新たなる日々へ
世に五族あり。それ即ち、地老族、天精族、夜行族、野生族、真人族なり。またその中に各一族あり。地老族には巨人一族と小人一族。天精族には水竜一族、地竜一族、火竜一族、風竜一族。夜行族には吸血一族、吸精一族、吸夢一族。野生族には数多。真人族には黒肌一族、赤肌一族、白肌一族、黄肌一族。各一族には、しばしば分かれし血族あり。水竜一族には西大陸に住まうミの血族と東大陸に住まうワタの血族。地竜一族には西大陸に住まうヒヂの血族と東大陸に住まうクガの血族。風竜一族には西大陸に住まうネの血族。なれど、全ての族は、南大陸にて生まれ出でぬと伝われり。
第一章 新たなる日々へ
一
ふと目覚めると、月明かりを背景に、スカイの心配そうな顔が間近にあった。
「……お帰り」
寝た姿勢のまま微笑んで言ったユテの口を塞ぐように、スカイが口付けてくる。精気を送り込んでくる。その肩を力の入らない手でやんわり押し返して、ユテは告げた。
「駄目だ。せっかくの《加護》が壊れてしまう。それに、おまえの中のおれの精気を、幾らおれに戻したところで、おれはこれ以上よくはならないよ」
「なら、どうしたらいいんだ……?」
スカイは、顔を歪めてユテを見下ろす。
「いつまでも起き上がれないおまえを見てるのは、つらいんだ……」
「これは、精気を使えることに胡座を掻いてきた、おれの怠慢が原因だから」
ユテは自嘲する。天精族は体を動かすだけでも、無意識に精気を使う癖がついている。だから、筋力が充分に発達していない。今のように呪具で精気を完全に封じられた状態では、体を少し動かすだけで息が上がる。しかも、五年間《休眠》していた体は更に弱っている。必然、寝たきりの日々が続いているのだった。
ユテは、ゆっくりと手を動かし、指先でスカイの頬に触れる。
「おれは、こうしておまえと毎日会えるだけで嬉しい。おまえは、そうじゃないのか……?」
「そりゃ、嬉しいけど……」
少し逸らされたスカイの目の端から涙が零れて、ユテの頬に落ちた。青年の傷ついた心がそのまま落ちてきたようで、ユテは思わず謝った。
「ごめん」
「いや……」
小さく首を横に振ったスカイは、離れようとしたユテの手を掴み、自分から頬を寄せる。
「おれが、きっと欲張り過ぎるんだ」
泣き笑いのような表情で言われて、ユテは溜め息をつき、答えた。
「どうせ、おまえに預けたおれだ。好きにしたらいい」
「ああ。そうする」
スカイは開き直ったように応じると、靴を脱ぎ、上着を脱いで、寝台に上がってきた。掛布の中に入ってきて隣で横になり、ユテの体に両腕を回して抱き寄せ、そのまま目を閉じてしまう。最近、寝る時はいつもこれだ。多少窮屈だが、五年間寂しい思いをさせた代償なのだろう。
(やはり、このままじゃまずいか……)
胸中で呟いて、ユテも目を閉じた。スカイの腕の中は、窮屈だが、不思議な安心感がある。ユテにとっては、例え起き上がれずとも、諦めかけていて叶った、幸せな日々だ。けれど、スカイにとっては充分ではないらしい。道は、まだ半ばなのだ。
(ミスト――、あなたと辿った二千年前の道を、再び辿れるように頑張ってみるよ……)
居酒屋に入ってきた青年に、クロガネは厨房の中から鋭い視線を向けた。五年前に初めて出会った時から殆ど変わらない、裾の長い外套を着て、紅茶色の髪を束ねた、優男な風貌。問題は、その後ろからついて来る、もう一人のほうだった。背丈は青年の肩くらい。しなやかな動きをする細い体。赤銅色の髪は目や耳に少しかかる程度の長さ。墨を塗ったような黒い肌の端正な顔立ちの中でも、琥珀色の双眸は異彩を放っている。纏った袖無しの貫頭衣の裾は長く、地面すれすれまであった。
(あれは、天精族――)
間違いない。純血の天精族の精気だ。
(こんな穢れたところへ、純血の天精族を連れてくるなんて、何を考えているんだ、あいつは……!)
接客を担当している店員に案内され、席に着いた青年は、隣に連れの天精族を座らせると、迷いなくクロガネのほうを見て、笑顔でひらひらと手を振った。明らかに、ここにクロガネがいることを知っていて来たのだ。
(何を企んでいる、ウツミ――)
次々入る注文の料理を、苛々と手早く作りながら、クロガネは忙しさの波が過ぎるのを待った。最近は、料理の下拵えだけでなく、普通に調理も任されるようになっている。
やがて、注文がまばらになってくるとクロガネは、心得たふうのヌバタマに後を任せて厨房を出、客席へ行った。料理を殆ど平らげたウツミへ歩み寄り、その隣の空いている席へ腰掛ける。ウツミは、にやりと笑って、飲んでいた酒杯を掲げた。
「よう。久し振り。大きくなったなあ」
「そんな奴を連れて、何しに来た」
クロガネは、ウツミの向こうの天精族を目線で示しながら、冷ややかに問うた。
「ちょいと訳ありでね」
相変わらず、少しおどけた口調で答えた自称行商人に、クロガネは顔をしかめた。
「訳もなくそんな奴を連れてこられてたまるか」
「〈そんな奴〉じゃない」
急に会話に割って入ってきたのは、当の天精族だった。縦に細い瞳孔を持つ琥珀色の双眸でクロガネを冷静に見つめ、純血の天精族にしては低く響く声で告げる。
「通し名はニイクガという。おれが、こいつに頼んだんだ。純血の天精族に会いたい、とな」
「けど、普通の純血の天精族は、結界に守られた里から出てこないから、そうそう会えやしない。で、一番簡単に会える純血の天精族として、ユテを紹介することにした訳だ」
話を引き継いで説明したウツミに、クロガネは顔をしかめ、ニイクガと名乗った天精族に視線を転じ、声を潜めて尋ねた。
「そもそも、何故、あんたは純血の天精族に会いたいんだ? 自分こそが純血の天精族だろう」
「おれは、まともに育った天精族じゃない。贄として育てられた《竜》だ」
ニイクガは、クロガネの目を真っ直ぐに見返して語る。
「東大陸から逃げてきた。だから、本物の天精族――純血の天精族に会いたい」
驚愕と嫌悪を感じる内容に、クロガネは険しく眉をひそめたが、一呼吸おいて、話を進めた。
「――会って、どうする?」
「これからの生き方を決める。おれには、人としてのものが、何もないから」
無表情に淡々と、ニイクガは答えた。
「ま、そういうことだ。それに」
ウツミが、椅子の背に掛けていた自分の革袋の口を開けた。取り出して見せたのは、見覚えのある頭環。
「別の用事もあってな。伝説の呪具師殿が、ユテのことを心配なさってるんだ」
【あいつ、今、殆ど動けないだろう?】
前触れなく頭に響いた女の声に、クロガネは再度顔をしかめてから、小声で教えた。
「一ヶ月前に目覚めてから、全然起き上がれないでいる。あいつよりも、スカイのほうが、参ってきている」
【そうか……。やはり、行くしかないな……】
伝説の呪具師クレヴァスは、姿は現さないまま、低い声で呟いた。
(あれは、地竜一族。それも、クガの血族だな……)
料理をしつつ、厨房の中からクロガネ達の様子を窺って、ヌバタマは微かに眉をひそめた。黒い肌、赤銅色の髪、走竜の足に似た形の、珊瑚色の鱗と真珠色の鉤爪を備えた足というのが、地竜一族の特徴だ。ウツミに連れられてきた少女は、足こそ裾長の貫頭衣の下に隠れていて見えないが、他の特徴は一致している。そして、琥珀色の双眸は、地竜一族の中のクガの血族の証だ。
(地竜一族は、天精族の中で最も多いが、代わりに、天精族の中で唯一、里を作らず、群れないと聞いたことがある)
夜行族は総じて耳がいいので、クロガネ達の会話の内容も、ほぼ聞き取れる。
(だからこそ、他種族から狩られ易く、贄になどされる訳か)
東大陸がどのようなところなのか、実際に行ったことのないヌバタマには分からない。しかし、聖教会が政治を握っており、五族が互いに〈全く交わらない〉政策が執られていると聞く。
(贄とは、生け贄か。一体誰が? 何への?)
考えつつ料理するヌバタマの耳に、クロガネがウツミに勧める声が聞こえた。
「今晩は、通りの向かいにある宿へ泊まれ。混血でも泊まれる宿だ。ここは真人帝国だが、この帝都は流通の要だから、混血にも比較的寛容だ。夜は、スカイが疲れ切って寝ている時間だ。ユテのところへ行くなら、明日の昼間にするといい。おれが案内する」
「分かった。助かるぜ」
ウツミは頷き、席に勘定を置くと、地竜一族を連れて店から出ていった。
「……ニイクガ、同じ部屋で、構わないか?」
宿屋の前で、ウツミは確認した。天精族は全て女であり、ニイクガも例外ではないから、常識でいけば部屋は分けるべきだ。が、そもそも人としての常識を知らないニイクガを、一人でいさせるのには不安があった。
「ああ。構わない」
十六歳だという少女は、一体どこまでウツミの考えを読んだのか分からないが、あっさりと頷いた。恥じらいという概念もまだないのかもしれない。
宿の主人に前金を支払ったウツミは、教えられた二階の部屋へニイクガを伴って入ると、靴を脱ぎ、革袋を置いて、さっさと寝台に横になった。一人ではないので、着替える訳にもいかない。暫く野宿続きだったので、寝台はありがたかった。しかし、ニイクガは何故か部屋の真ん中で突っ立っている。寝台が分からないほど理解力がないとは思わない。先ほどの居酒屋でも、帝都へ来るまでの道程でも、ウツミの行動を見て大方を悟り、そつなく動けるのを見てきた。
「どうした? おまえも、そっちの寝台に寝たらいいぞ?」
ウツミが促すと、少女は凛々しい顔を曇らせ、ぽつりと言った。
「贄の祭壇に似ている」
確かに、そうなのかもしれない。
「おれは、ヒラクガが、祭壇で屠られるところを見たから――」
言葉を途切らせ、押し黙った少女に、ウツミは寝台から起き上がって、そっと歩み寄った。手を伸ばしても、少女は逃げない。そのまま、両手で天精族の少女を抱き寄せ、ウツミは囁いた。
「ごめん。おれが悪かった」
「いや。おれが、弱いから、悪いんだ」
腕の中で答えた少女を更に強く抱き締めて、ウツミは優しく教えた。
「弱いことは、悪いことじゃない。人と助け合うことを、覚えられるからな」
「……――覚えたい」
ニイクガはウツミの胸に額を押し付けながら、小さな声で応じた。
二
スカイが起きて、身支度を整え仕事へ行ってしまうと、暫くしてから、妹のケイヴが部屋に現れた。十七歳の少女は、ユテの体を丁寧に布で拭いて着替えさせ、洗面と手洗いに連れて行き、最後に、果物の皮を剥いて寝台脇の小卓に置いた。
「いつも、すまない」
礼を述べたユテに、ケイヴは可愛らしい口を尖らせて言った。
「『すまない』って思うんだったら、この果物、少しでも食べておいて下さいね! このまま残ってたら、お兄ちゃんが悲しむんですから」
「……分かった」
ユテは寝台から、少女の顔を見上げ、小さく頷いた。
「じゃあ、また昼過ぎに来ますから」
ケイヴは明るく告げて部屋から出ていった。
「……天精族は、そんなに毎日食べる必要は、ないんだけれどね……」
ぽつりと呟いて、ユテは一人の部屋で溜め息をついた。
ケイヴ・ホールは、職場である食堂が一段落する朝食後と昼食後に、毎日、嫌な顔一つせずユテの世話を焼きに来てくれる。いつも闊達だが、兄と一緒で、一向に回復しないユテの体調に、心を痛めているは明らかだった。
(頑張らないといけないか……)
ユテは、ゆっくりと寝台から上半身を起こした。両足を下ろし、寝台に腰掛けた状態で、果物を取る。一齧り一齧り、時間をかけて食べ終えると、それだけで疲れてしまった。再び寝台に横になって少し休んでから、もう一度起き上がる。そっと床に足を下ろし、そろそろと立ち上がった。とりあえず窓まで、と思って歩き始める。部屋の隅にある洗面所への行き来は、いつもスカイやケイヴが支えてくれるので何とか行けるが、一人で歩くと、やはりふらつく。足が浮いているような、力の入らなさだ。それでもこけないよう、慎重に歩くと、今度は息が上がってくる。
(全く……、精気が使えないだけで、情けない……)
思った途端、力の入らない足が踏ん張り切れず、視界が回った。直後、鍵を弾き飛ばして勢いよく窓が開いた。
「馬鹿!」
低い声の叱責とともに、力強い腕に体を支えられる。
「転んで怪我でもしたらどうする気だ!」
本気で怒られて、ユテは微笑みながら謝った。
「きみ達がすぐそこまで来ているのは分かっていたからね。何かあったら、助けて貰えるかと、つい甘えた。すまない、クロガネ」
「……あんた、そういう性格だったか?」
呆れて言いながら、黒い上衣を纏った少年は、ユテを抱き上げて、寝台へ運んだ。寝かされ、掛布を掛けられながら、ユテは自嘲した。
「もともと、おれは結構他人を利用する性分だよ。今は、少しでも体を動かして、筋肉や体力を付けたいんだが……、なかなかだ……」
「無理をして何かあったら、またあいつが泣く」
真顔で釘を刺したクロガネに、ユテは溜め息をついて告げた。
「今でも、毎日くらい泣いているよ」
【やはり、そうか】
応じた声に、ユテは苦笑した。ウツミの気配もあったので、予想はしていたが、つい笑いが込み上げる。
「あなたは本当に世話焼きですね、クレヴァス」
「あんたとスカイがいろいろ心配させ過ぎるんだよ」
言いながら、裾の長い上着を翻して窓から入ってきたのはウツミ。そして、その肩に掛けられた革袋から、また声がした。
【そんな強力な呪具を身に着けてるからそうなる。何故、あいつにそのことを言わない?】
「あいつは、そんなこと気づいていますよ。それにこれは、あいつがおれのために、何度も何度も試行錯誤して作ってくれた呪具です。悪いところなど、一つもない」
強情に、ユテは反論した。
「相変わらず、頑なだな……」
呆れたようにウツミは肩を竦め、革袋から雫型の水晶が付いた頭環を取り出して、寝台脇の小卓に置いた。途端に、その水晶が光り、幻影のような少女の姿が浮かび上がる。
【だが、そのせいでおまえは寝たきりになり、あいつは毎日泣いてる。悪循環だ】
少女は、腕組みし、睨み付けるようにユテを見て言い放った。
「そうですね」
ユテは素直に認める。
「ですから、少し、体を鍛えて動けるようになり、南大陸へ行こうと思っています」
【浄化薬を求めてか】
「ええ。あそこは原初の地。われらが故郷。必要なものは、全て揃いますから」
「おれも行く。連れていってほしい」
急に会話に割って入ったのは、窓から新たに現れた少女だった。黒く艶やかな肌、赤銅色の髪、そして窓枠を乗り越えてきた、珊瑚色の鱗に覆われ、真珠色の鉤爪を備えた足。純血の地竜一族だ。しかも、琥珀色の双眸から察するに、恐らくは東大陸出身のクガの血族である。
「こんなところに、珍しいね。尤も、おれも人のことは言えないけれど」
ユテは、クロガネが開けている帳の隙間越しに、地竜一族の少女を見つめた。裾長の貫頭衣を纏った少女は、寝台へ歩み寄ってきながら言った。
「おれは、ニイクガ。贄の《竜》として育てられた。人として――天精族として育たなかった。だから、天精族のあんたに、いろいろと教えてほしい」
「東大陸出身か」
ユテが確認すると、ニイクガは頷いて答えた。
「あそこにはもう、まともな天精族の里はない。純血の天精族達は、散り散りになって生き延びているだけだ。だから、この西大陸へ逃げてきた」
「だが、さすがにここには置いてやれないよ」
ユテは、溜め息混じりに告げる。
「おれも、隠れ住んでいる状態だからね」
「住み処については、おれが何とかする」
ウツミが会話に入ってくる。
「旅に出るなら、おれも行く。あっちこっちに混血の知り合いがいて、泊めてくれるから、おれがいると便利だぜ?」
「成るほどね」
ユテは頷くと、結論を述べた。
「後は、スカイがどう言うかだ。おれ達のつもりを伝えて、スカイの意見を聞く。おれの身は、スカイに預けてしまったものだから」
「それは――」
ニイクガが、真っ直ぐな眼差しで問うてくる。
「そのスカイという奴に、忌み名を与えたということか」
この場にいる、他の誰もが知っている事実である。ユテは微苦笑して言った。
「他言は無用に願うよ。天精族の忌み名を知っているということは、それを求めて、他から狙われるという危険を孕んでいるから」
「分かった」
ニイクガは素直に頷いた。
「それで、他には何が訊きたい?」
ユテは優しく問いながら、寝台の上で上体を起こす。
「体を動かしながら、答えられることは何でも答えるよ」
クロガネが渋い顔をしたが、苦言は呈さず、ただ踵を返した。
「後は任せるぞ、ウツミ」
「ああ。すまなかったな、勤労少年。しっかり昼寝して夜に備えてくれ」
ひらひらと手を振ったウツミに、クロガネは窓から出ていく動きを止めて、振り向いた。
「言い忘れていた。おれは、今日あの居酒屋を辞める。代わりに、おまえとその地竜一族で働け」
「は?」
聞き返したウツミに、クロガネは表情一つ変えずに言い足した。
「仕事は、ヌバタマが教える。部屋と賄い、おまけに昼寝付き、店主自身が混血で、他種族に対して理解がある。完璧な物件だ」
「――確かに、ありがたいな」
ウツミが頷いて、交渉成立らしい。クロガネは、そのままさっさと窓から姿を消した。
(クロガネも、随分と帝都慣れしたものだ)
ユテは内心くすりと笑うと、ニイクガに視線を戻し、口を開いた。
「さて、まずは肩を貸して貰おうか」
今夜からのねぐらが決まった、若い地竜一族を手招く。
「純血の天精族は穢れに弱い。この帝都ソイルは、空気だけでも、おれ達の体にはよくない。だから、場所を移そう。そのための呪具も、持ってきているんだろう、クレヴァス?」
【御明察だね】
クレヴァスの言葉に応じて、ウツミが革袋から、今度は水晶を連ねた長い飾り紐を取り出した。
【これは、《潜り輪》という呪具だ。これで円を作ると、離れた場所への入り口となる】
クレヴァスの説明に従い、ウツミが床に飾り紐を置いて、その端と端とを繋げ、円を作った。それを見下ろし、幻影のように浮かび上がった少女は、満足そうに告げた。
【この《潜り輪》は、円を形作ってから、それを最初に通る者が思い描く場所へと通じる。ただし、離れた場所と言っても、地老族が一日歩いて行ける距離より遠くは無理だ。それより遠くは、あたしの力の限界を超えててできなかった】
「それで充分です。ここから最も近い水竜一族の里は、地老族の足でも半日ですから。水竜一族は、天精族の中でも一番、真人族の身近にいる一族ですよ」
ユテはニイクガの肩を借りて寝台から立ち上がり、床に作られた円へ、足を踏み入れた――。
飾り紐の円の中へ、吸い込まれるように落ちる風竜一族に引き摺られるように、ニイクガは肩を貸したまま続いて落ちる。一瞬の暗黒を抜けると、風景が一変した。日の光はなくなり、代わりに、深い暗闇の中、ところどころに淡い光を発する苔や虫が見え、その青色や緑色や黄色の淡い光で、遠く、近く、ごつごつとした岩肌に囲まれていることが分かった。
「ここは、あの大きな街――帝都ソイルの外れの辺りにある、地下洞窟だ」
ユテという通し名の風竜一族は、ニイクガの肩を借りたまま微笑んで言うと、ゆっくりと進み始めた。ニイクガも、その軽い体を支えて、一緒に進む。すぐ後ろには、ウツミの気配も現れていた。
やや湿った岩盤の上を暫く歩いていくと、向こうから、黄金色の長い髪を二本の三つ編みにして垂らし、透き通るような白い肌、藍玉色の双眸をした少女が近づいてきた。纏った白い長衣から覗くその両手は、藍銅鉱色の鱗に覆われ、指の間に膜が張り、真珠色の鋭い爪を備えている。純血の水竜一族だ。
「ようこそ、水竜一族の里へ。それにしても、奇妙な御一行ですね。正直、最初は追い返そうかとも話していたのですが、そちらにウツミがいたので、とりあえず、用向きを伺うことにしました」
「突然すまない、ミミ」
ウツミが前へ進み出て言う。
「おれも、まさかおまえがいる里へ来ることになるとは思わなかったんだが、この二人の純血の天精族のために、この里の隅っこを使わせてくれないか? 風竜一族のユテは、精気を呪具で封じてて……、体を動かす訓練をしたいんだ。地竜一族のニイクガは、そのユテからいろいろと学びたいと、ここまでついて来たんだ」
ミミという通し名らしい少女の表情が険しく曇った。
「精気を呪具で封じている――つまり、その人は、《天災》になりそうなのね。しかも、テの血族というのは、聞いたことがない。少なくともこの西大陸の出身じゃない。そしてもう一人は、クガの血族――東大陸の出身。どちらも、里に入れるには、不安要素が大き過ぎるわ。やはり、帰って頂戴」
【カナミ殿はいらっしゃるか?】
急に響いた声は、ウツミが手にした頭環からだった。
「あなたは……?」
警戒心を顕にした水竜一族の少女に、頭環の水晶の煌きの中に姿を現した地老族の少女は、笑顔で告げた。
【あたしは、かの《勇者》とともにあった呪具師のクレヴァス。そしてこのユテは、《勇者》とともにあった結界師だ。カナミ殿とは面識がある。一度、話をさせて貰えまいか】
「《勇者》の仲間――」
ミミという少女は驚いた顔をすると、硬い声音で言った。
「分かりました。取り次ぐかどうか、聞いてきますので、暫くここで待っていて下さい」
そうして踵を返した少女の背を見送って、ニイクガは問うた。
「《勇者》とは、何だ?」
「成るほど、そこから教えないといけないか」
ユテは苦笑して、語る。
「《勇者》とは、二千年前に、この西大陸で五族協和を成し遂げたミスト・レインという真人族に贈られた尊称だよ。その時、おれとクレヴァスは、ミストの仲間で、五族のいろいろな一族を訪ねて回って、五族協和への協力を取り付けた。水竜一族のこの里にも、その時に来て、里長のタマミ殿、そして次期里長と目されていたその娘のカナミ殿と話をし、協力を取り付けたんだ。カナミ殿は、聡明で、話の分かる方だよ」
なかなか想像力の追いつかない内容に、ニイクガはまず問うた。
「二千年前……? あんた達は、二千年前から、生きてるのか?」
「ああ。おれとカナミ殿はそうだ。クレヴァスは、もう生きていないけれどね」
【あたしは、意識だけ、この呪具に宿してるんだ。体はもうとっくに滅びてるよ】
頭環の水晶の光の中に浮かび上がった少女が、あっけらかんとして付け加えた。ユテが説明を続ける。
「純血の天精族の寿命は約三千年。カナミ殿は二千五百歳くらいかな。おれは二千歳ちょっとだよ」
「なら、おれもそのくらい生きるのか」
呆気に取られたニイクガに、ユテは意味深長な表情で答えた。
「何もなければ。純血の天精族は、強いが弱い、とよく言われる。おれ達は精気の扱いに長けていて、天変地異すら起こせるが、穢れには弱く、里の結界の外で傷を負うと、そこから穢れが入ってすぐに死ぬ。だから、おまえも気を付けなければいけない」
「――分かった」
ニイクガは複雑な思いで頷いた。儀式の中、僅かな出血で、あっと言う間に息絶えたヒラクガの姿。翻って自分自身は、贄として暮らしていた頃も、東大陸からこの西大陸への旅でも、運良く傷を負うことはなかった――。
【小娘が戻ってきたぞ】
頭環に宿った少女が告げた。その頭環を持つウツミが、顔をしかめて言った。
「小娘じゃない、ミミだ。おれの妹だよ」
【へえ。つまり、おまえの母親の分身か】
「ああ。エミが――おれの母親が、おれを連れて里を出る前に遺した、一人娘だ」
「それで、何となく、頭が上がらない訳か」
ユテが、面白そうに口を挟んだところへ、当のミミが歩み寄ってきて告げた。
「お許しが出ました。ついて来て下さい」
表情は硬いまま、少女はニイクガ達を先導して、建物が建ち並んでいるほうへ、進んでいった。
連れて行かれた先は、最も奥のほうにある大きな建物だった。中は広間になっており、真ん中に置かれた長卓を椅子が囲んでいる。その最も奥の椅子に、長い黄金色の髪をゆったりと背で結わえた温厚そうな水竜一族が座っていた。
「この里の長、カナミ様です」
ミミが紹介し、椅子を示す。
「どうぞ、お掛け下さい」
「お久し振りです。カナミ殿」
ユテが挨拶をして、率先して椅子に座った。続いて、その肩を支えていたニイクガ、そしてウツミが椅子に腰掛けた。
「久し振りだな、ユテ」
カナミは笑顔で挨拶を返し、付け加える。
「まさか、まだこの西大陸にいたとは思わなかった。チの血族の里から姿を消していたから、南大陸に帰ったかと思っていたぞ」
「それも少しは考えましたが、今さら帰っても、知り合いはいないですしね。それより、この大陸で見ていたいものがあったので」
「ミスト・レイン以外に、そなたの興味を引くものがあったのか?」
「そうですね。見ていたい、そして守りたい、《勇者》の子孫がいます」
「成るほど。訓練は、そのためか?」
「はい」
微笑を浮かべて答えたユテに、カナミは溜め息をついて言った。
「相変わらずの交渉上手め。かの《勇者》のためと言われれば、断れないではないか。いいだろう。この里の隅を使え。ただし、あまり里人に関わるでないぞ。そなたの生い立ちはややこしいからな」
「分かっています」
ユテが頷いて、交渉成立だった。
(やはり、《勇者》の尊称は、当時を知る人の間じゃ、威力があるな)
ウツミは感心しながら、ニイクガ、ユテとともに席を立った。
「ヤワラグイカヅチ」
聖主に忌み名を呼ばれて、ニコカミは心と体を強張らせた。柔らかな黄金色の髪を襟足で切り、少年のような姿を保つ聖主ムナカミは、ニコカミの頬に真珠色の爪で触れて、耳へ囁く。
「あの風竜一族の忌み名を聞き出して、捕まえるんだ。どんな手を使ってもいい。頼んだよ」
ムナカミの桃簾石色の双眸には、強い光があった。
「分かりました」
頷いたニコカミに微笑み、ムナカミは、西大陸に最初に造られた聖教会寺院の聖堂の奥の間へ姿を消した。聖主の小柄な背中が完全に見えなくなってから尚、数瞬間を待って、ニコカミは息をついた。忌み名を呼ばれることには、いつになっても慣れない。他者から、絶対的な支配を受ける感覚。吐き気がする。重たくなった足を引き摺るようにして、ニコカミは聖堂から出た。
「聖主様は何と?」
扉の前で待ち構えていたコワカミが、すぐに問うてきた。全く、この相棒は、盲目的にムナカミを信望していて困る。ニコカミはぶっきらぼうに答えた。
「あの風竜一族の忌み名を聞き出して捕まえろってさ」
「そうか……」
コワカミは眉間に皺を寄せ、難しい顔をする。難題を解決するため、前向きに検討しているのだろう。ニコカミは、構わず歩き出しながら問うてみた。
「それにしても、何で、聖主様は、あの風竜一族にそんなに拘るんだろうね?」
「あいつを《大聖罰》にし損なった後、事の次第を聖主様に報告しに行っただろう? あいつの通し名を伝えた時、瞳の色を訊かれたので、瑠璃色だったと答えたら、急に考え込まれた様子だった。恐らく、あいつは、ただの風竜一族ではないのだと、おれは考える」
記憶にないことを言われて、ニコカミはコワカミを振り向いた。
「そんなことあったっけ?」
「ああ」
コワカミはしっかりと頷く。
「おまえは、あの時、体調が悪いとか言って、寝ていたから知らないだけだ」
「ああ、そうか。そうだったね……」
聖主ムナカミに会うのが嫌で、仮病を使い、報告をコワカミに任せたことを忘れていた。今回は、自分一人を名指しで呼び出されたので、逃げようもなかったが。それにしても、瞳の色が重要だったとは。
「あいつについて、ちょっと調べなきゃいけないね……」
「ああ」
自分とは異なる情熱の篭もったコワカミの相槌に、ニコカミは溜め息を漏らしながらも、足並みを揃えて、荘厳な聖教会寺院を後にした。
「ただいま。……ユテ?」
声を掛けても返事がないので、スカイは、どきりとした。いつもなら、寝転んではいても、ユテはスカイの帰りを目を覚まして待っていてくれるのだが。部屋の奥の寝台に歩み寄り、そっとユテの様子を伺うと、微かに規則的な寝息がして、スカイはほっと胸を撫で下ろした。寝ているだけなのだ。けれど、いつもと違うというのは気に懸かる。
(何か、疲れることでもしたのか? それとも、体力が落ちてるのか……?)
心配は尽きることがない。顔をしかめたまま、軍服を脱ごうとスカイが踵を返しかけた時、ユテの睫毛が揺れた。
(目を覚ましたか?)
足を止めたスカイの目の前で、ユテがゆっくりと寝返りを打つ。目を開く気配はない。寝息は穏やかだ。
(とりあえず、大丈夫そうか)
スカイは、ほっと一息つくと、着替えと洗面用具を持って風呂へ向かった。
体と顔を洗って着替え、歯を磨いてスカイが部屋へ戻ると、窓が開いていて、クロガネが壁に凭れて立っていた。
「どうしたんだ? この時間帯はまだ居酒屋が忙しいだろう?」
スカイが問うと、クロガネは、逆光のため表情が窺えない顔で答えた。
「明日の入隊試験で、正式に帝国軍に入ろうと考えている。おまえの口利きで、予定通り、剣術指南役として入れそうだ。だから、居酒屋は辞めてきた。今夜は宿に泊まる」
「そうか! 嬉しいよ!」
スカイが思わず大きな声を出すと、クロガネが片手を上げて、静かに、というような仕草をした。次いでクロガネは奥の寝台のほうを見遣る。ユテが起きた気配はない。
「ごめん、つい」
小声で詫びたスカイに、クロガネも小声で言った。
「いや、ここで話したおれも悪かった。しかし、大分疲れて眠っているようだな」
「何かあったのか?」
怪訝な思いで尋ねたスカイに、クロガネは淡々と告げた。
「今日から、この近くの水竜一族の里で、体を動かす訓練を始めたそうだ」
「『体を動かす訓練』? 『近くの水竜一族の里で』?」
意外な話に、スカイはまた大きくなりそうになった声を懸命に抑えた。
「ああ。全て、おまえのためだ」
クロガネはスカイを見つめて言い切る。まるで、悪事を指摘されたような気がして、スカイは項垂れた。
「おれは、ユテに無理ばかりさせてるのかな……?」
「否定はし難いが……、それもユテの望みの内だろう」
低く深い声音で言うと、クロガネは壁から背を離して、窓枠に足を掛けた。宿へ行くのだろう。
「いろいろ、ありがとうな」
スカイは素直な感謝を込めて言った。
「気にするな。おれも、好きにしているだけだ」
短く答えて、クロガネは夜の中へ消えた。その姿を追うように、スカイは窓辺に立つ。眼前には、庭の木々の向こうに帝都ソイルの夜景が広がっている。人々の温もりと繁栄を表すかのような、無数の灯り。それらに象られた、並び立つ高楼。
「おれは、ここをアース五族協和国にしたいんだ……」
心の内に常にある決意を、スカイはそっと口にした。
ニイクガは、水竜一族の里から戻ってきて、クロガネの後釜としてウツミとともに例の居酒屋の部屋に入った後も、ずっと気持ちが昂っているようだった。純血の天精族の里で、純血の天精族と過ごせたことが余ほど嬉しかったらしい。それは、ウツミとしても嬉しい。が、なかなか心の底からの笑顔にはなれない――。
「ウツミ」
質素な部屋の卓の向こうから急に呼びかけられて、ウツミははっとニイクガの顔を見た。ぼうっとして口に運んだ野菜汁を飲み込み、笑顔を作る。
「何だ?」
「さっきから、ずっと上の空だ」
単刀直入に言われて、ウツミの作り笑いは崩れた。ニイクガは、よく人を見ている。
「ちょっと、疲れたかな……」
誤魔化すように答えたウツミに、ニイクガは更に鋭く言った。
「あの、ミミとかいう水竜一族が理由か」
本当によく見ている。ウツミは卓の上に視線を落として答えた。
「ああ、そうだよ。ミミは、おれをきっと恨んでる。母さんがおれだけ連れて里を出たことも、母さんが《天災》になるのを止められなかったことも、あいつの心に、しこりとなって残ってるはずだ。おれは、あいつから、母さんを奪ったんだよ」
「だから、気まずいのか」
ニイクガの言葉は、いつも図星だ。ウツミは苦笑して頷いた。
「ああ。あいつは、おれの顔なんか、見たくないだろうからな」
「おまえ、さっきから、ずっと推測で物を言っている」
「え」
面食らったウツミを、ニイクガは真っ直ぐに見つめて言った。
「それは、推測だ。おまえの妹は、おまえに対してわだかまりはあっても、おまえを恨んでいるとは限らない。いずれ、おまえを兄として慕うかもしれない」
「いや……、それは……」
あり得ない、と言おうとして、ウツミはやめた。ニイクガの一生懸命さに抗ってまで、可能性を否定したくない。
「……そうかもな……。ありがとう」
礼を述べると、ニイクガは目を瞬いてから、今度は問うてきた。
「しかし、何故、おまえの母親は里を出たんだ? おれが今日聞いた天精族についての話を総合すると、天精族が里から出ても、何の利益もないぞ?」
「……そうだな。でも、おれの母さんは、里から出歩いてた。そういう性格だったんだろう。ただ、他の里でも、数千年に一度、そうやって里を出る人がいるらしい。それで、他の種族の男との間に、子どもを作るんだ。その子どもが天精族だった場合、里に連れて帰って血族に迎え入れる」
「何のために、そんなことをする?」
「血族に新しい血を入れるためだろう。そうしない限り、女が女を生むだけの天精族に、新しい血は入らないからな」
「なら、おまえは、何故里に帰らなかったんだ?」
「だから、言っただろう? 『その子どもが天精族だった場合』って。おれは、天精族じゃなかったから、駄目だったんだ」
「天精族か、そうでないかは、どうやって判断するんだ?」
「忌み名だよ」
ウツミは、苦い思い出を辿りながら告げる。
「おれの忌み名は、マタキミヅ。そう母さんが名づけた。でも、その忌み名を呼ばれても、おれは何ともないんだ。忌み名で縛れない者を、天精族は一族として受け入れない。だから、おれは天精族じゃないんだ」
「おれの忌み名は、アラタシキクヌガだ」
さらりと言われて、ウツミは一瞬凍り付いてから、低い声で怒った。
「おまえ、そんなこと、安易に口にするな!」
「安易じゃない。忌み名を告げられたら、お返しに自分のも教えるものだろう? それくらいはおれも知っている。ヒラクガとも、忌み名を告げ合っていた。それに、おまえになら、忌み名を知られていていい」
「おまえ、本当に非常識だな。それ、殆ど愛の告白だぜ?」
呆れたウツミに、ニイクガは、小首を傾げた。
「『愛』?」
「……その説明は、また今度な」
ウツミは肩を竦め、食べ終わった自分の食器をまとめて持って、部屋から廊下へ出た。店の台所で食器を洗い、そのまま仕事に入るのだ。歩きながら、頬が紅潮してくるのが分かった。ニイクガに見られる前に逃げられてよかった。
(柄にもない……。懐かせ過ぎるって、こういうことなんだな。今更ながらに、よく分かったよ、ユテ)
胸中で旧友に語り掛けて、ウツミは歩きながら一つ溜め息をついた。
三
ニコカミは、帝都ソイルの夜景の底で、溜め息をついた。憂鬱だ。だが、忌み名を以って命じられたことは絶対だ。
「どうした」
傍らから、コワカミが声をかけてきた。
「いや、何でもないよ。敢えて言うなら、夜でも賑やかなところだなって思っただけ。どうする? そこの居酒屋なんて美味しそうだけど、腹ごしらえでもしてから行く?」
「いや。一刻も早く、聖主様にあの《竜》を献上したい。すぐに向かうぞ」
「……分かったよ」
渋々頷いて、ニコカミは、コワカミとともに帝国軍の官舎へ足を向けた。
嫌な夢を見て目が覚めた。姉が、血を流していた。その横たわった体に両手を当て、懸命に精気を注ぎ込んで傷口を塞ぎ、大量に入り込んだ穢れの浄化を始めたが、間に合わなかったのだ。治癒師でない自分には、姉を救うことができなかった――。
「ニギテ……」
呟いて目を開けたユテは、傍らに寝ているスカイを見て、ほうと一息ついた。あれから二千年。自分の手には、まだ大切な存在が残されている。
(おまえだけは、守るから)
胸中で誓ったユテは、ふと、神経を研ぎ澄ませた。何かが近づいてくる。気配を隠しているが、隠し切れてはいない。
(これは……、雷竜一族か……!)
表情を険しくして、ユテは横になったまま慎重に気配を探る。雷竜一族は二人。あの時の二人だ。
(あいつらには、借りがあるな)
ユテが五年もの間《休眠》しなければならなくなった原因を作った者達。つまりは、スカイを苦しませ、今も苦しめている元凶達だ。
(けれど、今のおれは、スカイの呪具を付けている限りは、まともに動けず、外せば、いつ《天災》になるか分からない状態。さて、どうするか……)
「クレヴァス」
ユテは、寝台脇の小卓に置いた頭環に呼びかける。
「あなたの呪具を、目一杯活用させて貰いますよ」
【好きに使え、この《締め縄》も《潜り輪》も】
頭環から、光に浮かぶ姿が現れ、不敵に笑む。
【そもそも、おまえの助けになるために持ってきたんだから。伝説に謳われた知恵を見せてやりな】
「そんな大したものではありません。ただ、最善を尽くすだけです」
静かに応じて、ユテはゆっくりと上体を起こした。
「――ユテ?」
傍らのスカイが目覚めて起き上がり、心配そうに顔を覗き込んでくる。
「大丈夫か?」
「大丈夫だよ。でも、敵が来る」
「敵?」
「あの雷竜一族の二人だよ」
「何だと!」
瞬間的に臨戦態勢になったスカイの耳に口を寄せ、ユテは囁いた。
「だから、おまえの力を貸してほしい。道具の力を、最大限引き出すおまえの力を」
「――分かった」
頷いたスカイに、ユテは同じく寝台脇の小卓に置いてあった《潜り輪》を取って握らせ、小声で告げた。
「奴らを、できる限り近くまで引きつけておいて、最大範囲で、この《潜り輪》を二人で使う。行き先は、おれがかつて行った場所――とある地竜一族の家だ。ここから地老族が歩いて行ける距離の地下洞窟にある」
アヲヒヂは急に頭上に開いた巨大な円に身構えた。驚きが少なかったのは、こういう現象に遭うのが初めてではないからだ。
(地老族の呪具!)
そして、巨大な円から、四人が降ってきた。壁面に生えた苔が発する淡い光に照らされた四人の姿と気配。一人は知っている。後の三人は知らない。
「ユテ、何だ、これは」
唯一知っている一人に、アヲヒヂは問うた。
「すまない」
白銀色の髪を編んで垂らした背中は、冷静に答える。
「ここが、最も都合のいい場所だったんでね」
「成るほど、結界の中か、ここは」
真鍮色の髪をした二人の内、華奢な体つきをしたほうが、緊張を孕んだ声で言った。
「そう。だから、ごめん、スカイ」
ユテは謝罪の言葉を口にしながら、頭に嵌めていた頭環を外した。途端に、ユテの気配が膨れ上がる。風竜一族の鮮烈な精気が広がる。
「おれは、こいつらに腹を立てているから、多少手荒いことになるよ」
「大丈夫なのか?」
真人族の気配に微かに地老族の気配が混じる青年が、気遣わしげにユテを見た。
「大丈夫。心配ないよ。結界の中において、純血の天精族は、最強だから」
笑みを含んだ声でユテは応じ、相対する真鍮色の髪の二人へ向けて、一歩踏み出した。刹那、暴力的な突風が二人を襲い、吹き飛ばす。直後、放電がユテを襲ったが、それはばちりと弾かれて、ユテには届かなかった。
(伝説の結界師は健在だな)
アヲヒヂは思いつつ、顔をしかめる。どういう事情か知らないが、いきなり人の家で戦われるのは迷惑千万だ。しかし、ユテが何故ここへ来たのかは理解できた。
(真鍮色の髪の二人は、昨今噂の雷竜一族だな。気配は、水竜一族と野生族との混血。だから、純血の力を最大限使える結界を求めて、おれの家か)
アヲヒヂが分析する間にも、鋭い旋風が雷竜一族達を襲い、その皮膚を切り裂いた。彼らが両腕に着けている、天精族の鱗が綴られた手甲すら無事ではなく、大きく割れている。
(随分、怒っているな……)
これほど攻撃的なユテは、珍しい。
(一体、どういう経緯で戦っているんだ……?)
いい加減、説明が欲しいところだ。そこへ、ユテの傍らにいた青年が後ろに下がってきて言った。
「あの、すみません……」
金茶色の髪、翠玉色の双眸、整った優しい面立ち。似ている。アヲヒヂは、青年が続けようとした言葉を遮って問うた。
「おまえ、《勇者》の子孫か」
青年は、面食らった様子を見せたが、すぐに頷いた。
「はい。スカイ・ホールといいます」
「成るほど。ユテが感情的になっている原因はおまえだな」
「そうなんですか?」
目を瞬いて、スカイと名乗った青年は、ユテを見遣った。遠慮なく力を解放している風竜一族は、烈風で、雷竜一族二人を徹底的に痛めつけている。雷竜一族達は放電で風の方向を変えて防ごうとしているが、精気を操る力の差で完全に負けている。アヲヒヂは肩を竦めた。
「見れば分かる。あんな力技で圧倒するような戦い方より、あいつは本来、効率を追求する性格なんだ。それが……」
「ニコ!」
叫び声が響いた。叫んだのは雷竜一族の体格のいいほう。細身のほうが、体格のいいほうを庇って、まともにユテの旋風を食らったのだ。大量に出血する細身のほうを抱えて支え、体格のいいほうは、今度はユテに叫んだ。
「降伏する! だからこれ以上、ニコに手を出すな」
「二度とおれとスカイに関わらないと言うなら」
ユテの返答に応じたのは、細身のほうだった。
「それは、無理だよ……」
血を流しながら、細身の雷竜一族は、もう一人の手を振り切るように無理矢理立つ。
「ぼくは、聖教会の聖主ムナカミ様から、あなたを殺すよう命じられた。忌み名を以って、ね。だから、逆らえない。ぼくは、《竜》だから」
「おまえが、《竜》だと……?」
体格のいいほうが驚いている。知らなかったらしい。血まみれの細身のほうは、冷笑して言った。
「そうだよ。混血の具合で《竜》の血の割り合いが多いとね、忌み名で支配されてしまう。《竜》かどうかは、忌み名で支配できるか否かで判断される。そして、ぼくは、残念ながら《竜》だ。だから、忌み名の名づけ親であるムナカミ様には、一生逆らえない。どんなに憎んでてもね……」
「『憎んで』……?」
体格のいいほうが喘ぐように問い返した。
「そう。ぼくは、あの人を、いや、あの《竜》を、憎んでるんだ」
細身のほうは肯定し、ふらつきながら、ユテへと向かう。
「あなたが死ぬか、ぼくが死ぬか。選択肢は、二つに一つだよ」
「面倒臭い奴だ」
アヲヒヂは思わず呟いた。そして、素早くユテの前に走り出た。
傍らにいた地竜一族が、高く結い上げた赤銅色の髪を揺らし、一瞬にしてユテのところにまで移動したのを、スカイは驚きを持って見た。声が聞こえてくる。
「ユテ、今のおまえは気が立っている。後は、おれに任せろ」
「きみが、この雷竜一族を殺すつもり?」
冗談に聞こえない声音で、ユテが問うた。
「もう一つ手があるだろう」
呆れた口調で言い返し、地竜一族は指示する。
「おまえは、その体格のいいほうを抑えていろ」
「――分かったよ」
溜め息をつくようにユテは応じ、突風を起こして、精悍なほうの雷竜一族を、洞窟のあちら側の壁まで吹き飛ばした。その間に、地竜一族は血まみれの華奢なほうに近づき、その体を支えるように両手を当て――。一呼吸後、地竜一族の腕の中で、がくりと華奢な体が頽れた。
「ニコ!」
悲痛な声が、地下洞窟に響く。
「ニコ! ニコカミ! きさまら……!」
壁から、ぼろぼろになった体で走ってきた精悍なほうの雷竜一族に、地竜一族は腕に抱えた華奢な雷竜一族を渡した。
「ニコ! ニコ!」
ぐったりと動かない華奢な体を抱き、揺すり、精悍な雷竜一族が嘆く。その姿を見下ろし、地竜一族が告げた。
「おれの精気で以って、呼吸と心臓の鼓動を止めた」
「きさま……!」
「だが、死んではいないはずだ。そいつが《竜》、即ち天精族なら」
「どういうことだ……?」
「天精族は、意図的に精気で呼吸と心臓の鼓動を止めると、《休眠》状態になる。だから、死んではいない。そして、もう一つ」
地竜一族は、精悍な雷竜一族の理解を確かめながら、話を進める。
「《休眠》すれば、忌み名を以って命じられていたことを《解除》できる。つまり、目覚めたそいつは、もう、この風竜一族と殺し合う必要がなくなる」
「そう、なのか……?」
納得し難いように、精悍な雷竜一族は地竜一族と仲間とを見比べた。
「ああ。今から目覚めさせるから、確かめるといい」
地竜一族は言うと、屈んで、再び華奢な雷竜一族の体に両手を当てた。そしてまた一呼吸後――。
「ニコ……?」
精悍な雷竜一族の問いかけに、微かな声が答えた。
「……コワ……カミ……」
《休眠》から、無事目覚めたらしい。直後、ひゅっと風の音がして、スカイの傍らに、ユテが来た。
「全く」
親友は溜め息をついて言う。
「《休眠》も、治癒師の助けがあれば簡単なものだ」
「『治癒師』?」
聞き返したスカイに、ユテは複雑な笑みを見せた。
「ああ。あの地竜一族は、おれの古い知り合いで、治癒師なんだ。治癒師は、傷や病の治療や浄化――即ち治癒の他に、天精族の《休眠》の操作もできる、稀有な存在なんだよ」
「ちょっと待て」
スカイはユテの話を遮る。
「さっき、あの地竜一族が言ってたことは本当なのか? 《休眠》したら、忌み名を以って命じられたことを《解除》できるって……?」
「ああ、本当だ」
ユテは冷静に肯定した。その態度に、スカイは腹に据えかねるものを感じる。
「じゃあ、おまえは、あの時、おれに忌み名を教えて、おまえを《休眠》させて、でも、おれが幾らおまえに相応しい呪具を作っても、目覚めないって分かってて……!」
半ば支離滅裂になった問いに、親友は複雑な笑みを湛えたまま答えた。
「あの時、おれは自分で自分を制御できなくなっていた。だから、誰かに忌み名を以って《休眠》させて貰うか、あのまま死ぬしかなかった。おれは、少しでも望みがあるほうを選びたかった。だから、おまえに頼んだんだ。《解除》のことを言えば、おまえの希望を潰えさせてしまうから、言えなかった。クロガネに曖昧なことを教えたヒタチも、その辺りを察してくれたんだろうな。それにおれは、そこまで悲観していなかった。あの雷竜一族達や地竜一族のように、おれを目覚めさせることのできる人はいる訳だから」
言われてみれば、尤もなことだ。ひどくつらい五年間だったが、ユテは無事目覚め、過ぎたことでもある。スカイは、溜め息をついて膨れ上がった感情をやり過ごし、もう一つ気になったことを口にした。
「分かったよ。けど、治癒師というなら、おまえの姉さんも……?」
「そう。姉さんがいれば、《休眠》しても、すぐ目覚められた」
懐かしげに寂しげにユテは語り、瑠璃色の双眸でスカイを見上げる。
「それに、治癒師がいれば、子どもを産める。純血だけでなく、混血も」
スカイは息を呑んだ。五年間でスカイの身長が伸びた分、頭一つ低くなったユテの顔を見下ろし、乾いた声で問うた。
「おれと、おまえの子どもも……?」
「ああ」
ユテは柔らかく微笑んだ。その微笑みに吸い込まれるように、スカイは思わず、親友の薄い両肩を掴んで引き寄せた。
「本当に、いいのか、そんなこと……?」
間近で見つめた顔に確認すると、微笑んだまま、親友は凛として答えた。
「おまえが、望むなら」
四
「――おい」
傍へ戻ってきた地竜一族に声を掛けられて、スカイは、はっとしてユテの体を離した。
「あ、ご、ごめん」
「あいつらも、おまえらも、できるだけ早くここを出ていってほしいんだが」
地竜一族の要求に、ユテが応じた。
「ああ。できるだけ早く出ていく。本当にすまなかった、アヲヒヂ」
「子どもが欲しいなら、また改めて来い」
真っ直ぐに切り揃えられた赤銅色の前髪の下、黒い肌に映える菫青石色の双眸が、同じほどの背の高さのユテの双眸を捉えた。
「――ありがとう」
頷いて、ユテは懐から《潜り輪》を取り出すと、スカイを巻き込んで旋風を起こした。一瞬で運ばれた先は、二人の雷竜一族が座り込んでいる場所。驚く二人をもろともに囲むように、ユテが足元に《潜り輪》を広げた。同時に、ユテは頭に、スカイが作った頭環を嵌める。真っ暗に抜けた《潜り輪》内を落ちて着地した先は、スカイが住む官舎の庭だった。辺りはまだ暗く、夜だということが分かる。
「さあ、どこへなりと行くがいい。おまえ達は、少なくも今、自由だ。ここからどうするかは、己で選べ」
ユテは、座り込んだままの二人の雷竜一族を見下ろして告げた。
「どこへ、行けって……?」
苦々しく、華奢なほうの雷竜一族が問うた。精悍なほうに支えられている、血まみれの姿が痛々しい。
「それは自分で考えろ」
ユテはあくまで冷ややかだ。
「それが自由というものだ」
「――行くぞ」
精悍なほうが低く言い、相棒の細い体を両腕に抱えたまま立ち上がった。
「もう分かっていると思うけれど」
ユテが、肩幅の広い背中に向かって言う。
「純血でなくとも、忌み名で縛られるということは、即ち、穢れにある程度は弱いということだ。《天災》になる可能性もある。そこを気遣って生活したほうがいい」
雷竜一族は、どちらも答えず、精悍なほうが華奢なほうを抱えたまま、ゆっくりと夜の闇の中へ去っていった。
「さて、これで一件落着だ」
ほうと息をついたユテの体を、スカイは慌てて支えた。
「ごめん」
呟くように謝ったユテは、ぐったりとスカイに体を預けてくる。そもそも、結界の外では立っていること自体が難しい体調なのだ。
「頼むから、無理しないでくれ」
スカイは翡翠色の耳へ囁くと、細い体を抱き上げた。幸い真夜中なので、庭から官舎への通用口には誰もいない。そっと建物内へ入り、階段を登り、自室の扉の前まで行って、スカイはユテを下ろし、鍵を開けようとして愕然とした。《潜り輪》で部屋を出たので、鍵を持って出ていないのだ。
(まずい……!)
ユテを連れていなければ、どうとでもできるが、今は官舎の誰にも会う訳にいかない。一刻も早くユテを自室に連れて入らなければいけないというのに――。
焦るスカイの目の前で、扉がすうっと開いた。
「早く入れ」
室内から声を掛けてきたのは、顔をしかめたクロガネだった。
「――どこへ行くつもり……?」
腕の中からの問いに、コワカミは一言答えた。
「宿屋だ」
「はは、確かに、ぼく達には、休息が必要だね……」
乾いた声で笑って、ニコカミは一度黙り、それから静かに言った。
「ぼくは、もうムナカミのところへ戻りたくない。きみとは、もう一緒に行けない。どこへなりと、捨ててったらいい」
コワカミは、訳の分からない感情が体の中で膨れ上がるのを感じたが、言葉にすることができず、ただ黙って、大切にニコカミを抱えたまま、混血も泊まれると噂の宿屋へ一歩一歩歩いていった。
「また無茶をしたのか」
怒った口調のクロガネに、ユテは、スカイに寝台に寝かされながら微苦笑した。クロガネには、最近いつも怒られている気がする。ユテを庇うように、スカイが弁明した。
「雷竜一族が来たから、仕方なかったんだ」
「それはさっき窓から見たが、奴ら、精気を使い切っていたぞ?」
「うん。あいつらが襲ってきたから、この《潜り輪》で、あいつらごと近くの地竜一族の地下洞窟に行って、ユテが精気を使って、あいつらを完全に圧倒して……。で、ぼろぼろになったあいつらとここに戻ってきたんだ」
スカイの簡単な説明に、クロガネは苦い顔になってユテに視線を向けた。
「わざと逃がしたな? 相変わらず、甘い奴だ」
「返す言葉もないよ」
答えて、ユテは目を閉じる。
「でも、ミストなら、必ずああしたはずだから」
五族協和のために……。久し振りに大量の精気を使い、さすがに疲れたが、その甲斐はあるはずだ――。
眠りに落ちたユテの寝台をそっと離れて、クロガネは窓へ向かう。二人がいなかったので、不審に思って部屋に入り込み、庭の状況を目撃した訳だが、一件落着した今はもうすることがない――。
「ちょっと、聞いてほしい話がある」
スカイに呼び止められて、クロガネは振り向いた。青年は、ひどく深刻な顔をしている。
「さっき話した以外にも、何かあったのか」
問うと、スカイは頷いて、ユテの寝台から一番遠いほうへクロガネを引っ張っていき、微かな声で言った。
「地竜一族の治癒師がいたんだ。それで、ユテが、治癒師がいれば、子どもを産めるって。おれとの子どもも産めるって、そう言ったんだ」
クロガネは一瞬絶句した。勿論、それが可能なことは知っている。何しろ、クロガネ自身がそうして生まれたのだから。だが、それが純血の天精族にとって、ひどく危険な行為であることも同時に知っている。それに――。
「――子どもを、望むのか?」
クロガネが、青年の翠玉色の双眸を見据えて確認すると、怯んだ表情が返ってきた。スカイも、クロガネと同じ二つの不安を持っているのだ。ユテを危険に晒す不安と、生まれてくる混血の子を幸せにできるのかという不安。
「望みたい。でも、望んでいいのか、自信がない。だから、おまえに訊きたかったんだ。おまえは、産んで貰って、生まれてきて、幸せかって」
真摯に問い返されて、クロガネは考えた。母は自分と引き離されて泣いた。自分も夜行族たらんとして苦しんだ。けれど、自分はヌバタマと出会えた。スカイとも、ユテとも、ウツミとも出会えた。それは、幸せなことだ。
「おれは――」
幸せだと答え掛けて、急に恥ずかしくなり、クロガネはぷいと視線を逸らした。
「幸せなど知らん。欲しいものは、己で掴むものだ」
言い捨てて窓へ一跳びし、クロガネは夜気の中へ出た。
(幸せってことかな……)
スカイは、開け放された窓を閉めながら、クロガネの表情を思い出して微笑んだ。あの少年らしくない、素直な表情を垣間見ることができた。
(だったら、おれも嬉しい)
胸中で呟きながら、ユテの寝台脇へと戻り、帳の中へ入る。ユテは穏やかな寝息を立てて眠っている。今の平穏に満足すべきなのか。更にこの先を望むのか。
(おれには、まだ決められない――)
靴を脱いだスカイは、掛布をめくり、静かにユテの傍らへ潜り込んだ。
ウツミは、ふと目を開いて、寝台の上で体を起こした。明け方に近い夜気の中、覚えのある気配が二つ、近づいてくる。
(これは――雷竜一族か……!)
そっと気配を探り続けていると、雷竜一族達は、ウツミ達がいる居酒屋ファイヤーではなく、通りの向かいにある、昨日まで泊まっていた宿屋サンドのほうへ入った。
(あいつら、あそこに泊まってどうする気だ……って、あ!)
もう一つ、近づいてくる気配がある。クロガネだ。ウツミ達と入れ替わりで、この居酒屋を辞めた少年は、今夜、通りの向かいにある、混血でも泊まれるという宿屋で寝ていたはずだ。
(どこかへ出てて、戻ってきた……、或いは、雷竜一族達を追ってきたのか……?)
どちらにせよ、クロガネは、雷竜一族達と接触するだろう。戦闘になる可能性が高い。
(助けに行くべきか……?)
雷竜一族達の気配は、隠している訳ではないようだが、ひどく弱々しい。対してクロガネのほうは、万全の状態だ。今なら、クロガネのほうに分がありそうだ――。
「随分弱った気配だ」
不意に、部屋の反対側から静かな声がした。寝台を使わず、毛布にくるまって寝ていたニイクガだ。やはり、雷竜一族達の特異な気配で目を覚ましたらしい。
「《竜》に近い者達。東大陸にたくさんいた奴らと同じ気配だ。でも、とても弱っている」
「あんなのが、たくさんいたのか……」
東大陸の現状を思ってウツミが呟いた直後、急にクロガネが加速して、雷竜一族達に追いついた。そして――。
「あいつ、ユテのこと、甘いとか言えねえだろう」
思わず呟いたウツミを、ニイクガが不思議そうに見てきた。
華奢なほうを抱えた精悍なほうの雷竜一族が、宿屋の階段で膝を着いたのを見て、つい駆け寄ってしまった。二人の怪我の状態を間近で見て、放置しておくのは、まずいと思った。彼らを逃がしたユテのことを甘いと言ったが、怪我の状態を見ると、前言撤回したい気分になった。
(あいつ、相当怒っていたんだな……)
内心、舌を巻きながら、クロガネは、驚く雷竜一族達を支えた自らの手から、精気を送り込んだ。この五年間で、精気の扱いは随分上達し、傷を癒す治療も、穢れを清める浄化も、ある程度はできるようになった。
「何故、おれ達を助ける」
精悍なほう――確かコワカミとかいう通し名だったはずだ――が、頗る怪訝そうに尋ねてきた。
「死にそうな奴を、放っておく訳にもいかないだろう」
ぶっきらぼうに答えて、階段の途中であることも気にせず、クロガネは二人の雷竜一族を治療し、浄化する。夜明け前の薄暗い宿屋の階段に、静寂が満ちて、暫く。
「――完全とはいかないが、普通に動くのに支障はないだろう」
精気をほぼ使い切ったクロガネが言うと、二人の雷竜一族は座り込んでいた階段から立ち上がり、それぞれ口を開いた。
「礼を言う。助かった。恩に着る」
「もう、あなた達には関わらない。約束するよ」
クロガネは階段に座り込んだまま、溜め息をついて答えた。
「今回はただの気まぐれだ。さっさと行け」
「……そうさせて貰うよ。とっても疲れたからね」
華奢な、ニコカミとかいうほうが軽口を叩き、二人の雷竜一族は、二階の部屋へと去っていった。
クロガネはもう一度溜め息をついた。精気を使い過ぎた。すぐには動けない。そこへ、新たな気配が近づいてくる。宿屋の玄関から入ってきて、受け付けの老人に親しげに話し掛け、階段を上がってくる気配。
「おまえ、無茶しやがって」
ウツミは、にやにや笑いながら手を差し出した。相変わらず、お節介な性格の青年は、続けて言う。
「何だ? 雷竜一族を追いかけて、結局、助けたのか」
「――。ユテを襲いに行く感じだったから、慌てて追いかけたが、あいつはさすがに上手く撃退した。で、後は成り行きだ……」
「おまえ、ユテに似てきたな」
ウツミは面白そうに言いながら、クロガネに肩を貸して立たせた。
「いい。放っておけ。少し休めば戻る」
クロガネは抗議したが、ウツミは聞く耳を持たなかった。
「ああ、休め。但し今夜は、おれが一緒だ」
「は?」
「この宿には話を通した。おまえが借りた部屋におれが転がり込むだけだ。ニイクガにはもう言ってきたから大丈夫だしな」
「何故、おれに構う?」
「おまえに精気の扱い方の初歩を教えたのはおれだぜ? その仕上げだ」
言いながら、ウツミはクロガネを、借りている部屋まで連れていき、ともに中へ入った。真っ暗な室内で、寝台にクロガネを寝かせ、自らは傍らに座る。クロガネの腕を握ったウツミの手から、すぐに精気が流れ込んできた。
(おれより、まだ格段に上手い……)
速やかで快い治療。
(そう言えば、こいつは、結界を破ることもできるんだったな……)
まだまだ、自分は精気の扱いにおいてウツミに及ばない。
「――また、教わりにきて、いいか?」
寝ころんだまま、ぽつりと問うと、紅茶色の髪を揺らしてウツミは振り向き、白い歯を見せた。
「ああ。おれがこの帝都にいる間で、店に出てない時なら、いつでもいいぜ?」
「――感謝する」
ぽつりと述べて、クロガネは窓へ視線を動かした。夜空が、青く明るくなりつつあった。
風が吹く、緑の丘の上。
「おれは、おまえに会えて、幸せだ」
金茶色の髪に白いものが混じる男は、穏やかに言う。
「だから、あいつも幸せだと思う」
――たったそれだけの、短い夢だった。だが、それで心が決まった。
朝の光の中、スカイは起き上がり、傍らで眠るユテを見下ろした。その動きで、ユテもまた目を開く。その瑠璃色の双眸を見下ろして、スカイは問うた。
「おまえ、おれが寿命で死んだ後は、どうする気だ?」
ユテは、少し黙ってから答えた。
「おれも死ぬ。それがおれの望みだ」
「やっぱりそうか……」
溜め息をついてから、スカイは寝台に両手を着き、ユテを真上から見下ろして宣言した。
「おれは、おまえの子どもを望む。おまえだけの子どもでも、おれとおまえの子どもでもいい。子どもを生んで、おれが死んだ後も、その子とともに、おまえに生きてってほしい」
「――生きていくかどうかは、おれの勝手だよ。でも、子どもを生むなら、それは必ず、おまえの子どもがいい」
ユテは、真っ直ぐにスカイの視線を受け止めて、告げた。スカイは堪らなくなり、ユテにそのまま覆い被さって抱き締める。その耳元へ、ユテが真面目に囁いた。
「――ここでは、駄目だよ」
「分かってるよ」
言いながら、スカイは暫くユテを離せずにいた。