第四章『驚異の奇術師、現る』(1)
第四章『驚異の奇術師、現る』
美術展が開幕されてから五日。……不気味なほど何事もなく四日が過ぎようとしていた。
「不謹慎だと思うんだけど……」
デスクに顔を押し付けるような体勢で希紗は誰に言うでもなく呟く。
「ヒマだわ〜っ!」
「……本当に不謹慎だな」
「あははは、イイことだけどちょっと怖いよね」
「くっそ〜、腕がなまっちまうぜ! まさか最初ので終わりだったってのかぁっ?」
遼平も希紗と同じように椅子にだるく寄りかかっているし、純也は和やかにお茶を淹れている。澪斗もやはり部屋の隅の壁際で腕を組んでいるだけで、昨日となんら変わらない位置で四日目を迎えていた。そして、やっぱりいつもと変わらないのは……。
「あっ、もしもしワイやけど〜」
『シンっち〜! 良かった、今日も無事なのね〜!』
「心配かけてスマンなァ、あと二日で帰れるさかいにユリリンこそ無事でいたってや〜」
『私は大丈夫だけどぉ〜、シンっちがいなくて死ぬほど寂しいんだからぁ〜っ』
「ワイも会いたいでー! 仕事終わったらマッハで帰るからな〜!!」
『じゃあご馳走作って待ってるから、絶対に帰ってきてねっ』
「もちろんやァ――っ!」
携帯端末に向ってひどく嬉しそうに通信している真を見ているのも、皆そろそろ飽きてきていた。(毎日毎日よくもまぁ飽きずに同じような内容の会話ができるな……)と感心の念さえ部下達は抱き始めている。
「……いい加減アレはなんとかならねぇのかよ? いつもいつもデレデレしやがって……」
「羨ましいわよねぇ、新婚さんって憧れるわ〜」
「…………一年と二ヶ月というのは、新婚に入るのか?」
「ずっと仲がいいのはいい事だよ」
「っていうかまんまバカップルだろ、アレは?」
指で自分達の部長を指す遼平に、「う〜ん……」と純也は返答に困る。結婚する前と大して変わらないどころか、むしろより一層燃え上がっていく二人にメンバーは複雑な心境だった。微笑ましく見守るべきなのだろうが、見ているこっちが赤面するようなやりとりにはそろそろ落ち着いてほしいのだ。
真は仕事には責任を持ち中野区支部の社員の中ではマトモな方なのだが、その反面なのか物凄い愛妻家だ。仕事で溜まりに溜まったストレスを発散させる場なのであろうが、その私生活は馬鹿がついてしまうほどラブラブっぷりを放出しまくっているらしい。
「あれ? 純くんどこか行くの?」
「え、あぁ……、ちょっと館内を廻ってくるよ」
制服の上着を脱いでスーツを着込み始めた純也に、希紗が問いかける。にこやかに笑いながら純也は「一人で大丈夫だから」とそそくさと監視室を出て行ってしまった。
「……行ってらっしゃ〜い」
純也の淹れてくれた緑茶をすすりながら、なんだか人を避けるようだった少年に違和感を感じる。カップは元々四つしか用意されておらず、どうやら最初から出て行く気だったらしい。
「やっぱ純くんもヒマだったのかなぁ……」
「……」
呆然と監視モニターを観ている希紗の後ろで、遼平は湯気を立てているカップをつまらなそうに一瞥しただけで終わった。
◆ ◆ ◆
すっかり陽は暮れ、美術展はよく似合う清閑に包まれていた。気品溢れる来客者達が『鮮血の星』に見とれた後で二階に上がり、各美術品を堪能していく。
別に不審者を捜すわけでもなく、純也は俯きながら美術館二階の左通路、絵画エリアをとぼとぼと歩いていた。
やはり何かが引っかかっている……この不可解さは何なのだろう? 記憶をゆっくり辿っていき、初日の夕方の襲撃……そしてセレモニー時の不審者との攻防を思い出していく。ずっと感じていた妙な感じ、そしてあれ以来何の異変も起こらない……。あんなに激しかった襲撃の後に何故だ? そうだ、あんなに大勢の刺客を仕向けて派手に襲ってきたのに……?
そんな純也の思考を停止させたのは、前を見て歩いていなかった純也の不注意でぶつかってしまった男との正面衝突だった。二人とも腰を床にぶつけてしまい、特に軽量な純也は遠くまで飛ばされてしまった。
「「いたたたた……」」
更に二人揃って合わせたように腰を擦る。口調まで一緒だった。
「あ、ごめんなさい、僕……」
「あわわわわっ、君、大丈夫!? け、怪我とかしてない!!?」
「え? えぇ、まぁ……」
動揺しながら素早く立って男は純也に腕を差し伸ばしてきた。純也が見上げると、その人物はウェーブのかかった赤毛が肩までかかった、ひょろっとした若い男だった。眼は明らかに激しく動揺しておろおろしているし、純也が掴んだ手は冷や汗でびっしょりになっている。異常なまでに小心者らしい。
その男の手汗に滑りながら、純也は身を起こす。よく見てみると、男は遼平と同じくらい場違いな格好だった。皆正装しているこの館内で、白いTシャツに色の薄くなったジーパン姿という……ある意味遼平よりこの場に不相応な格好をしていたのだ。
「すみません、僕が前を見て歩いていなかったから……」
「い、いや、君が無事ならいいんだっ。気にしないで」
ブンブンと目が回ってしまうのではないかという猛スピードで、赤毛の男は首を横に振った。だがその時、鈍い音を立てて、男のポケットから何か重たそうな物が落ちたようだった。
「あっ!」
「これは……?」
ソレを拾ってあげようとして、純也は落し物が何なのかを知り、固まった。
……赤毛の男が落とした金物は、シャベルと金槌だった。
「あ、あっ、こ、コレは……そ、その……」
急いで男はシャベルと金槌を拾い上げ、後ろに隠した。暑くないはずなのに、赤毛の男の顔からは大量の汗が吹き出ている。
そんな怪しげ(?)な男を見上げ、純也はどう対応していいのか困っていた。多分、この人は不審者だ……いや、ほぼ確実に不審だ。だが、シャベルと金槌とは一体? 純也は警備員としてどうするべきなのか悩んでいた。
「とりあえず、一緒に来てもらえませんか?」
「へ? ど、何処へ?」
ひどく男は狼狽えた。まさか目の前の少年が警備員だとは気づいていないのだろうが、怪しまれたのは察したらしい。
「そうだなぁ、あそこの休憩所なんてどうですか?」
いきなり監視室や格納庫に連れて行くわけにもいかないので、純也は手汗でびっしょりの男の腕を取って休憩所まで歩いていった。
「……これどうぞ」
そう言って笑顔で純也はコーヒーの注がれた紙コップを赤毛の男に渡した。すぐそこの自動販売機で買ったもので、純也は自分の分のジュースを飲みながら、コーヒーに手をつけてくれない男をもう一度観察する。
今まで様々な不審者や武装者を相手にしてきたが、こんな人は初めてだった。そもそもこの人は不審者なのだろうか?
「あの、飲んでください」
「あっ、そうだよね、ありがとう」
気づかうような少年の視線に、男は無理して熱いコーヒーを一気に喉に流し込み、咳き込んだ。
「あちっ、げほっげほっげほ!」
「大丈夫ですか!?」
「う、うん……」
男の背中を擦りながら、純也は心配そうに顔を覗き込む。よく見ると、彼の涙の浮かんだ眼はその髪色に負けないぐらいの朱色。
「あの、あなたのお名前は? どうしてここへ?」
「俺は、林李淵っていうんだ。その、今日は……」
もじもじしながら空になった紙コップを見つめている李淵に、もしやと思っていた考えを純也は述べる事にした。
「……盗みに入った、とか?」
ギクッ、とあまりにもわかり易い効果音が李淵から聞こえた気がした。ドバーッと汗がまた大量に流れていく。彼の水分が抜けきらないように、純也はまたコーヒーを買ってこようかとさえ思った。
「そ、そう言う君は?」
「僕は純也。一応、警備員なんです」
「えぇ!? け、警備員〜っ!?」
「うわっ、声が大きいですよ!」
慌てて椅子から転げ落ちてしまった李淵を起き上がらせ、興奮が治まるまで待ってやる事にした。怯えきった瞳で李淵は純也を見上げてくる。
「落ち着いてください。まだ何もしていないのなら、僕は何もしませんから……」
「えっ、でも俺……いいの?」
「もしかして、もう何か盗っちゃいました?」
「ま、まさかっ! 俺何も盗む気なんか無いんだよ!」
「え??」
激しく手を振る李淵に、純也は首を傾げる。確かにシャベルと金槌では、この美術館では『鮮血の星』どころか他の美術品を盗むことさえ出来ないだろう。しかし、美術展に持ち込む物にしては怪し過ぎる。
「李淵さん、あなたは一体……?」
「そんな改まって呼ばなくていいよ。俺、一応泥棒だし……」
両方とてもそうは見えない職業の二人が、押し黙る。純也は何と言えばいいのかわからなかったし、李淵もどう言葉を繋げればいいのか悩んでいたのだ。
「……じゃあ、『リンリン』、とか?」
「あ、それいいかも。俺も『純ちゃん』って呼んでいい?」
「決定ですね」
「そうだね。あ、俺に敬語なんて使わなくていいから」
ふわっと優しげに微笑む純也に、李淵も初めて笑顔になった。警備員と泥棒の間に、前代未聞の和やかな空気が流れる。
「えっと、じゃあリンリンは何をしに来たの?」
「俺、実はさ……」
やっと口を開こうとした李淵と、言葉を待っていた純也の端肩に、突如大きな手が置かれた。「「ん?」」と二人が同時に振り返ると、そこには見慣れていて初見の男がいた。