受験と単語帳の朝
この作品は主人公の性別が決められていません。あなたの好きな設定でお読みください。あなたが男性なら、主人公を男性に。あなたが女性なら、主人公を女性に。もう一人の登場人物を異性にすると、作者の意図する設定になります。
「responsibility」
驚いて顔を上げる。
―─ん? 今の、誰が言った?
毎日通学で使う電車の中で、初めて見た相手にそう言われた。
「『責任』大学受験で覚える単語の中で、一番長い単語かもね」
「……?」
座席に座って捲っていた単語帳を覗き込むようにして、その高校生は立っていた。
驚いた顔で見返していると、一度にこりと笑って、それっきり窓の外を眺めている。
―─へえ。これが一番長いのか。確かに長い、これ。
そう考えると、これを覚えたら、もう覚えられない単語なんてないような気分になって、少しだけ嬉しい。
教えてくれてありがとう、と言うべきか悩んだが、なんだかそれもおかしい気がした。
その高校生も、それ以上何も言わなかったので、気にしないようにして次の単語に目をむけた。
大学受験を数ヶ月後に控えた受験生としては、唯一の致命的な弱みである英語を克服すべく、通学中も惜しまず勉強を続けていた。
いつもは眠気との戦いだが、今日は、ちょっとだけ違った気分で勉強できそうだ。
次の日。
今日は座れなかったので、車両の最後部で壁を相手に、単語の書き取りをしていた。
スペルミスは、何よりもったいない失点だ、と昨日の塾でも言われたからだ。
揺れる電車の中で、負けずに鉛筆を動かす事に必死で、すっかり昨日のことなど忘れていたところに、その謎の高校生は知らない間に側に居た。
「へえ。受験英語って、都市名も覚えないといけないの?」
振り向くまでもなく、すぐ横でノートを見ていた。
さすがに今日は知らん振りも出来ない。
一体どういうつもりなのか、という猜疑心と、単なる興味心。
しかし、勝ったのは昨日のあの一言のお陰で、勉強がはかどった事実。
実際、「responsibility」は完璧に覚えた。
相手にそんなつもりはないのだろうが、借りを作ったような気分だった。
「えと、アメリカの主要都市だけでも、と思って……結構出るらしいから」
「ふうん、なるほどね」
そう言って、より近くでノートを見ようと、顔を近づける。
「このPhiladelphiaさ。日本人がnativeに言うときは、フィラデルフィアって言っても伝わらないの。 なんて言えば良いと思う?」
なんだか楽しそうに話しているが、さっぱり見当も付かない。
「さあ……。受験にスピーキングは無いし……」
「『古豆腐屋』って言った方が通じるんだって」
「古……豆腐屋? 古豆腐屋、古豆腐屋……へえ、面白い」
「でしょ?」
満員電車の中で大きな声は出せないが、つい笑ってしまう。
そこに、大きなターミナル駅からの乗客が、一気に乗り込んで来た。
自然に二人は別々の方向へと押し寄せられていく。
ちらりと目を合わせてすぐ、サラリーマン達の壁に隔たれる。
─―なんか、面白い。
一人になってからも、くすっと笑いが漏れてしまった。
──古豆腐屋。へんなの。
そう考えると、おかしな事に、この単語だけは覚えたいと思ってしまう。
英語という『科目』に一生懸命取り組んで来たつもりだったが、それは正直言えば、なんの楽しみも生み出さなかった。
元々、受験勉強に楽しみなんて付属品はないと思っていたのだから、それでよかった。
でも、いま勉強しているのは英語という『言語』のような気がする。
私たちが、伝えたい、心や気持ちを表す言語。
─―こうやって覚えると、楽しいんだな。
少しだけ、大の苦手科目『英語』に対する姿勢が変えられそうだ、と思ったら、やっぱりなんだか嬉しかった。
次の日も、その電車に、その高校生は居た。
名前はもちろん、どこの高校に通っているのかも、何年生なのかも、お互いの事は何も聞かなかった。
でも、毎日の電車での数分間の会話で、いつも英語を『勉強』から、『言葉』として見る為のきっかけをくれる。
楽しかった。
英語へのわだかまりも徐々になくなり、みるみる塾での成績も上がって行った。
これなら希望大学へも、余裕を持って望めるだろう、というお墨付きまで頂いた。
あの電車での毎日のお陰だと言う事は間違いない。
今日会ったら、お礼を言おうと思っていた。
しかし、いつもの駅に着いたのに、その姿を見つける事はできなかった。
その日だけではない。
次の日も、その次の日も。
─―乗る電車変えたのかな。それとも、何か嫌な事しちゃったのかな……。
結局そのまま。
その日を境に、受験を迎える頃を過ぎても、もう一度会う事はなかった。
──なぜ、毎日英語を教えてくれたのだろう。
その疑問すら、聞けていないのに。
数ヶ月後。
無事、第一志望の大学に合格し、今日が入学式を終えた初登校日だった。
まだ友達はいないが、希望と喜びに胸を溢れさせる。
正門をくぐると、早速先輩達のサークル勧誘の声が浴びせられる。
嬉しくも恥ずかしい気持ちで足早に校舎へと歩き進む。
なにやらもみくちゃにされてしまったが、やっと人だかりを抜けられ、一息つく。
「すごいなあ」
「That’s crazy」
─―ん?
すぐ横で聞いた声に振り返る。
「ああ!」
「? oh, it's you!」
「この、大学の人だったの?」
「ああ、うん。というか、新入生だけど。ここに入ったんだ? すごい偶然!」
「本当だね!」
自然に笑顔が溢れる。
「何学部?」
「日本語学部、日本語学科」
「……え? 日本語?」
「日本人だよ、正真正銘。でも、帰国子女ってやつ。半年前に帰ってきたんだ」
「ああ、そうなんだ。でも、日本語上手……」
あはは、と白い歯を見せた。
「楽しく覚えようと思って、朝から名前も知らない日本人の高校生に声を掛けて、話し相手になってもらった甲斐があったのかな?」
「それって……?」
見ると、毎日見せてくていた、あの楽しい笑顔を浮かべていた。
日本語をもっと覚えたかったから、話しをしたかった。
教えてもらっていた、と思っていたが、実は自分が教えていたということ。
日本語も、もちろん『科目』じゃない。
英語と同じ『言葉』だから。
きっと、そう言う事なんだろう。
「毎日相手してくれて、どうもありがとう。お陰でこの大学入れた」
「そんな、それはこっちの台詞です。どうもありがとう」
一拍置いて、二人はどちらからとも無く笑い出した。
あの毎日を思い浮かべて、電車ではいつも抑えていた分、今、大声で笑い合った。
まだ、あの時の単語帳は持っている。
受験をいい思い出にしてくれたことに、感謝してるから。
終わり