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彼らは東へ飛んだ

作者: 流水郎

※この小説は実際に行われた作戦を元にしておりますが、登場人物は架空のものです。

一九三八年 五月

中国 寧波飛行場



「帰ってこれると思いますか?」


 空の茶碗を置き、通信士のクワン 文竜ウェンルンが言った。どことなく血色の悪そうな顔をしているがそれは元からで、今の彼は至って健康である。現に出撃前の最後の夕食を米粒一つ残さず完食した。

 見た目のことを言うなら機長のチャン インの細目も、かなり見る物の印象に残る。起きているのか寝ているのか分からない目をしているが、これで意外なほど夜目が効くのだ。その細目を僅かにつり上げ、彼は関に向けて笑った。


「帰ってくるために訓練したんだろうが。俺の腕を信じろ」


 二の腕を叩く張に対し、童顔のシアン 小飛シャオフェイが力強く頷いてみせた。一見するとあどけない少年の顔立ちに見えるが、航法士としての腕は優秀だ。だからこそ今回の作戦に選ばれたのである。


「必ずや正確に、日本まで案内してみせます」

「おう。頼りにしているぞ」


 張に力強く背を叩かれ、夏は軽く咽せる。そんな二人のやり取りを見て、関もまた笑顔を浮かべた。




 ここ寧波の小さな飛行場には、彼らが乗って来た爆撃機二機が鎮座し、出撃の時を待っていた。爆撃行の目的地は日本に占領された中国国内の都市などではない。目指すは日本本土。以前ソ連義勇兵によって台湾への爆撃が敢行されたが、今回は全員が中国人だ。捕虜となった際の国際問題などを回避するためである。


 この日のために訓練してきた張たち、そして二番機の乗員三名は夕食を済ませ、早々に飛行場へと向かう。人間が食事をしている間、機体の方も燃料を注入され満腹になっていた。


 愛機の姿を見る度、張は昔飼っていた出目金のことを思い出した。機首にある爆撃手席の風防が目玉のように盛り上がり、爆弾倉のある胴体もどことなく丸っこい。アメリカから輸入された馬丁マーチン式重轟炸機だ。奇妙な風体ではあるが、この時代としては一線級の性能を持っている。


「用意はいいか?」

「航法士、準備よし」


 狭苦しい爆撃手席から夏が返事をした。無線士と後部機銃手の座席は爆弾倉を隔てて機体後部にあるのだ。


『無線士、準備よし』


 伝声管を通じ、関の野太い声が聞こえる。少しの間を置いて、『二番機も準備よし』と続いた。馬丁式ことマーチンB-10の乗員は本来四名で、普段なら副操縦士 兼 後部機銃手も乗り込む。この作戦では少しでも機体を軽くするため乗員が削減された。片道およそ九百キロの爆撃行は航続距離ギリギリなのだ。

 プロペラも快調に回っている。眠れない夜の始まりだ。


 地面にいる整備士に手で合図を送ると、素早い動きで車輪止めが外された。

 地上の面々の敬礼を背に、航空兵たちは空へと向かう。


「行くぞ」


 その言葉は部下へ向けたものか、自分へ言い聞かせたものか。あるいは苦楽を共にしてきた愛機へのものか、張自身にも分からなかった。

 滑走路へ侵入し、馬丁式重轟炸機は次第に加速していく。操縦輪を通じて、張は翼が風を纏うのを感じた。目的地が遠方だけに燃料が満タンで、乗員を一人減らしたとはいえ機体は重い。慎重かつ的確な機体制御でまずは尾輪を浮き上がらせる。


 エンジンのカウリングについた計器をちらりと確認する。出力は正常。

 速度を確認。もう飛べる。


 車輪が地面を離れた。二機の双発爆撃機が夜空へと飛び立って行く。

 目的地は……九州。夜間飛行の始まりだ。



















 張は操縦席で燃料系を気にしていた。機体はすでに洋上、大陸国の人間にとっては緊張の時間となる。しかも時間は夜だ。外の様子が分かりやすいよう、機内の照明は極力落としてある。夜目の効く張はエンジンに直接取り付けられた出力計も辛うじて確認できた。

 足下を見れば、風防の飛び出した狭苦しい爆撃手席で、夏が画板を抱えて航法を続けている。彼の正確さだけが頼りと言っていい。


「左に十度修正してください」

「了解」


 ナビゲートに従い操縦輪を切り、進路を修正する。暗闇をこうして飛ぶのは、どちらかというと泳いでいるような気分だった。


「機長……これからこの海を越えて、日本へ行くんですよね」


 夏が図から顔を上げて言った。どことなく思い詰めたような表情をしている。


「そうだな」

「俺、本当は、爆弾を落としてやりたいです」


 その言葉に張は即答できなかった。夏のたどたどしい口調は迷いの表れである。この『爆撃行』は特殊なものであった。作戦に忠実であれという軍人の精神と、敵国への復讐心が拮抗しているのであろう。

 張とて同じような思いを抱えていた。


「俺もそうさ。だが、これも大切なことなんだ」


 細い目で愛機の計器盤を見つめ、張は呟いた。半分はやはり、自分に言い聞かせているのかもしれない。

 しかし彼の場合、心の迷いを上回る『覚悟』があった。困難な飛行を成し遂げたいという飛行機乗りの誇りである。操縦輪を握り直し、張は己の役目に集中した。




 離陸後、しばらく通信士は仕事がなくなった。関は後部銃座に移り、周囲の見張りを行っていた。この機体では副操縦士が機銃手を兼ねるため、後部銃座には操縦装置一式もある。風防越しに斜め後ろを見ると、二番機がしっかりと着いてきている。

 日本軍も夜間戦闘機は配備していないとはいえ、関は全く油断などできない。僚機の様子に気を配る必要があるし、万が一にも日本軍機と遭遇すれば相手も必死の攻撃を仕掛けてくるだろう。敵である日本の航空兵たちもまた必死で戦っていることを、関は知っている。不時着した日本軍機の乗員が全員自決しているのを見たことがあった。捕虜に対する過酷な扱いは日本も中国も同じだ。プライドの高い航空兵は地上で嬲り殺しにされるより、機と運命を共にする者も多い。

 自分もきっとそうするだろうと思うと、憎いはずの日本兵に不思議な共感が芽生えたものだ。同じ人間、同じ兵士、同じ飛行機乗り。その命は薄紙同然。関が薄紙の一枚として渡洋爆撃に挑むのは無論、祖国を守るためだ。


 では日本人は何のために?

 戦闘機の随伴できない長距離爆撃では、日本軍の爆撃隊も多くの損害を出しているというのに。

 何故彼らは海を越えてまで中国を攻めようとするのだろう?


「……我々は世界を知らなすぎた」


 歴史学者だった父親の口癖を、関はぽつりと口にした。中国人が世界の中心だと言っていられる時代はすでに終わっている。百年近く前に阿片戦争の頃からだ。イギリスの圧倒的な軍事力に敗北しても、清国の人間はそれほど大きな問題とは思っていなかった。中国人が異民族との戦に敗れた事例は多々あり、イギリスに敗北したこともそれらの一つに過ぎないと考えていたのである。

 だが古来より中国から多大な影響を受けていた日本は大きな衝撃を受けた。彼らは東アジアを狙う西洋人のやり方に危機感を募らせ、同胞同士での凄惨な戦いをしてまで新政府を樹立した。それがやがて力を蓄え、こうして中国へ牙を剥いている。

 その一方で、かつてイギリス同様に清国へ阿片を持ち込んだアメリカ人は中国へ義勇兵を派遣し、また馬丁式を始めとする航空機を輸出するなど支援を行っている。歴史の皮肉だ。


 星空を眺め、関はため息をついた。日本人も同じ空を見ているのだろう。その空を行き来する翼を手に入れたというのに、それを使って人間のやることは相手の土地に爆弾を落とすことなのか。


 駒の一つである関 文竜に、答えは出せなかった。
















「機長、陸地です! 九州です!」


 およそ三時間半。長い飛行の末、夏が叫んだ。

 とうとう来たのだ、日本に。敵国の上空に。


「後席! 殲撃機は出て来ないと思うが、周辺警戒を厳にしろ」

はい!』


 疲労を感じていた乗員たちに緊張が漂う。操縦士である張も見張りを怠らない。暗闇の向こうに多数の星が見えた。美しいが、それは空ではなく地上にある。灯火だ。日本の町の灯りだ。


 エンジン音を響かせながら、二機の馬丁式は闇を切り裂いて町へ近づいていく。夜空と同じく黒い大地に、灯りがぽつぽつと光っていた。この下で日本人は暮らしているのだろう。時に笑い、時に泣いて生きていることだろう。今中国軍の双発爆撃機が頭上を飛んでいると知れば、彼らはどう思うだろうか。


 張は機体を投下コースに入れ、二番機もそれに追従する。遠方に見えた町の灯りが次第に近づき、やがて真下へ入った。


「用意」


 夏が爆弾倉の開閉レバーに手をかけた。だが爆撃用の照準機は覗かない。ただレバーを握る自分の手のみを見つめている。

 地上の星空が眼下一杯に広がった。


「開け!」

「是!」


 機体の腹部から中身がバラバラと投下される。機体が少しだけ軽くなるのを操縦輪を通じて感じた。散撒かれたそれらは夜風に乗り、空中へ流れていく。


「関、見えるか?」

『しっかり投下されています。二番機の投下も確認。……白い花びらのようです』


 最後に小さな声で感想が付け加えられた。

 張たちの馬丁式には爆弾など積まれていなかった。投下されたのは中国大陸における日本軍の行為を訴えるビラだ。それを見た日本人の中に、少しでも反戦を叫ぶ者が現れることを期待しての作戦である。どの程度の効果があるかと言えば、張は正直あまり期待できないのではないかと考えていた。


 だが。


「夏。これも大切なことだ」


 細目でちらりと眼下を見下ろし、張は言った。本当なら爆弾を喰らわせてやりたい。戦争をしているのだからその感情は当然のことだ。

 しかしいつかこの戦争が終わった後、中国が、世界がどのような道を歩むか分からない。今は中国寄りのアメリカやイギリスが、再び極東への野心を表すこともあるだろう。もしかしたら今度は自分たち中国人が、他国を脅かす狼と化してしまうかもしれない。


 どの道一介の飛行機乗りである張には政治情勢などどうにもできないが、飛行機乗りだからこそできることもある。


「俺たちは世界を知らなきゃならん。そしてよく話し合わなきゃならん」


 燃料系に目をやり、残量が半分であることを確認した。


「そのために飛行機を使うと言うなら、俺は喜んで飛ぶさ」

『通信機もそのために使わなくてはいけませんね』


 伝声管から関の声が聞こえた。作戦を成功させたためか、どことなく満足げだ。だがまだだ。大陸に戻るまで彼らの旅路は終わらない。


「……俺もご一緒しますよ」


 張の方を顧みて、夏も笑顔を浮かべる。

 一つ頷き、張は叫んだ。


「投下完了! 帰投する!」



 エンジンが唸りを上げ、二機の爆撃機は反転した。敵国の灯りに背を向けて。





















………


 馬丁式重轟炸機は二機とも帰還したが、この作戦は成功したとは言いがたい。日本では九州上空における航空機の出現が新聞に小さく報じられたのみで、中国側が期待したような効果は無かった。散布されたビラは日本の官憲に拾い集められてしまったし、反戦を訴える日本人はすでに非国民と罵られ投獄されていたのである。


 中国側は『世界初の日本本土空襲』として大々的に喧伝し、再度同様の作戦を行っている。しかし二度目の出撃の後、乗組員を乗せた二機が帰還したという記録はない。


 闇夜に消えた航空兵たちについて、中国政府は何も語っていない。

 彼らが何を願って東へ飛んだのか、知る者はいなかった。


………



お読み頂きありがとうございます。

馬丁式ことマーチンB-10(輸出型なので193Wか)による『紙爆撃』は実際に行われた作戦で、その顛末も概ね史実通りに書いております。

しかし登場人物だけは架空の人物です。

実在した人物名で書くには当人たちの情報が少ないもので。

また、この小説は「ただの飛行機好き」の私が書いたもので、政治思想は一切含まれていないことにもご留意ください。


ご意見ご感想、よろしくお願い致します。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 短いですが良い作品ですね。 寧波は、日本との貿易の歴史がある港町で、古くは遣唐使、その後 日宋貿易、元寇、倭寇などと、日本と深いつながりがありました。 この爆撃行も、同じような歴史の一コマ…
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