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始まりの夜

 遥か昔、五族協和という、壮大な夢を擁いた男がいた。五族とは、真人族、野生族、夜行族、天精族、地老族である。言葉を介して意思の疎通ができ、交わることも可能なこれら五つの種族は、しかし、互いに疎み、蔑み、争って、正しく関わろうとはせず、幾万年の時を過ごしていた。伝説に語られる男は、その五族がともに助け合って暮らす協和を夢見、苦難の末に、ついに成し遂げたのである。だが、その幸福な世は、長くは続かなかった。百年も経たない内に、五族はまた相争い始め、協和は崩れたのである。

 男の名は、長い歴史の中で忘れ去られたが、贈られた尊称だけは、協和の伝説とともに語り継がれている。その尊称は、《勇者》。困難に負けず、〈正しいこと〉を成す者という意味である。




第一章 始まりの夜


          一


 遥かな台地の高みから落ちてくる水飛沫を、帽子やその下から覗く金茶色の髪、長袖の上着に浴びながら、少年は駆けていた。目指す先は、滝壷を見下ろす崖の上に生えた大樹の木陰。燦々と降り注ぐ日差しからも、滝の飛沫からも守られるその大樹の根元では、いつも通り、親友がまどろみながら彼を待っているはずだ。といっても、相手は、少年と同じ真人族ではない。

 緑豊かな川岸のごつごつとした山肌を登り、大樹の根元が見えるところまで行くと、やはり、親友が太い幹に背を預けて座っているのが見えた。後ろで一つに編んで先端を飾り筒に納めた腰に届く白銀色の髪や、白い肌の端正な顔立ちは、真人族と変わらない。だが、横顔の半ばを隠すように前へ折り畳まれた耳は、真人族のものとは全く異なっている。飛竜の翼の形をしていて、手より少し大きく、付け根と長い三本の骨の間に皮膜が張り、その皮膜の外側と骨は翡翠色の鱗に覆われ、鉤爪のような真珠色の小さな一角を備えているのだ。

 目を閉じたまま顔を上げないところを見ると、親友は熟睡しているようだ。少年は、ふと思いついて、足音を忍ばせ、息を詰めて親友に歩み寄った。そっと手を伸ばし、翡翠色の耳に指先で触れる。ほんのりと温かく、硬質な手触り。と、その耳がぴくりと震えて広がり、同時に、額にかかる前髪の下で、切れ長の両眼が開いて、瑠璃色の双眸が少年を見上げた。

「ミ、……スカイ?」

 訝しげに問われて、少年は笑顔で、親友の隣に腰を下ろした。

「いや、ごめん。あんまり気持ちよさそうに寝てるから、声かけづらくてさ。それに、その耳、いつ見ても宝石みたいに綺麗だなあって思って」

 少年――スカイ・ホールが素直に告げると、美しい親友ユテは微かに眉をひそめ、高くも低くもない透明な響きの声に、複雑そうな感情を滲ませて言った。

「全く、おまえは変な真人族だよ。普通、天精族の人ならざる部位については、気味悪がるものだと思うけれどね」

 《竜》とも呼ばれる天精族には、幾つかの一族があるが、《獣》と蔑称される野生族同様、身体のどこかに必ず、人の形とは異なる部位を持っている。翡翠色の鱗がある耳は、ユテが属する風竜一族の特徴だ。

「普通とか普通じゃないとか、そんなことはどうでもいいんだ。誰のことも傷つけないなら、綺麗って感じたものを綺麗って言って悪いことなんてないだろう?」

 少しばかり憮然として反論したスカイに、ユテは溜め息をつき、話題を変えた。

「それで、もう日が中天を過ぎてあそこまで動いている訳だけれど、おれを熟睡するまで待たせた理由は何?」

 尋ねられ、スカイは表情を曇らせた。

「村で嫌な話聞いて、クラウドの奴に、詳しいこと訊いてたんだ」

 麓のレイン村在住のクラウド・レインは、スカイのもう一人の親友だ。

「嫌な話?」

 ユテの瑠璃色の双眸の瞳孔が、すっと縦に細くなった。縦に細くなる瞳孔は、天精族と野生族、それに《鬼》とも呼ばれる夜行族の特徴だ。自分達真人族とは印象の違う双眸を、こちらもやはり綺麗だと思いながら、スカイは話を続けた。

「何でも、ここ何日か続けて夜行族が現れてて、一晩に一軒ずつ襲われては、その家の家族全員、血を吸われてるらしい」

 夜行族は、日光を苦手として夜間のみ行動するので、そう呼ばれるが、その中に動物や他種族の生き血を糧として生きる一族――吸血一族がいるのだ。

「はぐれ夜行族か。厄介だな」

 ユテが断定したのには理由がある。夜行族は誇り高い種族であり、自分達の支配を宣言した地域――縄張りの中でしか、狩りをしないのだ。五族が互いに疎み合っている現在、夜行族は、主に平地の深い森に縄張りを構えており、動物を獲物として、他種族を狩りの対象にすることを避けている。つまり、麓のレイン村に現れたという夜行族は、種族の掟に逆らっているはぐれ者なのだ。

「死者は出てないらしいけど、襲われた被害者はみんな、貧血症状が出ただけじゃなく、噛まれた跡が爛れて、高熱が続いてるらしい。誰が襲われるかも分からないから、なかなか防げないって話だった」

「被害家族に共通点は?」

 ユテに確認されて、スカイは険しく眉を寄せた。

「それが……、もっと嫌な話になるんだけどな……」

 当然、村でも対策を立てる一環として、被害家族の共通点探しは為されたが、表向きは何も見えてこなかった。ただ、噂が流れているという。

「今のところ分かってる被害家族は四家族なんだけど、どの家族も実は、《混ざり者》の家系だって噂が流れてるらしいんだ」

 《混ざり者》というのは、種族間の混血を、蔑んで呼ぶ言い方である。

「被害家族の家はレイン村のあちこちに散らばってて、特にお互い交流がある訳じゃないし、被害者の何人かはおれも実際会ったことがあって知ってるけど、別に、見た目は真人族と変わらない。本人達も、《混ざり者》だなんて、名乗ったことはない。でも、そういう噂って、連綿と消えずに伝わるもんだろう? おれの家族だって、多分、陰じゃ噂されてるし……。村議会は事実無根の噂だって言って認めてないのに、聖教会は、『異種族と交わった者に《聖罰》が下った』って信者達に言ってるらしいよ」

 聖教会とは、最近勢力を拡大してきた宗教団体で、レイン村の外れにも、二年前に聖教会寺院が建ち、入信する村人も徐々に増えつつある。その教義の中で最も特徴的なのは、種族間の交わり、関わりを固く禁じている点だ。

「夜行族が、《混ざり者》ばっかり狙ってるとしたら、確かにおかしいとおれも思うけど、だとしても、それは《聖罰》とかじゃないだろう?」

「あんなものは、作り話だ」

 ユテは、溜め息とともに否定した。

「だよな……!」

 スカイは安心して頷いた。聖教会のことは、正直いけ好かない。それは、〈自分自身の存在が教義で否定されている〉からに他ならないのだが、それだけではない胡散臭さのようなものを感じるのだ――。

「しかし、夜行族の行動には、必ず意味がある」

 ユテが、足元に生えている可憐な花を見つめながら、きっぱりと告げる。

「夜行族は、誇り高い分、こだわりが強い。はぐれ夜行族でも、種族と袂を別った理由があるだろうし、真人族を襲う理由があるはずだ」

 そこまで言ってから、ユテはおもむろに立ち上がり、スカイの顔を見下ろす。

「今夜、おれが麓に行こう。おまえやおまえの家族が襲われたら嫌だしね」

「いいのか?」

 スカイも、親友の顔を見返しながら立ち上がる。

「麓は、天精族にとって居心地のいいところじゃないって、おまえ、いつも言ってるじゃないか」

「一晩くらい、何の問題もない。要は我慢するかしないか、だけだよ」

 あっさりと答えて、ユテはふっと微笑む。

「そんな心配そうな顔をしなくていい」

 物堅い表情をしていることが多いユテが頬を弛めると、目を離せなくなるような愛敬がある。

「おまえ、普段からもっと笑ってたらいいのにな」

 スカイが思わず言った一言には、深い溜め息が返ってきた。



「じゃあ、また今夜な!」

 手を振りながら山肌を下るスカイを見送ってから、ユテは歩み寄ってきた地老族の小柄な老爺へ視線を転じた。

「どうかしたんですか? スカイは帰りましたが」

「おまえさん、最近笑顔が増えたの」

 老爺は腰を伸ばすようにユテを見上げて、変則的な答え方をした。

「スカイには、もっと笑えと言われましたが」

 ユテが溜め息混じりに応じると、老爺は愚痴のように言った。

「あの子が山へ来る目的は、もうほとんどおまえさんじゃの。わしの洞穴へは、『元気か?』言うて一瞬顔見せるだけで、すぐここへ行きよるぞ」

 ユテはその様子を想像して、苦笑した。確かにそうだと思える節が多過ぎる。だから、真面目に心配しているのだ。

「あいつをここまで懐かせるつもりはなかったんですが、駄目ですね。纏わりついてくるので、つい構ってしまいます」

「あやつに似ておるの」

「――そうかもしれません。あの翠玉色の瞳など、そっくりです。それから、笑った感じや、雰囲気や、何より考え方が」

 ユテは視線を落として答えた。先ほどなど、夢で見ていた続きかと思って、思わず別の名で呼びそうになった。それくらい自分の中で、〈彼〉とスカイは似た存在になってしまっている。

「大きくなるにつれて、勝手に離れていくかと思っていましたが、十五歳になってもあれでは、まず無理でしょうね。もうおれの存在は、あいつにとって、害悪でしかない。今回の夜行族のことが片づいたら、おれは台地の上へ――里へ戻ろうと思います」

 目の前を降っていく滝の源流が豊かに流れる場所。この台地の上こそが、風竜一族の里なのだ。

「――あやつの予言を恐れておるのか?」

 老爺は、石灰色の太い眉を片方だけ上げて、ユテを見上げる。

「あの子があやつと同じ《勇者》の道を歩むことを。そう導いてしまうことを」

 ユテは、眉根を寄せて地老族の老爺を見下ろした。ユテが《勇者》を嫌っていたことを、そして《勇者》が決して幸せな存在ではないことを、この老爺は実際に目の当たりにして知っている。それでも尚、スカイが《勇者》になることを望むのだろうか。強張った気持ちを解きほぐすため、意識的に溜め息をついて、ユテは答えた。

「全く、〈彼〉も、余計なことを言い残してくれたものです。自分の子孫の中から、次の《勇者》が現れるなどと。未来を知る力などなかった癖に」

「じゃが、先を見通し、物事を予見する力はあった。おまえさんも、じゃからこそ、あやつの言葉を予言として信じておるのじゃろう? 里を出たまま、ここで、ただ、あやつの末を――」

「そうですね」

 ユテは老爺が言いかけた先を遮り、苦く微笑む。

「けれど、それでスカイと親しくなり過ぎてしまった。《勇者》の宿命から遠ざけようとしたことが、逆に仇になりつつある。おれが〈彼〉を嫌ったように、〈彼〉もおれに何か思うところがあったのかもしれませんね。〈彼〉の予言は、おれにとっては、まるで呪詛です」

 長い間胸に痞えていた思いをそのまま口にしたので、さすがに言葉が過ぎただろうか。地老族の老爺は、石灰色の眉と髭に覆われた、表情の窺い知れない顔でユテを見上げたまま、暫し沈黙したのち、嘆息とともに言った。

「そこまで言うなら、止めはせんが……、あの子は、台地の上まで、おまえさんを追っていくかもしれんぞ?」

「そんなことのないように、今夜、話をします。それに、万が一、あいつが追ってきたとしても、一族の結界に阻まれますよ。天精族は、五族一、他種族嫌いですから」

 ユテは自嘲気味に告げた。



「ただいま!」

 山肌を走り下った勢いそのままに玄関扉を開け、家の中に入ったスカイは、目深に被っていた帽子を壁の帽子掛けに掛け、居間を横切って、二階の自室へ駆け上がる。その背中へ向けて、台所から母親が叫んだ。

「大おじいちゃん、元気だった?」

「ああ! 今日も腰が痛いって元気に愚痴ってた!」

「そう、よかったわ」

 母親の返事を聞くと同時に、スカイは自室に入って戸を閉めた。

 天精族風竜一族が住まう台地に連なる山の中腹にある、あの滝壷近くに口を開けた洞穴。それが、彼の曽々々々々々々々々……祖父であるというチムニーの住まいだ。向こうも、気紛れに真人族と交わってできた子孫の末が、現在何代目かなど覚えていないだろう。地老族は、天精族や夜行族以上の長寿を誇る種族なのだ。だからホール家では、祖先である、あの地老族小人一族の老爺を、ただの〈大おじいちゃん〉と呼び習わしている。

 最初はスカイも、ホール家後継ぎの密かな習わしとして、十歳の誕生日を迎えた時から、時折山へ〈大おじいちゃん〉に会いに行くだけだった。だが十一歳のある日、そこで美しい天精族と出会ってしまったのだ。以来、〈大おじいちゃん〉に会いに行くほうはついでで、毎日その天精族に会いにいくようになった。

(今夜は一晩中、ユテといられる)

 心が躍る。同時に、緊張もする。

(夜行族……、実際会うのは、初めてだ……)

 生き血や精気を主な糧として生きる種族。日光を苦手とし、夜の闇の中で活動する種族。野生族を上回る高い身体能力を有し、視覚、聴覚、嗅覚なども優れた種族。

(ユテの足手纏いにならないよう、しっかり準備しとかないとな。もしかしたら……、おれが狙われるかもしれない訳だし)

 真人族を名乗り、実際ほとんど真人族とはいえ、自分は、僅かに地老族の血を引く混血――つまり《混ざり者》なのだ。クラウド・レインが教えてくれた村の噂を信じれば、夜な夜な現れる夜行族の標的の一人ということになる。それなりの覚悟をしていかなければならない。

 小刀、火打石と紙、蝋燭、傷薬、包帯、縄……。いつも肩に掛けている布鞄へ、スカイは思いつく限りの物を入れていく。

(それにしても)

 ふとスカイは手を止めた。ユテは、夜行族相手に、一体どうするつもりなのだろう。ユテが短刀を使うことは知っている。しかし、夜行族相手ならば天精族風竜一族としての力を使うのだろうか。天精族は、五族の中で、最も謎に包まれた種族だ。生物無生物全てのものに宿る精気を操るとも言われているが、その実際は知られていない。ユテから、何かそういった力を見せられたこともない。そういったことについて、スカイから尋ねたこともなかった。

「いろいろ興味本位で訊きまくったら、ある日いきなり、会えなくなりそうだもんな……」

 思わず呟いて、スカイは寂しく笑った。あの大樹の下で、毎日昼過ぎからスカイを待ってくれているのは、完全にユテの好意だ。スカイは、ユテの住み処も、何故あそこにいるのかも、何も知らない。

「十一歳の時から、嵐で山に登れない日以外、毎日会ってるのにな……」

 そのユテと、今日は一緒に夜を過ごすことになる。夜行族相手に、戦うことになるかもしれない。全てが初めて尽くしだ。

「――よし!」

 荷物を布鞄に入れ終えて顔を上げると、いつの間にか、窓から夕日が差し込み始めていた。


          二


 夕食を食べた後、家族には隠れて帽子を二階の自室へ持って上がり、布鞄を肩に掛けて窓から屋根の上に出たスカイは、夜の闇に覆い尽くされようとするレイン村を見下ろした。台地に連なる山の裾野に建つホール家より、更に低い平地に広がるレイン村。その家々の煙突から仄かに立ち昇る煙や、窓から漏れる温かな灯りを眺めるのが、スカイは好きだ。そこには、人々の日々の営みがある。守られるべき、平和な生活がある。

「待たせたかな」

 不意に背後から声をかけられて、スカイは首を横に振った。

「いや、今出てきたところだよ」

 振り向くと、いつも通り、白い裾括り袴に分厚い編み上げ靴、壺襟で裾の長い黒い内衣の上に、裾の長い白い上衣を羽織って、その上から帯を締めた出で立ちのユテが、何の気負いもない涼しい顔をして立っていた。山で約束した通りの登場だったが、あまりにもいつも通り過ぎて拍子抜けするほどだ。武器といえば、これもいつも通り、帯の腹側に挟んである鞘に入った短刀だけのようだ。

「ならよかった。まずは村に行く。その帽子を貸してくれ」

 ユテが当然のように差し出した手に、スカイは苦笑しつつ愛用の帽子を渡した。スカイの帽子は、前に庇があり、横には耳覆いが付いている。人ならざる耳を隠すために被るのだろう。

「結構似合うじゃないか」

 美しい親友は、スカイの帽子を被ると、ひどく可愛らしく見えた。

「暗がりの中で、真人族に見えれば、それでいい」

 呆れた口調で応じると、つとユテはスカイの手を取った。急に手を握られて目を見開いたスカイに、ユテはもう一方の手で帽子を押さえながら、さらりと言った。

「しっかり掴まっていろよ」

 その言葉が終わるか終わらない内に、轟、と風が鳴った。

 慌ててユテの腕に掴まり、突風に目を閉じたスカイが、数瞬後に目を開くと、そこはもうレイン村の中心近くの橋の上だった。体が浮いた感じは、錯覚ではなかったのだ。

「……おまえの力か?」

 驚いたままの声で尋ねたスカイに、ユテは辺りへ視線を走らせながら頷いた。

「ああ。風竜一族の力で、風に己の精気を混ぜて操る。これくらい派手なことをすれば、夜行族のほうから近寄ってきてくれるかもしれないからね」

「おれ達囮って訳か」

 頭を掻いたスカイをちらと見て、ユテは口元に笑みを浮かべた。

「そのほうが、真人族の被害が出なくていいだろう?」

「まあ、その通りだ」

 納得して、スカイも辺りを見回した。ユテが起こした突風は、二人の周りにだけ局所的に発生させたものらしく、吹き飛ばされたようなものは一つも見当たらない。村人達にも全く気づかれていないのか、誰かが家から出てくる気配もない。静かな夜だ。

(或いは、夜行族を恐れてか)

 家々の内からの灯りを滲ませる窓や扉は、ほとんどが板を打ちつけて簡単には開かないようにしてある。多少の異変に気づいたとしても、村人達は身を守るため家の中に固く閉じ篭もって出てこないのかもしれない――。

 と、スカイの想像に反して、家々の向こうから人影が歩いてくるのが見えた。一人だ。二人が立つ橋へと、道を進んでくる。

「まずい。酔っ払いで噂好きのロックだ」

 スカイはユテに小声で教えた。片手に角灯、片手に酒瓶を持った中年男――ロック・マウンテンは、ややふらつく足取りで、鼻歌まで歌いながら、どんどんと近づいてくる。誰一人外を出歩いていないというのに、さすが筋金入りの酔っ払いと言うべきか。

「ユテ、あっちへ行こう。特におまえは、あいつに会わないほうがいい。どんな噂を流されるか分かったもんじゃない」

 白い上衣の袖を引っ張ったスカイに、ユテは低い声で告げた。

「駄目だ。今ここを離れたら、あの男が襲われるかもしれない。こちらを窺っている気配がある」

「え……」

 慌てて辺りを見回そうとしたスカイの頭に手を回し、ユテは間近から囁いた。

「ここは、古典的に恋人の振りで乗り切ろう」

「へ?」

 間抜けな声を出したスカイの背中に、もう片方の手を回して、ユテは真顔で抱きついてきた。その一瞬、スカイの脳裏に、初めてユテと出会った時の情景が蘇る。

 陽光を一杯に浴びた、あの大樹の下。

――「おまえ、天精族か?」

 驚いて問うた十一歳のスカイを見下ろし、今と変わらない姿をしたユテは、苦いような顔をして問い返してきた。

――「おまえこそ、何?」

――「おれは、この山に住んでる地老族チムニーの子孫の、スカイだ!」

――「おれは、ユテ」

 あっさりと名を告げた天精族の、透き通るような美しさに気づいて、幼かったスカイは尋ねた。

――「おまえ、女か?」

 あまりに直接的な問いだったからだろう、ユテは数回目を瞬いてから、すっとしゃがんでスカイの顔を真正面から見つめ、言った。

――「天精族は全て女だよ。子孫を増やす時は、女が一人で女を産む。男と女がいる訳じゃないから、他の種族みたいに、女を主張する外見や声になったりはしないけれど。そういう意味じゃ、男でも女でもないと言ったほうがいいかもしれないね」

「きょろきょろするな」

 不意にユテの現実の声と息遣いが、スカイの片方の耳をくすぐった。十一歳の頃よりかなり身長が伸びたスカイは、既にユテより弱冠背が高くなっている。抱きついてきたユテの顎が、丁度肩の上に乗っているので、指示は、息遣いそのままに伝わってくるのだ。

「夜行族に、こちらが気づいたと気づかれる。このまま、その男から、おれの顔を隠すだけでいい」

 そうして、ユテはスカイの肩に顔を埋めるように俯く。確かに、この角度なら、スカイの首や肩と、帽子の庇に隠れて、ユテの顔はほとんどロックからは見えないだろう。

「けど、おまえ」

 夜行族がいるのにこんなところで突っ立ってたら、そのほうが危ないじゃないか――。ユテの肩を掴みながら、スカイが言おうとした言葉は、音にならなかった。ユテの全身から、そよ風のように立ち昇った清浄な精気がスカイを包み込み、体の動きを封じたのだ。

「こんなところで逢引か、スカイ」

 ロックのにやけた声が聞こえる。こんな体勢でいてはいけないと思う。だが、体はスカイの意に反して、ユテに抱き締められたまま、ぴくりとも動かない。

「全く、そんな銀髪美人、どこで引っ掛けたんだ、この色男め」

 悪気のないロックの軽口と灯りが、背後を通り過ぎていく。そうして、ロックが向こう岸へと橋を渡り切る頃、何の足音もさせず、スカイとユテの傍らに、もう一つの人影が現れていた。二人の肩ほどまでの背丈しかない、頭巾の付いた黒い上衣で体をすっぽりと覆った子どもだ。手をほどいて、スカイからあっさり離れつつ、ユテが確認した。

「夜行族、か?」

「純血の天精族が、こんなところで何をしている」

 夜行族ということを否定しない相手は、少年の声をしていた。

「はぐれ夜行族が出ると聞いてね」

 ユテは、スカイがあまり見たことのない冷ややかな態度で言う。

「けれど、きみの気配は吸精一族。最近この村で真人族を襲っている夜行族は、吸血一族。誇り高い夜行族に、一体何が起きている?」

「他種族のことに首を突っ込む天精族とは畏れ入る」

 皮肉な口調で応じて、夜行族吸精一族らしい少年は、被っていた頭巾を後ろへ脱いだ。黒炭色の髪を後ろで短く束ねており、まだ幼い顔立ちをしている。しかし、あどけなさは微塵も感じられない鋭い両眼をしていて、紅玉色の双眸が、射るようにユテを見上げた。

「その真人族に関係あるのか」

 顎で示されて、スカイは顔をしかめようとしたが、それすら叶わなかった。体は、全く動かない。

「そんなに厳重に結界で守って、まさか本当に想い人だとか言うんじゃないだろうな」

「こんな寿命の短い、虫けら並の種族を愛してどうする」

 呆れ返ったというようなユテの言葉に、スカイは耳を疑った。両眼は辛うじて動くので、ユテを凝視したが、親友はスカイに一瞥もくれず、夜行族と話を続ける。

「昔世話になった地老族から、少しばかり頼まれているというだけの子どもだ」

「成るほど、確かにこいつ、微かに地老族の精気が感じられる。ほんの僅かだが《混ざり者》か」

 夜行族の少年は、スカイを見て少しばかり驚いたふうに呟いてから、ユテに視線を戻す。

「しかし、どんな理由であれ、純血の天精族がこんなところにいていいのか? 穢れが――」

「きみには関係のないことだ」

 ユテは殺気を孕んだ声で夜行族の言葉を遮ると、不意に翡翠色の耳を大きく広げた。

「きみの仲間が現れたぞ」

「仲間じゃない」

 夜行族は、幼い顔に凶悪な表情を浮かべ、舌なめずりする。

「獲物だ」



 当座のねぐらにしている森から出てきたムクロは、村外れに建つ聖教会寺院の尖塔の上に身軽に上がり、顔をしかめた。自分自身がこの村にとって招かれざる客だということは分かっているが、それ以外にも今夜は、珍客が多過ぎる。

(天精族風竜一族に、地老族小人一族の血を引く真人族、それに吸精一族の血を引く奴まで……。あれは、ぼくの追っ手だろうな)

 〈獲物〉も増えてしまった。後一家族で、今夜片づくと思っていたのだが、予想外だ。

(さすが五族協和を唱えた《勇者》の出身地というべきか。五族が混ざり合って、濃いのやら薄いのやら、《混ざり者》が大勢いる)

 《勇者》の名は忘れられて久しいが、その出身地がこのレイン村だということは、寿命の長い夜行族や天精族、地老族の間では細々と伝わっている。

(とにかく、真人族の《混ざり者》は、全て獲物だ)

 与えられた仕事を全うしなければ、〈あれ〉にあり付けない。そう考えただけで、鼓動が速くなり、吐き気がする。

(ぼくも、堕ちたものだ……)

 自嘲の笑みを浮かべ、ムクロは新たに見つけた〈獲物〉に向かって、跳躍した。



 屋根伝いに跳んできた人影が、白刃を振り被って飛びかってくるのを、身動きできないまま、スカイは凝視した。人影は、真っ直ぐ自分へと飛んでくる。

(狙いは、おれ……!)

 息を呑むスカイの前へ、すっとユテが立った。その手には鞘から抜いた短刀がある。相手の長剣を、受け止めるつもりなのだ。

(危ないって、ユテ!)

 声も出せないのが、もどかしい。どうやら、ユテは結界でスカイを守っているらしいが、これでは完全に足手纏いだ――。

 だが、人影が地上に降ってくる前に、吸精一族の少年が跳び上がり、上衣の下から長刀を一閃させて白刃を払った。空中で吹っ飛ばされた人影は、ばしゃりと川の中へ落ち、吸精一族の少年のほうは、橋の欄干の上に降り立つ。

「あんたらは手を出すな。これは夜行族の問題だ」

 肩越しに告げると、吸精一族の少年は、長刀を振り被り、川の中で立ち上がった相手に斬りかかっていく。闇に沈んだ川の中で、剣と刀がぶつかり合う音、水を蹴散らす音が連続して響き始めた。

「あのまま相討ちしてくれたら、楽でいいんだけれど」

 川のほうを見つめて呟きながら、ユテはスカイの腕に片手で触れた。その途端、体を縛っていた精気が解け、スカイは大きく息をついた。

「ごめん」

 ユテは夜行族達を警戒しながらも、スカイを振り向いて謝る。

「この場の誰より、あの黒頭巾の夜行族が危険だったから、一番強い結界を張ったんだ。強い結界は内側のものを縛ってしまうから、不快なのは分かっていたんだけれど」

「……いや、おれのためにしてくれたんだから、いいよ」

 スカイは、底知れない寂しさと悔しさを隠すため笑う。

「おれのほうこそ、完全に足手纏いで、ごめん。もう少し役に立つつもりで来たんだけどな」

「――それは、無理だよ」

 ユテが静かに、突き放す言葉を口にした。いつもなら、少々意地悪な口を利いたとしても、スカイが落ち込めば、必ず慰めてくれる親友が、端正な顔に憐れむような表情を浮かべて、残酷な事実を告げる。

「ほとんどただの真人族のおまえが、他種族同士の争いに巻き込まれたら、自分の身を守ることさえ危うい。今夜、おまえを連れてきたのは、最初から、囮にするつもりだったんだ。村人達は、一部の例外を除いて、みんな家の中に閉じ篭もっているだろうことは、予想がついたからね」

 親友の豹変振りに呆然としかけたスカイは、歯を食い縛り、両拳を握って、先ほどから問うまい、信じるまいと思っていたことを、問うた。

「おまえにとっておれは――『昔世話になった地老族から、少しばかり頼まれている』、『虫けら並の種族』なのか……?」

 ユテは一瞬、硬い表情をしたが、すぐに溜め息をついて答えた。

「おまえといる時間は楽しいよ。でも、それは、二千年生きているおれにとっては、ほんの瞬きするくらいの時間でしかない。おれとおまえじゃ、生きている時間も、生きてきた環境も、何もかもが、違い過ぎる。分かっていたことだろう?」

 完全に突き放されて、スカイの中で、何かが爆発した。

「おれは……! おれは、伝説の《勇者》の時代みたいに、五族協和ができたらいいって――、少なくとも、個人的に出会ったおまえとは、そりゃ、おれの一生はおまえに比べたら短いけど、それでも、友達でいたいって――、それは、望んじゃいけないことなのか? こうやって、言葉が通じて、一緒の時間も過ごせるのに、駄目なのか?」

「……おまえは、何も分かっていない――」

 咽の奥から絞り出すような低い声でユテが言った直後、一際派手な音が川で響いた。

「《混ざり者》、血を頂戴!」

 狂気を孕んだ声が空中で響き、風を裂いてスカイ目掛け何かが飛んできた。途端に、轟、とユテの周りから風が起こって、飛んできたものを弾き飛ばす。橋の上に落ちたそれは、二本の短剣だった。

「あの黒頭巾、しくじったのか?」

 苛立たしげに呟きながら、ユテは当然のようにスカイを背後に庇う。その背中に、頼もしさよりも悲しみを感じながら、スカイは布鞄の中を探り、小刀と、とある小瓶を取り出した。

「何で、そんな不浄の輩を守る?」

 狂気の叫びが足音とともに近づき、びゅっ、という風切り音が鳴る。がきり、と相手の白刃を短刀で受け止めたユテが、冷ややかに問い返した。

「おまえこそ、何故、《混ざり者》を狙う?」

「そう命じられたからさ」

 短く答えて後ろへ跳び退った姿は、家々から漏れる灯りに、白金色の柔らかそうな巻き毛を照らされた子どもだった。黒い詰襟の長袖上着を着て、黒い筒袴を穿き、黒い革靴を履いている。声から察するに、こちらも少年だ。

「誇り高い夜行族が、誰かに使われているのか」

 ユテが重ねた問いに、吸血一族らしい少年は、口を歪めて言った。

「薬漬けにされたこの身に、誇りなんて、とうにないよ。真人族というのは、本当に恐ろしい。あなたも、気を付けるんだね。気を許してると、いつ裏切られるか分からないよ」

 スカイは耳を疑ったが、ユテも驚いたようだった。

「おまえを使っているのは、真人族なのか」

「ああ、そうだよ!」

 肯定すると同時に、吸血一族の少年は突っ込んできた。だが、その長剣の切っ先がユテに達する前に、横から体当たりしてきたもう一人の夜行族に吹っ飛ばされて、欄干にぶつかる。橋の上に戻ってきた吸精一族の少年は、片手に抜き身の長刀を光らせながら、愉しげな口調で言った。

「毒の唾を吐くとはな。川の水がなければ、危うく失明するところだ。おまえ、楽に死ねると思うなよ」

「とうにそんなこと、諦めてるさ」

 負けず劣らず不敵に答えて、吸血一族の少年は、両手で長剣を構え直す。

「でもなあ、この村の真人族の《混ざり者》全ての血を飲まないと、ぼくは〈あれ〉を貰えないんだよ。〈あれ〉が――あの薬がなかったら、ぼくは正気に戻れない。正気に戻れなかったら、カバネにも会えないんだ! だから、邪魔しないで!」

 悲痛な絶叫とともに斬りかかってきた吸血一族の長剣を、黒い上衣を揺らして、吸精一族が長刀で横へ往なし、返す刀で逆に斬りつける。それを危ういところでかわして、吸血一族は橋の上を転がり、起き上がって、また両手で長剣を構えた。その咽元へ、間髪を入れず吸精一族が片手を伸ばして突きかかり、今度は吸血一族のほうが半身になって長刀を往なす。往なされたことに逆らわず、吸精一族のほうは、くるりと宙で一回転して、橋の欄干を蹴ると、そのまま再度吸血一族へ突きかかる――。真人族なら、達人と呼ばれる剣士でなければできないような刀剣捌きを、まだあどけなさの残る少年二人が応酬し合っている。だが、段々と、スカイの目にも、吸精一族の少年のほうが優勢になっていくのが分かった。純粋に、腕前が上なのだ。身軽な上、刀の一振り一振りが全て重く鋭く、しかも確実に急所を狙っている。その一撃一撃を受け、往なすだけで、吸血一族の少年のほうは消耗していくようだった。

「勝負あったな」

 唐突にユテが呟き、直後、吸血一族のほうが相手の攻撃を往なし切れず、体勢を崩した。倒れつつも、白金色の髪の少年は、長剣と両腕で自らを庇ったが、その下へ、低い体勢から吸精一族の少年が長刀を一閃させる。鋭利な刃は、白金色の少年の腹を横に斬り裂いた。

「あっ」

 悲しげな呻きとともに、吸血一族の少年は仰向けに橋の上へ倒れる。瞬間、風が起こった。

「――どういうつもりだ」

 吸精一族の少年が、突風とともに移動したユテに、冷ややかに問うた。止めを刺そうとしたところを阻まれたのだ。ユテは、そちらへは一瞥もくれず、しゃがんで体で庇った吸血一族の少年を見下ろし、問うた。

「カバネとは、誰だ?」

「――双子の、妹」

 瀕死の吸血一族は、激痛に顔を歪めながらも、血の滲む口元に微笑みを浮かべる。

「可愛いんだ。帰らないと、あいつが、泣く。気が強いけれど、泣き虫だから」

 そこまで告げて、ごふっと血を吐いた少年の、流血し続ける腹に、ユテは両手を当てた。

「何をするつもりだ?」

 吸精一族の少年が、片手に長刀を握ったまま、心底怪訝そうに問いを重ねた。

「この子の命を救って、黒幕を吐かせる。きみからは、〈夜行族の問題〉とやらで、訊き出せそうにないからね」

 漸く答えたユテの手元は、淡く光っているように見えた。

「精気を送って、傷を癒す……。天精族は、そんなことまでできるのか」

 呆れたように言った吸精一族の少年を、ユテのほうが驚いたように見上げた。

「きみも、できるはずだ。知らなかったのか?」

「おれは夜行族だ」

「だが、その気配、半分は天精族だ。激しく、眩しい、天精族火竜一族の精気」

「おれは、夜行族だ」

 頑なに断言した少年は、長刀の切っ先を、ユテの咽元に突きつける。

「そいつを殺す邪魔をするなら、あんたから殺す」

 途端に、スカイにすら、ユテの気配が大きくなったように感じられた。

「純血の天精族と、本気でやり合ったことのない奴の言い草だね」

 ゆらりと立ち上がったユテは、手だけでなく、全身が淡く光っているように見えた。

「確かにそんな経験はないが……」

 さっと退いて距離を取りながら、夜行族と天精族の《混ざり者》らしい少年は真顔で言う。

「天精族の強さは諸刃の剣だということは知っている。あんたらは、強いが、弱い。だから、おれに勝機がない訳じゃない。幸い、今あんたには、足手纏いが二人もいる訳だしな」

 足手纏いの一人に数えられたスカイは、ぎりと歯を食い縛って、掌に握り込んだ小瓶の蓋を、親指と人差し指で外した。

「スカイ? 下がっていろ……」

 些細な動きに気づいて、静止するユテの声を無視し、スカイは、長刀を持った少年目掛けて一歩踏み込むと同時に、その勢いのまま小瓶の中身を浴びせかけた。

「喰らえ! スカイ・ホール特製香辛料!」

 粉末の香辛料は、風を操るユテには容易に防げても、夜行族を名乗る少年には、防げないものらしかった。顔をしかめて、向こう側の欄干の上まで跳び退った少年は、ユテが操る風で攻撃的な動きをする香辛料に追われて、更に川岸へと跳躍した。

「退くよ」

 彼我の距離が開いた隙を逃さず、ユテの声が響き、旋風が、吸血一族の少年とスカイを包み込む。轟、と移動した先は、満天の星空を切り取る地形を見れば、見慣れた滝壷の水が流れてくる川岸らしかった。あの大樹が生えている崖の少し下辺りだ。

「この吸血一族、大体血は止まったんだけれど、包帯はある?」

 灯りの一つもない真っ暗闇でも見えるらしいユテに訊かれて、スカイは全く見えないながら、布鞄の中を探った。勿論、包帯は入れてあるが、先に指に触れたのは、香辛料とは別の小瓶だった。

「傷薬もあるけど、要るか?」

「そうだね。一応塗っておこう」

 ユテの声がしたほうへ、まず傷薬の小瓶を差し出す。小瓶を持った手に、ほんの少しユテの手が触れて、ささやかな重みが手の中から消えた。沈黙が訪れ、川の水音と、薬を塗っているらしい音だけが聞こえる。どちらかと言えば口数の少ないユテに対し、いつもならスカイがいろいろと話しかけるのだが、あんな会話をした後では、それができない。必要最低限の会話をするだけで、精一杯だ。

(ユテの、馬鹿野郎……!)

 スカイが心の中で呟いた途端、ユテが言った。

「ありがとう、スカイ」

「え?」

「次は包帯を」

 端的に要求されて、スカイは落ち込みながら、手探りで傷薬を受け取り、代わりに包帯を渡した。


          三


 一通りの治療を施された夜行族吸血一族の少年は、眠っているようだった。微かに聞こえる穏やかな寝息は、容態が落ちついていることを感じさせて、スカイは川岸の岩に凭れて座ったまま、少し安堵した。だが、気を抜いてはいけないのだろう。

「――あの黒頭巾、追ってくるかな」

 勇気を出して、沈黙を破った言葉に、傍らに同じように座っているらしい、ユテの静かな声が答えた。

「恐らくは。ただ、ここは風竜一族の里に近いから、夜行族のほうに、何かお伺いを立てているかもしれない。五族は、お互い不干渉が基本だから」

 ユテは、きっとそこまで計算して、二人をこの山へ連れてきたのだろう。

「『五族は、お互い不干渉が基本』か。けど、あいつ、おれと同じ、《混ざり者》なんだな?」

 スカイは、もうほとんど真人族だが、地老族の血を僅かながら引いているという点で、やはり《混ざり者》だ。しかし、ユテの言葉を聞く限り、あの黒頭巾の少年は、もっと顕著に《混ざり者》なのだ。

「あの気配は、明らかに、半分が夜行族吸精一族、もう半分が天精族火竜一族だ。第一世代の《混ざり者》だよ。でも、火竜一族としての力は、全く使えないようだった。おまえ特製の激辛調合香辛料も、火で燃やしてしまえば、何ということはなかったはずなのに、そうしなかった」

 ユテの指摘に、スカイは別の意味で驚いた。

「おまえ、あの香辛料知ってたのか」

「――以前、チムニー殿から、味見させて貰ったことがある。おまえは料理が得意で、作ったものをいろいろ届けてくれる、と自慢されながら」

「へえ」

 スカイは急に心が温まるのを感じた。自分の知らないところで、〈大おじいちゃん〉と親友は、そんな交流もしていたのだ。

「――なあ、ユテ」

 新たな勇気を得たスカイは、真剣な口調で切り出す。

「おれとおまえは、おまえが言う通り、いろいろと違うのかもしれない。けど、おれは、おまえと一緒にいると、ただそれだけで、幸せなんだ。おまえと出会ってからの四年間は、おまえにとっては短い、どうでもいい時間かもしれないけど、おれにとっては、掛け替えのない、大切な時間なんだ。だから、『虫けら並』の『瞬きするくらいの時間』――、おれが死ぬまでの間、おれと、友達でいてくれないか? ずっと、傍にいてほしいんだ」

「――本当に、虫けら並の頭だね」

 闇の中、返ってきた声には、怒気が滲んでいた。次いで、頭にひんやりとした手が触れ、ぐいと引き寄せられる。上腕にユテの肩が当たり、頬に、ユテの頭が触れた。スカイの帽子の耳覆い部分と、柔らかな髪が感じられる。

「おまえは、何も分かっていない」

 レイン村の橋の上でも聞いた言葉を繰り返し、ユテは、スカイを引き寄せる手に力を込める。

「おまえと友達になって、おまえがいなくなるまでずっと一緒にいて……、その後、おれはどうなる? おまえがいなくなった後の孤独を、どうやって埋めればいい? 普通に生きれば、おれの寿命はまだまだ続くのに」

 スカイは、小さく息を呑んだ。確かに、自分は「虫けら並」の頭だ。自分の気持ちばかり考えて、ユテの気持ちなど、少しも考えていなかった。

「ごめん……」

 俯いて謝ったスカイの頭に、ぐいと帽子を被せて返すと、ユテは、すっと体を離した。そうして、闇の中から、ぽつりと告げた。

「今回のことが終わったら、おれは、風竜一族の里へ戻る。おまえには、もう会わない。そうしないと、おれが、つらいんだよ……」

 返す言葉が見つからず、スカイはただきつく、己の膝を抱えた。五族協和は、夢のまた夢だ。自分達は、違いを乗り越えられない。お互いを、大切に思えば思うほどに――。

「見つけたぞ」

 聞き覚えのある少年の声が、頭上のほうで響いた。

「風竜一族の里の近くでも、お構いなしか」

 ユテが応じて、立ち上がったらしかった。相変わらず、スカイには、頭上の満天の星以外、何も見えない。

「その吸血一族をこっちに引き渡せば、何もしない。抵抗するなら、それはあんたらに咎のあることだ」

 返ってきた答えに、ユテはくすりと冷笑した。

「成るほど。そういう理屈で来たか」

 それから、ふと口調を変えて、ユテは言う。

「おれの通し名は、ユテだ。きみの通し名は、何という? 火竜一族の中で育たなかったとしても、天精族としての忌み名と通し名だけは、与えられているはずだ」

(忌み名? 通し名?)

 どちらもスカイが初めて耳にする言葉だった。親友の「ユテ」という名は、呼び名に過ぎず、本当の名ではないということだろうか。

「おれは、夜行族だ。夜行族吸精一族のクロガネ」

 降ってきた相変わらず頑なな返事に、ユテは笑みを含んだ声で答えた。

「漸く、名を教えてくれたね、クロガネ。その火竜一族の尾に因んだ名か」

「――黙れ」

 クロガネというらしい少年の、怒気を顕にした一語を皮切りに、ユテが風を起こし、二人が空中でぶつかり合ったことが、気配で分かった。

 ユテの武器は、小刀より少し長くて太いというだけの短刀と、精気で操るという風。クロガネの武器は、あの長刀と……。

「尾? あいつ、尾なんかあったか?」

 崖の上辺りを見上げて、スカイは呟いた。レイン村で、家々から漏れる灯りの中見た限りでは、尾など目にした覚えはなかったが――。

「上衣の下に隠してたよ。火竜一族の血を引く証だから、恥ずかしいんだろうね」

 予期しない返答に、スカイはぎょっとして、傍らの闇を見下ろした。声は、その辺りに寝かされているはずの、吸血一族の少年のものだ。

「ありがとう。まさか、あの状況で治療して貰えるとは思わなかったよ」

 場違いに明るい声は、依然、狂気を孕んでいる。

「おまけに、獲物が、こんな近くに無防備でいる。ついてるなあ」

「おまえ、恩知らずだぞ!」

 布鞄の中から手探りで小刀を出して片手に構えながら、スカイは叫んだ。残念ながら、特製香辛料の小瓶は、あの一つしか持ってきていなかった。

「夜行族が、真人族に恩を感じるなんてこと、ないんだよ?」

 嘲笑うように告げる声が足音とともに迫る。スカイはとにかく足元も見えないまま下がりつつ、空いているほうの手で鞄の中から新たに縄の束を掴み出して、闇雲に相手に投げつけた。どさっと音が響くが、状況は分からない。

「っ痛いなあ」

 少年の言葉で、どうやら当たったらしいことを知りながら、スカイは、金槌、鋏、空になった香辛料の小瓶、傷薬の小瓶……と、手に触るものを次々鞄から取り出して投げつけていった。

「おまえっ、いい加減にしろよ、怪我人相手に!」

 少年が、苛立った声で言った。どうやら、悉く命中しているらしい。

「おれだって必死なんだよ!」

「血を飲ませろって言ってるだけだろう! けちだな! 怪我が治っても血は足りてないし、おまえと、村にいる残り一家族の《混ざり者》の血を飲まないと、ぼくは帰れないんだよ!」

「血なんか飲まれたくないし、何日も高熱が続くなんて、嫌に決まってるだろう!」

「――『何日も高熱が続く』……? ああ、そういうことになってるのか……」

 急に少年の声の調子が変わった。

「おまえのせいだろうが!」

 スカイが怒鳴ると、暫く沈黙があった後、再び狂気を孕んだ声がした。

「仕方ないだろう……? 妹を人質に取られて、薬漬けにされて、ぼくの唾も、汗も、涙でさえ、もう毒なんだよ。それで、わざわざ不浄の輩の血を飲んで、ぼくの毒の唾で、苦しめろっていうんだ……! 不浄の輩には、『聖罰が下る』とかいう、あいつらの拘りのせいでね……! ただ単に、『吸血一族に血を吸われました』じゃ、駄目なんだよ、すぐ回復しちゃうからね……!」

 くすくすと、吸血一族の少年は笑う。笑いながら、泣いている。

「いろいろ面倒臭いよね……、真人族って連中は……。そんな面倒臭いことのせいで……、ぼくとカバネは会えない……! 逆に、殺してもいいなら、一晩に十人だろうが二十人だろうが、できるのに、血を飲めって言われたら、一晩に四、五人――一家族しか、できないじゃないか……。ぼくらは、少食なんだから……」

 草を踏み、小石を蹴る足音が、どんどんと近づいてくる。スカイは、中に火打石と紙と包帯だけが残った布鞄を肩から外した。後は、小刀と、布鞄を振り回して応戦するしかない。

「まだ抵抗するつもり……? 獲物の分際で……!」

 また調子を変えた少年の声に、スカイは本気の殺意を感じて、反射的に足を引いた。と、その足元の小石が崩れ、足ごとばしゃりと川の中へ落ちる。平衡を失ったスカイは、体勢を崩しながらも、布鞄を振り回した。だが、その布鞄は、急に強く引っ張られ、スカイの手から離れて、どこかへ飛んでいった。そして、その落下音を聞くより早く、スカイは川の浅瀬に押し倒され、咽元に、生温かい息がかかり――。

 轟、と吹き荒んだ風の中、複数のことが同時に起きた。



「何故、そんな無茶をした……? そんな奴らのために……」

 クロガネは、通し名をユテという風竜一族を見つめ、呟かずにはいられなかった。

 ユテが、クロガネに向かって、刃のような傷を作る小旋風で絶え間なく攻撃を仕掛けながら、ずっと真人族白肌一族の少年と、吸血一族のムクロに注意を払っているのは分かっていた。ムクロが、傷は治ったとしても、あれだけ失血しておいて依然動けたのは、ユテにとっても計算外だったのだろう。だが、クロガネは、隙あらばムクロを攻撃しようと、無数の小旋風を全て弾き返しながら探っていたので、ユテもそう簡単には真人族の少年を助けに行けなかったようだ。そうして、状況は悪化した。焦るユテをクロガネが揺さぶる間に、真人族の少年が体勢を崩した。

(素直に風で、この崖の上から真人族だけ助けていればよかったんだ……)

 その一瞬の隙で、クロガネはムクロを刺し殺すつもりだった。しかし、ユテはそこまで見通していた。真人族とムクロの両方を守る自信もあったのだろう。ユテは三つのことをほぼ同時に行なった。烈風でクロガネを押し止めながら、突風でムクロを吹き飛ばしつつ、自らは疾風で真人族の傍へ飛び、川から引き上げようとした。だが、そこで、見えていないまま真人族の少年が振るった小刀が、ユテの片方の掌を切り裂いたのだ。

(武器を持った奴に、無防備に近づきやがって……)

 胸中で毒づきながら、クロガネは烈風が弱まるのを待つ。天精族は、強いが、弱い。だからこそ、五族一、他種族嫌いなのだ――。



「ユテ? ごめん! おれ、全然見えてなくて……!」

 慌てるスカイを、とりあえず川岸の上まで引っ張り上げ、ユテは掌の傷を見た。綺麗に切られて血が噴き出している。

(力を分散させて弱まっていたとはいえ、体の防護結界は張り続けていたのに。チムニー殿の手に成る小刀を、スカイが渾身の力で使ったからか――)

 自然、頬に笑みが浮かぶ。

(第三の選択肢だな。これでいいのかもしれない……)

「ユテ、すぐ手当てするから!」

 見えないまま、スカイは己の上着の隠しから手拭きを取り出し、手探りで、ユテの手に巻こうとする。真人族の手が触った、清浄とは言い難い布。本能的に、ユテが手を引っ込めると、スカイは別の解釈をしたようだった。

「あ、もしかして、さっきあいつにやったみたいに、すぐ治せるのか?」

 このくらいの傷ならば、すぐに治せる。だが、塞いだとしても、傷ができてしまった以上、既に、小刀やスカイの上着などから、穢れが体内に入り込んでいるだろう。

「ああ。でも、天精族の血には、使い道がある」

 ユテはスカイに答えながら、己の血を風に混ぜる。

「強い精気を宿しているから、毒にも薬にもなるんだよ。覚えておくといい」

 説明しつつ、二人の夜行族へ向けている突風と烈風に、それぞれ己の血を混ぜた風を加えた。効果は絶大だ。二人とも、すぐに気を失って、その場に倒れた。ついでに、近くに転がっていた空の小瓶を拾い、己の血を少しばかり入れて栓をしながら、ユテは自嘲気味に、悲しく両眼を細める。

(だから、天精族は狙われる。だから、天精族は、他種族と関われない)

 熱が出てきたようだ。ここまで傷による症状の進みが速いとは、予想外だった。何しろ、天精族の結界の外で傷を負うのは、初めてなのだ。ユテは血を入れた小瓶を懐に仕舞うと、傷を負った掌を軽く握り、精気を集中させて傷を治した。しかし、症状は和らぐどころか、進んでいく。眩暈がして、体に力が入らない。足元が、ふらつく。傷は治せても、穢れは己では消せないと、遥か昔、風竜一族の里で教えられた通りだ。

「スカイ、悪いけれど、チムニー殿を呼んできてくれ。おれは、少し、疲れた」

 言い終えた直後、ユテは体が傾くのを自覚した。

「ユテ!」

 耳元で大きな声を出したスカイが、体を支えてくれたのが分かる。けれど、その感覚すら遠くなっていく。このまま気を失えば、自分は二度と目覚めないのだろうか。スカイの望み通り一緒に過ごし続ける第一の選択肢、スカイと別れて台地の上へ戻る第二の選択肢、そして、普通には生きず寿命を短く終えるという第三の選択肢。純血の天精族らしく、第二の選択肢を採ろうとしていたのだが、これはこれで、いいのかもしれない――。目を閉じかけたユテの頭を、スカイの腕が支えた。同時に、こちらを見下ろすスカイの、あまりに心配そうな顔が、狭くなりかけた視界に入る。ユテは、ひどく重くなった手を上げて、その頬に触れた。

「ごめん、大丈夫だから」

 このままでは、別れられない。スカイの心を、傷つけてしまう。

「チムニー殿を、早く」

 視界が、霞む。手から力が抜ける。

「早く……早く……」

 己の手が少年の頬から落ちていくのを、遠く微かに感じながら、ユテは繰り返し呟いた。


          四


 誰かが、傷を治した片手をそっと握っている。ユテが重い瞼を開くと、蝋燭の揺れる灯りの中、傍らにスカイの真剣な顔があった。土天井の下、寝台の傍らに座って、帽子を被ったまま、必死な表情で、ユテの顔を凝視している。いつもなら、陽光を浴びて煌く森の緑のような翠玉色の双眸が、完全に明るさを失っている。全て、この少年と出会って親しくしてしまった自分のせいだ。

「……ごめん」

 掠れる声で、ユテは謝った。

「何言ってるんだ」

 スカイは、ユテの手を優しく握ったまま、首を横に振る。

「おれが悪いんだ。暗闇で、分からなくて、おまえに怪我させた。そもそも、おまえに夜行族のことなんて、言わなきゃよかった。純血の天精族は傷に弱いって、知らなくて、ごめん……!」

「それは、おまえが謝ることじゃない。教えていなかった、おれが悪いんだ」

 ユテは、熱からくる頭痛を堪え、できるだけ笑みを浮かべて言う。

「それに、夜行族のことをおまえが言わなかったら、今夜は、おまえが襲われていたかもしれない。それは、おれが、耐えられない」

「でも、本当に、ごめん……!」

 両眼に涙を溜めたスカイの肩に、後ろから、ぽんと、黒い手甲と黒手袋に覆われた手が置かれた。次いでユテの視界に、ぬっと顔を出した手の主は、クロガネ。黒い上衣を纏ったままの少年は、紅玉色の双眸でユテを見下ろしながら、ぶっきらぼうな口調で言った。

「スカイ、とりあえず、こいつが目覚めたことを、おまえの先祖に伝えてこい。新しい薬が必要かもしれん」

「そうだね……!」

 スカイは頷いて立ち上がり、ユテの顔を見つめながらそっと手を離すと、上着を翻して部屋から出ていった。広くもない、土でできた部屋には、ユテとクロガネだけが残された。

「さすが、天精族の血を色濃く引くきみには、おれの血も大して効かなかったか」

 ユテは寝転んだまま、懐から己の血を入れた小瓶を取り出して、寝台脇の小卓に置き、クロガネの顔を見上げる。

「あの吸血一族は、もう殺してしまったのか……?」

 クロガネは、小瓶の中身が何か分かったのだろう、黒炭色の髪が僅かに額にかかる、浅黒い肌の、あどけなさの残る顔をしかめて答えた。

「あいつはまだあんたの血の影響で寝ている。腹からあれだけ出血した分、まだ貧血状態だろうしな。おれも、本当はまだ動けんはずだったが、ここの地老族小人一族殿の解毒薬のお陰で回復した。だから、ここじゃあいつを殺さん」

「……律儀だね……」

 また、意識が朦朧としそうになる。と、毛布の上から、今度はクロガネが手を握って、ユテの意識を引き寄せた。

「死ぬ前に答えろ。何故あんたは、あの吸血一族を助けた? あいつは、あんたが守っているあの真人族白肌一族の敵だぞ」

 霞む視界で、天精族火竜一族の血を引く少年が怒っている。ユテは微笑んで答えた。

「カバネという双子の妹がいると言っていた。ただの同情だよ。おれにも昔、双子の姉がいたから」

 通し名はニギテ、忌み名はナゴムカゼ。もう誰も呼ばない、懐かしい名。外見は、ユテとそっくりでも、性格はずっと明るく、種族の壁を越えて、誰からも好かれていた姉。あのミスト・レインの隣にいることを、誰より強く望んだ姉――。

「おい! 目を開けろ!」

 クロガネが怒鳴っている。目は開けているつもりだが、クロガネの顔が見えない。肩を掴まれて、揺すられている。見えなくとも、クロガネの顔がすぐそこにあるのが分かる。

「ありがとう。穢れのこと、スカイに黙っていてくれて」

 ユテは、もう呟くようにしか出ない声で、礼を述べた。スカイは、「純血の天精族は傷に弱い」としか言っていなかった。純血の天精族が、他種族の持つ穢れに弱く、だからこそ、傷を負えば、入った穢れがたちどころに全身に回って死に至るのだと――、今ユテを蝕んでいる穢れは、他ならぬスカイが持っていた穢れなのだと、そう告げられていたなら、スカイはユテの手を握ってくれたりはしなかっただろう。知っていて、気遣って、クロガネはスカイに詳細を教えなかったのだ。

「おい! 息を吸え!」

 クロガネに頬を叩かれている。けれど、もうその感覚も遠い。ユテは息を吸うため口を開け、そのまま呟いた。

「できれば……」

 カバネという双子の妹がいる、真人族に薬漬けにされてしまったという、憐れな吸血一族の少年を、助けてほしい。

――「おまえは本当に、自分の気持ちばっかりだな。少しは相手の気持ちも考えろ」

 呆れたような、懐かしい姉の声が聞こえた。



 蟻の巣のように部屋が幾つもある洞穴の家の、台所にいたチムニーにユテが目覚めたことを告げ、急いで寝台のある部屋に戻ったスカイは、予期しなかった光景を見て、一瞬入り口に立ち竦んだ。

 吸精一族の少年が、小柄な体でユテに覆い被さり、口付けている。

「おまえ、何を……」

 慌てて部屋に入り、クロガネの肩に手を掛けたスカイは、ユテの意識がないことに気づいた。

「ユテ! ユテ!」

 毛布の下の手を握り、呼んでも反応がない。と、クロガネが体を起こして言った。

「おれの精気を送り込んだ。こいつみたいにうまくできる訳じゃないが、半分は天精族の精気だ。少しは持たせられるかもしれん」

「そうじゃとしても、もう長くはないじゃろう」

 声とともに、チムニーが部屋に入ってきた。

「『長くはない』って、そんな、大おじいちゃん……!」

 振り向いたスカイの横を通り過ぎて、チムニーは寝台の傍らに立つと、ユテの顔を見下ろし、編まれたまま、枕の上で乱れている白銀色の髪を優しく撫ぜた。

「この子は、もう二千年生きた。天精族の寿命からすれば、後千年ほどは残っていたじゃろうが、愛する者を失いながら生きてきたこの子にとっては、長過ぎる時間じゃ。もういい加減、楽になってもいいかもしれんと、わしは思う」

 想像もつかない時間の重みを言われて、スカイは歯を食い縛った。ユテを死なせたくないという自分の思いは、ただの我が儘でしかないのだろうか。

「独り善がりだな、地老族殿」

 冷徹な声音で反論したのは、クロガネのほうだった。驚いて顔を上げたスカイを指差し、いつの間にか天精族の血を引いていることを認めている少年は、言った。

「ユテは、こいつに負い目を持たせるような死に方は望まんはずだ。そのくらいのことは、あんたのほうがよく分かるんじゃないのか。それで、何か助ける手立てはあるのか」

「風竜一族の里たる、この台地の上へ連れていく。もうそれしか手はないじゃろう。それでも、助かるかどうかは分からんが」

 溜め息混じりに告げて、チムニーはスカイとクロガネの顔を見る。

「じゃが、誰が連れていく? 風竜一族の者しか使わん険しい道のりじゃ。そこまで、ユテが持つかどうかも分からん。着いたとしても、純血の天精族でない者は、結界の内へは入れて貰えんじゃろう。ユテとは、そこで別れることになる。助かろうが、助かるまいが、永遠にな」

「「おれが行く」」

 スカイとクロガネの返事が重なった。互いの顔を見た少年二人に、チムニーは、石灰色の太い眉と髭を笑みの形に動かして、頷いた。

「そうか。なら、それぞれの役割分担を考えて荷物を用意しよう。明け方には出発じゃ」

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