別れの時
第三章 別れの時
一
朝焼けの及んだ西の空と、故郷の台地を背に立つヒタネに、ユテはそっと抱きついて、自分と同じ高さにあるその耳に、囁いた。
「おれ達にとっても、ともにできる〈最後の晩餐〉だったかもしれない。僅かな時でも、おまえと屈託なく過ごせて、よかった」
ヒタネもまた、ユテの背中へ両腕を回して、耳に囁き返してきた。
「ミスト・レインのことは、吹っ切れたのか?」
「全部、お見通しか」
ユテは、くすりと笑った。ミスト・レインのことは、初め、不思議な真人族だと思い、次には姉の心を奪った相手として、最後は姉の命を奪った相手として、憎んでいた。その子孫をずっと気に掛けてきたのも、姉との子ではないという、憎しみが出発点だったかもしれない。だが今は、ミストの子孫であるスカイを守りたいと、心の底から願っている。だから、昨夜、スカイに《加護》を与えた。
「おまえの顔を見ていれば分かる」
ヒタネは真面目に言って、ユテを抱き締める腕に力を込める。
「スカイのことが大切なら、絶対に生きて帰ってこい。幾ら《加護》があっても、あの子には、おまえ自身が必要だ。それから、おまえの寿命をどう使おうが、おまえの自由だけれど、《天災》にだけは、ならないように気を付けてくれ」
《天災》とは、力を制御できずに暴走させた天精族のことだ。風竜一族ならば、巨大な竜巻を生み出してしまう。そして、そのまま、力尽き、命果てるまで暴れ回るのだ。
「おまえは、ずっと里の結界の外で生きてきて、しかも最高の結界師だから、わたし達ほど穢れを恐れていないだろうが、穢れを甘く見るな。里から仲間が攫われても、誰一人としてムーンへ助けに行かなかった理由は、穢れだ。純血の天精族は穢れに弱い。それを、忘れるな」
「分かったよ。充分気を付ける」
ユテは素直に答えた。ネの里の誰でもなく、テの里出身のユテを忌み名で縛ってそこへ行かせる、その汚いやり方を充分承知した上で、親友は、生きて帰れと言っているのだ。
「――頼む」
強い響きを持った囁きを最後に、ヒタネは腕を解き、ユテからそっと離れた。抗わず離れたユテは、親友の黄玉色の双眸を見つめ、真摯に言った。
「おまえも、充分気を付けて。雷竜一族が何を企んでいるのか知らないけれど、東方里門勤務防衛官のおまえが心配だ。里に戻らないおれが、何を言える立場でもないけれど、慎重にな」
「大丈夫だよ」
ヒタネは、にこりと笑う。
「わたしは、忌み名を握られていない相手に対しては、要領がいいから」
「そうだね」
ユテも笑ったところへ、洞穴の入り口から、チムニーが出てきた。
「スカイもクロガネも、よく眠っておるの。目覚めれば、二人ともおまえさん達の後を追おうとするじゃろうが、この辺りにおる間は、クロガネのことも面倒を見よう。頼まれておった解毒薬も完成した。後はスカイに持たせるだけじゃ」
「宜しくお願いします」
頭を下げたユテに、近くの木の陰に座ってじっとしていた少年が、皮肉な口調で言った。
「二人とも、あなたを信頼してたのに、友人も恩人も騙すなんてね。特に、吸精一族の血を引くクロガネは、絶対昼頃までは目覚めないよ。そして、昼に目覚めても、半分夜行族だから、外に出るのもつらい。そうしてクロガネを引き離すために、ぼくにとってもつらい、この時間帯に出発なんだよね?」
「これからのいい教訓になるだろう。酒と女には気を付けろ、とね」
ユテは無表情で応じた。
「まあ、それはいいとして」
吸血一族の少年は面白くなさそうに顔をしかめながら話を進める。
「あの真人族の《混ざり者》はともかく、クロガネって奴は速いよ? 今夜になってから追ってきたとしても、ぼく達がカバネに会えるより先に追いつかれる危険性があると思うけれど」
「簡単には追ってこられないよう、この辺り一帯に結界を張っていく」
「――結界って、そんな簡単に、一人で広い範囲に張れるものなの?」
ムクロは、やはり聡い。鋭い問いに、ユテは冷笑した。
「一人でも張れる簡単な結界にするんだよ。ある一定以上の精気を持つ者の往来だけを阻む、というね」
「成るほどね……。クロガネはもともと強い精気の持ち主だし、あの真人族の《混ざり者》も、何故か天精族の強い精気を漂わせるようになってたから、二人とも通れない訳だ。ぼくの代わりに派遣されて来るかもしれない、外からの刺客も通さないし、一石二鳥かあ。あなた、賢いね」
素直に感心したムクロを真っ直ぐ見据え、ユテは告げた。
「カバネに会うまでは、おれの言うことを聞け。その後は、自由だ」
「分かったよ」
頷いて立ち上がったムクロに、チムニーが近寄ってきて、手に掛けていた黒い頭巾付きの袖無し外套を差し出した。
「これを持っていきなさい。日中動くのはつらいじゃろうが、何もないよりはましじゃろう」
「……ありがとうございます」
ムクロは、神妙に頭巾付き袖無し外套を受け取って、黒い詰襟の上着の上に羽織った。
「――じゃ、行くぞ」
ユテはムクロに声を掛けると、最後に親友を見た。
「気を付けて」
真摯な表情でヒタネは言うと、先に強風を起こして、台地の上へと飛び去っていった。その姿を見送り、口の中で、ありがとう、と呟いてから、ユテは、己とムクロを運ぶ強風を起こした。
一度上空高くに舞い上がり、チムニーの洞穴からレイン村全体までを含めた一帯を一望の下に見下ろすと、ユテは己の精気を混ぜた風を、広がる波紋の動きで地面へと吹かせて、半球の形の結界を張った。
「簡単な結界って言っても、凄いねえ」
傍らに浮かせたムクロが、頭巾の中で目を輝かせる。そう、幾ら簡単でも、これだけの範囲の結界を一人で張るのは、命を削る。だが、それでいいのだ。
「――ムーンまで、一気に飛ぶぞ」
ユテは、極力、呼吸を乱さないよう努力しながら、朝日の中、ムクロを振り向いた。
ふと、上空からの不思議な風を感じて、夜が明けたばかりの薄青い空を見上げた青年は、人影が二つ浮かんでいるのに気づいた。しかも、朝日を受けて白銀色に光る三つ編みを揺らしているほうは、背格好からして、よく見知った風竜一族らしい。
「あいつ、あんなところに浮かんで何してるんだ?」
青年が呟く内に、二つの人影は、レイン村の上空から、東南の方角へ飛び去っていく。
「あ、おい! 待て、ユテ! 行商で忙しいウツミ様が、わざわざおまえに会いに来たんだぞ!」
青年は叫びながら、慌てて二つの人影を追おうと、来た道を戻り始めて、何かに激突した。
「っ痛!」
見えない何かが、つい先ほどは通れた道を塞いでいる。
「結界……?」
青年は、ぶつけた鼻の頭を片方の手でさすりながら、もう一方の手で、その見えない何かを探った。ばちばちと青年の体を弾き、拒んでくる感触は、間違いなく精気による結界だ。
「あいつ、こんなところに結界張って、どういうつもりだ……?」
理由は、さっぱり不明だ。ただ、自分がこのレイン村から出られなくなったらしいことは、理解できた。
「勘弁してくれよ……」
青年は、平地の森の上を、彼方へと飛び去る二つの人影を見遣ったまま、情けなく呟いた。
二
光、そして、まるで、体を散々動かして咽が渇いた後に飲む水のようだと感じた。普段飲むよりも、渇きのせいで、数倍甘く感じる水のような――。
「……もっと……」
自分の寝言で、スカイははっと目を覚ました。同時に、自分が何の夢を見ていたのか思い出し、全身がかっと熱くなった。全身が歓喜して吸収する水のようだと感じたのは、ユテから口移しで与えられた――恐らくは、精気だ。
(「もっと」なんて……、ユテは絶対おれのせいで、無理してるのに……!)
自分に腹を立てながら寝台から起き上がったスカイは、部屋の中を見回し、眉をひそめた。部屋の壁の一番上に開けられた、通気口兼明かり取りの窓から差し込む一条の光は、夜が明けていることを示している。そして、そのささやかな明かりの中、見えるのは、中卓の向こうの長椅子に寝ているクロガネの姿。他には、ユテの姿も、ヒタネの姿も、ムクロの姿も、チムニーの姿もない。
(まさか――)
スカイは慌てて寝台から降りた。ユテとは四年の付き合いだ。何となく、しそうなことは分かる。部屋から飛び出て、廊下を走り、台所へ行くと、やはりチムニーがいた。
「ユテはっ?」
叫ぶように問うたスカイに、小瓶を四つ並べて作業していた〈大おじいちゃん〉は、労わるような顔で告げた。
「明け方に、ムクロとともに出ていったよ。枕元に、事情を書いた布切れが置いてあったと思うが。やはり、危険を伴う旅におまえは連れていけんと言うておった」
「あいつ!」
怒りと寂しさに、スカイは無駄と知りつつ、洞穴の入り口から走り出た。山肌から麓までを見下ろし、レイン村の周り、平地に広がる森までを見て、どこかにまだユテの姿がないか捜した。捜してから、どうせ風を使って空を飛んでいったのだろうから、やはり無駄なのだと、項垂れた。
重い足取りで洞穴の中へ入り、寝台のある部屋へ戻る。寝台の枕元を見ると、確かに四角く切った布切れが置いてあった。その布に炭で書かれている丁寧で几帳面な文字は、間違いなくユテの手に拠るものだ。スカイが、ユテから刀捌きや山歩き、マホラ語や古代アース語などを教わる代わりに、ユテに教えた現代アース語。
[スカイへ
騙してごめん。
でも、おまえは、家族やチムニー殿と一緒にいたほうがいい。
おれは、おまえを危険に巻き込むような真似はできない。
おれが帰るまで、家で待っていてほしい。
追伸
レイン村周辺に結界を張る。
おまえやクロガネはおれが帰るまでそこから出られない。
チムニー殿に、取っておいたおれの血で、解毒薬を作って貰った。
ムクロに吸血された人達に、できるだけ早く配ってほしい。
ユテ]
物堅い言葉で綴られた短い文章は、端的にユテの思いを表していた。
「――おれのこと、『虫けら並の頭』とか言いながら、おまえだって、おれの気持ち、少しも考えてないじゃないか……」
スカイは苦い声で呟いた。ユテの行動は正しい。昨夜、ユテは否定したが、スカイは、やはり足手纏いになるのだろう。それは、即ちユテを危険に晒すことと同義であり、スカイの望むところではない。それでも――、ユテが危険な場所へ行くと分かっていて置いていかれるのは、つらかった。
「う……」
不意に部屋の中で別の声が聞こえて、スカイは振り向いた。一条の明かりだけが差す暗がりの中、動いたのは長椅子で寝ていたクロガネだ。
「くそ……」
小柄な少年は、黒炭色の髪を後ろで短く束ねた頭を押さえながら起き上がる。
「あいつ……!」
怒気を含んだ声で言いつつ立ち上がろうとして、クロガネはふらつき、床に手をついた。
「大丈夫か?」
布切れを上着の隠しに仕舞い、スカイは、小柄な少年に急いで歩み寄った。袖無しの黒い下着に、黒い筒袴を穿いただけの少年は、紅玉色の双眸をぎらつかせ、五本の長い棘のある尾を揺らして、懸命に立ち上がろうとしているらしいが、体に力が入らないのか、長椅子の背凭れに片手を掛けた状態で、俯いて肩で息をしている。
(酒か?)
そう言えば、以前ユテから、夜行族吸精一族は酒精に弱いと教えられたことがある。昨夜の〈最後の晩餐〉の記憶を辿れば、確かに、ユテが勧めてきた木杯の中身は果実酒だった。果実酒は、家で料理をする際、舐めることもあるが、似たような風味の砂糖漬け果汁の瓶ばかりが並んでいたので、スカイも、恐らくクロガネも簡単に騙されてしまったのだ。或いは、昨夜のユテが、いつになく柔らかな物腰で、饒舌だったせいだろうか。
(そうだ、あいつ、伝説の結界師だったんだ……)
眠る前の記憶をスカイがおぼろげに思い出した時、チムニーが部屋に入ってきた。
「クロガネも、目が覚めたかの」
チムニーは、スカイとクロガネに、それぞれ手に持っていた盆から木杯を渡す。
「大丈夫、水じゃ」
「ユテは、ムクロを連れていったのか」
クロガネの確認に、チムニーは頷いて告げた。
「済まんの。おまえさんを酔わせて足止めすることは、わしとユテ、二人で謀ったことじゃ。おまえさんは、強いからの」
「くそ、あいつ、恩を仇で返しやがって……。もう少し、義理堅い奴だと、信じたおれが馬鹿だった……」
クロガネが吐き捨てた言葉に心が痛んで、スカイは、俯いて言った。
「あいつは、目的のためには、結構いろいろ割り切ってしまうところがあるんだよ」
「身勝手な奴だ」
「全部、結局は、誰かのためなんだけどね……」
「だから、余計に腹が立つ」
クロガネの結論に、スカイは悲しく顔を歪めた。
スカイがユテの罪滅ぼしをするように、何度か水差しで水を運んできたが、何杯飲んでも、なかなかクロガネの体のふらつきは収まらなかった。そもそもクロガネの酔いは、スカイとは違って、天精族の精気に拠るものなのだ。酒精の酔いとは異なり、むしろ気分はいいのだが、体に満ちた精気が甘美過ぎて、頭がぼうっとし、立ち上がることができない。長椅子に座っていると、いつの間にか、うとうとしてしまっている。
(ここまで、天精族の精気に弱いとはな……)
クロガネは顔をしかめ、昨夜のユテを思い出す。
(あいつ、全部計算ずくだな)
丸二日間精気を吸わず、逆にユテに与えていたので、クロガネの本能的な吸精の欲求は高まっていた。ユテは、そのことにも気づいていて、一石二鳥として、クロガネに精気を与えたのだろう。
(お節介な天精族だ。これで恩返しのつもりか)
脳裏に、純血の夜行族吸精一族である父親が、かつて言った言葉が蘇る。
――「天精族の精気は、吸精一族にとって、麻薬と同じだ。一度吸えば、その甘美な味の中毒になる。おれがおまえの母親と離れられなかったのも、半分はあの精気のせいだ。その教訓を踏まえて、おまえに忠告しておく。良好な関係を築きたい天精族の精気は吸うな。と言うか、やむを得ない時以外は、天精族の精気は吸うな。あれは、奴らの血と同じで、ある意味、毒だ」
ユテは、吸精一族が弱いもの二つ――酒精と天精族の精気――を知っていて、わざと畳み掛けてきたのだ。酒を警戒させておいて、不意を突き、自分の精気を与えるために。そうしてクロガネを眠らせ、ムクロを連れて出ていったのだ。ムクロとその妹を助け、更には、狙われているスカイを守るために――。
(ふざけるな……!)
できる力があるからと、独りで全て思い通りに運ぼうとして、無理をする。純血の天精族というのは、そんな連中ばかりなのだろうか――。
「まだ少し顔が赤い……か? おまえの顔色って、肌が浅黒いからよく分からないけど」
気遣う言葉を口にしながら、スカイが何度目か、水差しに水を満たして部屋に戻ってきた。
「もう暫く休めば動ける。そうしたら、すぐにユテを追って、ムクロのことに始末をつける」
多少強気に応じたクロガネに、スカイは言いにくそうに告げた。
「そのことなんだけど……、ユテの書き置きに、レイン村周辺に結界を張るって書いてあるんだ。ユテが戻るまで、おれ達は、その結界から出られないって」
「は……?」
クロガネは目を見開いて、スカイを見返した。確かに、ユテのしそうなことではあるが――。
(「レイン村周辺に結界を張る」? 一人でか? そんな無茶をしたら、幾ら力のある天精族でも、命を削る――)
既に、どこにも気配を感じない、台地の上へ帰ったのであろうヒタネが手伝ったのだとしても、相当な負担のはずだ。――けれど、その命を削りかねない負担こそが、ユテにとっては、これまた一石二鳥で、都合のいいことなのだろう。一昨日の夜、この洞穴近くまで、ムクロを連れて逃げたユテとスカイを追ってきた時、夜行族の血を継ぐ耳に聞こえた会話。そしてその後の成り行きから、容易に想像できる。
(あいつは、もう風竜一族の里には戻らず、この馬鹿とともに、一生を終える気だ。そのために、千年残っていたはずの寿命を費やしてやがる――)
目の前のスカイを見つめながら、苦く思い――、クロガネは、ふと気づいて問うた。
「おまえ、その気配何だ? 天精族の――あいつの精気が、何故おまえの中にある?」
自分の体内に満ちたユテの精気のせいで気づくのが遅れたが、スカイからも、ユテの精気が感じられるのだ。
「ああ。あいつは、《天精族の加護》と言ってた」
スカイは、自分の胸を押さえて、沈んだ声で言う。
「おれを守るために、また何か無茶したみたいなんだ」
もう言葉が出てこない。クロガネは長椅子の背を掴んで体を支え、立ち上がった。体はまだふらつく。だが、悠長なことはしていられない。ユテの都合と、自分の都合は別なのだ。
「結界があるなら、破る方法を探すまでだ」
低い声で言い、クロガネは部屋を出た。
「あ、おい」
水差しを中卓の上に置いたスカイが、慌てて後からついて来た。
クロガネは、洞穴の家に幾つもある部屋の中の一つに入ると、そこに置いていた手甲、手袋、脚絆、足袋を身に着け、長刀を筒袴の腰帯に差し、上衣を纏った。その様子をじっと眺めたスカイは、溜め息をついて言った。
「無理するなって言っても、おまえも聞かないだろうしな。結界が破れない間は、ここにいたらいいって大おじいちゃんが言ってる。おれも、暫くはここと家を往復するつもりだ。何か手が要ることがあったら、言ってくれ。おれは、おまえに恩返ししたいって思ってるんだ」
「――おまえの手を借りることがあるとしたら」
最後に黒い頭巾を頭に被ったクロガネは、表情の窺い知れないその陰から言う。
「それは、おまえの中の《天精族の加護》――あいつの精気が必要になった時だ。それだけの量があれば、大抵の治癒や浄化ができる」
「――《天精族の加護》って、要するに、天精族の大量の精気ってことか……?」
確認したスカイに、クロガネは頷いた。
「おれも詳しくは知らんが、今感じるおまえの中のあいつの精気は相当な量だ。吸精一族の換算で言うなら、それだけあれば、恐らく、軽く百年は生きられるほどの、な」
「そんなに……」
スカイは乾いた声で呟いた。ユテは、すぐにはぐらかす。重要なこと――スカイが知っておくべきことを、何一つ、きちんと教えてくれない。それは、きっと、スカイが弱いからなのだ――。
床に視線を落としたスカイに、クロガネは厳しい口調で言った。
「結界が破れた時、あいつを追う気があるなら、知っておけ。あいつは、おまえのために命を削っている。レイン村周辺の結界も、おまえの中のそれも、あいつが相当無理をして作っている。そうやって命を削って、寿命を短くして、あいつは、おまえとともに過ごし、一生を終えるつもりだ。純血の天精族が、ほとんど真人族と変わらない《混ざり者》との生活を望む。馬鹿げた話だがな」
「やっぱり、そういうことか」
スカイは、複雑な笑みを浮かべた。クロガネから告げられたことは、初めて知ったが、驚きは少なかった。そんなことではないかと、予想はしていたのだ。たった四年間とはいえ、毎日毎日、ユテを見つめて過ごしてきたのだから。
「――教えてくれて、ありがとう。あいつに、そこまでの覚悟をさせた責任は、取るつもりだよ。それこそ、おれの一生を懸けて」
「……全く、おまえらのことは、理解できん」
呆れた口調で言って、クロガネはスカイの横を通り過ぎ、部屋から出ていった。
「赤の他人だったはずなのに、そこまでおれ達のことを心配してくれる、おまえも相当変わり者だと思うけどね」
口の中で呟いて、スカイは微笑すると、自分も部屋から出た。クロガネは動き出した。自分も、ユテから頼まれたことをしておかなければならない。
(おまえが戻ってくるのが先か、おれが追いかけて行けるのが先か、分からないけど、今できる、精一杯のことをしておくよ)
胸中でユテに話しかけながら、スカイはチムニーのいる台所へ向かった。
三
いつものように山を下って、いつものように目の前に現れた我が家に、スカイは胸に迫るものを感じた。たった二晩、〈大おじいちゃん〉の洞穴に泊まっただけだというのに、その間にいろいろなことがあり過ぎて、かなり長い間、留守にしていた気がする。
「スカイ!」
急に玄関の扉が開いて飛び出してきたのは、母のヘイルだった。ヘイルはそのままスカイの首に両腕を回して抱きついてくる。
「どこ行ってたの! 二日間も、無断で留守にして! あたしは、あなたまで吸血一族にやられたんじゃないかと、気が気でなかったのに……!」
「ごめん、母さん」
スカイは、母の震える両肩に、そっと手を添えた。こんなにも華奢だったろうかと思う両肩。いつの間にか、自分より少し低くなっている母の背丈。ユテのためならば、この母を置いて、自分はまた、家を出ていくのだ。
「お兄ちゃん!」
次に飛び出てきたのは、妹のケイヴだった。スカイと同じ金茶色の髪を襟足で切り揃えた、可愛い妹。
「馬鹿、馬鹿、馬鹿! 心配したんだから!」
妹は、母の隣に並んで、スカイを拳骨で叩き始めた。
「ごめん」
謝って、スカイは片手を伸ばし、妹を抱き寄せた。これだけ心配させた上に、ユテのためならば、自分は、この妹も置いていこうとしているのだ。スカイが顔を歪めた時、玄関の扉から、残り二人の家族――父のホロウと祖母のスノウが出てきた。
「スカイ、とりあえず、中に入りなさい」
父の言葉に、スカイは首を横に振った。
「これから急いでレイン村に行かなきゃいけないんだ。吸血一族に襲われた人達のために、大おじいちゃんが、風竜一族の血から、解毒薬を作ってくれたから、それを渡しに行くんだ」
「『風竜一族の血』……?」
眉を寄せた父の横から、祖母が口を開いた。
「おまえ、まさか風竜一族と会ったのか?」
「――うん」
スカイは決意して頷く。
「大おじいちゃんの洞穴の近くにいる風竜一族で、おれ、毎日会ってたんだ」
実のところ、スカイは、ユテと会っていることを、家族には告げていなかった。幼い頃は、言えば、山へ行くこと自体を禁じられそうな気がしたからだが、最近になっても言わなかったのは、ユテの存在が、それだけ自分の中で大切だったからかもしれない――。
「やはり……!」
祖母は、何故か、感極まったように両手で口を押さえる。
「チムニー様とともにホール家の子孫を見守って下さっているという、風竜一族のお方……。キャヴァーンから、話は聞いていたが、本当に、ずっと見守って下さっているとは……!」
キャヴァーンは、旅に出たまま音信不通となっているスカイの祖父の名だ。
「そうか……。あいつがあそこにいるのは、昔からなんだ」
初めて聞く話に、スカイは驚きながらも寂しく微笑んだ。そんなことを一言も言わなかったのも、ユテらしい。
「とにかく、その風竜一族――ユテが、吸血一族に襲われた人達を助けるために、わざわざ自分の血を取っておいて、大おじいちゃんに解毒薬を作ってくれるよう頼んでくれたんだ。だから、必ず、届けたいんだ」
スカイが真っ直ぐ伝えた言葉に、父が頷いた。
「分かった。被害者家族の家は分かるな?」
「うん。店の手伝いで、ばっちりだよ」
スカイは、午後は毎日山へ行っていたが、午前はいつもレイン村の雑貨店で働いていたのだ。配達もこなしているので、レイン村の家々についても大体分かる。その雑貨店も、今日で三日、無断で休んでいることになる――。
「なら、急いで行ってこい」
父はスカイを見つめて頷いた。
「行ってきます!」
スカイは母と妹からそっと離れると、帽子を押さえ、布鞄を肩に掛け直してレイン村へと駆け下っていった。
ばちばちと己の手を弾く、目に見えない結界に、クロガネは眉をひそめた。結界に沿ってずっと歩いてきたが、確かに、自分は外へ出られない。けれど、すぐ近くを、小鳥や虫、小動物が駆け抜けて、容易に結界の外へ出ていく。道の傍の木の上に身を隠して観察していると、真人族も、何の影響も受けずに、結界を通り抜けていくことが分かった。
「一体、どういう結界だって思うよなあ」
不意に声をかけられて、クロガネは木の枝に立ったまま、さっと背後を見遣った。数本先の木の枝に、幹に体を預けて座る、裾の長い外套を着た青年がいた。気配は全く感じなかった。
「何者だ」
低い声で誰何したクロガネに、青年は紅茶色の髪を掻き揚げ、にっと笑って答えた。
「天精族水竜一族と野生族一族との混血だよ。通し名はウツミという」
成るほど、髪を掻き揚げた手は、海の色を思わせる藍銅鉱色の鱗に覆われ、真珠色の尖った爪のある指の間には膜が張って、水掻きの体を成している。水竜一族の特徴だ。そして、外套の裾の陰では、鱗に覆われた太く平たい尾が揺れている。そちらは鱗尾一族の特徴だろう。
「おまえも、その気配、混血だよなあ?」
不躾に問われて、クロガネは頭巾の陰で表情を険しくした。
「だったら何だ」
「怒るなよ。お仲間だって思っただけだよ」
軽い口調で言って、青年は体をずらし、すとっと身軽に木から飛び降りた。地面を歩いて近づいてくると、藍玉色の双眸で木の上のクロガネを見上げ、明るく言った。
「おれ、泊まるところなくて困ってるんだ。どこか、いいところ知らないか?」
古都ムーンの賑やかな市街地の外れ、ムクロが指し示した先にあったのは、崖の上に聳え立つ、壮麗な城だった。
「これぞ、退廃の美。吸血一族の芸術の粋を集めた城だよ」
風の中から城を見下ろして、ムクロは日差しを防ぐ頭巾の陰から、うっとりと言う。確かに、装飾は細やかで、美しいのかもしれないが、あちこちにある髑髏の飾りが、ユテには美として認識できなかった。
「ぜひ、月の光の下で見たいなあ」
「夜行族の城に、夜乗り込む馬鹿はいない」
応じたユテに、ムクロは小柄な肩を竦めて告げた。
「違うよ。ここは、もう真人族の城だよ。ただ、奴らも芸術は分かるみたいで、そのまま保存して利用してるんだよ」
「何故、真人族が夜行族吸血一族の城を使っているんだ?」
「乗っ取られたんだよ。ある日、いきなり真人族が大挙して押し寄せてきてね。昼間だったから、誰もまともに応戦できなかった。ここにいた一族のほとんどの者が殺されて……、子どもの内の何人かは、ぼくやカバネみたいに、囚われた。そして城は、御覧の通り、奴らの聖教会寺院にされた」
成るほど、城の搭の上に掲げられている飾りの形や、至るところに掲げられている旗の紋様は、聖教会の教義を表す、二重丸に縦棒だ。その印を見るたび、ユテはミストの言葉を思い出す。
――「みんなが、手を繋ぎ合っている姿の象徴が丸。その丸を二重にして、中のものをみんなで大切に守っている様子を表す。これが、おれの理想の国」
その二重丸を縦に貫く棒は、国の制度を超える規律を表していると、スカイから聞いたことがある。レイン村の外れにも聖教会寺院が建ち、信者達もいるので、信者でないスカイも知識として知っていたのだろう。
「それで、カバネは間違いなくここにいるんだな?」
ユテの問いに、ムクロはこくりと頷いた。
「前と変わってないなら、ここの地下牢に閉じ込められてるはずだ」
「そうか」
相槌を打つなり、ユテは城へ向けて力を放った。
轟、と突風が起こり、城を襲う。
「――いきなり……!」
さすがに驚いた様子で振り向いたムクロに、ユテは硬い声で言った。
「時間をかける必要は、これっぽっちもないからな」
城の旗はどれもさっさと吹き飛び、窓硝子は全て割れた。城のそこここにいた衛兵や信者達らしき真人族達は、地面に伏したり、柱に掴まったりして、吹き飛ばされることに耐えている。誰も、動けていない。
「行くぞ」
告げて、ユテは、己とムクロを疾風で運び、割れた窓から城の中へ入った。
城の中も、割れた窓から吹き込んだ強風で、あらゆる物がぐちゃぐちゃに飛んでいる最中だった。その中を、旋風によって守られたユテとムクロは、地下を目指して、ひたすら階段を下る。行き会う真人族達は、皆、一様に驚いた様子で二人を見たが、手出しをしてくるような余裕のある者はいなかった。飛んでくる物を防いだり、己自身が飛ばないようにしたりするだけで、皆精一杯だった。
「天精族の力は、本当に凄まじいね」
ムクロが、心底感じ入ったというように言った。
ユテは、顔をしかめて、ただ足早に進み続けた。気分が悪い。ヒタネが言った通り、穢れが濃いのだ。自らの身を守る防護結界を張ってはいるが、穢れは、そもそも精気を汚すもの。精気で作る結界では、完全には遮断できない。だからこそ、天精族の里は、他種族を通さない結界を周囲に張り、穢れを生み出す存在そのものを中に入れないようにしているのだ。
(まさか、真人族の街の穢れが、ここまで濃いとはな……)
建物は大きく高く、人は多く、奇妙な道らしきものの上を進む、見たこともない長い乗り物まで走っている。それら全てから、精気を汚す穢れが発生している。レイン村を基準に考えたのが間違いだった。気を抜けば、精気で操る風の制御さえ乱れてしまいそうだ。
――「《天災》にだけは、ならないように気を付けてくれ」
親友の言葉が、耳の奥に蘇る。このままこの穢れの中に長居をし続ければ、親友の心配が的中してしまうかもしれない。
(急がないとな……)
邪魔な扉は吹き飛ばして、ユテはムクロが指し示すまま、足を止めることなく地下へ降りていった。
やがて、窓がなくなり、灯火もなくなって、真人族の目には何も見えないほどの暗闇になり、装飾も殺風景になって、地下牢の階へ至ったことが分かった。地上で吹き荒れる強風も届かず、静かだ。気配は、どれだけ探っても、カバネ達と思われる、夜行族吸精一族のものしか感じられない。そして――地上とは比べものにならないほど、恐ろしく穢れが濃い。カバネ達がいなければ、一気に全てを吹き飛ばしてしまいたくなるほど、息苦しい。純血の天精族が耐えられるものではない。それは、雷竜一族とて、例外ではないはずだ。
「ここには、雷竜一族はいないのか……?」
顔をしかめて問うたユテに、頭巾を脱いだムクロは、真っ暗な中、辰砂色の双眸に複雑な色を浮かべて答えた。
「そうだよね。そう思うのも、無理ないよ。何しろ、彼らは聖教会の教義に反した存在だから」
ムクロの言葉の途中で微かな足音が聞こえ、ユテは咄嗟に、自分達を取り巻く旋風を強化した。しかし、直後に襲ってきたのは、どれほど強い風でも防げないものだった。
青白い閃光を伴った激しい衝撃が両足から全身を突き抜け、ユテは膝をついた。操れなくなった旋風が解けて消えた向こう側に、人影が立っている。その頭には、二本の短い角。
「風で雷が防げるものか。愚か者め」
人影が低く通る声で言ったのに対し、背後からもやや高い声がした。
「でも、ぼく達二人分の、馬でも倒れる雷撃を受けて、まだ意識があるんだよ? ちゃんと自分の身を守る結界も予め張ってるんだよ。一人分の雷撃だったら、ほとんど効かなかったかもね。それに、風だって攻撃に使えたはずなのに、防御にだけ使った。ちゃんとムクロも守る形でね。要するに、愚かというより、甘さの問題なんだよ。まあ、奢り、とも言えるけど。ぼく達のこと、純血の天精族だとばかり思って、気配を消せるって予想してなかったみたいだし。〈雷竜一族〉って呼び名に踊らされ過ぎだよね。――ああ、ムクロ、おまえはもういいよ。妹連れて出ていきな。これ以上、夜行族と揉める気はないから」
「――全部、仕組んでいた訳か」
ユテが吐息とともに確認すると、背後の声が答えた。
「ここの吸精一族の子達には、いつも言ってあったんだ。純血の天精族を連れてきたら、自由にしてあげるってね。でも、普通そんなことできるはずもないから、半分冗談だったんだけどね。まさか、純血の天精族が、こんなお人好しだったとは知らなかったよ」
(純血の天精族が本当にお人好し揃いだったら、おれはこんなところに来てないな)
穢れと感電のせいで余力のないユテには最早、胸中でこぼすことしかできない。
「――だから、〈獲物〉だって言ったのに。誰かを思い過ぎると、誰でも、判断力が鈍るよね……」
傍らで、ムクロがぽつりと呟いた。
四
スカイがユテの血から作られた解毒薬を持ってレイン村へ降りると、予想外のことが起こっていた。被害を受けた四家族の内、一家族の全員が、回復していたのだ。何でも、被害を受けた四家族のところへ、聖教会寺院から教導師が来て、《聖薬》を勧めたのだという。その《聖薬》を飲んだ一家族の全員が、回復したというのだ。但し、《聖薬》を渡すにあたっては、交換条件があったという。
――「聖教会の信者になれと言われました。異種族と交わったことを悔い改め、聖教会の教えに帰依するなら、《聖薬》を与える、と」
回復した一家の主は、訪問したスカイに俯いて告げた。口にはしなかったが、《混ざり者》でありながら《混ざり者》を否定する聖教会に帰依することは、屈辱だっただろう。だが、家族の命には替えられなかったのだ。そして、残り三家族は、その屈辱を受け入れられず、依然、高熱と爛れに耐えていた。スカイは、その三家族の家をそれぞれ訪問して、チムニーが作った解毒薬の小瓶を一つずつ渡した。
ユテの血から作られた解毒薬は、驚くほど効いた。それまで熱にうなされていた被害者達が、皆、解毒薬を飲むと、その場で見る見る元気になったのだ。
(おれがあいつに傷を負わせて、あいつが見る見る具合を悪くしていったのと、丁度逆の感じだったな……)
《聖薬》を拒んだ三家族の全員が回復するところまで見届けたスカイは、帰りの道で溜め息をついた。
――「天精族の血には、使い道がある。強い精気を宿しているから、毒にも薬にもなるんだよ。覚えておくといい」
ユテが言っていた言葉が思い出される。
――「天精族の強さは諸刃の剣だということは知っている。あんたらは、強いが、弱い」
クロガネが言っていた言葉も、何度も脳裏に蘇る。天精族という種族は、本当に特殊なのだと、改めて思い知るとともに、心配が尽きない。
(ユテ……、無理しないで、早く帰ってこい。あのムクロとかいう吸血一族の裏にいるのは、聖教会だ)
吸血一族に襲われて病気になった《混ざり者》の家族が、聖教会の教えに帰依し、その《聖薬》によって回復した、などと、話が巧くでき過ぎている。
(ムクロに、《混ざり者》の家族を襲わせて病気にさせたのは、聖教会の奴らだ。そもそも、ムクロを薬漬けにしたのも、きっと、聖教会の奴らなんだ……!)
恐ろしいが、そういう方向に走る人々がいることは、可能性として、あると思ってしまう。《混ざり者》を忌避する真人族が多いのは、昔からのことなのだ。
解毒薬を渡した三家族は、聞けば、やはり全て《混ざり者》の家族だった。野生族の血を引く家族が二家族と、夜行族の血を引く家族が一家族。きっと、先に《聖薬》で回復した一家も噂通り《混ざり者》だったのだろう。種族間の混血である《混ざり者》は、一般的な存在ではない。聖教会の教義で禁じられているというだけでなく、社会常識でも歓迎されない存在だ。だから、どの被害家族も、《混ざり者》の家系であることを公にはしていなかった。スカイ自身、〈大おじいちゃん〉との血縁関係は、レイン村の人々には伝えていない。山に住む地老族と親しくしていて、今回の解毒薬のように、たまに薬を分けて貰えることは知らせているが、血が繋がっているということは、家族の中だけで留めておくべき秘密なのだ。
(他種族の人を誰より大切に思う――。おれやおまえみたいなのは、きっと普通じゃないんだ。ただ、やっぱり、「綺麗って感じたものを綺麗」って言うのを、おれはやめないけどな……)
里に帰ろうとしていたユテを、里に帰せたユテを、結局、スカイの思いで、連れ戻してしまった。
(全てを乗り越えて、おまえと生きてくんだって決意した矢先に、あっさり置いてくんだもんな……)
やるせない感情に、スカイは歩きながら俯く。
(おれに、与えるだけ与えて、おまえは――)
「お帰り、お兄ちゃん!」
急に明るい声をかけられて、スカイは顔を上げた。夕日が照らす坂道の上に、妹のケイヴが立って、笑顔で手を振っている。考え事をしている内、いつの間にか、レイン村を出て、我が家へ至る坂道を歩いていた。
「ただいま」
久し振りに言って、スカイは微笑み、残りの坂道を駆け上がると、妹と手を繋いで家へ帰った。
家族五人で囲む夕食も久し振りのような気がした。スカイは、四家族の被害者達が全員回復したことと、雑貨店に寄って無断欠勤を詫びてきたことを家族に報告した。
「吸血一族に出会ってしまって、追われて山に逃げてたって言ったら、また明日から来たらいいって言って貰えた。クラウドにも会えたし、よかったよ」
「そう。それで、本当は、二日間、何をしてたの?」
母のヘイルは、まだ不安の拭えない顔で、問うてきた。
「だから、大おじいちゃんのところにいたんだよ」
スカイは、どこまで話すべきか考えながら、語る。
「吸血一族に出会ったのは本当。山に逃げたのも本当だよ。まあ、そもそもは、ユテに吸血一族の噂を話したら、倒しに行くって話になって、夜、一緒に村に行ったんだ。でも、その吸血一族にも追っ手が掛かってて……」
いざ話し始めると、ユテに傷を負わせたこと、クロガネとともに風竜一族の里まで行ったこと、ヒタネに助けられてユテを連れ戻したことなど、大まかなことを全て伝えることになってしまった。
「それで、今、ユテは、その吸血一族を使ってる奴らを倒しに行ってるんだ。レイン村周辺に張られた結界のせいで、おれとクロガネは足止めされてる状態なんだよ。クロガネは、結界を破る方法を探すって、頑張ってるはずだけど」
「その結界が破れたら、あなたはその風竜一族を追っていくつもりなの……?」
母は、恐ろしそうに聞いてきた。母にとっても、風竜一族は、恐ろしい存在なのだろうか。それとも、息子の危険な旅を恐れているのだろうか。或いは、その両方かもしれない。しかし、どう思われようと、決意した心は揺らがない。
「うん。おれは、ユテと生きるって決めたから」
穏やかに、スカイは告げた。
「駄目よ……!」
即座に、母は言う。
「考え直しなさい。あなたは、大おじいちゃんの血を引いてると言ったって、もうほとんど普通の真人族なのよ……? 天精族と生きるなんて無理よ。《混ざり者》だから、何か特別なことができるなんて、思い込まないで……!」
母は、食卓の上に伸ばした手で、スカイの手を掴んだ。その手の力に驚きながらも、スカイは懸命に伝えた。
「違うよ。別におれは、《混ざり者》だからって言うんじゃなくて、ただ、ユテのことが――誰より、大切なんだ」
母が、絶句するのが分かった。そこで、それまで黙っていた父が口を開いた。
「昔、おれも、父から聞いたことがある。大おじいちゃんのところで、美しい風竜一族に出会ったことがあると。しかしおれは、生来臆病で、真人族以外がいる山が怖くて、大おじいちゃんのところへ行く時も、とにかく、何にも出会わないように、まっしぐらに走っていくだけだった。それも、スカイのように毎日なんてとんでもなくて、一ヶ月に一回程度のことだった。だから、おれはユテ様に出会えなかったんだろう。けれど、スカイは出会った。スカイは――少なくともスカイの意識は、『普通の真人族』とは違う。止めても、きっとこの子は行くよ。父が――キャヴァーンが、この家を出ていったように」
「何で、あなたまで、そんな……! この子が、可愛くないの……?」
「この子が選ぶ人生だ」
「まだ、早いわ……!」
少しも美味しくない夕食になってしまった。否、してしまった。妹は大きな両眼に涙を溜めているし、祖母は、むっつりと黙り込んでいる。
「もういい!」
スカイは、大きな声を出して席を立った。自分のせいで、両親が喧嘩をするのは、我慢ができない。
「どっちにしろ、暫くおれは、レイン村周辺から出られないんだ。ユテが、おれを守るためにそうした。ユテは、もうすぐしたらきっと帰ってくる。あいつは、強いから。おれが、ユテを追うってことには、ならないよ」
希望的観測を述べて、その場を濁し、スカイは逃げるように自室へ引き上げた。
(とてもじゃないけど、落ち着いてなんていられないな……)
上着を脱いで椅子に掛け、寝台に仰向けに寝転んで、天井を見つめる。
(ユテ……、早く、戻ってこい……)
念じるように思って、スカイは目を閉じた。
「チムニー殿、御無沙汰してました」
明るい声とともに歩み寄ってきた青年を見上げて、洞穴の入り口で星を見上げていたチムニーは、眉と髭に隠れた顔を綻ばせた。
「おお、ウツミ。久し振りだの。行商か?」
紅茶色の髪を後ろで束ね、好奇心に輝く藍玉色の双眸を持つ混血の青年とは、かれこれ二百年ほどの付き合いだ。
「ええ。ただ、ここに泊まる予定はなかったんですけどね」
苦笑した青年の背後には、不機嫌な顔のクロガネがいる。それだけで、事情は大体察することができた。
「まあまあ、とりあえず、二人とも入るがよい」
チムニーは混血二人を従えて洞穴へ入った。
「簡単に言えば、ユテの結界から出られない間、ここで御厄介になりたいと思います」
廊下を歩きながら、悪びれず、ウツミは言った。
「偶然、結界の中に閉じ込められるとは、災難じゃったの」
チムニーが慰めると、ウツミは複雑な笑みを浮かべた。
「偶然かどうか……。あいつは、計算高いですからねえ。本気になれば、あらゆる可能性を考えて、あらゆる物事を利用する。おれが今日来たのは偶然でも、閉じ込められたのは偶然じゃないような気がするんですよねえ」
「……そうかもしれんの」
チムニーは、しみじみと相槌を打った。本気になったユテを、そう何度も見た訳ではないが、確かに、ニギテを守る時、ミストを支える時、あらゆる手を尽くしたユテを知っている。ただ、ユテが本気になるのは、いつも他人のためであり、自身のためではない――。
「さあ、夕食にしよう」
台所へ入り、真ん中に据えた食卓を示したチムニーに、それまで黙っていたクロガネが言った。
「おれはいい。腹は減っていない」
廊下を奥へと去っていく少年の後ろ姿を見送り、ウツミが肩を竦めた。
「あいつ、結界を調べながら、鳥やら鹿やら捕まえては、片っ端から精気吸ってたから、腹一杯なんですよ。まあ、どう見ても、〈自棄食い〉って感じでしたけど」
「この状況じゃ、仕方あるまいて」
或いは、甘美過ぎるユテの精気を少しでも体内で薄めるための〈自棄食い〉かもしれないと思いながら、チムニーは、窯の上で火にかけていた鍋を食卓の中央に置いた。
「猪の乾し肉煮込みじゃ。好きなだけ食べるがよい」
「ありがとうございます。いただきます」
ウツミは嬉しそうにチムニーから皿を受け取ると、三度ほどおかわりをして、鍋の中身を平らげてしまった。
食後、鍋や皿を甕に汲み置きしている水で洗って片づけながら、ウツミが問うた。
「あの黒髪の坊や、名前は何て言うんです?」
「何じゃ、まだ知らんかったのか」
皿を棚に戻す手を止め、驚いたチムニーに、ウツミは溜め息混じりに言った。
「何か、出会ってからずっと機嫌悪くて、いろいろ訊いても禄に返事してくれないんですよねえ。まあ、会った時から、十中八九、あなたに世話になってる奴だろうな、とは思ってましたけど」
「そうか。あやつも、相当参っとるようじゃの……。天精族としての通し名は教えてくれんが、夜行族としては、クロガネと名乗っとるよ」
「成るほどねえ。尾は隠してるし、精気の使い方は下手だし、天精族としての力を少しも使わないのは、使わないんじゃなくて、使えない――、教えて貰ってないからなんですね」
納得した様子のウツミは、暫く黙ってから唐突に宣言した。
「なら、ユテの結界に閉じ込められてる間、おれがあいつに天精族としての力の扱い方を教えてやります。あいつ――クロガネにとっても、悪い話じゃないだろうし、どうも、それがユテの狙いのような気がするんでね」
「そうかもしれん。あやつも、気が紛れてよいじゃろう」
チムニーは、ウツミの相変わらずの前向きさに、微笑んで、何度も頷いた。
「気が付いたか?」
問われて、ユテは薄く笑った。意識ならずっとあったが、体が痺れて動かせなかっただけだ。しかも、この地下牢へ人助けに来たはずが、今度は自分が閉じ込められている。牢を包む雷を帯びた結界は、穢れで弱った今の自分には到底通り抜けられない。笑うしかない。
「穢れが濃いだけで、精気の制御が覚束なくなって、一たび傷を負えば、あっと言う間に死に至る。おまえ達古い天精族は、本当に弱いな」
「〈古い〉、か……」
益々笑いが込み上げてくる。
「おまえ達は、〈新しい〉とでも言うつもりか? その気配、ただの《混ざり者》だろう」
牢の格子の向こうに立つ青年は、ユテを捕らえた二人の雷竜一族のうち、目の前にいた声の低いほうだ。短く刈った真鍮色の髪の間から、先端がそれぞれ二股に分かれた短い双角を覗かせている。雷竜一族として伝え聞いた姿そのままだ。けれど、その気配は、天精族の水竜一族と地竜一族、更には野生族――恐らくは双角一族との《混ざり者》。
「雷竜一族などと、最近まで耳にしたことがなかったはずだ。もともと、そんな一族はいなかったんだから」
「そう。われらは《混ざり者》だ。そして、純血の天精族の弱さから自由になり、雷という素晴らしい力を手に入れた、新しい天精族だ」
「何故、《混ざり者》が《混ざり者》に《聖罰》を下す? 聖教会の教義に、おまえ達も関わっているんだろう?」
「東大陸や南大陸のように、新たな《混ざり者》が次々と生まれては、世の中は混沌とするばかりだ。われらのように、規律を重んじ、新たな種族として自らを確立することができる《混ざり者》は、後にも先にもいないだろう。だから、最も環境の整ったこの西大陸を出発点として、われらが力と規律によって、この世を支配し、五族協和を成して、平和を実現する。伝説の《勇者》のようにな」
「《勇者》の五族協和は、そんな上からの押し付けじゃなかった――」
思わず呟いたユテに、青年は、目を眇めた。
「《勇者》を知っているような口振りだな。事実、知っているかもしれない訳か。純血の天精族は、無為に長い時を過ごすのが得意らしいからな。まあ、いい。おまえには、特別の使い道があると、聖主様が判断なさった。われらが聖教会の教えをなかなか理解せず、背徳の行ないを続ける町が、ここからそう遠くないところにある。おまえには、その町で、聖教会の教義をより世の中に行き渡らせるための、《大聖罰》となって貰うぞ」
精悍な顔に酷薄そうな表情を浮かべて、雷竜一族の青年は告げた。
望んだ通り、月明かりに照らされた城を外から眺めることができ、ムクロは歓喜の思いで深呼吸した。そこへ、傍らに立つ妹が言った。
「馬鹿なムクロ。麻薬を浄化してくれた風竜一族を裏切ってまでして、どうして戻ってきたの」
双子の妹のカバネは、癖のない白金色の髪を襟足で切り揃えたその容姿の印象通り、相変わらず辛辣だった。
「おまえがいないと、生きてる意味がないから」
答えたムクロに、鏡を見るような同じ辰砂色の双眸を向けて、カバネは問うてきた。
「それで、これからどうするつもりなの?」
「あいつを売って、おまえとぼくの自由を買った。もうぼくらは自由なんだ。どこへでも行ける」
「でも、夜行族からは、追われてるまんまでしょ?」
妹の指摘に、ムクロは苦笑いした。確かにその通りだ。
「逃げ隠れする暮らしでも、おまえと二人なら楽しいよ」
「そう」
優しい妹は、罠に落ちた風竜一族を思ってだろう、複雑そうに、ただ一言呟いた。