研究室というところに。



 構内に足を踏み入れると、空気が変わったような気がした。そこには統一された意思のようなものが感じられた。レンガ造りの建物や、蛇行する道、名前のわからない木、流行りの髪型をした三人組の女子学生。ここにあるすべてがこの空間になくてはならないもののように思える。そしてこの空間の中で、水に浮く油のように、わたしだけが異質だった。

 のけ者は慣れっこだ。自分にそう言い聞かせながら、わたしは隙間なく敷きつめられたタイルの上を歩いた。


 大学の敷地の片隅、他の建物とは違い質素なコンクリートの箱の中に、その部屋はあった。廊下の蛍光灯は消えていて、窓から遠い部屋の前は朝とは思えないほどに暗い。

 ドアの向こうで人が動く気配がした。約束の時間にはまだ早いが、わたしは手の甲をドアに伸ばした。そのとき、ドアの横に掲げられた手書きの文字に気づいた。


『屍術研究室』

 ガムテープで壁に貼り付けられた紙を見つめ、わたしは手を上げたまま固まっていた。目の前にある単語の意味がうまく理解できない。大学の研究施設に、どうしてこんな文字列があるのだろう。こんなのファンタジーでしか見たことがない。

 ワタリの異質な雰囲気を思い出した。関わるべきではないだろうか。なにかされるかもしれない。いや、しかし――。


「どちら様ですか?」

 背後に人がいたことにも気がつかず、わたしは飛び上がりそうになった。

 振り向くと、白いシャツと真っ黒なネクタイが目に飛びこんできた。喪服に身を包んだ背の高い青年が、松葉杖に寄りかかって来訪者を見下ろしていた。

 雷に打たれたような衝撃が全身に走り、頭の中の錆びかけた回路が熱く火花を散らした。

「佐伯――」

 わたしが思わず口に出した名前が、青年の表情を動かした。

「……あなたが、サエキさんですか?」

「そう、だけど」青年はわずかな困惑を顔に浮かべた。「なんで知ってるの? どこかで会ったかな」

 青年の端整な顔を見上げると、まっすぐな視線が返ってきた。頭がすこしずつ冷えてきた。やがて、わたしは首を振った。

「いえ……そんな気がしただけです」

「ふぅん。変わった人だな」とサエキは笑った。「それで、うちにご用でも? 流行りの肝試し?」

 わたしはあわてて首を振った。そんなものがここでは流行っているのか。

「い、いえ。違います。見学させていただこうと思って」

「見学?」サエキは首をかしげた。

「はい。この前、ここの先生にお会いして――」わたしはようやく名刺のことを思い出した。一緒に渡された封筒もバッグから引っ張り出し、サエキに見せた。「まだ誓約書にサインはしてないんですけど、一応目を通して来ました」

 サエキは腕を組み、わたしの手元に目を落とした。

「ああ、たしかにうちのだな」

 彼の浮かない表情が、わたしの胸に小さなしこりのようなものを生んだ。


 そのとき、背後のドアが勢いよく開いた。

「おや、見慣れない顔が……」

 わたしはドアに手をかけたままのワタリに顔を向け、頭を下げた。彼は廊下に響きわたる歓声を上げた。

「君か。来てくれたんだね。歓迎するよ。中で座って話そうか」

 ワタリはわたしの手首をつかんでドアの中に引っ張った。その力の強さに、一瞬息がつまった。しかしわたしの様子に気を向けることなく、彼はわたしを大きな革のソファに座らせた。

 屍術という突飛な言葉や気取った名刺と反して、部屋には特に変わったところはない。壁に並んだ本棚には洋書が詰めこまれ、高級そうなソファがガラステーブルをはさんで向かい合っている。ワタリは向かい側に座り、サエキは部屋の隅の粗末な椅子に腰かけた。

「さて、屍術研究室へようこそ」ワタリは模範解答のような笑みを浮かべた。「その中身は読んでくれたかな」

 わたしは指さされた封筒に目を落とし、一度うなずいた。

「中にさ、名前書くところあったと思うんだけど」

「あ……いえ、それはまだ書いてないです」

「うん、いいよいいよ。気が向いたらでいいんだ」

 ワタリは笑顔のまま何度もうなずいたが、彼の目元を一瞬なにかが通り過ぎた気がした。


「それで、わたしはなにをすればいいんですか」

「えっ? ああ、そういう話だったね」ワタリは手持ち無沙汰にしている青年を指した。「なにってほどのことじゃないんだけど。今日一日、彼と一緒に行動してほしいんだ」

 サエキの目がこちらを向いた。見つめ返すと褐色の目はわずかに揺れ、まばたきの後にはワタリに向いていた。

「一昨日、ある人から連絡があってね、彼にそのお宅に訪問してもらうことになったんだ。でも、僕は今日どうしても済まさなきゃいけない用事がある。お客さんに見せられるようなものじゃないから、君はサエキについていってくれないかな」

「わたしはかまいませんが、お邪魔にならないでしょうか。こんなかっこうで来ちゃいましたし」

 わたしは長いフレアスカートをつまみ上げた。誰がどう見てもビジネスの場面に適しているとは思えない。

「大丈夫。じつはもう着替えを用意してあるんだ」

 ワタリの言葉にわたしは首をかしげた。

「奥の部屋にあるから、着替えて来なよ」

「えっ……いや、悪いです」

「僕らからすれば頼んで来てもらってるんだ。これくらいの用意は当然だよ。さあ、遠慮しないで」

 ワタリはわたしの腕を引くと、立入禁止の貼り紙があるドアを開け、押し込むように中に通した。


 消毒薬の匂いがした。乱れた白いベッドをたくさんの機械が取り囲んでいる。部屋の隅の机に文庫本や画集が乱雑に積み上げられている他は、病室によく似ていた。

 いつの間にかドアが閉められ、わたしはその部屋でひとりになっていた。着替えのようなものは見当たらない。ベッドの前で立ち尽くしていると、ドアがノックされた。

「ごめん、入っていい?」くぐもったサエキの声が聞こえた。

「は、はい。大丈夫です」

 わたしは机に身を寄せた。ドアが徐々に開けられ、サエキが様子をうかがっている気配がした。

「まずかったら言ってくれよ。忘れ物を取りに――」言葉が切れ、白い扉が一気に開いた。「あれっ。どうしたの、そんなところで小さくなって」

「あの、着替えが見つからなくて」

 サエキは部屋をぐるりと見回し、首をひねった。

「おかしいな。昨日出してたはずなんだけど」

 彼は戸棚を片っぱしから開けはじめた。よくわからない本や機械が展示品のように並んでいた。


「ここはサエキさんの部屋ですか?」とわたしは尋ねた。

「そうだよ。変な部屋だろ」

「こういうの、好きなんですか?」

 サエキは振り返って、文庫本と画集の山の前にいるわたしを見た。怪訝な表情を浮かべた彼の手はしばし動きを止めた。

「うん。まあ、好きだよ」やがて彼はもの探しを再開した。「君、友達に変わり者とか言われたことない?」

「……ごめんなさい。なにか気に障ること言いましたか」

「ああ、いや、そうじゃないんだ。ここに初めて来る人って、みんなそっちに興味を示すからさ」

 サエキの指の先にはベッドがあった。電源を落とされたモニターたちが、その周囲の空間にぽっかりと黒い穴を空けていた。


「あったあった。やっぱり先生が勝手にしまってたみたいだ」

 彼の手には黒い服が載っている。

「喪服、ですか?」

「そう。今日はこれじゃないといけないから」

 彼は服をわたしの前に置くと、こちらの様子を見ながらゆっくりとドアに手をかけた。

「サイズは大丈夫だと思うけど、もし合わなかったら言ってくれよ」

 サエキが鉄製のドアをそっと閉めると、部屋は再び静寂に包まれた。窓越しに鳥の声が聞こえる。妙なことに巻きこまれたかもしれない。こんな着替えまで用意されているなんて。つやのない黒い布地は、わたしの目にもわかるほどに高級さが感じられた。

 しかし、引き返すわけにはいかない。まだ確かめたいことがあるのだ。わたしは喪服の袖におそるおそる腕を通した。小柄な誰かに合わせて作られた服は、わたしにかすかな違和感を与えた。


 同じく用意されたハイヒールに履きかえ、研究室に戻ると、サエキの後ろ姿だけがあった。彼は手元の書類から目を離し、振り向いた。その動作が、わたしの心のまだ癒えきらない傷口をチクリと刺した。

「似合うね、それ」とサエキは言った。

「あ、ありがとうございます。……なんだか複雑ですけど」

「なんで?」

「あまり縁起の良いものでもないので」

「変な意味じゃないよ。本当にきれいだから」

 わたしは顔が熱くなるのを感じ、思わず目をそらした。

 彼もときどき、恥ずかしくなるようなことを平気な顔で言うことがあった。

「そういえば、これはまだ書いてないんだよね」

 サエキは手に持った紙をひらひらと揺らした。わたしが受け取った封筒にも入っていた書類だ。死後、遺体を研究室に提供することの同意書。

「すみません。もうちょっと、よく考えたくて」

「べつに謝ることじゃないさ。ボランティアなんだから」サエキは書類を揃えて薄いファイルにはさんだ。「それに、本当によく考えたほうがいいことだよ」

 サエキはその言葉を最後に口を閉ざした。なにかの機械が稼働している単調な音が部屋を満たし、わたしたちの沈黙を引き立たせる。


「あ、あの、先生は?」わたしは沈黙を振り払うように尋ねた。

「どこに行ったんだろうね。自由な人だからなあ、なにも言わずにどこかに行っちゃうなんて日常茶飯事さ。まあ、君のことを放っておくとは思えないから、すぐに戻ってくるんじゃないかな」

 サエキがそう言うや否や、ドアが勢いよく開いた。

「失礼。ちょっと呼び出されちゃって」ワタリは息を切らせていた。「着替えは済んだみたいだね。サエキくん、あれは持ったかい?」

「はいはい。こいつですよね」

 サエキは太いペンのようなものをわたしに見せるように掲げた。ワタリはそれを手に取り、わたしに差し出す。

「これは?」とわたしは尋ねた。

「注射器。もしサエキくんが倒れでもして、自分で動けないようなら、これを刺してやってほしいんだ」

 わたしは手の中にあるサエキの命綱を見つめ、息をのんだ。ずいぶんと重いものを託されてしまったようだ。

「まあ、お守りみたいなものさ。最近じゃめったに使わなくなったし、そんなに緊張する必要はないよ」

 ワタリはわたしの肩を叩いた。力加減が悪く、すこし痛かった。

「じゃあ、僕はもう行かなきゃならないから。サエキくんをよろしくね」

「は、はい」


 ワタリは来たときと同じように颯爽(さっそう)と去っていく。ドアが閉まる大きな音の余韻が消えると、サエキは立ち上がった。

「さて、俺たちも行こう」

 わたしは注射器を握りしめたまま、部屋の真ん中で立ち尽くしていた。

 状況に心が追いつかなかった。これからどこへ向かうのだろう。なにを見せられるのだろう。わたしは取り乱したりはしないだろうか。愚かに、無様に、また人に迷惑をかけて――。

 サエキは一度はドアに手をかけたが、わたしの様子に気づくと体ごと振り向いた。

「どうしたの?」とサエキは尋ねる。

「すみません……ちょっと、急に不安になってきちゃって」

 口に出すと、それはいっそう強く足を縛りつけた。手足の先が痺れ、目の前が薄暗くなる感覚に襲われた。こんなときに、またこうなってしまうなんて。

 いつの間にか、サエキが横に立っていた。彼はわたしの肩に手を添えた。反射的に体が(こわ)ばる。

「今日は、ちょっとした寄り道をするだけだ。大丈夫だよ。君は死ぬわけじゃないんだから。明日からはまた、いつも通りの日々に戻るんだ」

 肩に置かれた手が背中に回り、そっと力が入る。押されるままに足を踏み出し、まだ暗いままの廊下に出た。


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