閑話 アグリウスの受難
アグリウスは一人で巨大な廊下を早歩きで歩く。
目的地は他の10魔族の全員、本日のディナーには全員参加する様に告げるためである。
「ああ、ほかの皆にも挨拶しなくてはな。」
我が王のその一言に始まり、とんとん拍子で本日のディナーで他の者達にも顔合わせをする事が決まったのである。
その旨を皆に伝えるためにアグリウスは歩き続ける。
まず最初に向かったのは厨房……nその場にて、この魔王城の他10魔族の為に様々な料理を用意している者に会うためだ。
厨房に続くドアを通ると共に、高速かつ規則的な複数の調理音が聞こえてくる。
その音の発生源である一つの影にアグリウスは声を掛ける。
「今日のディナーの準備は順調かね?サロス」
声を掛けられた男……サロスはその八本の腕を器用に動かしながら、幾多もの料理を平行で作成しながらちらりと此方を見る。
「お前の目にこれが順調に見えるならそうなんだろうさ……お前にはな。」
嫌味な男だとは思う、だが彼との短くない付き合いの中で、それが彼の独特な言い回しなのであって、彼自身は何の特別な感情を持っていないのだと知っているからあまり気にしない事にする。
依然目の前で繰り広げられる高速の調理劇を目にし、相変わらず彼の動きは芸術的だと感嘆の念を抱いていると。
「手伝う気が無いならさっさと退いてくれ。」
この場にアグリウスが来た理由が解らないサロスは、少し邪魔そうに顔をしかめながらそう告げてくる。
「ああ、すまない」
少しばかりの謝罪と共に、特段彼の邪魔をする気は無いアグリウスは、さっさと要件を告げる事にする。
「今日のディナーは全員がそろう事になる。」
「あいよ」
手を止めもせず、簡素な答えで了承してくるサロスを前に、少しばかりのいたずら心が鎌首をもたげているのに気が付き、特段それを否定する理由を持ち合わせていなかったアグリウスは、それに倣う事にした。
「ああ、だから11人分頼むよ。」
10魔族の名前の由来は文字通り、10の魔族から作られた組織だからだ。
当然、普段であれば10人分というのが正しい……しかし、今回は特別であり、今後も特別となったその事実を、さも当たり前の様に気負いなく告げてみた。
……そして、その言葉の意味が解らぬほどサロスは馬鹿ではない。
「……っは?」
間抜けな言葉と共に、あれだけ、手を止める暇がないぐらいに忙しなく動かしていたのが嘘であるかの様にその動きを止める。
それと共に、まるで理解が思考に追いつかないかのように沈黙を続けること数秒……やがて関節が固まってしまったかのようにぎこちなく首を回し、此方を見据えつつサロスは質問をする。
「……11人?」
「そう、11人分。」
動きは劇的だった、埋まっていた八本の手の中、その一つをすぐに開放し空中に魔法陣を描く。
その魔法の効果は大体予測できる、連絡の魔法だ。
実の所、最初にサロスの元を訪れていたのは、外に出ている10魔族の一人にも連絡を簡単に取りたいという考えがあっての事だったが……想定通りの展開になってくれたようで喜ばしい限りだ。
「おい!!フエン緊急事態だ!!」
魔法がつながると同時、開口一番にサロスは怒鳴り声をあげる。
「うぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
それに答えたのは一つの悲鳴、少年のような声だった。
「ああ、オオカミが……肉が……」
そして、続くフエンの呟きに、アグリウスは今の状況に察しがつき、ご愁傷様と心の中で呟く。
「あともう少しだったんですよ、サロスさん」
恨めし気に呟かれるその声はどこ吹く風、サロスは要求を突き付ける。
「予定が変わった、ドラゴン狩って来い。」
「はぁっ!?ドラゴン」
「ああドラゴンだ!! それも一時間以内にだ。さっさとしろ!!」
「いや、いやいやいや無理!! 無理無理無理!! 見つけるのだって時間が掛かるって!!」
「無理じゃない!! やれ!!」
互いに取り付く島もないその素っ頓狂な会話を聞きながら、ふつふつとこみ上げる笑いをかみ殺すのに必死になる。
だが、あまり悠長にその光景を眺めている時間は無いと判断し、話を進める。
「フエン聞こえているかね?」
「その声……アグリウスさんですか?何でまた厨房なんかに……」
「あー……君の疑問ももっともだ、だから私は君にこの言葉を伝えなければなるまい。心して聞き給えよ。」
いつになく回りくどい言い方をするアグリウスにフエンは困惑を隠しきれない吐息を漏らす。
その困惑を無視し、答えを告げる。
「我らが王がご帰還なされた。」
「えっぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!?」
本日二度目のフエンの悲鳴が厨房内に木霊する。
それも無理からぬことだろう、アグリウスにとっても突然の出来事であったのだ……その場に居合わせなかった他の者達には驚愕すべき事実であろう。
だが、そこは側近たる10魔族か……フエンの次の行動は早かった。
「サロスさん、ドラゴンの生息域を洗い出してください。できれば直近一月以内の物を!!」
「解った……後、今お前が所持している俺が作ったマジックアイテムは使い潰して構わん。何が何でも間に合わせろ。」
「ありがとうございます。では一時間後に厨房で……」
「ああ、解った。」
その言葉と共に魔法は断ち切られる。
その姿に自身がすべき行動は終わったと考え、アグリウスは厨房を後にした。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
さて、次に告げるべきは誰か……
そんな思考を頭に浮かべつつ廊下を歩いていると……ふと外(その場所は確か庭園だったはずだ)から諍いの声が聞こえたような気がして、アグリウスは其方の方へ足を向ける。
「だ・か・ら、こんな匂いがきつい花を植えんなって言っているのが、その腐った頭には解らないの?」
「はん、ほざきなさい。この高貴な匂いが理解できない駄犬風情が!!」
「はぁ~!? 高貴ぃぃ? この鼻がねじ曲がりそうな匂いが!? 頭どころか鼻まで腐ってんじゃないの!!」
「はっはぁは……狂犬病にかかった駄犬は、病気どころかその醜い唾液も辺りにまき散らすんですね~。初めて知りましたわ~。」
「はい、そこまで。」
流石にこれ以上放っておくと、殴り合いに発展しかねないと判断し、慌ててアグリウスは仲裁に入る。
ただ、庭園の様子を見る限り少し遅かったようだが……
「それで……ルウワーフ、スロノドール……この有様はなんですか?」
その庭園……いや、既に至る所が荒らされ回った見るも無残な惨状を前にし、二人の女性へ釈明の機会を与える。こういった喧嘩の場合は、双方が持論を持っている為、第三者が介入した方が事が円満に進む事が多いのだ。
「アグリウス!! 全部こいつが!! この駄犬が悪いのよ!!」
始めに口火を切ったのはスロノドールである。
白銀を思わせる髪の毛を振り回し。その赤い瞳を興奮に彩らせ、そのきめ細やかな白魚の様な指を、傍らに立つルウワーフへ突き立てる。
その際、フリルが存分にあしらわれたドレスが大きく優雅に動くのは、少しでも此方に良い印象を抱かせようとする彼女の計算の部分が強いのだろう。
そのスロノドールの発言に対し思う所があるのだろう、ルウワーフは何かを言いたげにはするが、口を挟むことはしない。
他者が意見を述べている時は、その発言が終わるのを待つ。
それが10魔族の中での暗黙の了解となっていた。
ゆえにルウワーフはまだ動かない、スロノドールの意見を引き出すために。
「この駄犬が、自分の鼻が利きすぎるのを棚に上げ、この私が植えた花にいちゃもんを付けてきたのですわ!!」
要するに、先に喧嘩を売ってきたのはあっちだと言いたいらしい。
それに対する意見を、アグリウスはルウワーフへ目線を送る事で引き出す。
その目線を受けルウワーフは、自身の緩やかなウェーブが掛かった栗色の長い髪を揺らしながら、首を縦に振り答える。
「確かに、先に文句を言ったのは私です。ですがこの花の匂いをアグリウスも嗅いでみてください。はっきり言って臭いです。」
その意見を聞き、かねてからこの庭園中に充満している……甘ったるくて重い匂いに顔をしかめる。
……確かに、人によっては不快とも取れる匂いだ……それも人狼である彼女からすれば尚更匂うのだろう。
「ですから、自身の為という意味合いが強いですが、多少強引な手を取らさせていただきました。」
まぁ、これは仕方のない事だろう。スロノドールにとっては、自身の好きな花を育てていたに過ぎず。
ルウワーフにとっては、自身の鼻が馬鹿になる危険性をはらんだ死活問題。
どちらが悪いとも言えないしどちらが正しいとも言えない曖昧な喧嘩なのだ。
「両者の言い分は解りました。スロノドール、あなたはもっと他者の気持ちを考えるべきです。そしてルウワーフ、あなたもさっさと実力行使に出ず、しっかりと自身の意見を相手に伝える事……自分の体の問題も含めてね。」
喧嘩両成敗、落とし所としてはこんな所であろう。
未だに両者は何かを言いたそうにはしていたが、アグリウスはその視線を無視し、自身の要件を済ませる事にする。
「さて、本日のディナーですが……10魔族全員でいただくことになりました。後で詳しい時間は通達しますが、何かしらの要件があるのならばそれまでに終わらせておいてください。」
「「はい。」」
さっきまでのいがみ合いが嘘の様な息の合った返事を聞き、次の魔族の下へ向かおうと足を城内へ向け……
「何か重大な会議があるのですか?」
ようとして、背に受けたルウワーフの質問そのままに回転し、彼女に向き直る。
「いえ、会議という訳ではありません。」
「はえ?なら何ですの?」
その否定の言葉にスロノドールが疑問を重ねてくる。
またもや心の中に降って湧いたいたずら心に忠実になりながら、この二人の反応を予想する。
口をあんぐりと開け呆けるのか……はたまた奇声を発し飛び上がるのか……
内心二人の反応に思いを巡らせながら。
アグリウスは何てこと無い様に答える。
「はい、我らが王がご帰還なされたので」
さぁ、反応は?
確認するために二人の顔色を伺おうとし、そこに二人の姿が無い事に驚くと共に、つい先ほどの遊び心に溢れていた自分を殴り飛ばしたい気分に駆られた。
なんでそんな簡単な事に気が付かなかったのか。
いや、今までの長い時間の流れにより、その現場を見る機会が少なくなっていたから油断していたのだ!!
慌てて踵を返し、城内に逃げ込もうと行動をする……が、その差し出した足を的確に払われた。
そして、足を払われた事を認識した時には既にうつ伏せに地面に叩きつけられている。
その際後頭部を押さえつけた二つの圧力は、今もまだ地面に擦り付ける様に圧力を強めている、止めに左右の首筋に添えられる二つの手刀。
「「で、我が王は今どちらに?」」
ルウワーフとスロノドールの、見事に重なったその言葉が左右の耳元で囁かれる。
「知らない!!」
咄嗟に答えていた。いや、答えなければ死んでいても可笑しくない様な重圧が依然掛けられ続けている。
「アグリウス、嘘はためになりませんわよ。」
そのスロノドールの呆れともつかない声と共に、必死に食い下がる。
「嘘じゃない!!我らが王は今シュリを連れ立って別行動中である!!」
それは紛れもない事実だ、故にそれ以上の情報を持ち合わせていないアグリウスには、それを信じてもらうしか自身の活路が無い事を悟る。
その必死の思いが伝わったのだと思いたい。
少しの間を置きスロノドールは、隣で同じように私の頭を押さえつけているルウワーフへ質問を投げかける。
「どう思います?ルウワーフ」
「そうですね、アグリウスには嘘をつくメリットが無いと思います。」
さっきまでのいがみ合いが嘘の様に、彼女らは互いに自身の結論を議論し合う。
そして、その議論に口を挟む勇気はアグリウスには無く、ただこれ以上自身の不利にならないように事が運ぶことを祈るばかりである。
「ですが、我が王に口止めされているのでしたら?その場合はアグリウスの口を割るのが一番早いと思うんですの。」
「それは短絡的すぎますね、スロノドール。もし、我が王が口止めしたのなら……それには何かしらの理由があるという事……ならば、無理をして口を割ったとしても、それは我が王の反感を買う事になる。」
「その点は問題ないですわ、自分から、勝手に、自発的に、話してくれるのであれば、それはこのアグリウスの忠誠心の問題。私と貴方には何の問題もない事ですわ。」
「ああ、そうですね。確かにそれは素晴らしいアイディアです。丁度スロノドールには自発的におしゃべりがしたくなる能力が有りますものね。考えれば考える程素晴らしい案です。」
(素晴らしい訳があるか!!)
内心で毒づきながらも、さすがにこのままでは洒落になりそうにないので。アグリウスは議論に口を挟む。
「我らが王は今宵のディナー時に皆に会うのをお望みだ!!私はその旨を伝える伝令に過ぎない!!」
それに対する反応は無い、体中に脂汗が流れ出るのをそのままに、もはや打つ手が無くなってしまったがゆえに必死に頭を回転させる。
「考えてみてくれ、ルウワーフ、スロノドール!!我らが王はなぜディナーという時間を指定したのか!!それは君達の様な見目麗しい女性に対してのための時間だと私は考える!!何故なら我らが王は心お優しいお方だからだ!!本来ならば我らが王も君達、未来の妃となる者達には真っ先に会いに行きたかったはずだ。しかし、我らが王のご帰還は余りにも突然であった!!故に、そのはやる心を隠し、君たちが十二分に自身の身だしなみを整える時間を与えるというのが我らが王の本意であるはずだ!!」
全て口から出る出任せである。だが自身の命すらかかっている可能性がある現状、なりふりを構っている暇は無かった。
その私の演説を聞き、未だに後頭部を押さえつけていた二つの圧力はすぐに弱くなる。
自身の命が助かった事に安堵を抱きつつ顔を上げると、二人の女性が此方に軽い礼をしているのが見えた。
「アグリウス、このスロノドール、我が王の御言葉しかと承りましたわ。」
「アグリウス、このルウワーフ、我が王の言伝しっかりと確認した。ありがとう。」
「「それでは、急用があるので私はこれで……」」
二人はそれぞれの言葉を残し、城内へ消えていく。
その二人の姿を見届け、口の中に入り込んだ土を吐き出しながらアグリウスは内心で強く思う。
お前ら絶対仲いいだろ……と
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
とんだ災難だった……
未だ体にこびり付いた死への恐怖をそのままに、アグリウスは歩き続ける。
目的地は魔王城宝物庫、そこにいる10魔族に会うためである。
一瞬、泥と土に塗れたこの服を変えてから向かうべきかとも思ったが、そんな事すらも億劫に感じる程の恐怖と安堵感が与えられた思考は……
「もうどうでもいいや」
その気だるげな呟きと共に、自身の見栄や相手に対しての配慮などという事を考える思考を切り捨てる。
今はただ、さっさと我が王の言葉を伝え、自室で次の指示が来るまでゆっくりとしたいと思っていた。
そんな事を考えつつも歩みを止める事は無かったアグリウスは、やがてその目的地へとたどり着く。
宝物庫に通じる扉、その傍らに立ち守護する番人がそこにいる。
全長3mほどの巨躯、その全てをフルプレートの甲冑に身を包み、その手には巨大な戦斧が握られている。
見る人を威圧する風体だが、その中にある者がただの石の塊、ゴーレムである事は10魔族の全員が知っている。
用があるのはそのゴーレムの向こう、操っている本体の方にである。
その者の名はニルブニル、ゴーレムを操る彼の前に立ち、アグリウスは彼の反応があるのを待ち続けた。
……待つこと数十秒……
「別に寝てはいないぞ?」
「いえ、また寝ていたでしょう。」
出てきたニルブニルのその言葉に、呆れを混ぜ込んだ返事が出てしまうのは仕方のない事だろう。
何故なら……この会話は幾度となく繰り返してきた事なのだから……
「……いや、本当だって。」
「私は、貴方が別に居眠りしてても関知はしないと何度も言っているはずです。ですが、財宝管理官である貴方のその怠慢を我らが王が知ったとしたら、きっとお嘆きになると思いますが?」
その幾度となく繰り返して来た言葉に、ニルブニルは親に叱られた子供の様に黙り込むのも、幾度となく見てきた光景だ。
普段はそれに対しなにも思わなかったが……今は先の事で精神が疲労していた。
だからアグリウスはさっさと要件を済ませる事にする。
「我らが王がご帰還なされた。今夜のディナー時10魔族全員と再会を果たされる事を我らが王はお望みだ。よってニルブニル、何かの要件があるのならそれまでに済ませておいてください。」
「……はい?」
その素っ頓狂な反応すらも煩わしく感じる、要件は済ませた。アグリウスはさっさと踵を返しその場を去る事にする。
「……えっ!?ちょっちょっと待って!!アグリウス!!くそっ精神の同期がまだ終わっていない!!待って、詳しい説明を!!アグリウス~~!!」
後ろから掛けられるニルブニルの声と、ガチャガチャと擦れ合う甲冑の音を無視し、次の目的地へと足を運ぶ。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
場所はこの城内にある無数の寝室、その中の一つであった。
しかし、無数に存在するはずのその寝室は10魔族にとって……いやかつて存在した、この城内に居た全魔族にとって特別な場所だった。
魔王の寝室である
ここにいるであろう魔族に会うため、アグリウスは来たのだが……
扉をノックしようと上げた手をそのままに、この後に起こり得る惨状に憂鬱になる。
いや、先のルウワーフとスロノドールの動きから、其方の方が簡単に想像できる……いや、それしか考える事が出来ないぐらいには心が警鐘を鳴らしている。
傍らに立つ魔族に視線を送る。
その魔族……人間の青年と何ら変わらない姿をした、ロロスという名の魔族は、自身の頷きに応じ、軽く顎を引く。
既にアグリウスは、ロロスへ我らが王が帰還なされた事を告げていた。
そして、突然の出来事に驚いていたロロスへ、この場にいるであろう魔族にその事実を告げなければいけない事を話し、無理を言ってついてきてもらったのだ。
ノックしようとした腕が非常に重く感じる……
しかしいつまでもこうしている訳にはいかないのだ。
「ロロス、もしもの時はお願いします。」
「ええ……まぁ僕はそのもしも、しか起こりえないと思っていますが……」
此方を一瞥し、未だに泥と土に汚れたままのアグリウスのその姿に、一種の同情を込めたロロスの返答に苦笑を返しながら。
覚悟を決め扉をノックする。
ノックの音が大気に吸い込まれ、消える事数秒、魔王の寝室……その扉を開き外に出てきたのは冷徹な女帝を思わせる存在だった。
ツンと澄まされたその顔は永久凍土の様に冷え切り、自身以外のその全てが取るに足らない物だと考えているように思わせる。
長く艶やかな黒髪は腰の辺りまで伸ばされ、彼女が日頃から手入れを怠っていないで事を象徴するように、そのみずみずしさを遠い昔と変わらせず、今も尚保ち続けている。
そして、その洗練された美を誇る肢体はこの世で比べられる物が無く、それが比喩なのだとしても、何かに例える事自体が重罰であるかの様に他者へ思わせた。
そんな、この世の男性が望みやまないであろう彼女は、アグリウスの姿を……泥と土に汚れた姿を目にし、少しばかり眉をしかめ、口を開く。
「まさか、その様な薄汚い姿で我らが王の寝室へ入ろうというのですか?その要件が一刻を争う事態だとしても、せめて湯浴みぐらいは済ませてから出直してください。」
冷酷にそう告げ、寝室へ戻ろうとする彼女へアグリウスは声を掛ける。
「待ちたまえ、リナシー。要件があるのは君になのだ。」
その言葉を聞き、リナシーはするりと音もなく此方へ向き直し問いかける。
「如何様ですか?」
「あーうん、冷静に、努めて平静を保ち聞いてほしいのだが……」
出てくるのは曖昧な言葉ばかり、その煮え切らない言葉に少し感情を害したのであろう。
不機嫌という感情が込められた言葉がリナシーから発せられる。
「言うべき言葉が決まっていないのならばそれを纏めてから来てください。私は我らが王の寝室を、いつ、いかなる時でもご使用出来るよう、手入れをするのに忙しいのです。」
「……すまない。」
こればかりは自身が悪い、どうせ告げなければならず。それを後回しにしたところで現状が改善する訳では無いのだ。
これで何度目になるのか……再度覚悟を決めアグリウスはリナシーへその言葉を告げる。
「落ち着いて聞いてほしい……我らが王がご帰還なされた。」
リナシーの始めの反応は硬直、それはこれまでの他魔族達の反応から予測はできた。
そして、それだけで終わってくれればアグリウスにとって、これほど助かる事は無かった。
当然だ、誰が好き好んで仲間に襲われたいと思うだろうか。
だが、それだけでは終わらないであろう事は内心諦めがついている。
だから……硬直した彼女の表情……その瞳に理解の色を宿すと共に、狂気的な色が宿るのを見たとき、アグリウスはただ一言……やっぱりか……と思うだけだった。
リナシーの行動は素早かった、前兆も予備動作もなくその右手が鋭く動く。
狙いはアグリウスの顔、或いは首元だろうか。神速ともとれるその右手の手首を、アグリウスは両手でつかむ。
リナシーの右手自体は止める事が出来た。
しかし勢いは殺しきる事が出来なかったのをアグリウスは悟る。
ならばとその両足を空中へ放り出す。
勢いはアグリウスとリナシーを伴いアグリウスの後ろの空間へと流れていく。
その勢いが十分に流れ切ったのを感じたアグリウスは、片足を地に付け次の一手を打つ。
地に着いていない足をそのまま蹴り上げたのだ。
体勢を崩したリナシーのその腹部へと……
しかしその足は空を切る。
リナシーは地面を強く蹴る事で空へ逃れていたのだ。
そして、アグリウスは空中に退避したリナシーの体に魔力が流れ始めているのを感じとり、それに対する行動を起こす。
「「スピードスペル」」
「ファイアーボルト!!」
「マジックシールド!!」
二人の言葉は同時。
互いに唱えた攻撃と防御、その二つの短縮魔法は、互いの中心点で交わりそれぞれの効力を発揮する。
だがそれはリナシーの想定通りの結果だった。
攻撃魔法、それの本来の目的はアグリウスの視界を封じる事。
その目的が成された事を確認した瞬間には空を蹴り、動きを封じるために垂直とも言える角度でアグリウスへ飛びかかる。
そしてその次の瞬間には、リナシーはアグリウスを捕らえていた……だろう。
横合いから飛びかかる魔族がいなければ。
飛びかかられた勢いのまま、廊下に叩き付けられ。押さえつけられる。
「はい、もう十分でしょ。リナシー」
そのロロスの一言で、事態は一先ずの収束を見せたのだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「我らが王は我々との再会を心待ちにしておられます。ですからディナー時までには要件を終わらせておいてください。」
その言葉を告げロロスとリナシーの二人の魔族と別れたのはつい先ほどの事。
依然、城内を歩き続けながら、アグリウスが思うのはただ一言。
疲れた
それがアグリウスの正直な感想だ。
いくら我々10魔族全員が王に忠誠を誓っているとは言っても、彼女らの忠誠心は少しベクトルが違う物だった。
男女に組を分けるとするのならば、アグリウスを含む男性組……その全員が持っている忠誠心の根幹は大きな恩義から来ている事が強い。
確かに圧倒的な力という要因もあるにはあるが、それは無数にある要因の一つにすぎず。忠誠心の原因にはなりえないのだ。
それに比べて10魔族の女性……nその全てが情欲、ひいては色欲に近い部分を大きい要因としているのだ。
まぁその思いも、彼女達がそれぞれが抱えている我らが王への、圧倒的な恩義から来ているのは理解している。
だから……多少の事ならば目を瞑ってもいいとは思っている。
「それでも限度があるというのを、彼女達は弁えるべきだと思うのですが……」
呟きは誰にも聞かれる事無く空間に吸い込まれ消える。
ふと、シュリの存在が頭の中を掠め、彼女が言伝のリストには入らなかった事を、幸運であったのだと思う事にする。
確かにルウワーフ、スロノドール、リナシー……彼女達の行動は問題に思わなくわない。
だが、彼女達と同じ状況にシュリが立っていた場合、度を越した精神疲労により、私は今日これ以上動くことが出来なくなっていたであろう。
別に、シュリが彼女達と同じ様に暴れ回る訳では無い。
むしろ、彼女は此方に何ら手を出さないであろう。
だが、重圧は別である。此方を押し潰すかのように、静かに冷淡に重圧をかけ続けて来たであろう。
その状況をまざまざと想像し、恐怖していると、最後の目的地へたどり着く。
魔王城にある無数の部屋の一つ、ここを根城として使用している最後の10魔族に会うため、アグリウスは扉をノックする。
そのノックの音を聞き現れたのは一人の幼い女の子。
髪の色は無地の白、その髪を肩口に切りそろえている。
目鼻立ちは整っており、まるで人形の様な印象を他者に与える。
いや、人形の様なのはそれだけでは無い、その何の感情も読み取る事が出来ない固まった表情も付け加えられる。
そんな彼女がかろうじて生物だと思われるのは、その虚ろな瞳が対象を見据えるために揺れ動き、呼吸するためにその平らな胸が小さく上下しているのが見て取れるためだ。
自室から出て、静かに此方を見上げてくる少女に、アグリウスは言葉を掛ける。
「ヨル、落ち着いて聞いて頂きたい。我らが王がご帰還なされた。」
その言葉の中に警戒の色が混じっているのは、アグリウスの本日の悲劇を知っている者からすれば致し方ないと思えるだろう。
何故なら、この少女も我らが王には並々ならぬ感情を抱いているはずなのだ……
それでも、アグリウスはこの少女がそこまで短絡的(此方を襲い、口を割らせ様としてくる)な行動をするとは思っていなかった。
感情が読めないというのももちろんある。だがそれ以上に、何が起きたとしても落ち着いている存在、という評価が在ったからだ。
事実それは正しく彼女は数瞬の間、その瞳に驚きの感情を見せると共に、アグリウスに静かに言葉を掛ける。
「そう、我らが王が戻られた……それはとても素晴らしい事……」
抑揚のない平坦な声だった、だが長い付き合いであるアグリウスには、その声音の中に歓喜の色が滲んでいるのが解る。
「やっと……やっと戻ってきた……これ以上に嬉しい事を私は知らない。」
動くことが少ないその目が細められ、その歓喜を噛みしめるように彼女は言葉を紡ぐ。
その姿に、自身の警戒が杞憂に終わった事を確認し、安堵しつつアグリウスはヨルに告げる。
「我らが王は我々、10魔族との再会を望んでおられる。よって、本日のディナー時にその機会を設ける事が決まった旨を伝えに来た。」
「ありがとう、アグリウス……」
その淑やかな姿に、此方に危害を加えて来た3人の女性達に少しでも見習ってほしい物だと思いながらも。
アグリウスは、依然恍惚とした表情を崩さないヨルへ背を向け、その場を後にした。