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守るべき人

第二章 守るべき人


          一


 クロガネが入隊試験に合格し、帝国軍に入ってから、一ヶ月が経った。剣術指南役としての評判は、上々のようだ。スカイに暗闇での動きを教えていた時もそうだったが、クロガネには、意外に〈教える〉才能がある。

(それに、自己研鑽も怠らない奴だしな……)

 スカイは、官舎の窓から早朝の庭を見下ろした。庭では、クロガネが長刀を振っている。クロガネの部屋は、スカイが特に願って、同じ官舎に用意して貰った。丁度空いていた隣の部屋だ。その翌日から毎日、クロガネは、早朝に長刀を振っている――。

「彼は、益々腕を上げているね」

 ユテが寝台の上で起き上がって、微笑む。

「おれも、もっと動かないと」

「くれぐれも、怪我しないようにしてくれよ」

 スカイは、本気で頼んだ。ユテはこのところ、定期的に水竜一族の里に赴いて、体を動かしている。そのせいか、疲れも見えるのが心配だ。しかしユテ自身は、少しずつ筋肉がついてきたと喜んでいる。

「おれのせいで、焦って動けるようになろうとしてるんだったら、ごめん」

 スカイが謝ると、ユテはゆっくりと首を横に振った。

「いや。これは、おれの望みでもあるから。おれは、動けるようになって、南大陸へ行きたいんだ。悪いが、子どもは、その後だ」

 初めて聞く話だった。

「南大陸へ行く……? 何で?」

「あそこは、天精族の故郷。あそこへ行けば、おれの体を完全に元に戻す浄化薬が手に入るから」

「そうなのか……?」

「ああ」

 穏やかに頷いて、ユテは立ち上がった。確かに、その動きは、以前よりしっかりしている。それでも心配だ。

「本当に、結界の外では、絶対に無茶するなよ」

「分かっている。おまえの呪具も着けているから大丈夫だよ」

 ユテは答えながらスカイに近づき、そっと頬に触れると、部屋の隅にある洗面所へ歩いていこうとした。スカイは反射的に手を伸ばし、通り過ぎる細い手首を掴むと、振り向いたユテの肩にもう一方の手を伸ばし、抱き寄せた。

「――朝から、どうしたんだ?」

 耳元で、ユテが柔らかに問うた。天精族には、真人族が持つ衝動が分からないのだろう。日々、自制心を試されるようなこの生活の苦しさが。スカイは、低い声で問い返した。

「子どもが先じゃ、駄目か……?」

 返事がない。スカイが目の端で見ると、腕の中で、ユテは困った表情を浮かべている。駄目なのだ。

「ごめん。おまえの都合も考えずに」

 謝って、スカイはユテの体を離した。

「それはいいよ」

 ユテは優しく言う。

「おまえに預けたおれだから。でも」

 今度はユテのほうから両手を伸ばし、スカイの首に腕を回して抱きついてきた。そのままユテはスカイの胸に顔を埋めるようにして、告げる。

「子どもを産むには、元に戻った体が必要なんだ。幾ら治癒師がいてくれて、浄化をしてくれても、本調子じゃない体じゃ、体力がもたない。それに、おまえと、おまえの子どもと一緒に生きていくためには、やっぱり浄化薬が必要だ。だからおれは、筋力をつけて、南大陸へ行くんだよ。この先の幸せのために」

 体に直接響く声で説明されると、少し衝動が収まった。

「ごめん。何も分かってなかった」

 何度目か謝ったスカイに、ユテは顔を上げて微笑んだ。

「だから、謝らなくていいよ。おまえに求められて、おれは嬉しいんだから」

 何ということを口にするのだろう。スカイは慌ててユテの笑顔から視線を逸らし、一歩体を引いた。絶対に天精族は、真人族の衝動を分かっていない。またも迫り上がってくるものを何とかやり過ごし、スカイはユテから顔を背けたまま言った。

「頼むから、その言葉は、南大陸から帰るまで言うな」

 ユテは小首を傾げた。分かっていないということが、まざまざと分かる仕草だ。それでもユテは、快く頷いた。

「分かったよ」



「今日も水竜一族の里へ行くのか?」

 朝食を取りながらのウツミの問いに、向いに座ったニイクガは頷いた。

「結界や、治療と浄化を合わせた治癒についても、もう少しで使えるようになる。そうなれば、一人前の天精族だそうだ」

「そうか」

 ウツミは微苦笑した。ユテは、随分と熱心にニイクガを鍛えているようだ。或いは、ミミも手伝っているのだろうか。ウツミ自身は、ミミに遠慮してあれ以来、あの里には行っていないので知らないが――。

「ミミも、よくしてくれている」

 ニイクガは、ウツミの胸中を察したように告げる。

「時々、ユテの代わりに治癒を教えてくれる。治癒師ほど上手ではないと言いながら」

「そうか」

 ウツミは笑みを大きくした。よかった。ウツミのせいで、ミミとニイクガが気まずくなっていたらと、少々不安だったのだ。

「もうすぐしたら、南大陸へ出発できると、ユテが言っていた」

 ニイクガは話を続ける。

「その時は、おまえも一緒に行けるんだな?」

「ああ。そのつもりだ」

 ウツミは答えながら、旅の準備を進めなければと、頭の中で計画を立て始めた。



 昼下がり。

「おまえも、南大陸へ行けるよう、いろいろと折衝してるんだ」

 唐突にスカイから告げられて、クロガネは目を瞬いた。兵士達の訓練の合間に訪れたスカイが、訳の分からないことを言っている。

「一体、何の話だ」

「あれ、おまえは知らなかったのか」

 スカイは意外そうに呟くと、説明した。曰く、ユテが己の体を元に戻すために、南大陸へ行く計画を立てていて、水竜一族の里での訓練も、そのためであったのだ、と。

「あいつ、無茶なことばっかり……!」

 クロガネは思わず歯軋りした。本当に、天精族という者達は、自分のことを軽んじ過ぎる。或いは、自信過剰なのか。

「やっぱり、無茶なのか……」

 スカイが沈んだ声で呟いた。

「当たり前だ」

 クロガネは言い切る。

「南大陸へ行くには、この西大陸を南へ縦断し、海を越えていく必要がある。その上、南大陸は天精族の故郷だ。純血の天精族がうじゃうじゃいる。奴らは、危険だ」

「天精族が、危険?」

 聞き返してきたスカイに、クロガネは教えた。

「南大陸に、穢れはない。つまり、大陸全てが結界の中と同じだ。天精族は、何憚ることなく、力を振るう。しかも、この西大陸や東大陸の天精族と違って、他の種族との共存共生など、全く頭にない奴らだ」

「――詳しいんだな……」

 スカイが、乾いた声で言った。クロガネは少し黙ってから、明かした。

「おれの母親が、言っていたことだ」

「おまえの――」

「ああ。南大陸には穢れがなく、結界の必要がない。だから、おれの母親は、《混ざり者》のおれを産むために、わざわざ南大陸へ行った。勿論、治癒師を伴って、だが」

 母スメホは、治癒師だった従妹を連れていった。従妹の通し名はササホ。そのササホの助けがあって、自分は無事生まれたのだ。

「なら――」

 スカイが勢い込んで問おうとするのを、クロガネは遮った。

「それは考えるな。南大陸での混血の出産は危険だ。天精族以外の種族は、南大陸へ穢れを持ち込む厄介者だ。南大陸の天精族達から、目の敵にされて攻撃される。おれの母親はおれを無事に産んだが、一緒に行った治癒師が、おれと母親を守り切るために命を落とした」

 母は、さまざまなことで泣いていた。ササホを悼んでも繰り返し泣いていた。幼いクロガネ――マホには、涙に暮れる母を、どうすることもできなかった――。

「言いにくいことを、おれのために教えてくれてありがとう」

 スカイが、済まなそうに謝意を述べた。

「気にするな」

 クロガネは応じ、練兵場の日陰で休む兵士達へ目を遣った。休憩はそろそろ終了だ。

「とにかく、南大陸は危険だ。あいつがどうしても行くと言うなら、おれも同行する。そう手配してくれ」

「いつも、ありがとう。とても頼りにしてる」

 スカイは微笑んで、研究所のほうへ戻っていった。その後ろ姿をちらと見遣ってから、クロガネは兵士達へ歩み寄る。訓練再開だ。兵士達の訓練は、己の訓練でもある。

(ただ、おれがどこまで役に立つか、分からんぞ……)

 純血の天精族の恐ろしさを、自分達はまだ、全て知ってはいないのだ……。



 水竜一族の里の端で、ニイクガは、泥で人形を作ったり、石を砂に変えたりと、精気を使って地竜一族らしいことを練習している。それを横目に見ながら、ユテは、腰を下ろして一息ついていた。筋力はかなり向上したと思うが、そもそも天精族の体というものは、野生族や夜行族のようにはいかない。筋肉がつきにくいのだ。運動したほどには、効果が出ないので、精神的に疲れてしまう。自分とは対照的に、天精族としての訓練をしているニイクガの上達は目覚ましい。地竜一族としての精気の使い方だけでなく、結界や治癒についても、腕を上げてきている――。

 近づいてきた気配に、ユテは顔を上げた。

「どうしても南大陸へ行くのか?」

 問いかけてきたのは、この里の長のカナミだった。

「ええ」

 ユテは微笑む。

「あそこへ行けば、おれの体を元に戻す浄化薬も手に入りますから」

 南大陸に生える植物は、西大陸や東大陸から流れてくる穢れを全て浄化し、かの大陸を守っている。そういった植物が、強力な浄化薬となるのだ。

「だが、危険だ。おまえはよく知っているだろう」

 カナミは、憂いを浮かべた顔でユテを見下ろす。

「あそこの連中は、外からの者に対して気が荒い。幾らテの血族のおまえでも、奴らにとっては、既に外の者。下手をすれば、命を奪われるぞ」

「ええ、知っています。《勇者》と、一度行ったことがありますから」

 ユテは、遥か昔の記憶をまざまざと思い出しながら告げた。

「それは、初耳だな」

 カナミは意外そうに首を傾ける。そうだろう。あれは、秘した旅だった。五族協和を成した後の、ミスト・レインとの二人旅。ゆえに、五族協和を成すまでの《勇者》の物語には含まれておらず、誰に語ることも語られることもなかった旅路。

「《勇者》が――ミストが、おれのために、浄化薬を求めたんです。おれの姉――伝説の治癒師のように、おれが命を落とすことのないように、と。でも、あなたの仰る通り、あの大陸の天精族達に攻撃を受けて、浄化薬は僅かしか持ち帰ることはできませんでしたし、もう一度行こうという気にはなれませんでした」

「そうか……」

「同じテの血族からも、攻撃されました。おれの母クセテは、里の掟を破って西大陸へ渡った、罪人だそうです」

 同じ瞳の色をした者達から、同じ精気の力で攻撃されるのは、精神的にも痛手だった。自分とミストは、文字通り命辛々逃げ帰ったのだ。

――「つらい目に会わせた。本当に、すまない」

 心の底から謝った、まだ若かったミストに、ユテはうまく応じることができなかった……。

「すまない。つらいことを思い出させたようだ」

 現実のカナミにも謝罪されて、ユテは微苦笑した。

「昔の話です」

「――それでも尚、行くのか」

 重ねてカナミは問うてきた。

「ええ」

 答えは既に決めている。自分とスカイ、二人の望みのために。これから先の、幸せのために。

「そうか。なら、もう何も言うことはない」

 溜め息をついて微笑み、カナミは踵を返して里の家並みのほうへ戻っていった。

「すみません」

 呟いて、ユテは立ち上がる。体を動かす訓練再開だ。南大陸まで行って浄化薬を手に入れ、生きて戻るために。ユテは、腰帯に挟んだ鞘から短刀を抜いて、複雑な足捌きとともに一心に振り始めた。


          二


「……ユテ、ユテ」

 通し名を呼ばれている。体を揺すられている。ユテは重い瞼をうっすらと開けた。ぼやけた視界で何かが動いている。人の顔だ。よく見知った――。

「ミ、……スカイ?」

「よかった。うなされてたから……」

 スカイが安堵した様子で囁いた。辺りが暗い。もう夜なのだ。夕方に水竜一族の里から戻って、寝間着にしている長衣に着替えたまでは覚えているが、そのまま寝台で眠り込んでしまったらしい。

「今、もしかして、ミストって呼ぼうとした?」

 スカイに尋ねられて、ユテは目を閉じた。そう。はっきりとは覚えていないが、ミストが出てくる悪夢を見ていた。昼間、カナミにあんな昔話をしたせいだろう。

「ごめん」

 謝って目を開くと、スカイは首を横に振った。

「謝らなくていい。《勇者》と間違えられて、嬉しいくらいだから」

 優しく言われると、胸が苦しくなった。スカイにミストを重ねてはいけないと思う。自分が、スカイをスカイとして大切に思っていることも確かだ。けれど、こういう日は――。

「ごめん」

 ユテはもう一度謝りながら、寝返りを打ってスカイに背を向けた。目頭が熱くなる。涙が、目から溢れる。背中に、そっとスカイの手が触れた。

「おまえの泣き顔見るのは、二度目だな。五年前、おれに忌み名を教えてくれた時以来だ」

 耳の近くで呟かれて、ユテは耐えられなくなった。スカイなら、聞いてくれる。胸の内の苦しい思いを、語ってもいいだろうか。

「おれが涙を見せたのは、姉さんと、ミストと、おまえだけだ」

「それは、光栄だな」

 スカイの声は、素直に嬉しそうだ。ユテは涙を浮かべたまま、くすりと笑うと、ゆっくりと話した。

「ミストは、おれのことを愛してくれていたんだ。おれも、ミストのことが好きだった。けれど、ミストは、姉のニギテが、命懸けで愛した人だ。おれは、ミストに忌み名を教えることもしなかった。ミストは、クレヴァスと一緒になって、子どもを得た。その子孫が、おまえだ」

 ユテは、くるりとスカイに向き直り、涙で濡れたままの目で、見上げる。

「だから、おれはおまえのことが、いろいろな意味で大切なんだ」

 目から、また涙が溢れる。スカイは何故、これほどミストに姿が似ているのだろう。

「だから、おまえのことは、必ず幸せにする。でも、ミストには、もう何をしても、償えない……。おれは、彼を、ただ悲しませ、苦しませただけだった」

「そんなことはない」

 スカイは真顔で言うと、ユテを包み込むように抱き締めてきた。そして、囁く。

「ミスト・レインは、ずっとおまえを見守ってる」

 その確信に満ちた声音に、ユテは目を瞬いた。

「何か、知っているのか」

「何度か、夢を見たんだ。金茶色の髪の、男の人の夢。その夢を見る時は、いつも、おまえの髪の先に着けてある、飾り筒がおれの頭の近くにあるんだよ。クレヴァスさんみたいに、ミストさんも、呪具の中に、意識を残してるのかもしれない」

「そんな……ことが……」

 ユテには思いもよらないことだった。

「今まで黙っててごめん。おまえが、そんなふうに苦しんでるなんて、知らなくて」

 スカイは、自身も苦しげに謝った。

「……いや。ありがとう、教えてくれて」

 ユテは、両手を動かして、スカイを抱き締め返した。クレヴァスにミストの思いを告げられてから、ずっと抱えてきた悲しみが、ふわりと和らいだ気がした。スカイの腕の中は、やはり安心感がある。

「ありがとう、傍にいてくれて」

 重ねて囁いて、ユテは目を閉じた。昼間、体を動かし過ぎたためだろう、ひどく疲れている。また、悪夢を見るかもしれない。

「今夜は、このままで……」

 か細い声で頼んだユテを抱き締めたまま、スカイは頷き、隣に横になってくれた。



 二千年という時間は、どれほど重荷なのだろう。〈大おじいちゃん〉の言葉が、脳裏に蘇る。

――「この子は、もう二千年生きた。天精族の寿命からすれば、後千年ほどは残っていたじゃろうが、愛する者を失いながら生きてきたこの子にとっては、長過ぎる時間じゃ。もういい加減、楽になってもいいかもしれんと、わしは思う」

 スカイは、自分の腕の中で眠りに落ちたユテを優しく抱き締めたまま、眉根を寄せた。ユテがこれほど弱さを見せるとは、思わなかった。その華奢な体だけでなく、心まで、壊れてしまいそうに感じる。

(南大陸への旅は、おまえにとって、大きな意味があるのかもしれないな……)

 スカイは、ユテの白銀色の髪にそっと顔を埋めながら、胸中で呟いた。



 寝台に腰掛けたまま、隣室の気配に神経を尖らせていたクロガネは、ほっと息をついて仰向けに横になった。

(全く、危なっかしい)

 ユテとスカイには、いつも冷や冷やさせられる。ユテは、自分の身を守ろうとする意識が低い。スカイは、時折正常な判断力を失いそうで怖い。

「おまえも、寝ろ」

 不意に声をかけられて、クロガネは窓を見た。開いた窓辺に、夜風のように、ヌバタマが訪れていた。

「ああ、そうさせて貰う。――店は、順調か?」

「大丈夫。ウツミもニイクガも、よく働く」

「そうか」

 安堵して、クロガネは掛布を被った。訓練で、自分も疲れている。体が睡眠を求めていた。



「帰ってこない、か……」

 ムナカミは、明けゆく東の空を見つめながら、独りごちた。

 コワカミもニコカミも、派遣して一ヶ月以上経つが、帰ってこない。忠誠心の塊のようなコワカミと、忌み名で縛ったニコカミに、一体何が起きたのだろう。

(殺されたか、殺されないまでも、重症を負ったか)

 やはり、混血では、純血の天精族の相手は、荷が勝ち過ぎたのかもしれない。

(次は、純血の天精族を向かわせるか)

「わたしは、きみを諦めないからね、テの血族」

 南大陸の天精族は、純血の天精族の中でも特別だ。

(南大陸の天精族は、純血の天精族の寿命を延ばす、不老長寿の《霊薬》となる。わたしは、聖主ムナカミとして、まだまだ生きなければならないからね。きみの体が必要なんだ、ユテ)

 差し向ける純血の天精族は、誰がいいだろう。《竜》として飼っている水竜一族や地竜一族の中でも、特に強い力を持つのは――。

(オオキウミが適役かな)

 通し名をオオワタという水竜一族は、ムナカミが、この東大陸に来る前から生きている個体だ。天精族として育っているので、戦闘力は文句なく高い。忌み名で縛っているので、裏切られる恐れもない。だが、一人では心許ない。ユテの周りには、いろいろと混血の仲間達がいる。

(もう一人は……、タイラナルクヌガがいいか)

 通し名を、ヒラクガという地竜一族。ムナカミが、この東大陸へ来て聖教会を組織し、通し名をムナカミと改めてから生まれた個体。天精族として育ててはいなかったので、戦闘力は期待できないが、使い道はある――。

(あの子は、一度死んだことになってて、贄としてはもう使えないし)

 《竜》は貴重だ。薬に武具に宝飾品、或いは儀式の際の贄、そして時には《大聖罰》として使わなければならないのに、なかなか生まれず育たない。だから、使い回せる時は、使い回している。贄として、ただ死なせたのでは勿体ないので、薬や宝飾品にした個体もあるが、儀式直後に治癒して瀕死状態から回復させた個体もあるのだ。ムナカミ自身の、治癒師としての力を生かして。

(そう言えば、あの逃げ出した子は、まだ生きてるかな……)

 タイラナルクヌガを儀式で贄として使った直後に逃げてしまった地竜一族。貴重な《竜》なので、コワカミとニコカミに捜索させたのだが、捕まえることができず仕舞いだった。物を知らない《竜》なので、どこかで命を落とした可能性が高い。

(万が一あの子がまだ生きてて、タイラナルクヌガが生きてると知ったら、驚くだろうけれどね……)

 くすりと笑うと、ムナカミは踵を返し、命令を出すべく聖堂の窓辺から離れた。



 朝の光にスカイが目を開けると、すぐ傍らでユテが微笑んでいた。

「ありがとう、スカイ。お陰で、よく眠れた」

 爽やかに言われて、スカイも微笑んだ。

「よかった」

 自分にとっては、何よりユテの笑顔が一番だ。自分は、この笑顔を守るために生きている。

「愛してるよ、ユテ」

 急に溢れた言葉に、ユテは僅かに目を瞠ったが、すぐに優しい表情になった。

「おれもだよ、スカイ」

 柔らかな声音で言い、白い手を伸ばして、スカイの頬に触れてくる。その手をそっと握って、スカイは衝動を抑えた。ユテを不用意に穢す訳にはいかない。

「――朝食にしよう」

 スカイは、理性を総動員して起き上がり、ユテの手を離して、寝台から降りた。


          三


「三日も寝込むなんて、全く無茶するんだから……!」

 口の中で愚痴を言いながら、ケイヴは官舎から帝都の中心部にある大通りへ向かう。今朝になってユテは漸く普通に起き上がれるようになったが、三日前に水竜一族の里で訓練を頑張り過ぎたらしく、二日間はまともに起き上がれない状態だった。兄がどれだけ心を痛めているのか、あの天精族には分かっているのだろうか。

(食堂の仕入れのついでに、ユテさんのための果物も買おうっと)

 官舎の食堂で使う食材のほとんどは業者が直接納入してくるが、こうして市場の物を買いに行くことも時折ある。昼まではまだ間があるが、大通りには既に人混みができ、大変な賑わいだ。その人通りの中、ケイヴは、向かいから歩いてくる二人連れに、ふと注意を引かれた。行き交う人々の間を縫うように、十代後半に見える二人連れが歩いてくる。何故その二人に視線を奪われたのか、最初、ケイヴは分からなかった。だが、暫く見守る内、理由がはっきりとした。

(ユテさんに、雰囲気が似てるんだわ……)

 二人とも、黒い小袖と袴の上に白い長衣を羽織っていて、どこかしら超然とした身のこなしで歩いてくる。一人は、短めの黄金色の髪に、白い肌、青玉色の双眸。もう一人は、襟足で束ねた赤銅色の髪に、黒い肌、琥珀色の双眸。

(まさか、天精族……?)

 ケイヴがその可能性に思い至った時、二人は急に足を止め、黄金色の髪のほうが、赤銅色の髪の耳元へ、何かを囁いた。直後、赤銅色のほうが光に包まれ、突き上げるように、地面が大きく揺れた――。



「これは……」

 揺れる部屋の中で、休んでいたユテは寝台から起き上がり、素早く身支度を整えた。そこへ、窓を蹴破って、クロガネが跳び込んでくる。クロガネも、気づいた顔をしていた。

「地竜一族の《天災》だ」

 告げたユテを抱き上げ、クロガネは窓から官舎の庭へと跳び出した。姿を見られることより、安全を優先したのだろう。苦笑しながら、ユテは問うた。

「きみの仕事は大丈夫?」

「ああ。こんな時に訓練もないからな。兵士達は、すぐ帝都市民の救助に派遣される」

「そう。なら、おれを、このまま《天災》の震源地へ連れていってほしい」

 ユテの頼みに、クロガネは顔をしかめた。

「何をするつもりだ」

「出ていって《天災》を止めさせる。これは、十中八九、おれをおびき出すためのものだから。多分、今度は純血の天精族が追っ手なんだろうね。おれ達天精族は、野生族の血を持つ者ほど、気配に敏くはないから、おびき出す作戦に出た訳だ」

「聖教会の奴らか。しかし、わざわざ出ていく必要はないだろう」

「出ていかないと、大勢死ぬ。それは、駄目だ」

 ミストなら、そんなことは絶対に許さない。誰かを見捨てる五族協和などあり得ないのだ。

「だが……」

「大丈夫。おれは、スカイに預けてある。いざという時は、スカイが何とかしてくれるよ。だから、おれを運んだ後は、すぐにスカイを震源地へ連れてきてほしい」

 微笑んでみせると、クロガネは渋々といった様子で、ユテを抱えたまま官舎の塀を跳び越え、揺れる帝都を大通りのほうへ走り始めた。



 ウツミは、天精族二人が帝都ソイルに入った辺りから気づいていたが、どう行動すべきか、かなり迷っていた。

(ニイクガへの追っ手か、それともユテを捕らえに来た奴らか)

 判断が付かない。今の自分はニイクガの保護者なので、軽々には動けない。ニイクガを守らなければならない。迷っている内に揺れが来て、先に動いたのはニイクガだった。

「これは……、ヒラクガの気配だ……! ヒラクガの精気が、暴走している……!」

 揺れる居酒屋から跳び出していくニイクガを、ウツミは追いかけるしかなかった。



 揺れはどんどんひどくなる。ケイヴは地面に座り込んだ。周りの人々も、同じような状態だ。見上げれば、大通りの両側の建物が、ぐらぐらと揺れていた。煉瓦が軋み、今にも頭上に崩れてきそうだ。

「誰か……! お兄ちゃん……!」

 余りの恐怖にケイヴが叫んだ時、そっと肩に手が置かれた。振り向けば、優しい微笑みを浮かべたユテがいた。

「その買い物篭で頭を庇って座っておくんだ。この《天災》は、できるだけ早く鎮めるから」

 穏やかに告げると、屈めていた上体を起こし、ユテは、あの二人連れのほうへ歩み寄っていった。激しさを増していく揺れの中、人々の悲鳴に混じって、ユテの声が聞こえる。

「おれは、風竜一族のユテ。きみ達は?」

「聖主の使いだ。その瑠璃色の双眸、確かにユテのようだな」

 黄金色の髪のほうが答え、赤銅色の髪の耳元へ、また何事か囁いた。途端に、赤銅色の髪のほうを覆っていた光が消え、地面の揺れも嘘のように収まった。

「さて、取り引きだ」

 黄金色の髪のほうが話を続ける。

「おまえが忌み名を教えれば、われわれはこのまま撤収する。拒めば、このヒラクガを再び《天災》となし、この町を破壊し尽くす」

「《大聖罰》とは言わないのか」

 皮肉な口調で言ったユテに、黄金色の髪の天精族は憮然として告げた。

「わたしは、聖教会の信者ではないからな」

「成るほど。きみ自身も忌み名で縛られている口か」

「――教えるのか、拒むのか」

「――教えるよ」

 応じて、ふとユテはケイヴを振り向く。

「スカイに、ごめん、後は宜しくと、伝えてくれる?」

「え、そんな……!」

 ケイヴがどう説得する間もなかった。ユテは黄金色の髪の天精族の耳元へ、そっと口を寄せ、何かを囁いた。直後、黄金色の髪の天精族が、ユテに何事かを囁き返す。途端、ユテの体が強張ったように見えた。



 迎えに来たクロガネに背負われて、研究所から飛ぶように大通りに連れてこられたスカイは、己の不安が的中するさまを目にした。座り込んだケイヴの向こう――黄金色の髪の天精族に、ユテが何かを囁き、何かを囁き返された――。

「ユテ!」

 叫んだが、ユテは振り向かない。スカイはクロガネの背から滑り降り、走ってユテの前へ回り込んだ。

「ユテ!」

 肩を掴んだスカイを見返した瑠璃色の双眸には、何の感情もなく、まるで硝子玉のようだ。その虚ろな眼差しに、スカイは胸が締め付けられるような気がした。白い額には、雫型の水晶が揺れている。何故ユテは、いつもいつも己を犠牲にするのだろう。顔を歪めたスカイに、黄金色の髪の天精族が冷ややかに告げた。

「無駄だ。彼女は、わたしに忌み名を教え、わたしは彼女にわれわれについて来るよう忌み名を以って命じた。だから、もう、おまえの声は彼女には届かない」

「ユテ、何で、そんなこと……!」

「ここの真人族達を守るために決まっているだろう?」

 呆れたように、黄金色の髪の天精族が言う。

「純血の天精族二人が相手で、町一つ分の人質を取られて、他の選択肢はない」

「相変わらず、甘いことを……!」

 クロガネが、スカイの背後で苦々しく呟いた。本当に、その通りだ。そして、だからこそ、愛おしいのだ。

「ユテを返せ!」

 スカイは黄金色の髪の天精族に、腰帯から抜いた小刀で斬りかかった。

「それはできない」

 淡々と答え、黄金色の髪の天精族は、白い長衣の袖から、真珠色の長い爪を備え、藍銅鉱色の鱗に覆われた手を出して、スカイを小刀ごと軽々と跳ねのけた。ウツミの手と同じ特徴。即ち、この天精族は水竜一族なのだ。

「わたしも、忌み名で以って、ユテを連れ帰るよう命じられているからな」

「誰にだ」

「聖主ムナカミと呼ばれている水竜一族。南大陸から来た、ヌの血族に」

 水竜一族の言葉に、スカイの傍らでクロガネが息を呑んだ。

「南大陸から、だと……」

「ああ。われわれ東大陸や西大陸の天精族のことを、《竜》と蔑む、南大陸の天精族だ」

 吐き捨てるように水竜一族は言うと、ユテの背を押した。

「行くぞ」

 促されて、硝子玉のような目をしたユテは、無言で歩き出す。その後へ、赤銅色の髪の天精族も、ふらふらと続いた。

「スカイ」

 クロガネが、低い声で呼ぶ。

「ユテは、おまえに預けているから大丈夫と言っていた。おまえは、責任を果たさなければいけない」

「分かってる――」

 スカイは頷き、ユテへ駆け寄る。水竜一族が、また真珠色の爪を振るったが、クロガネの長刀がその攻撃を受け止めた。その隙に、スカイはユテを引き寄せ、翡翠色の鱗に覆われた耳へ囁いた。

「イツクカゼ、眠れ」

 途端に、ユテの体から力が抜け、頽れる。その華奢な体を支えたスカイを、水竜一族が驚いた様子で見つめた。

「おまえ、忌み名を与えられていたのか」

「ああ。だから、ユテはあっさりおまえに忌み名を教えたんだ。おれは、忌み名を以って命じられたことでも、《休眠》させれば《解除》できるって知ってるからな!」

「《休眠》させられては、最早、実力行使で連れ帰るしかないな」

 溜め息をつくように水竜一族は呟き、クロガネを手から放った水流で吹き飛ばして、スカイを睨む。

「覚悟しろ」

 スカイは素早くユテを抱き上げ、立ち上がったクロガネの後ろへ下がった。



「ヒラクガ!」

 叫び声が響いた。ニイクガの声だ。クロガネはスカイとユテを背後に庇いつつ、素早く周囲へ視線を走らせた。動き始めた人々を次々跳び越えるようにして、ニイクガが走ってくる。その後から、ウツミも走ってくる。クロガネは、抜いた長刀を構えたまま怒鳴った。

「止まれ! こいつらは聖教会の関係者だ!」

 だが、ニイクガには聞こえなかったようだった。

「ヒラクガ!」

 尚も叫んで、ニイクガは二人の天精族へ駆け寄ろうとする。そこへ追いついたウツミが、ニイクガを後ろから抱き竦めて止めた。

「落ち着け、ニイクガ!」

「ヒラクガが……いる」

 喘ぐように、ニイクガは言った。その視線は、自分と同じ赤銅色の髪をした地竜一族へと注がれている。

「知り合いか」

 問うたクロガネに、ウツミが答えた。

「ニイクガの……死んだはずの友人だ」

「それは――厄介だ」

 クロガネは眉をひそめた。いろいろと条件が悪過ぎる。相手は純血の天精族二人。こちらで戦えるのは、自分とウツミだけだろう。スカイはユテとケイヴを守るので精一杯。ニイクガは、友人が相手というなら、下手をすれば敵になる。

(おまえの力には頼りたくないが……)

 壊れかかった近くの建物の陰に、ヌバタマが来ている。やはり、天精族の気配に気づいて駆けつけてきたのだろう。

 ニイクガが幾分冷静になった声でウツミに訴えた。

「おれは、ヒラクガを取り戻す。離してくれ」

「……頼むから、無茶すんなよ」

 不承不承手を離したウツミに、ニイクガは真顔で頷いた。

「ユテにいろいろ教えて貰った。大丈夫だ」



「カナミ様……」

 険しく眉をひそめて入室したミミに、カナミはゆっくりと首を横に振った。

「ただの《天災》ではないようだ。関わらないほうがいい」

 一度起こった《天災》が、途中で唐突に収まった。誰かが傍にいて、忌み名で以って制御しているとしか思えない。里長としては、慎重にならざるを得なかった。

「兄が心配だろうが、自重しろ」

 カナミが言うと、ミミは少しばかり頬を膨らませ、一礼して部屋を出ていった。



「あいつら、またややこしいことになっているな……」

 アヲヒヂは頭上の岩盤を見上げ、溜め息をついた。地竜一族の《天災》で、家にしている小さな地下洞窟が崩れるかと思ったが、揺れは急に収まった。誰かが《天災》となった地竜一族を忌み名で制御したのだ。つまり、その誰かが忌み名で《天災》になるよう命じた可能性が高い。そんな冷酷な真似をするのは、恐らく聖教会の者だろう。あの雷竜一族達の気配はないようだが、またも聖主ムナカミとやらがユテを狙って追っ手を送り込んできた可能性が高い。

「おまえも、苦労が絶えないな……」

 なかなか、子どもを望める状況にはならないのだろう。

(とにかく、無事でいろよ)

 治癒師であるアヲヒヂは、戦闘力という意味では、それほど助けになれない。況してや、純血の天精族相手では、あまり役には立てないのだ。あんな穢れに満ちた場所へ出ていけば、治癒師としての力を生かす前に、自分が穢れにやられてしまう。

「《勇者》の子孫よ、ユテを頼む」

 アヲヒヂは、頭上を見上げたまま、そっと祈った。


          四


 眠らせたユテを両腕に抱え、スカイはケイヴのところまで下がった。ユテを連れて、できるだけ早くここから逃げたい。しかし、それを許さない勢いで、水竜一族はクロガネとウツミを圧倒し、ニイクガは、ヒラクガというらしい地竜一族と対峙していた。

「火竜一族とはあまり戦ったことはないが、水竜一族のわたしとは、相性が悪いな」

 呟きながら、水竜一族は手から放つ水流で、クロガネを攻撃する。その水を、クロガネは両手から放つ炎で蒸発させ、次いで長刀で水竜一族に斬りかかっていった。そこへまた水竜一族が水流を放つ。が、その水流は、横からウツミが放った水流によって弾かれた。間髪を入れず、クロガネの長刀が水竜一族へ届く。ところが、その刃は、ばちりと結界によって阻まれた。水竜一族が体に纏った防護結界だ。純血の天精族は、やはり強い。

(でも、天精族は、強いが弱い)

 スカイは、ユテを抱えたまま策を練る。ユテから学んだことはたくさんある。

(あんまりやりたくはないけど、この帝都の穢れを利用するしかない――)

 今までユテのためにやってきたことの逆をしなければならない。丁度駆けつけてきた兵士達に、スカイはユテの耳を軍服の袖で隠しつつ、襟の階級章を示して命じた。

「わたしはスカイ・ホール少尉だ。研究施設の責任者をしている。その辺りの家から、石炭を貰ってきてくれ。あの天精族達を追い払うには、それが一番効くんだ!」

「了解しました!」

 数人の兵士達が、辺りの建物へと走ってくれた。

「ユテさん、大丈夫?」

 ケイヴが心配そうに、ユテの顔を覗き込む。まだ事態が呑み込めていないらしい。

「《休眠》させたんだ。あいつらに利用されないように。でも、天精族の治癒師のところへ連れていけば、すぐ目覚めさせられる」

 スカイは努めて笑顔で言った。しかし、ケイヴは表情を曇らせた。

「ごめんなさい。あたし何もできなかった……! ユテさん、お兄ちゃんに『ごめん、後は宜しく』って伝えてって言って、帝都を守るために……」

「おまえは悪くない。ユテはおまえのことも守りたかったんだよ」

 スカイは、目を閉じた親友の顔を見下ろして告げると、ケイヴを促した。

「ここを離れるんだ。クロガネ達の邪魔にならないように」

 周囲にいた人々も、異形の者達の戦いを見て、どんどんと逃げ出している。その流れに乗らねばならない。

「行くぞ」

 立ち上がったスカイ目掛けて、水流が飛んできた。やはり、簡単に逃がしてはくれないらしい。咄嗟にユテを庇って屈んだスカイの背中に、想像以上の勢いで水流が激突した。



「スカイ!」

 クロガネの呼び声に、スカイは反応しない。吹き飛ばされたその体の下から、ユテの上半身が覗いているが、再び抱え上げようともしない。気を失ってしまったらしい。

「くそっ!」

 スカイは長刀を振り上げて水竜一族に斬りかかったが、またも防護結界で阻まれ、水流で吹き飛ばされた。ウツミも同時に水流で吹き飛ばされている。その間に、水竜一族はスカイへと――ユテへと歩み寄った。藍銅鉱色の鱗に覆われた手が、ユテへと伸ばされる。その手を阻んだのは、ケイヴだった。

「駄目です! ユテさんは渡さない……!」

 必死の形相で立ちはだかった少女に、容赦なく真珠色の爪が振り下ろされ――。

 がきりと、水竜一族の爪を、長刀が受け止めた。長刀を操るのは、黒い頭巾付きの外套を纏った姿。頭巾は、顔が見えないほど深く下ろされている。

(すまん、ヌバタマ)

 クロガネは胸中で詫びた。曇り空とはいえ、夜行族を、こんな真昼間に出てこさせてしまった。全ては、自分が不甲斐ないからだ。

「おまえの相手は、おれだ!」

 叫びながら、クロガネは水竜一族へ駆け寄り、長刀を振るう。しかし、水竜一族は振り向きもせず、防護結界は破れない。

「無駄だ。おれは結界師だからな」

 水竜一族は、背を向けたまま冷ややかに告げた。その真珠色の爪が、容赦なくヌバタマの長刀を押さえ込む。精気を自由に使える天精族は、膂力も強いのだ。

「結界はおれが破る!」

 ウツミが駆け寄ってきて言った。

「分かった」

 応じて、クロガネは一瞬の隙に備える。ウツミはまず、水竜一族へ向けて水流を放ち、次いでそれを凍らせた。防護結界に阻まれた水流は、結界を象るように凍りつく。その氷を通じて、ウツミは精気を流し込み、結界を破りにかかった。

「小癪な」

 水竜一族が、初めて顔をしかめた。効果ありだ。防護結界が薄くなっていく――。



「ヒラクガ、忌み名で縛られているのか?」

 ニイクガの問いかけに、幼馴染みは無反応だ。その眼差しは虚ろで、ニイクガを見ているのかどうかさえ分からなかった。

「だったら、おれが、その呪縛を解くから」

 ニイクガが歩み寄ろうとすると、ヒラクガは一歩下がった。しかし、その足元はふらついている。当たり前だろう。あれだけ精気を放出させられては、立って歩くだけで精一杯のはずだ。

「ヒラクガ、頼む、逃げるな」

 ニイクガは訴え、全速で動いた。やはりヒラクガは素早くは動けない。ニイクガはすぐヒラクガに追いついてその首に腕を回し、耳元へ囁いた。

「タイラナルクヌガ、《休眠》しろ」

 効果は絶大だった。ユテに、天精族の特性を詳しく聞いていてよかった。忌み名のことも、《休眠》させれば忌み名を以って命じられたことが《解除》できることも。力を失った幼馴染みの体を抱えて座り、ニイクガは懐かしい顔をしみじみと見下ろした。



「あっちも忌み名を知られていたのか」

 水竜一族は、忌々しげに呟くと、ウツミとヌバタマとクロガネに囲まれた位置から、一跳びで抜け出した。ヌバタマを力で圧倒して、抜け出したのだ。ほぼ崩せた防護結界は、すぐに張り直されていく。

「結果を破るには、やっぱり多少の時間が要る。難しいな……!」

 ウツミがやや息を荒げながらも、不敵な表情で言う。

「まあ、敵は一人減ってあいつだけだ」

「ああ」

 クロガネは頷いて、長刀を構え直した。勝機はある。ただ、狙われているユテが、まだ視界の隅に――この現場にいることが不安だった。



「お兄ちゃん、お兄ちゃん! しっかりして!」

 呼ばれて、スカイは目を開けた。妹の泣き顔がすぐ近くにある。

「大丈夫だ……」

 背中の痛みに耐えながら起き上がると、妹の腕に抱えられたユテが目に入った。

「ユテは大丈夫か?」

「うん、お兄ちゃんが、ちゃんと庇ったから、ユテさんに怪我はないわ」

「よかった」

 安堵しながら、スカイは妹の腕からユテを引き取った。その特徴的な耳をできるだけ隠しておかなければならない。そして、自分がユテを守っていなければならない。ユテを守っている者に、攻撃が来る。

「少尉殿!」

 待ちに待った声が聞こえたのは、その時だった。兵士達が戻ってきたのだ。両手に石炭を抱えたり、布袋に入った石炭を持っていたりする。

「助かる! 通りの真ん中に置いてくれ!」

 スカイは指示し、クロガネへ顔を向ける。

「クロガネ! 頼む、火をくれ!」

 次いで、スカイはニイクガへ叫んだ。

「そいつを連れて、ここを離れろ! 今から、濃い穢れを発生させる!」

 クロガネは振り向いて、顔をしかめながらも、火を放った。大通りの真ん中に積まれた石炭の小山が、燃え始める。同時に、もうもうと黒い煙が立ち昇り始めた。

 ニイクガのほうも、ヒラクガというらしい友人を背負って、走り去っていく。これで一安心だ。スカイは、水竜一族へ視線を転じた。

 水竜一族は、クロガネとウツミ、それにヌバタマを相手にしながら、平然と戦っている。黒い煙の穢れは、結界で防がれているらしい。

(やはり、あの結界を破らないと駄目なのか)

 結界を破ることができるのは、ウツミと――。

(そう簡単に、おまえに頼る訳には、いかないもんな)

 スカイは、腕の中の親友を、そっと抱き締めた。



 ニイクガは、ヒラクガを背負って、住処の居酒屋目指して走っていた。ウツミを残してきたのは、後ろ髪を引かれる思いだが、まずはヒラクガの安全確保が最優先だ……。

「万が一だと思っていたのに、本当に生きていたんだ」

 不意に、幼さを残した声が耳に飛び込んできた。

(これは……!)

 知っている声だ。ニイクガは、耐え難い悪寒に襲われて、足を止めてしまった。

(聖主ムナカミ……!)

 否応なく目を向けた先、崩れかけた建物の間に、少年のような姿をした聖主は、穏やかな微笑みを浮かべて佇んでいた。

「駄目じゃないか、アラタシキクヌガ」

 優しい声が、ニイクガの自由を奪う。

「きみは、わたしに従わないといけないよ」

 頭の中が、真っ白になる。

(ウツミ――)

 意識が、薄れる――。



(この穢れの中で、あいつの結界に綻びを作れれば、おれ達の勝ちだ)

 ウツミは水と氷を操りながら、水竜一族の防護結界へ干渉する。水竜一族は巧みに距離を取り、クロガネに反撃しつつ、結界をすぐに張り直す。ヌバタマも手伝ってくれているが、三対一で丁度拮抗している。

「くそ……!」

 クロガネが何度目か毒づいている。ヌバタマの身を案じているのだろう。

 膠着状態の中、不意に声が響いた。

「大人しくユテを渡しなさい。そうすれば、《大聖罰》は起こさない」

 ウツミは驚いて振り向いた。気配など感じなかったが、そこに、白い頭巾付きの長衣を纏った小柄な人物が現れていた。それだけではない。

「ニイクガ……」

 ヒラクガを連れて逃げたはずのニイクガがいた。その隣には、ヒラクガもいる。二人の気配は感じられるが、ひどく希薄だ。

「何で、おまえ達――」

 ウツミは、途中で言葉を飲み込んだ。ニイクガの眼差しが虚ろだ。忌み名で以って動かされているのだ。気配も、命じられて隠しているのだろう。

「あんた、誰だ」

 ウツミの問いに、小柄な人物は、整った顔に微笑みを浮かべて答えた。

「聖教会を統べる聖主ムナカミだ。初めまして。もうきみ達に勝ち目はないよ。わたしは、ニイクガの忌み名も、ヒラクガの忌み名も、そこにいるオオワタの忌み名も知っている上に、治癒師だからね。《休眠》させても、無駄なんだ」

 ムナカミは、桃簾石色の双眸で、スカイに抱えられたユテを見た。西大陸を股にかけて行商し、東大陸への足を延ばしたことのあるウツミが、見たことのない瞳の色だった。



(ユテ、ごめん……)

 スカイは、腕の中の親友に謝った。できれば使いたくない手だ。妹についた嘘を、最後まで貫き通したかった。しかし、もうそこにしか活路がない。このまま何もしなければ、クロガネもウツミも倒され、自分の抵抗も歯が立たず、ユテを連れていかれてしまう。

(こんな穢れの中で、本当に、ごめん……)

 穢れは、ムナカミにも有効なはずだが、やはり防護結界で身を守っているのだろう。

(あいつらを退かせるには、結界師の力が必要なんだ)

 スカイは、ユテの耳に口を寄せた。

「イツクカゼ、起きて、まずは自分を守る結界を張って」

 囁いた命令に、ユテはすっと目を開き、同時に防護結界を張った。

「ごめん、ユテ。敵は天精族が三人と、ニイクガも忌み名を握られてるんだ」

 スカイの簡潔な状況説明に、ユテは寝ころんだまま苦笑した。

「かなり最悪な状況だね。でも、おれの意図をしっかり察してくれて嬉しいよ」

「おまえが、クレヴァスさんの頭環のほうを身に着けてたからな。いざという時は、戦うつもりなんだって分かった」

 だから、《休眠》に見せかけて、ただ眠らせたのだ。本当なら、そのまま眠らせておきたかったのだが――。

「伝説の結界師として、たまには実力を発揮しておかないとね」

 悪戯っぽく囁いた直後、ユテは気配を膨れ上がらせた。



 オオワタは、自分の防護結界が消し飛ばされるのを感じた。急に広がった巨大な結界に圧倒されて破壊されたのだ。

(これは、一体……)

 結界が広がってきたほうを見て、オオワタは愕然とした。《休眠》したはずのユテが起き上がっている。あちらに、治癒師はいなかったはずだ。

(《休眠》させたのでは、なかったということか……)

 自分達は、相手方の作戦に嵌まったらしい。オオワタは、試しに命じてみた。

「ナゴムカゼ、おまえの結界を解け」

 だが、命令は実行されなかった。立ち上がったユテが、悲しい笑みを浮かべて言った。

「残念。おれがきみに教えたその忌み名は、おれのじゃなくて、姉さんのなんだよ」

「なら、おまえは――」

「そう。さっきは、ただ単に、忌み名に縛られた振りをしただけだよ」

 あっさりと明かした風竜一族は、腕を一振りして、広げた結界を固定した。その結界の中には、ムナカミも取り込まれている。そして、燃える石炭から立ち昇った黒煙も。

「この結界の中では、別の結界を張ることができない。つまり、おれときみ達の我慢比べであり、混血達の独壇場という訳だ」



「さすが、伝説の結界師様だな。粋な結界張ってくれるぜ」

 ウツミは軽口を叩きながら、オオワタとかいうらしい相手に対し、氷での直接攻撃を始めた。しかし、クロガネは、とても軽口を叩く気になれなかった。まさに、純血の天精族にとっては、我慢比べなのだ。

(それだけ、おまえの呪具を信頼しているということだ、スカイ)

 ユテの両手首には、白金の腕輪――スカイが創った呪具が光っている。穢れを浄化するという呪具だ。

(とにかく、早くこいつらを倒す)

 クロガネは、ウツミの攻撃と息を合わせてオオワタへ斬りかかった。爪で長刀を防ぐ動きが鈍くなっている。水流で氷を弾く勢いも弱まっている。上のほうから黒い煙が充満してくる中で、純血の天精族達は力を失いつつあった。



(仕方ない。きみ達が悪いんだよ)

 ムナカミは、ヒラクガの耳元へ口を寄せる。ニイクガが手許に戻ったのだ。ユテを手に入れるためなら、ヒラクガは使い切ってしまってもいいだろう。

「タイラナルクヌガ、《天災》――」

 ひゅっと風切り音がして、ムナカミは間一髪で斬撃を躱した。

「夜行族が、こんな昼間に……!」

 黒い頭巾付きの外套ですっぽりと体を覆った少女は、長刀を閃かせ、すぐに二撃目、三撃目を繰り出す。夜行族の運動能力には、幾ら精気を使って動いても、ついていくのが精一杯だ。しかも、防護結界も張れない、こんな穢れの中での戦闘は、あり得ない。

「アラタシキクヌガ、わたしを守れ!」

 知られている可能性の高い忌み名を叫んで、ムナカミは命じた。アラタシキクヌガはすぐに動いて、夜行族の長刀を、珊瑚色の鱗に覆われた足で蹴りつける。

「おれの大事な弟子を、道具にするな」

 声とともに、またも斬撃が降ってきた。短刀を振り抜いて、ムナカミの前髪を二、三本切り飛ばしたのは、ユテだ。

「獲物が自分から!」

 ムナカミは笑った。治癒師は、忌み名を知らなくても天精族の体に触れるだけで《休眠》させることができると、この風竜一族は知らないのだろうか。しかし、ムナカミがユテへ伸ばした手は、また別の斬撃によって阻まれた。

「それはさせない!」

 小刀で斬りかかってきたのは、真人族の気配に、微かに地老族の気配が混じった青年。ずっとユテを抱えていた青年だ。

「焦ったきみの負けだよ」

 ユテが囁くように言い、続けて声を張る。

「アラタシキクヌガ、正気に戻れ!」

 アラタシキクヌガはすぐに動きを止め、憎しみに満ちた目を、ムナカミへ向けた。そのアラタシキクヌガへ、ユテが重ねて言った。

「おまえの友人を取り戻せ。親しい相手に忌み名を預けるのは、そのためだ」

 アラタシキクヌガは頷き、ムナカミが混血の青年に阻まれている間に、タイラナルクヌガへ駆け寄る。そして、タイラナルクヌガを両手で抱き締め、その耳元へ囁いた。直後に、タイラナルクヌガの体から力が抜ける。

(ここまでか……)

 ムナカミは眉間に皺を寄せた。黒い煙の穢れのせいで、相当息苦しくもなっている。本当に、我慢比べだ。

(でも、捕まる訳にはいかない。何とかして、逃げなければ――)

 身を翻して、ムナカミは混血の青年の攻撃を擦り抜け、精気を使って全速力でオオキウミの許へ走った。二人を相手にしているオオキウミには、近づくのも困難だ。だが、使い道はある。逃げ切るまで、もてばいい。厄介な夜行族ともユテとも距離が開いたのを確認して、ムナカミは叫んだ。

「オオキウミ、《天災》になれ!」

 今度の命令は、阻まれることがなかった。オオキウミは光を放ち、壁のような津波を発生させる。津波は一気に結界を破った。如何な結界であろうと、《天災》を抑えることはできないのだ。ムナカミは、半ば津波に流されながら、結界の破れ目から外へ出た――。



「オオキウミ、《休眠》しろ!」

 すかさずウツミが叫び、津波が収まったのを見て、スカイはほっと息をついた。津波の勢いは凄まじかったが、さすがにウツミは水に呑まれるということがなかったのだ。

「我慢比べに勝ったね……」

 ユテが、スカイの腕の中で、くすりと笑った。津波の発生を見た瞬間にスカイが抱き寄せたので、一瞬の激流の中でも離れずに済んだ。

「大丈夫か」

 問うと、濡れた親友は、青い顔で首を小さく横に振った。

「もう限界。後は頼んだよ……」

 そうして、親友はスカイの腕にぐったりと体を預け、自ら呼吸を止めた。

「ユテ、ごめん」

 《休眠》した親友を抱き締め、スカイは心の底から謝った。

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