新しい道へ
「じゃあ、ハルカ、早速で悪いけど、馬車に乗って。これからだと試験会場まで丸2日くらいかかる。試験は3日後なんだ。だから急がないと間に合わない。…なかなか城を抜け出せなくてここに来るのが遅くなったんだ」
「うん。わかった」
気付けば、ハルカの口調は変わっていた。自然にタイラの口角が上がる。
「何?」
「いや、なんでもない。もう出発するけど大丈夫か?」
「うん」
頷き、タイラのもとに駆け寄ろうとした足が止まる。
「ハルカ?」
「…伯母さん、私がいなくなったら困るかな?」
「えっ?」
ハルカの言葉に目を丸くする。ハルカは視線だけを動かした。
「ここの林檎の木の世話は全部、私の仕事なの。私がいなくなったら林檎の世話する人がいなくなる。きっと伯母さん困るよね」
「…」
「ちょっとだけ待っててくれる?」
そう言うと、身体ごと向き直し、目を閉じた。ハルカの横にもうひとりのハルカが現れる。
タイラと初めて出会ったときに使った魔力だ。
「よし。これで大丈夫」
「ハルカ、今から試験なのに余分な魔力使って大丈夫なのか?」
「え?」
「魔力だって無限じゃないだ。魔力を使ったことのあるお前ならわかってると思うけど、コップに入った水みたいに、使えばどんどん減っていく。休息を取れば体力みたいに戻るけど、これから試験なのに、大丈夫か?」
「ありがとう。でも、大丈夫。…それに、そんなに高度にしてないから魔力をあんまり使わないと思う。今日の仕事が終われば消えると思うし」
「でも…」
言葉を繋げようとするタイラを首を振ることで止める。
「伯母さんが困るのが嫌なの。…たとえどんな扱いを受けていたとしても、伯母さんだけが私の唯一の家族だから。伯母さんの笑顔に救われたのは、事実だから」
「…わかった。これ以上何も言わないよ。それに、そういうハルカが俺の望む女王だし」
その笑みにハルカは小さく頷く。
もう一度、ゆっくりと辺りを見渡した。大きな林檎の木、道には、赤や白の綺麗な花。
7歳の時に引き取られてから、ずっとここで生きてきた。いい思い出も悪い思い出もたくさんあった。それでも、父のいなくなった悲しみを拭ってくれたのは、確かにこの場所だ。
だから、やはり、ここが大好きだとハルカは思う。
「いってきます」
声には出さず、口だけ動かした。風が吹く。背中を押された気がした。
タイラのいる方へ足を踏み出す。そのまま馬車に乗り込んだ。
2人を乗せた馬車は音を立てながらその場所を離れていく。
赤い実をつけた木々が小さくなっていった。
しかしハルカは気づかなかった。一度も振り向きはしなかったから。
さすが王族の馬車である。
馬車の中は10人ほど入れる広さであり、ソファーは座れば身体が少し沈んだ。ハルカはその座り心地の良さに、思わず目を閉じ眠ってしまいそうである。
しかしタイラがそれを許さなかった。
タイラは馬車に乗るとすぐに試験に必要な知識をハルカに叩き込んだ。
他国は腕力、体力のある男性が力を持つ。しかしシャマ国は女性に魔力という不思議な力が備わっているため権力はほぼ拮抗している、など他国とのシャマ国の違いや他国の存在。シャマ国の歴史。
シャマ国では、昔、魔力を悪用し、金儲けや人殺しが頻発していた。そこで立ち上がったのが、初代女王アイリであった。アイリはその強力な魔力により、危険な魔力を封じ込めようとしたのだ。そして、その魔力は、1冊の本に封印された。
また封印できない魔力もあったという。それらはただタブーとして伝わっただけだと言われている。そのタブーを破れば災いが起こるという言い伝えとともに。
アイリは、魔力の封印されたその本を消そうとした。しかしその本は、何か強い力に守られているようで消すことができず、何十年も時は過ぎた。アイリは死ぬ間際、人々に遺言を残した。「魔力の強い者を集めよ」と。そして、その者に本の抹消を願ったのだ。
そのような経緯から、募った者たちの中で魔力の一番強い者が女王になるという制度が生まれたのである。
そして現女王セラの強い魔力で15代目にしてやっと、封印の本をこの世から消すことができたのだ。しかしその結果セラの寿命は縮んだ。
「えっ?」
タイラの説明に、ハルカは思わず声を漏らした。
「セラ様、大丈夫なの?」
「…いつ死んでもおかしくないと思う。魔力は普通に使っている分なら身体に害はない。でも大きすぎる力を使えば寿命を縮める。…ハルカもこのくらいは知っているよな」
「…うん」
「本を消すには強力な魔力を使うしかない。本を消したということはお母様の寿命は確実に縮んだってことだ。初代女王のアイリ様も32歳の若さで亡くなった。今回の女王選びの試験はお母様の寿命が縮んだから行われるんだと思う。…お母様は何も言ってはくれないけど」
「どうにもならないの?」
「ならないと…思う。もともとこの国では女性の方が寿命は短い。…仕方がないんだ」
「仕方ないって…」
「だって…お母様はやりたいことを成し遂げて死ぬ。女王になった時、あの本を必ず消すと心に誓ったってお母様は言っていた。それで死んでも本望だって。きっとお母様のことだ、自分の命が後どのくらい残っているか、だいたいはわかっている筈だ。俺たちには寿命が少し縮んだとしか言わなかったけど」
「タイラはそれでいいの?」
「…お母様は笑っていた。だから…」
タイラは黙った。自分の足元を見つめている。
ハルカはそんなタイラの髪を軽くなでた。
「いいわけないよね。…ごめん」
タイラは頭に触れるハルカの手の上に自分の手を重ねた。ハルカの小さな手がタイラの手に完全に覆われる。
タイラはゆっくり視線を動かし、ハルカを見る。
「ありがとう」
聞き取れないほど小さな声。ハルカは静かに頷く。
馬車の窓から見える木々が揺れている。木の葉がぶつかり、音を奏でた。
温かい時間が流れる。
数秒後、タイラはハルカの手に触れていた手を離した。耳がほのかに朱色に染まっている。
それを誤魔化すように目線を逸らし、再び話を始めた。
「ところで、ハルカは何か呪文知っているか?」
「呪文…?何、それ?」
「…やっぱりな」
微苦笑を浮かべ、口調に戻しタイラは説明に移った。
初代女王アイリは魔力の悪用を防ぐと同時に、魔力の弱い人々のために魔力を増幅させようとした。魔力を増幅させる言葉。それを頭の中に浮かべることで、通常以上の力を出せるようにしたのだ。
その言葉は「呪文」と呼ばれ、呪文は人々に広く伝わっていった。
しかし、時代の変化に伴い、裕福な人々がその呪文を独占し、呪文の存在はある層までしか伝わらなくなった。そして、貧しい人々の識字率は低くなり、呪文を思い浮かべることも困難になっていったのだ。
「その呪文を覚えた方がいいの?」
「確かにその方が有利だと思う。…でも俺、知らないんだ。男だから覚える必要なんてないだろう?でも、他の参加者はおそらく呪文を使う筈だ。素手で戦うのはハルカだけかもしれない。」
「仕方がないよ。私は他の人みたいに努力してこなかったし、覚悟だってなかった」
「ハルカはさ、俺が3年前に言ったように時々、魔力使ってくれた?」
「…タイラの言葉を覚えていたわけじゃないけど、時々ばれない程度に使うことはあったよ?」
「なら何もしてないわけじゃない」
「いや、でも」
「ハルカなら大丈夫」
真っ直ぐ見つめられるタイラの視線からハルカは目を逸らした。
自分の足元を見つめ、不安そうに言う。
「…タイラは何でそんなに自信、持っているの?私が女王になるかとか決めつけていてさ。私、字だって読めないし。あんまり魔力使ってこなかったんだよ?試験受けること自体、間違いなのに」
「そんなことないよ。大丈夫」
「…どうしてそんな風に言い切れるの?」
「ハルカを信じているから」
「…」
タイラの瞳に嘘はなかった。だからこそ、ハルカは余計に不安を覚える。
「だからどうしてそんな風に私を信じられるの?私ですら自分を信じられないのに。…私、自信ないよ。タイラの期待に応えられそうもない」
「…3年前、ハルカが俺にありがとうって言ってくれたから」
「え?」
「3年前、俺はハルカにひどいことをした。ただの興味本位で過去を聞き出して。…表情には出さなかったけど、昔のこと思い出さなくてはならなくてつらかったと思うんだ。それでもハルカは、初めて会ったわがままな俺に本当のことを話してくれたよな。俺のことを王子だと知らなかったのに、素直に話してくれた。誤魔化すこともできた筈なのに」
「…」
「優しい人なんだって思った。信じられると思った。この人と一緒なら夢を叶えられるんじゃないかって思ったんだ」
「夢?」
「みんなが平等になってほしい。綺麗な横並びじゃなくても、人と人との色々な差を小さくしたい。それが夢」
「…」
「ハルカとなら、できると思うんだ」
「…私にできるのかな」
「できるよ」
「……私はそんなに自分のことを信じられない」
「…なら、俺を信じて」
「え?」
「ハルカを信じている俺を信じて」
ハルカは、タイラの目を見た。綺麗な青が光っている。
ハルカは長年、誰も信じることなく生きてきた。そんなハルカが過去に出会っていたとはいえ、今会ったばかりと言っていいタイラを信じることができるのだろうか。
ハルカは一度目を閉じる。
自分も、同じようなことを思っていたことを思い出した。夢といえるほどのものではなかったけれど、そうなればいいと考えていた。願っていた。
一緒に夢を叶えてみたい。数年ぶりに芽生えた願いだった。
すべてを諦め、目の前の現実を受け入れることに慣れていた。望めばその分、悲しくなる。いつも自分に言い聞かせてきた。
けれどタイラは違った。遠い夢をはっきりと口にした。
ハルカはきっとタイラのようになりたかった。
目を開ける。
視界に、タイラの拳が映った。太ももの上で強く握られている。微かに震えていた。
胸が暖かくなるのをハルカは感じた。決して強いわけではない。それでも、信じると言ってくれた事実が嬉しくて、くすぐったかった。
ハルカはタイラの拳に手を置き、ゆっくりとそれを開かせた。両手で包みこむ。
タイラの瞳を見た。
その中に、ハルカだけが映っている。
「私はタイラを信じる」
その言葉が耳に入ると同時に、タイラの伸ばしきった背筋が一気に緩んだ。
座り心地のいいソファーに深く沈む。ハルカの目を下から見上げた。
何も言わず、温かい笑みを浮かべる。その綺麗な顔に、ハルカも笑みを返した。
馬車が通る道の隅に綺麗な花が咲いている。太陽がその花々の成長を助けていた。
太陽に届くように、上へ上へと伸びている。
馬車が通るたび、小さな風は吹いた。風が花々を揺らす。
風によって揺れる花も2人と同じように微笑んでいるように見えた。
温かい太陽の熱がすべてを包んでいた。
さらにタイラの授業は続いた。
すべて覚えられる筈もなかったが、ハルカは必死で聞いた。
その間も馬車はずっと走り続けた。
試験会場に辿りつく。外はまだ暗かった。
「思ったより早く着いたよ」
「ここがヒミ」
「ああ。暗くてよく見えないけど、この国で一番栄えている場所だ」
「…うん」
タイラの言葉に頷きながら、ハルカは目を擦る。
「疲れたよな。まだ時間がある。少し仮眠を取ろう」
「…タイラも?」
「ああ。俺も寝かせてもらう。大丈夫。ちゃんと起こすから」
頷き、ハルカは目を閉じた。すぐに微かな寝息が聞こえる。タイラは起こさないよう静かにハルカの髪を梳く。夢の中のハルカが笑った気がした。
小声で従者に声をかけ、タイラも目を閉じる。意識はすぐに遠くなった。
従者の声に2人は目を開けた。耳を澄ませばざわめきが聞こえる。馬車から下りた。
視界に映るのは数え切れぬほどの人。会場はすでに埋めつくされていた。
すぐに支度をし、会場に入る。
ハルカは、受験者の証である赤いリボンを左腕に巻かれた。126という番号が記されている。
ハルカは周りを見渡した。
赤いリボンをつけた受験者たちと自分を見比べた。
ひらひらのスカートにセットされた髪。胸元や指には光る宝石。
それに比べ、ハルカの服は土や埃で汚れたままだ。
ハルカの思いを汲み取ってか、タイラは心配そうにハルカの顔を覗き込む。
「服、着替える?何か用意するけど」
「……いいよ」
「そう」
「うん。…これで、大丈夫」
「わかった。…ハルカ、俺はもうお母様たちのいるところに行かなくちゃいけないんだ。傍にいてやれないけど、大丈夫か?」
「…大丈夫だよ。私、頑張るから」
「ああ。…じゃあ行くよ」
「うん」
一度背を向けたタイラが振り返った。
「ハルカ。俺はハルカに女王になってもらいたい。けど、無理はするなよ。頑張ったならきっといいことがある」
「うん。大丈夫」
「…じゃあ、本当に行くから」
タイラはハルカの頭を一撫でし、王家が座る席へと向かった。中央に女王セラが座っている。その横には王であるカイがいた。そしてその脇を固めるよう3人の王子が座っている。その後ろには王家に縁のある者たちが座っていた。
タイラがいなくなったことで、ハルカの近くには誰もいなくなる。
いや、実際には、ハルカはリボンをつけた受験者の輪の中にいた。しかし彼女たちは皆、ハルカから離れている。服装のせいか、ハルカは周りから奇異の目で見られていた。
少し遠くからの鋭い視線を浴びる。
ハルカは少し悔しく思ったがすぐに払拭するように首を振った。
ひとりじゃない。心の中で言うと、ハルカは目を閉じた。ゆっくり息を吐き出す。
再び周りを見渡した。
受験者は皆、身につけている物に負けないほど美しかった。そして知的だった。
その中でもひとりの女性にハルカは注目する。
彼女がとハルカ同じようにひとりでいたせいではない。どうしても目が離せなかった。
結われていない金色の髪の毛は、背中の半分ほどの長さであり、手入れが行き届いていることがわかるほど美しい。風に揺れるたびに動くその髪は、多くの人の視線を集めている。
薄紫のドレスには百合の花が刺繍されていた。
服装も、髪型も周りの裕福な人々と変わらない。しかし、どこか近寄りがたい雰囲気を発していた。
顔が小さく、目が大きい。綺麗とも可愛いとも表現できてしまう美しい顔立ちは聡明だった。
この人には敵わない。それはハルカの直感だった。そしてそれは揺るがない事実のような気がした。
タイラとの約束を果たせない。そんな不安に襲われる。
ハルカはタイラのいる場所に視線を移した。しかし、多すぎる人が邪魔でタイラの姿を見つけることはできない。
だからハルカは自分の頭を触った。タイラが触れていった場所。
タイラの優しい笑みを思い出す。不安が徐々に和らいでいく気がした。
「精一杯やろう。ダメでもともとなんだから」
頭から手を話さずにハルカは小さな声で呟いた。
1発の銃声が響き渡る。ざわめいていた会場が静まり返った。
人々の視線が一点に集中する。ひとりの初老の男性が壇上にいた。
一度周りを見渡すと、静かに話を始める。彼の口から今回の受験者は132人いること、それは例年に比べ50人ほど多いことが告げられた。
次に20代後半の女性が壇上に立った。彼女は試験官らしく、受験生たちに試験の詳細を伝えた。試験には筆記、実技、面接の3つがあるという。筆記試験で受験生は50人に絞られ、実技の試験では2人に絞られる。そして、最後の面接では、残った2人が女王の出す質問に答えるのだ。
試験官が壇上から降りると周りからざわめきが聞こえた。今までの試験と今回の試験とでは内容が異なるらしい。想定していたものと違う、と不安の声が微かにハルカの耳にも届く。
ハルカは先ほどの女性に視線を移した。周りの様子とは異なり、ひとり落ち着いている。ハルカは目を閉じた。深く息を吐く。
「大丈夫」
自分に言い聞かせるよう呟いた。
「今から筆記試験を行います。試験官に従い行動してください」
その声に会場には静けさが戻った。それを確かめると試験官が受験生の誘導を始める。
受験生は試験官に従い移動した。筆記試験が行われる会場だ。
しかし、会場と言っても、建物があるのではない。机と椅子の置かれた簡易なスペースがあるだけだった。説明を受けた場所と少ししか離れてはいない。
受験番号の書かれた机に座らされた。机の上には筆記用具の一式が置かれている。
受験生の着席を確認すると、試験官たちは問題用紙の配布準備を始めた。
会場の静けさが耳に痛い。誰もが緊張を隠せずにいた。
しかしその雰囲気はすぐに壊れることになる。
「あ…あの」
声を発したのはハルカだった。リボンのついた左腕を挙げ、恐る恐る立ち上がる。
「はい?」
試験官がほんの少し首を傾げて言った。
「…あの、私ほとんど字が読めないし、書けないんです。だから口頭で試験を受けるわけにはいかないですか?」
会場の空気が止まったように固まる。
「えっと…これは筆記試験で…」
義務的に仕事をこなしていた試験官の顔が一気に曇った。助けを求めるように周囲に目をやる。
しかしその他の試験官も予想外の申し出に助け船を出すことができずにいた。
「文字の読み書きができないくせに、この試験を受けようとするなんて驚きだわ」
「筆記試験で筆記ができなくては意味がないのではないかしら」
試験官の代わりに、受験者の口から様々な声が飛んだ。鋭い視線が突き刺さる。
ハルカは何も言えず俯いた。
「口頭でもいいと思います」
その声に顔を上げる。声の主はタイラだ。
「私が彼女の素質を見込み、ここに連れてきました。どうか彼女にチャンスを与えてください」
タイラの頭が下げられる。
「何を言っているんですか、君は?」
「カナタ兄さん」
2人の男性が立ち上がった。第一王子のカナタ、第二王子のホタカである。
カナタはタイラより少し明るい色の長髪を低い位置で1つに束ねていた。
眼鏡をかけた顔は美しく、聡明で、気品があった。
ホタカの短い髪は漆黒だった。おそらく染めたであろうその髪に似合う整った顔立ち。穏やかなカナタとは違い、活発そうな雰囲気を持っている。
「あんな薄汚い小娘に女王が務まる筈がねぇだろう。まして字の読み書きもできないなんて話になんねぇよ」
「ホタカ兄さん」
「タイラ、目を覚ましなさい」
「兄さん。聞いてください。彼女の魔力はとても強いんです。しっかりとした勉強はしてこなかったかもしれないけど。…でもそういう人も女王になる権利は与えられるべきではないんですか」
「あいかわらずタイラは甘いですね」
「…」
「あの見るからに貧しい少女に何ができるというのですか。たとえどんなに彼女が強い魔力の持ち主だとしても、ある程度の財産を持つ家でなければ王家に入れるわけにはいかないです」
「カナタ兄さん。この試験に金持ちとか関係ないよ。貴族だろうがなんだろうが関係ない。この試験は誰にだって、たとえ貧しくたって受ける権利がある」
「そんなのは綺麗事でしょう」
「そんなことない!…そうでしょ、お母様」
タイラの言葉に、皆、女王セラに視線を向けた。
薄ピンクのドレスを身に纏い、茶色がかった髪を後ろで1つに束ねている。高い位置で束ねられた髪は、肩の少し下まできていた。その簡単にできてしまう髪型さえセラがすると美しい。セラはゆっくりとタイラの目を見る。
優しく微笑み尋ねた。
「…そうね、タイラ。あなたを信じてもいいかしら?」
「はい、もちろんです」
「そう」
「…」
「あなたは嘘があまり上手ではない子だから。…きっとそうなのね」
「お母様」
「…ねぇ、試験官さん」
「は、はい。」
「私の子に免じてその子に特別処置を取ってもらってもいいかしら?…そうね。ここは建物もないから…タイラの乗ってきた馬車の中を会場にしてはどうかしら?」
「わかりました。そのようにします」
セラの言葉に試験官は義務的な口調で答え、女王に一礼した。ハルカを連れていく。
カナタとホタカが驚いた表情を浮かべ自分の母親を見つめた。
セラはその視線に気づくと2人に笑顔を送る。2人は少し顔を見合せるがすぐにあきらめたように腰を降ろした。
タイラも2人に少し遅れて椅子に座る。
会場の中で、タイラとセラだけが笑っていた。
その間も試験官たちは着々と事務を行っていた。すぐに、問題用紙が配られ始める。
何か言いたそうな受験者たちの顔にまた緊張が戻る。もう誰も何も言わなかった。
問題用紙が受験者全員に配られる。ひとりの試験官が言った。
「それではこれから筆記試験を始めます。時間は60分。それでは、始め!」
その声に受験者が一斉に用紙を表にする音が響いた。
ハルカは馬車の中にいた。先ほど壇上で説明していた試験官の女性も一緒だ。。
「名前と受験番号を教えてください」
「は、はい。ハルカです。126番です」
「126番のハルカさんですね。私はミズキと言います。よろしく」
「よろしくお願いします」
「それじゃあ、今から60分間試験をします。私が問題を読み上げるのでそれに答えてください。ハルカさんの言ったことを私が用紙に書き込みます。この試験にきちんとした『正解』はありません。次期女王選定の試験だということを念頭に置きながら、あなたの思うことを素直に答えてください」
「お願いします。…すみません、ミズキさん」
「何がですか?」
「迷惑をお掛けして」
俯くハルカに問題用紙から目を離し、ミズキは首を横に振った。
「迷惑なんて思っていないわ。それよりむしろ感謝しているの」
「え?」
「私もね、貴族出身ではないの。魔力は普通の人より強い方だとは思うけど。…身分の良くない私がこうやって王家の手伝いをさせてもらっていることだって間違いなのかもって思っていた」
「…」
「そして、あなたはその上を行く」
「…」
「私は勇気をもらったわ」
「…いえ。私は望んでここに来たわけではないんです。…ただ、タイラ…様が信じてくれたから」
その言葉に、ミズキは笑みを浮かべた。そして首を振る。
「王子にあそこまで言わせるだけでもすごいことよ。タイラ王子は自分に正直な人なの。自分が好きなものを好きというし、自分の信じたものを信じる人よ。あなたは王子に信頼されている。それは王子が心からあなたが女王にふさわしいって思っているってことだと思うわ」
ハルカの頬がほんのり赤くなった。ミズキが小さく笑う。
2人の間に穏やかな空気が流れた。
「それじゃあ、そろそろ始めましょうか」
「はい」
ハルカの返事に頷くと、ミズキは腕時計を見た。
「では始めます。第1問…」
問題は学問的知識を問うものというよりは、日常生活をしていく上で工夫しなければならないことを答えさせるものが多かった。
日頃何でも自分でこなし、いろんな仕事を行ってきたハルカは記憶と体で覚えた感覚を頼りに答えていく。時々、馬車の中で聞いたタイラの話も織り交ぜた。
答えなければいけないことは大体わかった。
しかし上手く言葉にできない。ハルカには60分がとても短く感じた。
結局いくつかの問題に手をつけることなく終了時間となってしまった。
「以上で終了します。お疲れさまでした」
ミズキの優しい声が達成感のないハルカには痛かった。
ミズキともに会場に戻っていく。会場には様々な表情が浮かんでいた。
「私、採点があるから先に行くわ」
ミズキは軽くハルカの肩を叩くと、早足で他の試験官のところへ向かった。
ひとりになったハルカはゆっくり歩みを進め、自分の席に座る。
ふと視線を上げるとタイラと目があった。ハルカに笑みを向けている。
ごめん。心の中で告げた。
結局その笑みに気づかぬ振りをして、目線を逸らす。
しばらくして会場にざわめきが戻る。20人ほどの試験官がまた姿を現したのだ。
ミズキが壇上に立つ。
「今から合格者の発表をします。受験番号を言うのでよく聞いておいてください。それでは受験番号、1番…」
合格者の番号が呼ばれ始めた。ハルカは胸に手を当て、目を閉じる。
時々聞こえる歓声と悲鳴がハルカの心臓の鼓動をより早めた。
ミズキの声はさらに続く。
「…113番、117番、126番以上です」
ハルカはすぐに目を開け、左腕のリボンを見た。「126」の文字が見える。
「…やった」
リボンを見つめたまま、誰にも聞こえないほど小さな声で言った。喜びよりも驚きの方が多かったかもしれない。
ハルカはすぐに顔を上げ、王家の席を見た。タイラと目が合う。
ハルカはタイラに見せるように左手を高く上に挙げた。タイラが小さく手を振る。タイラの顔にはハルカと同じような感情は見られない。「当然だ」とでも言いたげな顔である。そのタイラの顔を見て、ハルカは素直に嬉しいと思った。
「それでは今から1時間休憩を挟みます。事前に言ってあるように各自昼食を持ってきていると思いますので、そちらを食べていただいてかまいません」
それだけ言うとミズキは台から降りた。
何も持たずに飛び出してきたハルカにはもちろん、昼食などない。タイラからも何も渡されていなかった。
いつも昼食など与えられてはいなかったため平気な筈だった。しかし周りからの匂いがハルカの腹の虫を鳴らせる。ハルカは耐えきれず、タイラのいる方を見た。
しかし親族に囲まれ、動けそうもない。
尤も、審査をする側に立つ王家の者が受験者と一緒に昼食を食べるなどあってはならないのだ。先ほどの発言により公平性が疑われ始めている。これ以上タイラは何もできないだろう。
ハルカは自分のお腹を押さえた。必死で訴えてくる腹の虫の声を無視する。目を開けているとおいしそうな食べ物が目に入るため、ハルカは目を閉じた。
何もすることがない時、時間はやけにゆっくり流れる。せめて寝よう、とハルカは思った。楽な姿勢になろうと椅子を少し後ろにずらす。それと同じタイミングで、ハルカの肩を誰かが叩いた。顔を上げるとそこには美しい女性。目が離せなかった彼女だ。腕には1と書かれたリボンを付けている。
「もしよかったらどうぞ」
高い声。容姿に似合う綺麗な声だった。
彼女の手には豪華なお弁当。2段になっているそれの彩り豊かであった。おそらくすべての食品が高級だ。
「あ、いや…」
「一緒に食べましょう。どうせ多くてひとりでは食べきれないもの」
そう言って優しく微笑む。先ほど空いたばかりの席に座った。
「さあ、どうぞ」
ハルカの話を聞かず、彼女は話を進めていった。
気付かれないように息を吐く。ハルカは少し笑った。
「…じゃあ、お言葉に甘えて」
椅子をもとの位置に戻し、中身を少しもらった。
食べながら彼女はハルカに話しかける。
「私は、ラセ」
「ラセ?変わった名前ですね」
「ええ。よく言われるわ。あなたは?」
「私はハルカです」
「あなたはなぜここに来たの?親の期待というわけではなさそうだけど」
ハルカの服装を見てそう言うラセに苦笑を浮かべた。
「…自分でもよくわからないです」
「わからない?」
「ええ。…私は自分が国を変えられるなんて思っているわけではないし、自分の力なんて信じてないです。でも何かの役に立てることがあればいいなと思ったんです。そうすれば魔力のある自分を少しでも好きになれるかもしれないと思ったんです」
「…」
「あと笑ってほしかったんです。私のことを信じるって言ってくれる人に」
「それってタイラ王子のこと?」
「…わ、私のことはもういいじゃないですか。…ラセさんはどうしてなんですか?」
「私も同じようなものよ。…あ、これおいしいから食べて」
そう言ってラセは弁当の一品を指差した。話をはぐらかされたような気がするハルカだったが、同年代の人と会話をすることがあまりなかったため、そんなものなのかもしれないと特に気にせず、ラセと話を続けた。
ハルカがラセと会話を楽しんでいると、ミズキがまた壇上に登った。
「指定されているところへ戻ってください。実技試験の詳細を説明します」
残った受験者がざわつきながら朝と同じ場所に戻る。しかしその光景は朝とは違った。
目立つ空席。吹き付ける風がさきほどよりも強い気がするのも気のせいではないだろう。
「それでは説明を始めます。実技試験は魔力の力の強さを見ます。今からこの箱を配ります」
ミズキは白い箱を見せた。
「この箱にぬいぐるみが入っています。それと全く同じものを作ってください。一体でかまいません。もちろん、呪文を使っても結構です。時間は60分。では配布します。」
ミズキの声に合わせ、他の試験官が箱を配る。
ハルカも受け取った。
「それでは、始め!」
大きな声が会場に響く。
ハルカは震えてくる手でその白い箱を開けた。
中には全長15㎝ほどのクマのぬいぐるみ。
クマの毛は茶色と金色の中間のような色をしている。丸い目は漆黒。首には薄ピンクのリボンが巻かれていた。
ハルカはクマを机の上に出した。手触りはよく、ふわふわしている。手足が前後に動く作りになっていた。
ハルカは目を閉じた。クマの姿を頭の中に思い浮かべる。
目を開きクマを凝視する。再び閉じた。何度も繰り返しながら頭の中に浮かぶイメージを磨き上げていく。
ようやく作り上げた頭のなかのクマは、どこかぎこちない手足の動きまで同じだった。
ハルカが少しの安堵感に包まれ、軽く息を吐こうとした時、ミズキの声が耳に入る。
「残り30分」
その声に再び緊張の糸は張り直された。深呼吸をし、腹に力を入れる。
自分の中にある物体のない、例えるなら空気のような魔力。その魔力で、作り上げたクマを包み込む。
そして念じた。思いどおりのクマができるように。それが目の前の机の上に現れるように。
白い箱の右隣。その何もなかった空間が歪み始めた。
頭の中で作り上げた順に、クマが形になって現れ始める。
「残り5分」
ミズキの声が静まり返った会場を覆う。
集中力が途切れるのを必死に抑えながら、さらに腹に力を入れた。
「残り1分」
その声とほぼ同時に、ハルカの目の前に立派なクマのぬいぐるみが現れた。白い箱の左隣に座るクマとの区別は一見しただけではつかない。
筆記試験とは違い、ハルカは自分に満足していた。たとえ落ちても「頑張った」と心から言える、と思った。
まもなくミズキの「止め」の声が響き渡る。
ハルカはようやく緊張の糸を切った。
試験官がそれぞれのぬいぐるみを集めていく。ハルカの列には、リボンを巻いてくれた初老の男性が来た。
男性はその列で唯一残るハルカの席にクマを取りに来る。その男性がクマを見て、ハルカに微笑んだ、気がした。気がした、と付くほど自然に。
それぞれの作品を回収し終えた試験官は、受験者の見えないところへ移った。その審査によって2人に絞られる。
待つ時間、会場に残された者は誰ひとりとして口を開かなかった。不安の色を隠しきれないでいる。
ハルカは意識的に何も見ないように下を向いた。
きっとタイラの顔を見れば訳もなく安心し、ラセの顔を見れば訳もなく不安になるだろうとわかっていたからだ。
どれほどの時間が経ったのだろうか。試験官が戻って来た。ずいぶんと待たされた気もする。
ハルカは顔を上げた。
ミズキが壇上に立つ。真っ直ぐを見つめた。
「合格者を発表します。名前を呼ばれた方は前に、呼ばれなかった方は退場してください」
「…」
会場が静まり返る。ミズキの声だけが響いた。
「では、発表します」
「…」
「1番ラセ。126番ハルカ」
ふいに音が鳴る。視線がそこに集まった。ラセが立ち上がっている。堂々と前に歩いていった。
ハルカは呆然とそれを見ていた。しかしすぐに自分も立ち上がる。ラセに続いて前に出た。
ハルカの姿を見たからだろうか、固まっていた受験者も次第に我に返る。
「なんであの子なの?」
そんな声が上がる。
「あの子より私の方が…」
同じように不満の声が漏れた。しかし、ただ前を見ていたハルカには届かなかった。
不合格者がいなくなると言っても、全員が周りを囲むように残っていた。受験生が傍観者に変わっただけである。それでも会場はどこか殺風景だった。
勝ち残った2人は試験官に囲まれ、王家の席の前に立たされた。ミズキは2人の斜め前に立つ。
「今から、最終試験を始めます。試験官はセラ女王です」
「…」
「今から、女王が質問をします。それに答えてください。セラ女王が次期女王としてふさわしいと思った方が選ばれます」
説明が終わると、ミズキは王家の方を向き、一礼した。他の試験官同様に2人を囲む。
ハルカはセラを見つめた。美しく、知性あふれる顔立ち。
薄緑の瞳からは強さと優しさが感じ取れた。“女王”という言葉にふさわしい人物だとハルカは思った。
女王が一歩前に踏み出す。スカートを掴み、挨拶をした。
「こんにちは。女王のセラです。私は、今から1つだけ、あなたたちに質問をします。それに自分が思うまま答えてください」
「はい」
ハルカとラセの声が重なる。
「それでは、1番の方。あなたから答えてください」
「はい」
「あなたが女王になったらこの国をどうしたいですか?」
どうしたいってどういうことなのだろう。ハルカの頭に疑問が浮かぶ。質問の意味さえ良くわからなかった。
けれど、ラセは落ち着いている。ゆっくりと口を開いた。どこか笑みを浮かべているようである。
「私はこの国をもっと発展させたいです。より富を築き、他国に負けないほど大きな国にしたいです。そのためには、もっと格差をつけるべきです。勝ち負けが出ることは当たり前のことです。だから勝者にはより大きな勝ちを与え、勝つものが巨額の富を手に入れ、その富でさらにこの国を豊かにさせたいと思います。敗者には最低限の保障をしていけばいいでしょう。敗者を踏み台にして、富を一点に集中させた方が国はさらに大きく、他国まで巻き込む世界になれると思います。私はそれを望みます」
顔色を変えず、ラセは言う。
ラセの言葉に、会場全体が歓声の声を上げた。うるさいほどの歓声は、もうすでにラセを支持している。
違う、それは違う。
歓声を聞きながら、ハルカの頭の中に同じ言葉が流れた。ここにいる人の多くがラセの案を押す中、セラは言った。
「126番の方。あなたはどう思いますか?」
「…」
「どうですか?」
「…私は、平等にしたい」
「…」
「難しいということはわかります。勝つ人がいれば負ける人がいるのも当然です。…でも私は、平等にしたいです。ひとりでもつらい思いをする人が減ればいいと思います」
会場の熱が一気に下がるのを感じた。
いつもなら相手の望むことを言う。ハルカはそうやって生きてきた。けれど、今は違う。タイラに名前を告げた時から、変わったのだ。俯きかけた顔を持ち上げ、前を見た。
言葉を続ける。声が微かに震えていた。
「私は…女王にはラセさんが適任だと思います。話も上手だし、知識も豊富です。見てはいませんが魔力も私より数段上だと思います。…でもその考えなら、認めない。私は、認めません。勝ち残っていかなければ、潰される。そのくらい、私にもわかります。…でも、それでも、みんなで幸せになりたいんです」
「ハルカ…それは綺麗事よ」
ラセが呆れたように言う。その声にハルカは頷いた。
「綺麗事です。叶わない夢かもしれない。でも、理想くらい綺麗だっていいじゃない」
ラセにハルカは笑った。自分が正しいとは思わない。けれど、間違いだとも思わなかった。ラセの語った未来の方が現実的である。それでも、その未来に自分の理想も少し乗せてほしい。そう思った。そうなれば、ここまで来た意味があると思えた。
タイラと出会い、ここまで来たことが無駄ではないと思えることができる気がした。
「合格」
セラの声。
全員の視線が、彼女に集まる。その中でも、セラは綺麗に笑った。
そして言い放つ。
「あなたが次の女王よ。ハルカ」
「…え?」
半口を開けたままハルカはセラを見る。周りも同じように固まっていた。
「どうしてですか!」
観衆の中から声が聞こえた。ハルカには見覚えがあった。
ハルカの前に座っていた受験生である。
その声を受けた形でカナタが言った。
「母上。私もなぜなのか聞きたいですね。魔力も知能もラセの方が上です。それに、彼女の言葉には現実性がある。それに比べ、ハルカの主張は理想でしかありません。方法は決められない。けれど希望はある。そんな人ならこの世に数えきれないほどいます。私たちが求めているのは、理想ではなく、方法であり、ハルカはそれに応えてはいません」
「そうね、カナタ。カナタの言うとおりだと思うわ。けれどね、ハルカは優秀よ。筆記試験での彼女の答えは、実際に経験をしたからこそ出た答えだったわ。模範解答より立派だと思うの。魔力だって強い。それにもし、その2つが劣っていたとしても、それは補えることよ」
「ですが、彼女は」
「ええ。もちろん、理想しか語ってはいないわ。確かに現実性もないかもしれない。けれどね、私はハルカの考え方が好きなの。ねぇ、考えて見て。あんなにもラセの案に歓声が上がったにもかかわらず、ハルカは自分らしい答えを言ったわ。それは素晴らしいことじゃない?それに私も、理想は大きく持つものだと思うの。夢や志がなくては、何も変わらないわ」
「でもそれでは国は成り立たないよ、母さん」
ホタカが静かに告げる。
「そうね。そうかもしれない。けれど、この国は大丈夫よ」
「何を…」
「だって、それをサポートしてくれる人たちがいるもの。あなたたちのようにね」
「…」
「それに私はもう決めました」
「あ、あの…。私はやっぱりラセさんの方が適任だと思うんです。考え方さえ変えてくれれば…」
「無理よ」
恐る恐る提示するハルカをセラはバッサリ切った。
「考え方はそう簡単に変わるものではないわ」
「…」
「それにラセなんていないしね」
そう少しいたずらっぽくセラが言う。ハルカの隣にいた筈のラセの姿が消えた。
全員が目を丸くする。
その中でセラだけが笑っていた。
「ラセは私よ。セラ…ラセってね。簡単だから誰かわかるんじゃないかって思ったけど。…誰も気がつかなかったみたいね」
そう言ってまた花のように微笑んだ。
「母上、あなたははじめからハルカを女王にするおつもりだったのですか?」
「いいえ、カナタ。それは違うわ」
「では、なぜ」
「確かにハルカの意思の強さはこの国にほしいと思ったわ。だからラセを近づけて話を聞いたの。でもそれだけよ。私は誰が残っても同じようにしたわ。…あなたが今、考えているように裏工作なんてしていない。この子は実力でここまで残ったのよ。そして、時期女王となったの」
セラの瞳に力強さが増した。もう誰からも抗議の声は上がらなかった。
カナタはただ、「わかりました」と了解の意を示し、ホタカはただ苦笑を浮かべている。
「ハルカ!」
会場に声が響いた。ハルカにタイラは駆け寄った。手を握りしめる。
目を合わせて、告げた。
「ハルカが女王だ」
「…うん」
染み込むように、その言葉がハルカの中に入った。
ゆっくりと拡がるように、身体が言葉を理解していく。
「大丈夫か?」
「…うん。よく…わからないけど」
「でもハルカが女王なんだよ」
小さく笑いを漏らし、タイラはもう一度告げた。
ハルカの頭が次第に回転を速める。タイラの言葉が全体にようやく行き渡る。
「女…王?私が」
確認するように言う。
「ああ、そうだよ。ハルカ」
「…本当に?」
「もちろん」
「本当に?」
「ああ。だって、お母様が決めたんだ。ハルカが次期女王だよ」
「…やった!」
ハルカの声が上がった。笑顔が浮かぶ。本当の笑顔だった。タイラの同じように声を上げた。
喜び、2人は抱き合った。
一歩前に出ていたセラはゆっくりとカイの隣に戻る。
「よかった…よね。これで」
その声をカイだけが聞き取った。
「ああ」
ただ、頷く。
「本当はね、目があなたに似ていたの。優しい子だと思ったわ。それだけでこの国のトップに立てほしいと思った」
「そうか」
「もう、本は消したから、魔力の強さだけにこだわらなくてもいいと思ったの。…ハルカの魔力は驚くほど強いみたいだけどね」
「うん」
「この国をいい国にしてほしい、そう思っているわ」
「俺に似ているかそれはよくわからないが、きっとあの子はいい子だろう。それを心の中ではカナタもホタカも認めている。2人だってああは言っていたが、こうなることがわかっていただろう」
「ええ」
「周りは宝石で光っていた。でも、あの子だけは何もつけていなくても光っていたんだから。それに君が認めたんだ。なら俺も認める」
「うん」
勢いに任せた抱擁から、我に帰り、ハルカとタイラは頬を赤くした。少しだけ距離を取っている。
初々しい2人に向けてセラは言った。
「浮かれたい気持ちもわかるけど、大事なことを話しておくわ。ハルカ。」
「あ。え。…はい」
「この中から結婚相手を決めてもらえるかしら?」
「…え?」
「王家が変わる。それだけで国に異常なまでの混乱をもたらすの。だからあなたには今の王家に嫁いでほしいの」
「…」
「王家を変えたくはないの。…でも他に好きな人ができたら、その人と結ばれても構わない。形式上だけ、この3人の誰かを選んでくれれば」
その言葉にハルカは言葉を失った。
「それって…初めから決まっていたことなんですか?」
問う声は低い。
「どういうことかしら?」
「女王に選ばれた者の相手として、3人のうち誰かを選ばせること、です」
「ええ。決まっていたことよ」
「…それはタイラも知ってたの?」
「え?」
「王様って、すごいよね?王様になりたかった?」
「ハルカ…?」
「だから私をここに呼んだの?」
冷たい瞳がひとりだけを見つめている。そして、もう一言言葉を発した。
「私の魔力の強さを…利用した?」
タイラはすぐに理解した。ハルカが、何を思っているのか。自分の背後に誰を見ているのか。
「違う!」
叫ぶ。決して言わせてはならない言葉を言わせてしまった。タイラの中にはその思いが巡る。
「俺は…」
上手く言えずに言葉に詰まった。何を言っても言い訳にしか聞こえない気がして何も言えなかった。
「やっぱりそうなんだ」
「違う!」
「今の私なら絶対タイラを選ぶから。やっぱり私の魔力を…利用したのね」
「違う!信じろよ、俺を」
「…」
「…俺が初めて見たハルカは、後ろ姿だった。その後ろ姿は、何回も伸びをしていた。きっと疲れているんだろうなと思ったんだ」
タイラは静かに語り始めた。優しい声だった。
「俺にはその背中が泣いているように見えた。俺は、気になってしょうがなくなって、でも、話しかけるきっかけがなくてうろうろしていたんだ。そんなとき、ハルカが魔力を使った」
「…」
「きっかけができたと思ったんだ。嬉しくて、すぐに話しかけたんだ。嬉しさを隠すために少し乱暴になっちゃったけど」
「…」
ハルカはタイラの話を黙って聞いていた。
「振り返った背中は、涙なんて知らないって顔していた。それでも話せたことが嬉しくて、話を続けたんだ。話をしているうちに、涙を知らないんじゃなくて、失くしているだって気がついた」
「…」
「涙と一緒に笑顔も忘れているんだってわかったんだ。ハルカの本当の笑顔が見たいと思った。ハルカの本当が知りたくなった。家に戻ってからもずっとずっとハルカのこと考えていた。ハルカに笑ってほしいってそう思った」
「…」
「……それと同時に。………そばにいてほしくなったんだ」
「え?」
「それには、王家っていうのが邪魔だった。自由に会いにすら行けない。…何年も考えているうちにこの試験が始まった。その時思ったんだ。たとえ女王になれなくても、ハルカの魔力の強さを知ってもらえば、ハルカは王家はハルカを必要とするだろうって。そうすれば、そばにいれるかもしれないって」
「…結局、私の魔力が強かったからじゃない」
「そうじゃない。いや、確かにそうだけど。でも、ハルカの魔力が低かったら他の方法を考えたよ、きっと」
頷きたかった。けれど、不安は消えなかった。
ここに来る前には、利用しているだけでもいいと思った。けれど、今は違った。
タイラには、魔力のないハルカを見てほしくなったのだ。
信じたかった、でも怖かった。
怖さの方が上だった。
だから集中力を高めた。しかしその行為はひとりの大きな声によって止められる。
「止めなさい!」
その声に体が反応し、肩が少し上がった。先ほどまでの穏やかな声ではなかった。
少し寂しげな表情を浮かべるセラがいた。
「心をのぞくことはタブーな筈よ。あなたも知っているわね。タブーを犯せば、あなた自身に災いが降りかかるわ」
「…」
「そこまでしなければ、タイラを信じられないかしら?」
「…」
「ハルカ、タイラの目を見なさい。心と同じくらい目は正直よ。特に、タイラの目はね」
言われて、ハルカはタイラの目を見た。
綺麗な目。曇っていないと素直に思えた。
「タイラはあなたと初めて会った時のことを嬉しそうに話すわ。何度も、何度も。まるで自分の自慢話でもするように。その顔は少しやけるほどいい顔よ」
「な、何を言ってるんですか、お母様!」
タイラは顔を赤くして、セラを見る。その様子は誰が見ても慌てていた。そんなタイラを見て、ハルカは笑った。
その笑みがタイラの目に留まる。2人の視線が1つの線になってつながった。
タイラが静かに笑い返す。
綺麗なタイラの目を信じようとハルカは思った。こんなに自分のことを思ってくれる人はいない。そう思えるほど、タイラの笑顔は優しかった。
「タイラ、ごめんね。信じるって言ったのに、信じきれなくてごめんなさい。…でもこれからずっとそばにいて、ずっと信じ続けるから」
「えっ?それって…」
「うん。…私と結婚してください」
ハルカは言った。顔を真っ赤にして、思いっきり照れて、恥ずかしそうに感情むき出しにして。
「お、俺のセリフ取るなよな」
少し拗ねた口調。けれど、その顔は赤い。
2人の視線が再びつながる。顔が近づきかけて、2人は思い出したように周りを見た。
大衆の視線が集まっている。
拍手が一つ起こった。それが連鎖し、大きな拍手に包まれる。
祝福の拍手。カナタもホタカも、不満を言っていた受験生たちも、手を叩く。
突然、ハルカの目から涙がこぼれた。
「ど、どうした?」
ハルカは大きく首を横に振る。
「…嬉し涙って本当にあるんだね。知らなかった」
そう笑った。
太陽が真上より少し傾いた位置にある。
それでもその場にいる人々を明るく照らしていた。さわやかな風が人々の髪を揺らす。
草花も揺れた。
ハルカの幸せを喜ぶように互いに触れ合い音色を奏でている。
その音楽を背に、風がそっとハルカの嬉し涙を拭いていった。
「…でも、タイラも理想ばかりを追い求めるところがありますね。理想を追うばかりの2人。それで大丈夫なのでしょうかね?」
「俺もこの2人がトップっていうのは危ない気もするけどな」
幸せに水差す言葉。拍手を止めたカナタとホタカだった。
そんな彼らの姿に、セラは微笑んだ。
「だからあなたたちが支えてくれるんでしょ?」
「…」
「理想だけでは何もできないことがわかっているから、お金や名誉を大切にする。そういう人がいなければ国は成り立たないわ」
「…?」
「敵がいなくては正義のヒーローも目立たないもの」
セラの言葉にカイは頷いた。
「俺は、…いや、セラでさえも理想を見過ぎるところがある。それを2人がいつもカバーしてくれている。悪役を演じてまで。わかっているんだ、カナタ、ホタカ」
「…」
「見るに堪えない現実を直視し、冷静な態度を取れるお前たちを俺は尊敬している」
「あなたたちは私とカイの息子だもの。優しい人に決まっているじゃない。でも、最後の一歩まで躊躇なく踏み出せるタイラには敵わないと思っているのよね。だから裏方に回ったのでしょう?わかっているわ。あなたたちがいるからこの国は豊かになりつつある。わかっているのよ、ちゃんと」
「な、なんのことかよくわからねぇけど、俺らがいなきゃ、この国はやっていけないってことだよな。ま、これからも俺は俺の、カナタ兄はカナタ兄のやり方でやっていく。誰が上に立とうがな」
「よろしく頼むよ、カナタ兄さん、ホタカ兄さん」
「少し、偉そうですよ。タイラ」
そう言うとカナタとホタカも再び笑いの中に加わった。
「いけない、忘れていたわ。ハルカちょっと来てくれるかしら」
セラが手招きをする。ハルカは駆け足、セラの前に立った。
目の前の綺麗な顔に、一瞬見惚れ、俯く。
「ごめんなさいね」
「え?」
「ごめんなさい」
冗談のように言った初めの「ごめん」。それに比べ、2回目の「ごめん」は消えそうな声だった。何か嫌な気がして顔を上げた。それと当時に感じる、暖かい感触。
ハルカの左頬にセラが軽く口づけをしたのだ。
「な、何してるんですか!」
セラの行動にタイラがすぐに反応した。大股でハルカとセラに近づいてくる。
「タイラ、待って」
そのタイラをハルカは止める。
ハルカに背を向けたセラの様子が明らかにおかしい。
「説明してもらえませんか?」
目を合わせないセラにハルカは言う。セラは小さく頷くと、ハルカの腕を引き、タイラたちと少し離れたところに移動した。
大きな大木。2人はその木が作り出す影の中に入る。
「ごめんなさいね」
静かな声。その声にハルカは首を振った。
「大丈夫です」
根拠のない言葉。けれど、その言葉に確かにセラは安心を示した。ハルカは笑みを浮かべる。
「説明していただけますか」
「女王になるための儀式なの」
「…」
「…」
「セラ様。それだけではない、ですよね?」
「…ええ」
「…」
「女王には、死期がわかってしまうの。死まで1年を切ると、頭の中で勝手にカウントダウンが始まってしまう」
「…」
「そして、そのカウントダウンが始まるのと同時に女王を選びが始まるわ。残された時間の中で新しい女王に多くのことをを伝えていく時間なの。それが女王としての最後の使命よ」
「最後…」
「私が死ねば、自動的にあなたの中にある呪文が記憶されるわ。それを使って、左頬に口づけをする。それが女王になる儀式なの」
「なぜ…死期なんて」
「それだけ女王は大切なの。いいえ、女王が大切なのではなく、国のトップが、かしら。女王という存在がね大切なの。国の情勢にとっても、民にとっても」
頷くことも否定することもできなかった。
黙ったままのハルカに、セラは続けた。
「大勢の人の前で話す時、人は台に乗るでしょう?人より上に立つ。そうした方が指示は出しやすいわ。女王っていうのはね、その台なの」
「…」
「人はね、何もない状況では真っ直ぐ歩けなくなることが多いのよ。だから、台の上に立つ人が言葉を言うの。そうすれば、歩く方向を定められるわ。混乱がなくなるのよ。混乱がなければ何とか上手くやれるものなの」
「…」
「ハルカ」
「はい」
「あなたは、タイラに宝石を身につけることが駄目と言ったそうね?」
「…あ、…はい」
気まずくなって下を向いた。そんなハルカにセラは首を振る。
「別に、あなたの意見を責めはしないわ。…私たちの宝石も、服も台みたいなものなの」
「台?」
「ええ。低い台ではよく見えない。だから高い台に登るの。そして、台を高くするのが、宝石であり、豪華な服装なのよ」
「…」
「でもあなたのような考え方もあるのは事実だわ。…私はそういう考え方をいつの間にか失くしていたのかもしれない。ありがとう。また新しい発見ができたわ」
「そ、そんな」
「…そして、ごめんなさいね。…死期なんて、知りたくないわよね」
「…セラ様」
「不思議なことに歴代の女王は事故死でも、病気死でもないわ。老衰でもない。ろうそくの灯が消えるみたいに、ふっと死んでしまうの」
「…」
「きっと、このカウントダウンは、どんなにあがいても変わらないんだと思うわ。…本当にごめんなさいね」
「セラ様の中で、もうカウントダウンは始まっているんですよね?」
次期女王を選ぶ試験は今終わったばかりだ。それはつまり、カウントダウンが始まってしまったことを意味する。わかっていたけれど、聞かずには居られなかった。
「ええ」
「…」
「でも教えないわ。誰にもね」
「…」
「あと、死期がわかるっていることは、内緒にしておいてね」
何事もなかったかのように笑い戻ろうとするセラの腕をハルカは引いた。
セラは少し驚いた表情を浮かべている。
「秘密にすることは守ります。…でも、いつかぐらい、私たちに…いや、せめてタイラたちだけにでも教えたっていいじゃないですか」
「ダメよ。だって私、猫だから」
「…猫?」
「そう。わがままで、身勝手で、気分屋なのよ。ま、気が向いたら言うかもしれないわ」
そう言うと、軽く片目を閉じ、笑った。それは、死期がわかっている人間にできるのか、と思うほどさわやかで優しい笑顔だった。
ハルカの心配は消えなかった。けれど、何度聞いても答えは出してくれないだろうと、みんなのもとに戻って行くセラの背中を見て思った。
後ろ姿でさえ、気品が満ちている。
高い位置で結われた髪は、セラが歩くたびに、小さく揺れた。
どのくらい残されているのかわからない女王の命。ハルカはそれを実感することはできなかった。
けれど残りわずかな時間の中で、教えてくれることのすべてを覚えよう。そう心に決めた。
「何を話していたんだ?」
隣に戻ってきたセラにカイは尋ねた。
「世間話よ」
そう笑う。「そうか」とだけ返し、カイはそれ以上言わなかった。
いつも隣にいたセラの違いに気づかないわけがない。傷ついていることはわかった。そしてそれを決して曝け出さないということも。
カイの視線にセラは気づいた。その視線に小さく首を横に振った。そして、カイに向け、投げキスをする。
カイは少しだけため息をつき苦笑を浮かべた。小さく頷く。
ハルカは正式に次期女王にそしてタイラの妻となった。
ハルカには城の1部屋が与えられた。城の中では決して広くはないその部屋は、しかしハルカにとって大きすぎた。頭上には大きなシャンデリア。部屋の掃除はメイドがしてくれる。
座るソファーは柔らかく、眠るベッドは大きかった。
夕食には豪華な食事。けれど王家の食事としては質素なものだという。どれもこれも今までの生活と違いすぎた。部屋は広すぎて居心地が悪く、出てくる料理には驚いてばかりいた。
そんなハルカをタイラたちは暖かく迎えた。
セラやカイは「たくさん食べなさい」と笑い、タイラたちは自分たちのことを放して聞かせた。その話に頷きながらハルカは食を進めるが、胃袋が小さくなっているためか、目の前に出された食事に少ししか手をつけられなかった。片づけられていく皿に残ったままの食べ物を残念そうに見送った。
カナタにはフォークやナイフの使い方を注意され、食事とは言え、勉強なのだと気を引き締める。しかし、ハルカにとって楽しい食事というものは久しぶりであり、すぐに気は緩んだ。
いつだってひとりきりの食事だった。
食事が終わると、カイが昔話を聞かせてくれた。可愛いお姫様が出てくる冒険の話。
それを小さな子どものように目を輝かせて聞いた。
幸せだと思った。久しくそんな風に思ったことはなかった。
カイの話が終わると、各々の自室へ行き、眠りにつく。
ハルカも与えられた部屋に戻った。ふかふかのベッドの中に入り目を閉じる。しかしすぐに目を開けてしまった。
起き上がりベッドから降りる。部屋を出て、廊下に出た。空を見上げる。
綺麗な星空が広がっていた。
真っ暗な夜だったが、星のおかげで少しだけ周りが見えた。下には花壇がある。明日見に行こう、とハルカは思った。
再び空を見上げた。
星に向かって手を伸ばす。その時だった。
「眠れないのか?」
声に首を振る。声で誰かわかったため、ハルカは振り向かなかった。
タイラが不思議そうに尋ねる。
「違うのか?」
「眠れないっていうか、いつもこの時間、まだ寝ていないから」
「こんな遅くまで何かやっていたのか?」
「この時間は、食事…かな?でも足らなくて、おなか減って、なかなか眠れなかった。今は、おなかいっぱいだけど」
「じゃあ、なんで?食べ過ぎた?」
「そうじゃないよ。なんか…眠るのが怖くて」
「…?」
「寝て、起きたら…全部夢でした、ってなりそうで怖いの」
「ハルカ…」
「タイラ、私ね、今すごく幸せだと思うの」
「うん」
「だから…だからね、寝たら全部なくなる気がして怖いんだ。今日をまだ終わらせたくないの」
「…」
「だからね、寝るのを止めて、風にあたりに来たの。まだもう少し、起きていられるように」
「ハルカ」
名前を呼び、タイラはハルカを抱き寄せた。微かに震えるその肩に手を回す。
「…大丈夫。全部、本当だ。明日も俺はハルカのそばにいる」
「…うん」
「だから、安心して寝ていい」
「うん。…見ているかな、お父さんとお母さん。…なんかね、ここにいれば、星にも手が届く気がしたんだけど…やっぱり届かないね」
「たとえ届かなくても、きっと見ているよ」
「…うん。タイラ、ありがとう」
「それは俺のセリフ。ここにいてくれてありがとう」
2人の顔は互いに赤く染まった。タイラはハルカを抱きしめている今の状況に気付き、思わず手を離した。
「あ、いや…。も、もう、寝ようか、ハルカ」
「う、うん」
「…明日から大変だぞ、ハルカ。覚えることも考えることも山ほどある。もしかしたら夢だった方が良かったって思うかもよ?」
タイラの言葉にハルカは静かに首を横に振る。
「そんなことないよ。…どんなに大変でも私はここにいたいもん」
「…そっか」
「うん。…それじゃあ、おやすみ。…また明日」
「ああ。おやすみ。また明日」
そう言うとタイラは自分の部屋に戻っていった。ハルカはその後ろ姿を見送る。
もう1度空を見上げた。
外に向かって手を伸ばす。ほんの少しだけ星空に近づいた気がした。
以降恋愛要素が強くなってくるかと思います!
宜しければもうしばらくお付き合いください。




