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掟破り

第二章 掟破り


          一


 ユテの意識は戻らなかったが、呼吸は安定し、小康状態を保っている。精気を送るという、クロガネの咄嗟の処置が効いたらしい。

「台地の上まで――おまえの故郷に行くまで、絶対踏ん張れよ……!」

 そっと声を掛けながら、スカイは毛布でくるんだユテの体を背負子に座らせ、布紐で固定した。台地の上までは、ほとんど崖ばかりの道のりだという。ユテを運ぶ者が、両手を自由にしておくため、背負子を使えと、チムニーに勧められたのだった。それに、恐らく、背中に直接負ぶわれるよりも、背負子に座っているほうが、ユテの体が楽だろう。

「じゃあ、頼む」

 スカイが言うと、傍らに立っていたクロガネがすっと屈んで、背負子の背負い紐に両腕を通し、ユテを背負い上げた。その動きは、安定している。スカイの肩ほどまでしか身長のない少年だが、さすが高い身体能力を誇る夜行族と、精気を自在に操る天精族の《混ざり者》ということらしい。

「ついて来られなければ、置いていく」

 ぶっきらぼうに告げられて、スカイは愛用の帽子を目深に被り直しながら頷いた。

「ああ。それで構わない。ユテの容態は、一刻を争うから」

 肩に掛けた、こちらも愛用の布鞄は、少し前、空が白み始めた頃に急いで捜しに行き、散らばった中身ともども拾ってきた。チムニーから受け取り、新たに中へ入れた物もたくさんあり、ぱんぱんに膨らんでいる。

「行ってきます」

 洞穴の入り口に立つ〈大おじいちゃん〉に一礼し、スカイは、先に歩き出したクロガネの後について歩き始めた。

 日の出はまだだが、既に辺りはかなり明るくなっているので、足元は問題ない。スカイの問題は、指摘された通り、クロガネについて行けるかどうかだった。霧が立ち込め、木々が鬱蒼と生い茂る急斜面を、夜行族と天精族の《混ざり者》の少年は、かなりの速さで登っていく。けれど、背負子に固定したユテの体は、ほとんど揺れていない。ユテに負担を掛けないよう、最大限気を遣っているのだろう。

(本当は、おれがおまえを運びたかったけど……)

 クロガネのほうが適任であることは、やってみるまでもなく明白だった。スカイでは、こうはいかない。クロガネがいてくれれば、自分がついて行けなくなったとしても、安心だ。力というだけでなく、人格的にも信頼できる。たった一晩、一緒に過ごしただけだったが、それほどに、クロガネのユテに対する振る舞いは、真摯だった。しかし、その理由が分からない。

「――おまえは何で、ユテを助けようとしてくれるんだ?」

 ほとんど崖のような斜面を、両手も使って登りながら、スカイは自分の上を登る少年に問うてみる。

「ユテに精気をくれたことも、そうやって運んでくれることも、凄くありがたい。幾ら感謝してもし切れない。けど、ユテと知り合いだった訳でもないのにって思うと、不思議なんだ」

 二人の間に沈黙が流れ、意思疎通失敗かとスカイが諦めかけた頃、ぽつりと返事が降ってきた。

「――自分自身を蔑ろにしている天精族を見ると、腹が立つからだ」

 確かに、ユテの行動には、他人を大切にする割に自分自身を蔑ろにしている節がある。スカイを「一番強い結界」で守りながら、自分は、あの吸血一族の長剣を短刀で受け止めたりしていた。傷に弱いにも関わらず、だ。確かに、腹が立つ。だがそれは、親しい間柄のスカイだからこそではないだろうか。クロガネとユテは、会話からしても、初対面のはずだ。初対面の相手に、そこまで思い入れられるものだろうか。悩んだスカイは、ふと思いついて、更に問うてみた。

「前にも、そんな天精族に会ったことがあるのか?」

 今度も暫く沈黙が流れた後、返事があった。

「――おれの母親だ」

 予想外の答えに、スカイは絶句した。訊いてはいけないことを、訊いてしまった気がした。クロガネは、それ以上何も言わない。スカイも何も言えなくなり、ただ黙々と必死に、クロガネの後について行った。



(この速さについて来られるのか)

 下から、遅れることなく確実について来る気配に、クロガネは少しばかり感心する。

(ただの非力で物知らずの真人族かと思っていたが、体力はあるらしい。何であんたが、この真人族を、そこまで大切にしているのかは、相変わらず分からんが)

 背中の背負子に括りつけられている天精族は、静かに呼吸を続けている。ややか細い呼吸だが、安定しているので、まだ持つだろう。

(穢れに弱い癖に、天精族の掟に反して、他種族と関わって、死に急いで、それで傷つける奴がいることには、その時になるまで、気づきもしない)

――「ごめん、ごめんね、マホ……」

 黒玉色の長い髪の陰で、紅玉色の双眸から涙を溢れさせ、浅黒い頬を濡らして謝っていた母。純血の火竜一族スメホ。その姿と、真人族の少年に謝るユテの姿が、自分の中で重なってしまった。自分のことより、スカイを心配し、ムクロにまで同情しているユテに、心底腹が立った。

(全く、おれは、こんなところでこんなことをしている場合じゃないんだ)

 天精族火竜一族は、《混ざり者》たるクロガネを育てることを拒み、反対に夜行族吸精一族は受け入れた。だから自分は、夜行族に恩返しをしなければならない。今回、ムクロの始末を引き受けたのも、その恩返しの一環だったというのに、こんなことになっている。けれど――。

(おれは、あんたを見捨てられん。必死に、おれの後をついて来ている奴も同じだ。だから――、頼むから、助かってくれ、ユテ)

 念じたクロガネの目の前に、完全なる垂直の岩壁が現れた。台地に連なる山が終わり、いよいよ、ここから台地自体を登らなければならないのだ。と、急に、辺りが眩く明るくなった。

「朝日だ」

 すぐ下で、スカイが言った。山肌を覆っていた霧を抜けたところへ、丁度朝日が射してきたのだ。眩い日差しの当たった頬がちりちりと痛む。純血の夜行族のように色素の薄い肌ではないので、焼かれ方は少ないが、それでも、日光に晒し続ければ爛れてしまう。クロガネは脱いだままにしていた頭巾を被り、顔を隠した。その動きに気づいたのだろう、スカイがこちらを見上げ、心底心配そうな顔で訊いてきた。

「クロガネ、おまえ、大丈夫なのか?」

「おれは純血の夜行族じゃないから、日に当たっても、大したことにはならん。頭巾さえ被っていれば、後は肌が出ているところなどないしな」

 黒い上衣からはみ出てしまう手は手袋と手甲、足は筒袴と脚絆と足袋というふうに、全て日光を通さない黒尽くめの装束で覆っているので、問題ない。それよりも、問題は、目の前に立ちはだかる岩壁だ。

「ここからは、延々と崖登りだ。その前に、少し休憩するぞ」

 クロガネは、一方的に言い渡して、慎重に背負子を下ろし、崖に立てかけた。ユテは、少し顔色は悪いが、穏やかな表情で目を閉じている。

「精気を送るついでに、薬を飲ませる。一つ寄越せ」

 クロガネが手を差し出すと、スカイはすぐ布鞄の中から丸薬の入った小瓶を取り出して、その中の一粒を手渡してきた。穢れを消す薬は作れないからと、次善の策としてチムニーが用意した滋養強壮薬だ。昨夜、あの川岸で気を失ったユテに、チムニーが水差しでこの丸薬を飲ませたところ、ああして夜半過ぎに一度目を覚ましたので、多少の効き目があることは証明済みだ。

 空いているほうの手で、ユテの線の細い顎を掴み、少し口を開けさせたクロガネは、見えた舌の上に、受け取った丸薬を乗せた。次いで、自分の筒袴の腰帯に吊るした水筒から、己の口に水を含むと、ユテの顎を掴んだ手はそのままに、もう一方の手をユテの後頭部に添えて、少し仰向かせ、口移しで水を飲ませて、薬を飲み込ませた。続けて、口移しで、今度は自らの精気を送り込む。ユテがムクロにしていたように、手から精気を送り込めれば、それが一番いいのかもしれないが、夜行族吸精一族の中で育ったクロガネは、その方法を知らない。だから、いつも食事の際、動物の口から吸精しているのと逆の方法で、精気を送り込むことしかできないのだ。

「――どうした?」

 ある程度の精気を送り込んだクロガネは、ユテから口を離して、スカイに問うた。

「いや……」

 スカイは、じっとクロガネのほうへ注いでいた視線を泳がせてから、ぼそぼそと言う。

「そんなに精気をユテに渡して、おまえ自身は、大丈夫なのかなって思って」

「まだ大丈夫だ。足りなくなったら、おまえから貰うしな」

「え」

 顔を引きつらせたスカイから、ユテへ視線を戻し、安定した呼吸を確認すると、クロガネはそっと背負子を背負って立ち上がった。

「おれは岩壁の突起を掴んで登れるが、おまえはどうする?」

 一応訊いてみると、スカイは布鞄から、金槌を一本と、角張った馬蹄型の金具を複数取り出し、腰に括りつけた鉤爪付きの縄を示した。

「この金具を、次々この岩壁に打ち込んで、この鉤爪を引っ掛けて落ちないようにしながら、足場にもして登るんだ。山の岩場じゃ、何度か使ったことがあるから、大丈夫」

「――日が暮れるぞ……」

 呆れたクロガネに、スカイは笑顔で頷いた。

「多分ね。だから、これは、おまえが持っててほしい」

 差し出されたのは、先ほどの丸薬が入った小瓶だ。暫くの間、その小瓶とスカイの顔を見比べたクロガネは、受け取らずに岩壁のほうを向き、最初に見つけた突起に取りついた。

「それは、おまえが持ってこい」

 肩越しに言い置いて、クロガネは次に見つけた突起を掴み、体を上へ引き上げる。黒い足袋を履いた両足も使って、できるだけ背負ったユテを揺らさないよう注意するが、さすがになかなか難しい。

(仕方ない――)

 クロガネは、黒い上衣の下に隠していた尾を伸ばし、その棘を岩壁に突き刺した。それで漸く体が安定する。鋼鉄色の鱗に覆われ、先端に真珠色の長い棘を五本備えた、足よりも少し長い尾。火竜一族の血を引く、顕著な証。

(全く、何をやっているんだ、おれは。何もかも、あんたのせいだぞ、ユテ)

 胸中で毒づきながら、封印するように使ってこなかった尾も最大限利用して、クロガネは一心に垂直な岩壁を登っていった。


          二


 クロガネの黒手袋の指先はすぐに破れて、指が覗き始めた。だが、そのほうが僅かも滑らず岩を掴めるので都合がいい。ただ、日光に当たる分、ちりちりと少しずつだが皮膚が焼け爛れていくのは、どうしようもなかった。

(あの雲の中まで行けば、日差しもましになるだろう)

 見上げた台地の上のほうは、雲に覆われている。どの辺りに結界が張ってあるのかは行ってみないことには分からないが、結界に触れる者があれば、風竜一族のほうから出てくるだろう。そこでユテを引き渡せば、今回のことは終わりだ。

(降りる時は、あいつを少し手伝ってやるか)

 金具を使って岩壁を登っている少年とは、随分と離れた。だが、まだ下から、岩壁に金具を打ちつける音が、絶え間なく聞こえてくる。

(何故、あそこまでしてついて来る?)

 当然、ユテのことが心配だとか、ユテと最後まで一緒にいたいだとか、そんな思いがあるだろうことは分かる。けれど、何故、他種族のために、あそこまでするのだろう。それは、ユテにも言えることだが。

(あんたら二人の関係は、さっぱり分からん)

 クロガネは胸中で背中のユテに零しながら、確実に上へ登る。普段は全く使わない尾も、かなり使い慣れてしまった。



(凄いな……)

 スカイは、遥か上へと登っていく、背負子を背負った少年を見上げて微笑むと、目の高さより少し上の岩壁に、次の金具を打ちつけ始めた。感心している場合ではない。自分も、頑張らなければならない。

(おれが、最後まで頑張り切れるように、せっかく気遣ってくれたんだもんな)

 クロガネが丸薬の小瓶を受け取らなかった理由は、それしか思いつかない。

(夜行族って、もっと怖い奴らだと思ってたけど、おまえみたいなのもいるんだな)

 次の金具を打ちつけ終えたスカイは、その前に打ちつけた金具から、腰の縄に繋がった鉤爪を外し、新しいほうへと引っ掛ける。肩から斜めに掛けた布鞄の中の金具は、たくさんあったものが、もう半分ほどになっている。

(大おじいちゃんは、これだけあれば、何とか台地の上まで足りるって言ってたけど……)

 途中で足りなくなっては手も足も出ないので、できるだけ金具と金具の間隔を広げて、節約するようにはしている。その分、やや無理な体勢は強いられるが、贅沢は言っていられない。狭い間隔で金具を打ち込むより、登る速さも上がるはずだ。

(ユテ、おれも必ず上まで行くから)

 スカイが更に次の金具を打ち込み始めた時、急に、強い風が吹きつけてきた。

「危なっ」

 飛ばされそうになった帽子を脱いで、布鞄の中に突っ込みながら、顔を上げたスカイの目に映ったのは、俄かに曇り始めた空だった。

「おいおい……」

 高地の天候が変わり易いのは知っているが、今はまずい。風雨に晒されれば、まともに登れなくなってしまう。

「くそっ……」

 スカイは毒づいたが、することは一つだ。下手に焦れば、金具の打ち込み方が甘くなり、抜けたりなどして、落下に繋がってしまう。

「落ち着け、おれ。一つ一つ、確実に打ち込んで登るしかないんだ」

 どんどんと強くなっていく風の中、自らに言い聞かせ、スカイは金槌を振るった。



 湿り気を帯びた強い風に、クロガネもまた顔をしかめていた。雨が降り始めれば、岩壁が滑り易くなって、突起を掴みにくくなる。

(あいつも、危ないぞ……)

 ちらと、クロガネがスカイを見下ろした直後、叩きつけるように雨が降り始めた。

 指力で必死に掴む岩の突起の上を、雨水が滴っていく。つるっと指が滑って揺れる上体を、尾で支え、クロガネはもう一度突起を掴み直して上へ進む。剥き出しになった指が日の光に焼け爛れなくなったのはいいが、それを喜ぶような状況ではなかった。雨のせいで、ユテはかなり濡れてしまっているだろうし、金具を使って登ってくるスカイも、体が冷えて難儀しているだろう。加えて、強い風に体勢を崩されないよう、岩壁にしがみ付きながら登らなければならない。

(あいつは、これ以上は無理だろう。命取りになる)

 思い定めたクロガネは、下へ向かって大声で叫んだ。

「スカイ! これ以上はやめておけ! ユテはおれが連れていく! おまえは打ち込んできた金具をそのまま使って降りろ! おまえがここで死んだら、おれがユテに恨まれる!」

 丸薬の小瓶を、やはり受け取っておけばよかったと、軽く後悔したクロガネの視線の先で、しかし、スカイは降りようとはしなかった。

「おれは、まだ大丈夫だから! ここで諦めたら、一生後悔するから!」

 風雨に負けない大声で返ってきた答えに、クロガネは歯噛みした。楽観的過ぎる。自分自身を顧みないところは、ユテといい勝負だ。

「どうなっても、知らんぞ……!」

 クロガネが叫び返した瞬間、耳をつんざくような音が響き渡り、辺りが一瞬真っ白になる。

(雷――)

 びりびりと体中に衝撃が走る。

(っ……!)

 落ちまいと、必死に尾で体を支えたクロガネの遥か眼下で、スカイの体が不安定に揺れた。

「スカイ……!」

 叫んだが、何をどうしようもできない。雨に濡れた上、金具を使っていたのだ。直撃でなくとも、感電は免れなかっただろう。手足が金具から離れたスカイは、腰の縄に繋がった鉤爪だけで、体を吊っている状態だ。意識があるのかどうかさえ分からない。

「スカイ、しっかりしろ! とにかくしがみ付け!」

 懸命に怒鳴るクロガネの視線の先で、強い風に煽られたスカイの体が上へ浮き、直後、弾けるように岩壁から離れた。鉤爪が、金具から外れてしまったのだ。

 口を開けたまま言葉を失ったクロガネは、突如背後で膨れ上がった気配に、望みをかけた。

「地を這いずる虫けら達が、こんなところまで……」

 怒気を帯びた呟きとともに、小旋風で己を束縛する布紐を切り、毛布を吹き飛ばしたユテは、精気の淡い光を纏い、一気に下へと疾風で飛んでいった。風に吹かれながら落ちていくスカイの体を捕まえ、今度はそのままクロガネのところまで急上昇してくる。

「きみさえいなければ、スカイはこんなところまで来られなかっただろうに……。おれ以上に、不可解な行動だよ……」

 文句を囁きながら、ユテはクロガネも一緒に強風で吹き上げて、上空の雲へ突っ込んだ。白く濃い靄のような雲の中を通り抜け、そして、突然外へ出る。目の前には、風竜一族の里の入り口らしい、石造りの壮麗な門が聳えていた。その門前へ、ユテはスカイを抱えたまま、クロガネとともに着地する。

「ここまで来たら……最後まで、この馬鹿の面倒を見てくれよ……。ここの一族の中で一番話が通じるのは、ヒタネという奴だ……」

 掠れた声で言い残して、ユテは、そのままスカイとともに倒れ込んだ。その体から精気の淡い光が消え、気配すら消える。全て、使い切ってしまったのだ。クロガネは、感電で痺れた膝をつき、手をついて、倒れた二人の、目を閉じた顔を間近から見下ろした。スカイは、やはり気を失っているようだが、呼吸はしている。けれど、ユテのほうは、僅かの動きも感じられなかった。そっと手で触れた翡翠色の耳は、硬く、冷たい。まるで、無生物のように――。

「おい――」

 クロガネは、腹の底から声を出した。その声が、どこかへ吸い込まれて消えていく。雲の下の嵐が嘘のような静寂が、辺りを支配している。

「おい……!」

 クロガネは、今度は巨大な門に向かって叫んだ。

「門番の一人もいないのか……! あんたらの仲間が、ここにいるんだ……! 門を開けろ……!」

「――他種族連れの掟破りに、門は開けられないよ」

 不意にクロガネの死角に気配が現れ、答えた。振り向けば、ユテと同じような服装をした風竜一族が一人、後ろで束ねて垂らした白銀色の髪を風に靡かせて佇んでいる。身長は、ユテと同じくらいだろうか。外見年齢もユテと同じくらいだ。ただ、やや目尻の下がった儚げな印象の両眼には、ユテとは異なる黄玉色の双眸が収まっていた。

 クロガネは顔をしかめて言った。

「おれ達が勝手に来たんだ。こいつに罪はない。助けてやってくれ」

「本当、馬鹿だよね」

 歩み寄ってきた風竜一族は、クロガネの横に立ち、冷ややかにユテを見下ろす。

「自分から里の外に出た癖に、こうして助けを求めて、他種族連れで帰ってくるんだから」

「だから、それはおれ達が勝手に――」

「ううん」

 首を横に振り、風竜一族はユテの傍らにしゃがむと、片手をユテの胸の辺りに当てた。精気が集中し、その手が淡い光を放つ。

「こいつは、最後の力で、ここへ来ることも、下まで降りることも、どちらでもできた。きみ達を連れて、下へ降りるほうを選んでもよかったんだ。でも、きみ達連れでここへ上がることを選んだ。いつまでも甘えているんだよ。こうして助けて貰えると思ってね」

 精気が静かにユテの全身に満ちていき、穢れを浄化していくのが、クロガネにも何となく感じ取れた。

「――きみも、修行したら、多少はできるようになると思うよ。完全な浄化は、純血の天精族にも難しいけれど」

 まるでクロガネの心を読んだように風竜一族が言った時、ゆっくりと、ユテの胸が上下した。止まっていた呼吸が戻ったのだ。

「さて、一命は取り留めた。後は里の中で浄化するよ。夜行族の精気まで貰っているみたいだし。きみ達は体力が戻り次第、下へ帰ったほうがいい。さっきの突風は、きみ達を含む侵入者に対して、この里の結界が反応したもの。そして、あの雷は、きみ達以外の侵入者が、結界を攻撃したものだ。結界は無事だが、いつまた攻撃があるか分からないから、長居はしないほうがいい」

 風竜一族は告げながら、ユテを両腕で抱き上げ、立ち上がった。立ち上がるのも億劫なクロガネはその顔を見上げ、問うてみた。

「あんたの通し名は、ヒタネか?」

「そうだよ。ユテが言っていたのかな?」

 あっさりと認め、ヒタネは微笑んでクロガネを見下ろす。

「きみの通し名は? そっちは名乗っては貰えないのかな?」

「――マホだ。但し普段は使っていない。夜行族から与えられた、クロガネという名を使っている」

「なら、クロガネ。この里にいるユテのたった一人の友人として、ユテを助けてくれたこと、礼を言うよ。ありがとう」

 ヒタネはユテを抱えたまま、クロガネに丁寧に頭を下げると、旋風を起こし、荘厳な門の上を越えて里の中へ戻っていった。



 台地の上に広がる里の上を、時折飛んでいる飛竜を避けながら、最速の疾風で飛んだヒタネは、クロガネ達がいる東方里門から最も近い行政府たる、東方行政府の庭に降り立った。自分と同じ黄玉色の双眸を持つ衛士達が集まってきたが、彼らにはユテを引き渡さずに抱えたまま建物に入り、地下牢まで連れていって、牢の一部屋へ入る。備えつけの簡素な寝台にユテを寝かせると、その頬に手を当てて精気を送り込んだ。やがて、瞼が震え、ユテが目を開く。ヒタネは顔を寄せ、その耳元に、そっと囁いた。

「イツクカゼ、この牢から出るな」

 ユテは目を見開いて全身を強張らせたが、暫くして、ゆっくりと力が抜けていくと、一つ溜め息をついて問うてきた。

「おれと一緒にいた二人は?」

「大丈夫だ」

 ヒタネは体を起こしながら笑顔で答える。

「この後、お偉いさん達への報告が終わったら、わたしがまた行って、無事に下へ降りるところまで、見届けてくるよ」

「すまない……」

 謝ったユテの額に手を置き、ヒタネはそっと前髪ごと撫ぜた。

「おまえは、もう暫く寝ておけ。せっかく帰ってきた故郷だ。ゆっくりしたらいい」

「牢の中で、ね」

 自嘲気味に微笑んだユテを残して、ヒタネは部屋の外へ出た。忌み名を以って命じれば、鍵など必要ない。ただ扉だけ閉めて、地下牢の階段を上がり、地上階へ出ると、ヒタネは行政官達がいる執務室へ赴いた。扉を叩き、入室して背筋を正す。

「東方里門勤務防衛官ヒタネが報告します」

 東方行政府の六人いる行政官達の視線を一身に受けながら、ヒタネは、ユテとその連れ達、そしてそれ以外の侵入者達が東方里門へ来た経緯や状況を全て、詳細に説明した――。



 「体力が戻り次第」と言われても、なかなか時間がかかりそうだった。クロガネ自身も、感電による痺れが残っており、スカイに至っては目を覚ましもしない。

(しかし、おれ達以外の侵入者がいたとはな)

 クロガネは、スカイの隣に仰向けに寝転んだ姿勢で、顔をしかめた。風竜一族の里は、かなり不穏なことになっているようだ。

(雷で攻撃する侵入者――)

 吸精一族の里で聞いたことがある。最近、〈雷竜一族〉と名乗る者達が、天精族の各地の里を襲い、天精族を攫っている、と。だが、他種族嫌いの天精族から流れてくる情報は少なく、被害の詳しい状況などは全く伝わってこないので、噂の域を出ないものだった。何より、〈雷竜一族〉などという呼称がおかしい。まるで天精族の一族のような呼び名だが、夜行族が知っている天精族の一族は、水竜一族と地竜一族、それに火竜一族と風竜一族だけ。〈雷竜一族〉などという一族は、存在しないはずなのだ。

(あのムクロが、真人族に使われて真人族を襲ったことといい……)

 五族協和とはいかなくとも、互いに不干渉を基本として、それなりに平穏だったこの西大陸に、何かが起こっている。

 気になることはもう一つある。

(ユテとヒタネ。通し名が全く違うということは、同じ里の出身じゃないということか)

 クロガネが生まれた火竜一族の里は、一族の中ではホの里と呼ばれ、そこにいる火竜一族達の通し名は皆、ホという音で終わっていた。母の通し名はスメホであり、クロガネ自身の通し名もマホだ。同じことが風竜一族の里にも言えるとしたら、ユテとヒタネは異なる里の出身ということになる。二人の瞳の色が違うのも、それを裏付けている。女と男が交わることのない天精族の里では、一族の外見は、髪の色、瞳の色、肌の色、全て同じであるはずなのに。

(ヒタネは、「この里にいるユテのたった一人の友人」と言っていた。つまり、ユテは、他里出身の風竜一族ということか)

 道理で、里の対応が冷たいはずだ。

(あんたも、ここじゃ異端という訳か)

 クロガネが雲一つない青空を見つめながら、何となく己とユテの境遇を重ね合わせた時、ただならぬ気配が凄まじい速さで近づいてきた。

(この気配は……!)

 急いで上体を起こし、気配のほうを見たクロガネは、聳え立つ門の上に、予想外の姿を見た。


          三


 体に温かいものが満ちていく。あの大樹の下、ユテの隣で昼寝でもしているような心地よさだ――。

(ユテ!)

 はっと意識を覚醒させて目を開けたスカイは、ユテに似て端正な顔立ちの、けれど黄玉色の双眸を持つ風竜一族が傍らに座っていることに気づいた。

「あなたは……?」

「ヒタネと呼べばいい」

 答えた風竜一族の顔には、険しい表情が浮かんでいる。

「それより、いいか、よく聞け」

 高くも低くもない、柔らかな声が焦っている。

「今のユテは、きみ達の敵だ。恩に仇で報いることになって申し訳ないが、行政官達の決定には逆らえない。忌み名を以って命じられれば、わたしも、ユテも、逆らえないんだ」

「誰がユテに命じた?」

 冷ややかに問うたのは、近くに立っているクロガネだった。ヒタネという風竜一族は、苦しげに答えた。

「わたしが、ユテに忌み名を以って命じた。きみ達を殺せ、と。わたし自身が、行政官達に忌み名を以って、そうするように命じられたから」

「――何故そうなる?」

 クロガネが重ねた問いに、ヒタネは膝の上で拳を握り締めて告げた。

「行政官達は疑っている。ユテが、きみ達に自らの忌み名を告げているんじゃないか、とね。他種族に忌み名を握られた一族の者がいることは、一族全体を危険に晒す。きみ達を大切に思えばこそ、ユテの性格上、そんなことはしていないはずだとわたしは言ったんだけれど、駄目だった。行政官達は確かめたいんだよ。ユテにきみ達を襲わせて、きみ達が忌み名を以って彼女を止めるかどうかをね。ユテはまだ本調子じゃないけれど、きみ達よりは強いだろう。命の危険に晒されても、きみ達が彼女の忌み名を使わなければ、行政官達は漸く、きみ達は彼女の忌み名を知らない、と信じられるんだ」

「全く、天精族というのは、どこの一族も腐っているな」

 クロガネが冷笑した。

「みんな、一族を守りたいだけなんだけれど……、この状況じゃ、反論の余地もない」

 真面目に応じて、ヒタネは立ち上がる。

「わたしは、もう一つ、行政官達から、忌み名を以って命じられた。最初から最後まで見届けるようにとね。だから、ここで見守っている。きみ達が本当に危なくなって、それでもユテの忌み名を使わなければ、きみ達を助けていい許可も貰っているから」

「――あんたとユテは、本当に友人なのか?」

 クロガネが、筒袴の腰紐に差している鞘から、長刀を抜いて確かめながら訊いた。

「一番の親友、だった。そうじゃなかったら、忌み名なんて、教えて貰っていないよ」

 ヒタネの答えに、クロガネは低い声で言った。

「あいつが里を出ていた理由が分かるぜ。ここは、息が詰まる」

 そうしてクロガネが鋭い視線を向けた先、聳えた門の上に、ユテの姿があった。

「おれ達を殺すため、身支度は万全、か」

 皮肉な口調で呟いたクロガネの言葉通り、愛用の短刀も帯びず、着の身着のままここへ来たユテが、腰帯に長刀を差して、手甲まで着けている。靴下だけ履かせていた足にも、分厚い編み上げ靴を履いている。

「ユテはまだ、本調子じゃないんですよね?」

 スカイは起き上がりながら、ヒタネに確かめた。

「ああ」

 ヒタネは沈んだ表情で答える。

「浄化はかなりしたが、何しろ、呼吸が止まるところまで、無理していたから」

「そうですか……。分かりました」

 スカイは真っ直ぐに立って、石造りの門の上のユテを見上げた。ずっと、目を閉じた顔を見守っていたので、目を開けて、こちらを見つめてくれているだけで嬉しい。

「ユテ」

 スカイは両腕を広げて呼びかける。

「おれはここだ。おまえにこれ以上無理をさせたりしない。一息にやれ!」

「馬鹿!」

 クロガネが怒鳴って、スカイのほうへ来ようとしたが、ユテの強風に阻まれた。同時に、ユテ自身は、スカイの眼前に降り立っている。

「――スカイ」

 呟きとともに構えられた長刀が、スカイの胸を貫く、その寸前で止まった。

「ユテ……?」

 スカイは、広げていた両腕を下ろし、ユテの顔を見つめた。瑠璃色の双眸はスカイを見たまま落ち着きなく揺れ、歯を噛み締め、長刀の柄を握った両手は小刻みに震えている。

「――スカイ、逃げろ」

 噛み締めた歯の間から、押し出すように告げられた言葉に、スカイは胸が締めつけられた。忌み名というものの効果はつい先ほど聞いたばかりだが、ユテがスカイのため、必死に命令に抵抗していることは、全身で感じられた。

「嫌だ。おまえも連れて帰る」

 瞬間的に湧いた決意を口にすると、スカイは一歩前へ出た。ユテの抵抗そのままに震えた長刀の切っ先が、狙いを外し、腹に突き刺さる。だが怯まず、歯を食い縛りながら、スカイはもう一歩前へ出た。二、三歩後ろは、台地の縁だ。

「っえ……!」

 腹から逆流した血が、口から溢れるが、スカイは構わず両腕を伸ばした。更に半歩前へ出ながらユテの華奢な体を抱き寄せる。長刀が背中から突き出たのが分かったが、最後に残った力で、スカイはユテを引き摺り、台地から飛び降りた。

「きみ、滅茶苦茶だ!」

 ヒタネが叫んでいる。計算通りだ。スカイはにやりと笑うと、腕の中のユテを感じたまま、意識を手放した。


          四


 目が覚めると、土天井が見えた。それだけで、〈大おじいちゃん〉の洞穴の一部屋に寝かされているのだと分かる。視線を動かすと、蝋燭の灯りの下、懐かしいとすら感じる、ユテの顔が間近にあった。計算通り、うまくいったのだ。

「――何を、にやにやしているんだ」

 怒ったような口調で言われて、スカイはますます顔がにやけてしまった。

「だって、おまえが、いつも通り傍にいるから、嬉しくて」

 思いのままに告げると、ユテは拗ねたような珍しい表情をして、俯いた。

「いろいろ迷惑をかけた。ごめん」

 小さな声で謝られて、スカイは真顔になった。

「それは、おれもだ。おまえのこと、何にも分かってなかった。ごめん。でも、おまえがちゃんと教えてくれてなかったことも多いんだぞ」

「うん。ごめん」

 いつになく素直なユテに、スカイは堪らない気持ちになって毛布から手を出し、しゅんと閉じている翡翠色の耳に触った。

「おまえ、何か今日、可愛いな」

 途端に翡翠色の耳が開いて、スカイの手を弾いた。

「それだけしゃべれるなら、もう普通に食べられるね」

 座っていた椅子から立ち上がりながら、ユテは呆れた口調で言う。既にいつも通りの表情だ。

「すぐに何か持ってくるから、じっとしていろよ」

「ああ。大丈夫だよ」

 笑顔で頷いたスカイに、ユテは溜め息をついて部屋から出ていった。



「もう大丈夫そうだね」

 廊下で待っていたヒタネに笑顔で言われて、ユテは神妙に頷いた。

「ああ。世話をかけた。おまえのお陰で、ぴんぴんしている」

 ヒタネは、台地の縁から落ちたスカイとその腕の中のユテ、それに台地の上に残っていたクロガネまで、全員を旋風で台地の下まで降ろした。次いで、ユテを少し離れたところへ引っ張っていって忌み名を以って先の命令を解除すると、スカイのところへ戻って長刀が貫いた傷を治癒したのだった。

「お陰で、わたしの精気はもうほとんどすっからかんだよ」

 おどけて答えた親友に、ユテは真剣な眼差しを向けた。

「おまえも忌み名で以って縛られているはずだ。そっちは大丈夫なのか?」

「一人がほとんど殺されかけているのに、二人ともおまえの忌み名を使わなかった。見届けるという命令は果たし終えたよ。後は、お偉いさん達に、二人ともおまえの忌み名を知らなかったことが確認できたと報告するだけ。それが少し遅くなろうが、命令違反にはならないよ。実際問題、本当に精気が足りなくて、台地の上まで飛べないんだ。あそこに〈もう戻りたくない〉おまえに、送ってくれとも言えないしね」

「すまない……」

「いや、いいんだよ。おまえ、何かあの二人といるといい感じだし。こういう展開になったのは、お偉いさん達にとっては、計算外だろうけれど」

「計算じゃ、スカイの勝ちだな」

 呆れて言ったユテに、ヒタネは面白そうに応じた。

「やっぱり、彼のあの滅茶苦茶な行動は、計算ずくなんだ」

「当たり前だ。あいつは無邪気そうに見えて、おれの数十倍計算高いよ」

 その計算ずくの行動によって、スカイは、ユテを状況的にも心情的にも、ここへ連れ戻したのだ。

「そういう奴、好きなんだろう?」

 ヒタネに、肩を組まれながら言われ、ユテは久し振りに破顔一笑した。

 暫く廊下を二人、肩を並べて歩いてから、真顔に戻ったユテは、おもむろに問うた。

「行政官達は、今後、おれをどうする気なんだ? このまま済ます気はないんだろう?」

「うん。おまえは、貴重な戦力だから」

 ヒタネは隣で、寂しげに頷く。

「里は今、雷竜一族への防衛に躍起になっている。で、おまえに対して、もう一つ、忌み名を以って命じるよう、わたしも忌み名で命じられているんだ」

「やはりそうか。幾らおまえでも、ここまでついて来るのはおかしいと思った」

 ユテが苦笑すると、里でただ一人、心許せた友人は、苦々しく言った。

「雷竜一族さえ来なければ、里はおまえを放っておいたんだ。でも、あいつらは、隙あらば一族の者を攫っていこうとする。十中八九、薬にするためにね。もう看過できないんだ」

「次はおれに、雷竜一族の里を潰せ、とでも命じるのか?」

「そんなものは、この西大陸じゃ見つかっていない。西大陸に住む天精族同士で、その程度の情報交換はしている」

 ヒタネは、冷ややかに言う。

「あるとすれば、東大陸だろう。あいつら、東大陸にしかいない鳳に乗っていたからね。あいつらは、南大陸から来たおまえと同じで、この大陸出身じゃないんだ」

「成るほどな。道理で、二千年前には聞かなかった一族名だと思った」

 ユテは、口元に不敵な笑みを浮かべた。それなら、得体が知れないのも頷ける。ユテは、双子の姉ニギテとともに、母のクセテに連れられて南大陸からこの西大陸へ来た。クセテがテの里の掟を破り、ニギテとユテを連れて逃げてきたのだ。

「なら、何をおれに命じるんだ?」

 核心を問うたユテに、ヒタネは足を止め、向き直る。両腕を伸ばし、ユテを抱き寄せて、ヒタネは耳元で囁いた。

「イツクカゼ、三日以内に聖教会本部へ行って、聖教会本部を潰せ」

 忌み名を呼ばれて強張ったユテの体を、抱き締めたまま支え、ヒタネは言葉を続ける。

「雷竜一族の裏には、聖教会がいる。わたし達が掴んでいる情報だと、聖教会は、天精族の体から作った麻薬で、野生族や夜行族、それに雷竜一族を薬漬けにして、使っているらしい。攫われた天精族が連れていかれるのは、決まって、古都ムーンの外れ。もとは夜行族吸血一族の城だったところに置かれている、聖教会本部だ」

「――分かった」

 強張りが解けると同時に返事をし、自分の足で立ったユテから離れて、ヒタネは俯いた。

「すまない。わたしは、おまえの友人失格だな。わたし自身は、忌み名で縛られているせいで、おまえと一緒には行けない。おまえを助けてやれないんだ」

「いや」

 ユテは微笑して首を横に振った。忌み名を以って命じられている立場は同じだ。

「『三日以内』は、おまえが命じられている中でできる最大限の譲歩だろう? ありがたいよ。お陰で、いろいろと心残りをなくして行ける」

「――本当に、すまない」

 尚謝る親友の肩に手を置いて促し、連れ立って、ユテは再び廊下を歩き始めた。



 肩を並べて現れた風竜一族二人に、台所にいたクロガネは、火に掛けた鍋の中身を玉杓子で掻き回しながら、問うた。

「あいつの容態は落ち着いたか?」

 ところが、風竜一族二人は、それぞれ瑠璃色と黄玉色をした双眸で、クロガネを見つめたまま、答えない。

「どうした?」

 眉をひそめてクロガネが質すと、ユテのほうが何度か目を瞬いてから言った。

「いや……。少し意外なものを見たから、驚いただけだ」

「何が意外だ……?」

「そんな薄着で、しかも料理をしているきみ」

 答えたのはヒタネのほうだったが、ユテも全く同意見であることは、顔を見れば分かった。

「ここに日の光は届かない。上衣や手袋、手甲、脚絆を脱いでいても、何もおかしいことはない。それに、料理くらい誰だってするだろう? あんたらはしないのか?」

 憮然としてクロガネが問うと、二人の風竜一族は互いに顔を見合わせ、声を揃えた。

「「そのまま食べるか、切って焼く、くらいだね」」

「あははは!」

 急にけたたましい笑い声が起こり、クロガネは顔をしかめて、台所の隅を見た。散々な目に合いながら、それでも当初の目的を果たして台地の上から戻ってきてみれば、しっかり目覚めていた吸血一族の少年。目を離すと何をするか分からないので、とりあえず目の届くところに置いている。

「静かにしていろ。喧しい」

 だが、縄で両手両足を縛られたまま床に座っている少年は、血の色を思わせる辰砂色の双眸をきらきらさせて、賑やかに言った。

「料理対決じゃ、夜行族に軍配が上がるね。天精族って、文化面じゃ野生族と変わらないんじゃない? さっきから見てるけれど、《混ざり者》のそいつ、料理凄く上手だよお。夜行族の中で、文化的に洗練されたんだろうねえ」

「きさまの〈最後の晩餐〉だから、丁寧に作ってやっているんだ。感謝しろ」

 クロガネは冷ややかに告げたが、ムクロは強気に応じた。

「それは嬉しいね。本当なら、あの真人族の《混ざり者》の血を飲みたいところだけれど、それで我慢してあげるよ」

「〈最後の晩餐〉なら、賑やかなほうがいい。これからスカイのいる部屋で、全員で食べよう」

 調子を合わせてきたのは、意外にもユテだった。

「あれえ? あなたは、ぼくを守ってくれるんじゃなかったのかなあ?」

 大きく首を傾げてムクロも問うた。対してユテは、瑠璃色の双眸に静かな色を湛えて答えた。

「守りたい者を全て守れると、奢ることをやめたんだ。おれが第一に守りたい者はスカイ。それだけでいい。下手に手を広げれば、昨夜のように、一番大切なスカイを危険な目に合わせることになりかねない」

「そう、あの《混ざり者》の首に牙を立てるまで、後一歩だったのになあ。まあ、何となく分かるよ。ぼくがカバネのために必死になるのと同じだ」

 歪んだ笑みを浮かべたムクロから視線を手元に戻し、クロガネは用意していた六つの皿に、鍋から玉杓子で汁物を入れていった。鳥肉と野菜の煮込み汁だ。味には自信がある。この洞穴に戻ってからすぐ材料を刻んで、ずっと煮込み続けてきたので、半日寝込んでいるスカイの胃にも優しいだろう。

「おお、丁度出来上がったか」

 台所の入り口に現れたチムニーは、両腕に計六本の瓶を抱えている。

「貯蔵室から、砂糖漬け果汁を、いろいろ選んできたぞ」

(本当に、《最後の晩餐》みたいになってきたな)

 明日には始末するつもりの吸血一族の少年のためには、そのほうがいいのかもしれない。クロガネは表情を消した顔で、六つの皿を盆に載せ、六つの匙とともに運び始めた。



 汁物を載せた盆を持って、素直にスカイのいる部屋へ向かうクロガネの後ろ姿を見送り、ユテはチムニーに歩み寄る。するとチムニーは、眉と髭に半ば隠れた顔に意味ありげな笑みを浮かべて、持っている瓶の内の一本を手渡してきた。受け取って、その栓を開け、中身の匂いを嗅いだユテは、思わず微笑んだ。思った通りだ。

「ありがとうございます」

 礼を述べると、チムニーは答える代わりに穏やかに頷いた。

「何々? 何かの悪巧み?」

 ムクロというらしい吸血一族の少年が、察しよく反応した。

「ああ。だから一々騒ぐな。カバネに会いたいならな」

 ユテはさらりと応じると、両手両足を縛られて転がされている少年に歩み寄り、屈んで、その胸に片手を当てた。手に精気を集中させて、少年の体内へ送り込み、害を及ぼしている薬――麻薬を浄化していく。浄化に伴い、白過ぎた少年の顔色が少しよくなり、表情の狂気が幾分和らいだように見えた。

「天精族って、やっぱり凄いね……」

 心底感心したように呟いたムクロに、ユテは低い声で言った。

「これは、水竜一族の血から作った、吸血一族用の麻薬だな。浄化は簡単だ。最近、聖教会が天精族を攫っているとヒタネから聞いた。おまえも昨夜、《聖罰》と口にしていたし、おまえを使っている真人族は、聖教会の会員で間違いないな?」

 ムクロは、険しい目をして口を噤んでいる。警戒しているのだろう。ユテは更に言った。

「麻薬の浄化だけじゃおまえは救われないんだろう? おれは明日、ムーンへ行って聖教会本部を潰す。ついでに、おまえの双子の妹を助けられるかもしれない。一緒に来るか?」

 ムクロは、判断しかねるといった複雑な顔をして口を開いた。

「急にどうしたんだい? それとも、同情だけでそこまでできちゃうのかな?」

「さすがに同情だけでスカイの傍を離れる気はない。こちらにもいろいろと事情ができた。それに、聖教会本部を潰せば、それが結果的に、スカイも含めた《混ざり者》全員を助けることに繋がるんだろう?」

「――確かに、そうだよ」

 ムクロは、ふと理性的な眼差しになる。

「聖教会の奴らは、《混ざり者》を許さない。《混ざり者》は混乱と不幸を招くからって、この国の、混血を許さない姿勢を支持してるんだ。そして、《聖罰》が下ると言いながら、自分達で《混ざり者》やその支援者にこっそり危害を加えてる。あなたがスカイを守り通したいなら、聖教会は敵だろうね。でも、聖教会は、その《聖罰》のために、天精族を狩ってる。あなたは、奴らにとって〈獲物〉だよ? それでも行くの?」

「ああ」

 忌み名を以って命じられたことには逆らえない。ならば、その中で最善を尽くすだけだ。あっさりと頷いたユテに、ムクロはくすりと笑って応じた。

「あなたの考えてることはまだよく分からないけれど、カバネを助けてくれるっていうなら、答えは一つだ。一緒に行くよ」

「なら、明日の早朝出発だ」

 淡々と告げると、ユテは屈んでいた体を起こした。

 そのまま、チムニーから受け取った瓶に加えて、六つ重ねた木杯を持ち、ユテは台所から出る。スカイのいる部屋へ、廊下を歩いていくと、向こうからクロガネが戻ってきた。袖無しの黒い下着に、黒い筒袴を穿いただけの薄着は、やはり違和感がある。しかも、筒袴の後ろには、きちんと尾のための切れ目があって、堂々と尾を見せているのが、昨夜と明らかに違うところだ。皿と匙は置いてきたのか、手には何も持っていない。

「どうした?」

 ユテが訊くと、小柄な少年は少しばかり歩調を緩めて答えた。

「ムクロを連れに行く。目の届くところに置かないと心配だからな」

「スカイの近くには、置いてくれるなよ」

 ユテが、麻薬の浄化のことは告げずに言うと、クロガネは眉を寄せて答えた。

「当たり前だ。おれの仕事は、あいつに仕事をさせないことも含むからな」

「――きみに仕事を命じているのは、誰?」

 単刀直入にユテは問うてみた。途端に、少年の眼差しが鋭さを増した。

「夜行族の問題だ。立ち入るな」

「――頑固だね」

 溜め息をつくと、ユテはクロガネと擦れ違った。

(やはり、これを使うしかないな)

 散々助けてくれたクロガネに対し、またも恩を仇で返すことになる。

(すまない)

 胸中で詫びて、ユテはスカイが寝ている部屋へ入った。

「〈最後の晩餐〉、らしいね」

 寝台の上で上半身を起こしたスカイが、複雑な顔で先に言った。クロガネがそう告げたらしい。汁物の入った六つの皿と匙は、部屋の中央の中卓に置いてある。

「おれとしては、そうさせないつもりだ」

 答えて、ユテは寝台脇の小卓に瓶と木杯六つを置き、自分は寝台の端に座った。

「どうするつもりなんだ?」

 スカイは心配そうな表情になった。ムクロというよりは、ユテを心配しているようだ。

「大丈夫、無茶はしない」

 ユテは微笑んで、手を伸ばし、スカイの寝癖の付いた金茶色の髪を指で梳いた。

「おまえのその言葉は、もう信用できない」

 スカイはユテに髪を触らせたまま、口を尖らせて言う。

「どこかへ行くなら、おれも一緒に行くからな」

 強い決意を湛えた翠玉色の双眸を見つめて、ユテは少し手を止め、低い声で応じた。

「長い間、家に帰れなくなるかもしれない。それでも、いいのか?」

「おまえ、《混ざり者》のおれが、この先襲われないよう、あの吸血一族を使ってる奴を倒しに行くんだろう?」

 天精族の事情はさておき、スカイはほぼ正確にユテの意図を言い当て、顔を歪めて必死な表情をする。

「だったら、おれが行かないとおかしいじゃないか」

「おかしいとか、そういうことじゃなく……」

 ユテは小さく溜め息をつきながら、少年の金茶色の髪をさわさわと撫ぜる。言葉というものは、時にもどかしい。

「おれは、おまえを危険に晒したくないんだ」

「その言葉、そっくりそのまま返す!」

 スカイは勢いよく、ユテの手を振り払う勢いで宣言した直後、幼い頃と同じように俯く。

「いや、返したい。けど、おれは、あんまりおまえの助けにはなれないかもしれない。それでも、家でただ心配なんてしてられないんだ」

「――おまえを、足手纏いと思ったことはないよ」

 ユテは再び手を伸ばして、少年の髪をゆっくりと撫でつけながら、穏やかに告げた。

「けど、昨夜は……」

「あれは、クロガネが強過ぎるから、最大限警戒したまでだ。ムクロ相手は、暗闇という状況がおまえに不利過ぎただけ。おまえには、おれが毎日毎日、山歩きから刀捌きまで教えたんだから」

 そう、毎日会いに来るスカイと、ユテはただ話していただけではない。毎日が、実はスカイの修行だった。いつか来るかもしれない日を見越しての――。

「――ただ」

 ユテは更に言葉を紡ぐ。

「母君や、父君、祖母君、ケイヴにも、暫く会えなくなる。本当に、いいのか?」

 俯いたスカイの眼差しが、少し悲しげになった。スカイは、両親のことも、祖母のことも、三歳年下の妹のケイヴのことも愛している。会えなくなるのは、嫌だろう。

「――家族に会えないのは、つらいよ。だけど、おまえと行かなきゃ、おれは、きっと後悔する。その確信があるんだ。だから、行かせてくれ」

 顔を上げて、再びユテを見つめたスカイの、翠玉色の双眸は――そこに宿った熱は、〈彼〉が持っていたものと同じだった。ユテは、思わず手を止め、暫し、その双眸に見入る。

――「いつか、世界が再び《勇者》を必要とした時、おれの子孫が、《混ざり者》の宿命の下、次の《勇者》となるだろう。何故かな、そういう確信があるんだ」

 〈彼〉は、老いたある日、ユテにそう語った。あの言葉があったからこそ、ユテはずっと里には戻らず、二千年という長きに渡って、〈彼〉の子孫を見守ってきたのだ。

(本当に、そっくりだよ、あなたとスカイは。誰にも根拠が分からない確信を擁いて、周りを変え、やがて世界を変えていく)

 本当なら、もうここにはいないはずの自分がここにいる。それは、スカイの言動が、里に戻ろうとしていた自分の心を変えたからだ。

「――分かった。なら、交換条件だ」

 ユテはスカイの髪から後頭部へと手を動かす。

「おれの――《天精族の加護》を受けてくれ」

 かつて、姉が、〈彼〉に与えたもの。五族の中で最弱とも言われる真人族に、天精族の力を分け与え、守る方法。

「え」

 驚くスカイに顔を近づけ、ユテは有無を言わせず口付けた。口移しで己の精気を与え、スカイの全身を内側から守る結界を作る。天精族の約百年分の寿命を注ぎ込んだ、対象が生きている限り永久に続く結界。無論、万能ではない。この結界の強度を越える攻撃や毒薬を受ければ、完全には、対象を守り切れない。それでも、並の真人族よりは、余ほど頑丈に、丈夫になるはずだ――。

「……っやめろ!」

 暫く硬直していたスカイは、我に返ったように暴れてユテから離れた。結界は完成したので、もう問題ないが、強引にしたので、少し嫌われてしまっただろうか。

「ユテ、おまえ何した? 何か、光みたいな力が、体中に流れ込んできたぞ。おまえ、またおれにばっかり、余計な力使ったんじゃないだろうな!」

「『余計』は、ひどいな……」

 苦笑して、ユテは寝台の上、毛布で覆われたスカイの膝の上辺りに仰向けに寝転がった。平気を装いたかったが、どうしても息が上がる。途端に、スカイがまた心配顔になった。

「大丈夫なのか? 《加護》って何なんだ? おまえと一緒にいたいっていう、おれの我が儘は、おまえに無茶ばかりさせてるのか?」

「強気になったり弱気になったり、忙しいね」

 ユテは、寝転んだままスカイの顔を見上げる。

「小さい頃から、そういうところは変わらないな」

「人の性格なんて、そう変わるもんじゃないだろう」

 憮然として言ったスカイに、ユテは素直に頷いて目を閉じた。

「そうだね。三千年生きる天精族でも、性格はなかなか変わらないからな……」

 瞼の裏に、自分とそっくりな外見ながら、自分よりもずっと感情表現が豊かだった姉の姿が浮かぶ。姉と自分の性格は、全く違うと思ってきた。しかし最近、姉と同じことばかりしていると思う。結局のところ、自分の根本は、姉と同じなのだ――。

「――お取り込み中、悪いんだけれど」

 部屋の入り口に現れたのは、ヒタネである。

「〈最後の晩餐〉を始めていいかな?」

「どうぞ。待ちくたびれて、少し寝ていただけだから」

 ユテは、とぼけて答えながら目を開き、上半身を起こした。

 ヒタネの後ろからは、ムクロを引っ張ったクロガネが現れ、ともに部屋に入ってくる。両手を縛った縄をクロガネに掴まれ、両足も縛られたまま小さく飛び跳ねてきたムクロは、スカイを見て、にやりと牙を剥いて笑いながら、寝台とは反対側の部屋の隅へ座らされた。最後に部屋に入ってきたチムニーが、両手に抱えてきた砂糖漬け果汁の瓶五本を、中央卓の上へ置き、〈最後の晩餐〉が始まった。



 妙に気分がふわふわする。ユテがした《加護》とやらのせいだろうか。視界が少しぼやけている気もする。頭も少しふらふらするので、怪我の後遺症で、熱でも出ているのだろうか。だが、気持ち悪いとか、体がつらいとかいう感じはしない。むしろ、いつもより高揚感がある。スカイは、原因不明の勢いに任せて、傍らの親友に問うた。

「なあ、ユテ。《最後の晩餐》って、《勇者》伝説の中で、《勇者》が、仲間とともに五族協和を広める旅に出る前にやった夕食会のことだよな?」

 寝台に、スカイと並んで腰掛けているユテは、驚いたように一つ目を瞬いてから、答えた。

「ああ。〈彼〉は、《竜》退治に派遣された兵団の一員だったが、《竜》との戦いの中で、怪我をして、逆に《竜》の一人に助けられた。そして、その《竜》――今でいう天精族と親しくなり、《勇者》としての道を歩み始めた」

「今日は、あんまり不機嫌にならないんだな」

 スカイは、高揚した気分のまま、笑顔で踏み込んでみた。

「不機嫌?」

 ユテが眉をひそめた。やはり、分かっていなかったらしい。

「おれ、小さい頃、大おじいちゃんから、《勇者》の伝説をたくさん聞いて、どの話も大好きで、おまえにも話しただろう? そのたびに、おまえ、物凄く不機嫌な顔するから、おまえの前で《勇者》の話するのやめたんだぜ? 気づいてなかったのか?」

「――そうか……。そう言えば、いつ頃からか、おまえ、《勇者》のことを口にしなくなったな……」

 少し落ち込むように俯いたユテを見て、スカイは急に胸が痛み、その肩に手を置いた。

「ごめん。責めたんじゃないんだ。ただ、何でおまえ、不機嫌になってたんだろうなあって思ってさ……」

「――《勇者》にはどんな仲間達がいたか、覚えているか?」

 ユテは、視線を落としたまま、質問で返してきた。

「ん? ああ」

 どういう意図の質問なのか分からないながらも、スカイはすらすらと答える。

「天精族の治癒師と、地老族の呪具師と、夜行族の巫女と、野生族の戦士、それに後から天精族の結界師が加わったんだよな」

「その天精族の結界師が、おれだよ」

「え?」

 間抜けな反応しか、できなかった。スカイは、まじまじと親友の端正な横顔を見つめた。切れ長の目の端に瑠璃色の瞳が動いて、こちらを見る。白く華奢な顎が動き、小さな声で語った。

「《勇者》は、決して幸せな存在じゃない。傍で見ていたおれには、それが痛いほど分かっている。だから、おまえが《勇者》に憧れるのが、嫌だったんだ。おまえが、いつか、《勇者》になってしまうのが、嫌だ……」

 かの伝説の結界師がユテだったという真実にも心底驚いたが、それに続く告白も、スカイにとっては意外だった。

「でも、おまえ、おれに毎日、いろいろ教えてくれたじゃないか。山歩きも、刀捌きも、毎日付き合ってくれて……、あれは、おれがおまえに出会ったばかりだった頃、いつか《勇者》になりたいって言ったから、教え始めてくれたことだろう?」

「いつか《勇者》になってしまっても困らないように、と思って教えた。でも、今でもまだ、おまえには《勇者》になどなってほしくない」

 頑なな言葉を搾り出すようにして口にしたユテに、スカイは限りない愛おしさを感じて、両腕でぎゅっと親友に抱きついた。

「何だ」

 迷惑そうに顔をしかめた親友に、スカイは笑顔で言った。

「大丈夫。おれは、不幸せにはならないよ。おまえが、ずっと傍にいて見張ってくれてたらな」

「おれは……」

 ユテは、一層顔をしかめて何かを言いかけてから、溜め息をつき、表情を弛めた。

「――そうだな」

 親友の柔らかな微笑みに、スカイはそれだけで幸せな気持ちになる。次いで、強い眠気を感じて、小さく欠伸をしながら、親友に凭れかかった。

「おい」

「ごめん。ちょっと眠くて」

 そのまま、ずるずると体をずらして、親友の膝枕に頭を落ち着ける。十一、二歳の頃にしていたように。本当は、ずっとこういうことがしたかった。けれど、ユテに嫌われたくないという思いを擁き始めてからは、逆に怖くてできなかったのだ。

「ユテ、おれ、おまえが好きだ……」

 いつになく開放的な気分で、スカイは親友の顔を見上げ、告げた。こういうことを言うと、いつもなら呆れた様子でかわす親友は、少し苦しそうな顔をして、無言のまま、さわさわとスカイの髪を手で撫ぜた。それが、この親友なりの返事なのだ。その反応が嬉しくて、優しい手櫛の感触が心地よくて、スカイは目を閉じる。

(おれは、おまえが傍にいてくれたら、それだけで幸せだよ……)



「子ども返りしたみたいだな」

 呟いて、ユテがスカイの体へ毛布を掛けていると、ついとクロガネが傍に立った。

「酒精を飲ませたな」

 冷ややかな声に、ユテは苦笑してクロガネの顔を見た。

「さすがに、苦手なものには敏感だね」

「知っているのか」

 硬い面持ちの少年に、ユテは寂しく言った。

「きみが、いや、きみ達が、他種族について、知らな過ぎるんだよ。知ろうと思えば、少し深く付き合えば、そんなこと、すぐ知ることができるのに。そうしたら、もっとお互いうまく付き合えるのに。ミストが目指したのは、たったそれだけのことなのにね」

「ミスト?」

 怪訝そうに眉を寄せたクロガネに、ユテは微笑んで告げた。

「忘れ去られた《勇者》の名。ミスト・レイン。きみは、覚えておいて。おれの双子の姉――伝説に謳われる天精族の治癒師が、命を捧げた人の名だから」

「あんた、本当に、あの伝説の結界師なのか」

 クロガネは、きちんとスカイとユテの会話を聞いていたらしい。しかも、《勇者》の伝説についても、知っているのだ。

「飲み込みが早くて、嬉しいよ。なら、もう一つ知っておいてほしい」

 ユテは、膝の上のスカイへ視線を落とす。

「このスカイは、ミストと、仲間だった地老族の呪具師との間に生まれた子の、子孫なんだよ。そして――」

 すっと、ユテは片手を伸ばしてクロガネの手を片方掴む。

「おれは、伝説の通り、身勝手で我が儘な結界師なんだ」

「精気……!」

 はっと気づいたクロガネが手を振りほどいたが、ユテが精気を送り込むほうが早かった。

「夜行族吸精一族は、酒精と、そして天精族の精気に酔う。天精族は、別に口移しでなくても、対象に精気を送り込める。そのくらいのことは、少し一緒に過ごせば、お互いすぐ分かることだ。おれが、ミストの仲間となって、他の仲間達と一緒に過ごした、あんな僅かな時間で、知ったことだからね」

 呟きながらユテは体をずらし、自分の膝の上で眠りに就いたスカイの頭を寝台にそっと下ろした。次いで立ち上がり、ふらつくクロガネを両手で支える。そのまま更に精気を送り込み、意識を失った小柄な少年を抱き上げると、中卓の向こうの長椅子に運んで寝かせた。

「純血の天精族は、本当に怖いね」

 部屋の隅から、ムクロが楽しげに言う。

「それにしても、伝説の登場人物だったなんて、畏れ入るよ」

「因みに、その地老族の呪具師は、チムニー殿の妹御だよ」

 中卓の傍の椅子に座っているヒタネが付け加えて、手にした木杯から液体を飲む。それは、ユテがチムニーから受け取って持ってきた、あの瓶に入っていた果実酒だ。

「でも、わたしはてっきり、この、砂糖漬け果汁にそっくりな風味の果実酒を、砂糖漬け果汁と偽ってクロガネに飲ませるのかと思っていたよ。精気のほうで酔わせるとはね」

 ヒタネの言葉に、もう一つの椅子に座っているチムニーはただ笑みの形に眉と髭を動かし、寝台に戻って腰掛けたユテはスカイの頭をそっと撫ぜながら言った。

「最初は、そのつもりだったけれど、こいつを寝かせるのに使ったら、もうばれてしまったし、恩返しも、したかったからな」

「成るほど、酔うにしても、精気なら、彼の力になる、か」

「明日の昼くらいまで眠った後に、だけれど」

「スカイまで眠らせるとは思わなかったよ」

「おれと一緒に行くと言って、聞かないだろうからね」

「まだ子どもなのに、酒なんて飲ませてよかったの?」

「《加護》を、与えたから。体に悪い影響は残らない」

「やっぱりそうか」

 ヒタネは溜め息をつき、立ち上がると、木杯を中卓の上に置いてユテに歩み寄ってきた。そしておもむろに手を伸ばし、ユテの頬に触れる。

「おまえ、本気で、その子と生きるつもりなんだな」

「ああ」

 ユテはヒタネを見つめ返して微笑み、きっぱりと答えた。

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