第三章『愚者よ、舞え』(1)
第三章『愚者よ、舞え』
二階の中央通路、アクセサリーなど装飾品の並んだガラスケースが壁沿いに連なっている太い通路を遼平と純也は駆けていた。この先に二階の全ての通路が集う休憩所、つまり行き止まりがある。そこがこの美術館の裏手で、確か大きなステンドグラスが窓になっていたはずだ。
先を走る遼平の背中の先に、純也はまだ館内に残っていた一般人を見つけた。まだ小学生くらいの幼い男の子を連れた両親がじっくりと美術品を鑑賞している。
「あっ、りょ――」
「任せた! なんとかしとけっ!」
純也が最後まで言葉を続けるまでに、遼平はその家族の脇を疾走して先に行ってしまう。今の遼平にはこれから起こるであろう戦闘への意欲で頭が一杯らしい。純也に否応言わせる間も与えず、通路を獲物のもとへと全力で飛んでいく。
そんな闘争本能むき出しの『兄』を見送り、純也は急ブレーキで家族の前に止まる。物凄い速さで美術館内を走っていった若者に目を見張ってから、高貴そうな家族は目の前で息切れ一つせずにこちらを見上げてくるスーツの少年に視線を向ける。何か言いたそうな表情で、白銀の髪の幼そうな少年は他にも人がいないか周囲を見渡していた。
「あの、私達に何か?」
「えっと、放送が聞こえませんでしたか? 今日はもう閉館の時間なんですが……」
「まぁ、そうですの? すみません、あまりに美しいもので魅入ってしまいましたわ。ねぇあなた」
「はは、そうだね。さすがは宮澤財閥だ、どれも素晴らしいものばかりだよ。特にこのガーネットのピアスが――」
「あ、あのっ、実はもう間もなく正面玄関が閉められてしまうんです。ですから急いでいただかないと……」
優美にゆっくりとまたガラスケースを覗き始めてしまった父親と母親を、純也がなんとか急かせようとする。ほんのすぐそばまで危機が迫っている事を知らせることは、叶わない。しかしこの家族が最後の一般人のようなので、何としても気づかれる前に帰らせなければならない。
そこで背後から、ガラスか何かが派手に割れる音がし、全員の視線が紺髪の若者が走って行った先……休憩所のほうへ向けられる。純也の顔に冷たい汗が流れた。
「あら、何かしら今の?」
「さ、さぁ? ちょっとこれから今日の清掃があるので、その音かと……」
「ねーママ〜、閉まっちゃうみたいだし僕もう飽きたから早く帰ろうよぉ〜」
「そうね、わかったわ。帰りに美味しい物食べましょうね」
美術展はさぞや子供には退屈だったのだろう。息子が母親のドレスの端を引っぱり、ありがたいことに退館を催促してくれた。母親は仕方が無さそうに子供の手をとって純也に一礼し、階段のほうへ向った。父親もおおらかに笑いながらそれについて行く。
少年の安堵の一息。焦りもせず歩いていく家族三人の背中を見守って、ふと自分の中で羨望が芽生えているのに気づいた。
自分にも昔、あんな時期があったのだろうか。両親がいて、共に過ごした日々があったのだろうか。思い出せない……遼平と出会う前の事……行く場所も帰る場所もわからず、自分が何者なのかさえも思い出せなかった。自分に家族はいたのか……いるとすれば今は何処にいるのだろう……。
幸せそうな家族を見てそんな事を一瞬考えてしまった自分に、純也は少し驚いた。最近は気にしなくなったのに、何故急に頭を過ぎったのだろう。久々に苗字なんて訊かれたからだろうか。
「それでも、」と純也は想う。それでも、自分は今の状況に寂しさや不安は無い。過去が無くても、今を共に生きてくれる仲間が傍にいる。それだけで、純也には充分だった。
「こちら純也。希紗ちゃん、聞こえる? 二階の一般客は全員避難完了したよ」
踵を返して走り出しながらイヤリングの無線を入れる。
『ありがと純くん! じゃあシャッター閉めるから猛ダッシュしてねー!』
「へ?」
希紗の言葉とほぼ同時に、地鳴りに近い不穏な音が美術館二階全体に響き渡る。前を見ると、ほぼ五メートル感覚で灰色の厚いシャッターが下りてきている。純也の背後からも同じ音が聞こえてきていた。
「……え? えぇーっ!? ちょっ、希紗ちゃんっ、僕まだ……!」
『じゃ、純くんガンバっ』
回線を切られて沈黙してしまったイヤリングを、純也は泣きそうな表情で見つめた。必死に駆けながら次々とシャッターの下を潜っていく。が、そのシャッターも徐々に低くなっていくっ! 自分の背が低い事を、今は珍しく感謝していた。
そして最後のシャッターがやっと見えた時、下の隙間へ思いっきりスライディングして、完全に閉まりきる一瞬前に休憩所に到着。
「ふぅ、ぎりぎりセーフ……ってうわ!」
額の汗を拭っていた純也は、いきなり正面から飛んできた物体におもわず横に跳んで避ける。シャッターに叩きつけられたその人物は、そのまま昏倒していた。遼平の拳一発で吹っ飛ばされた、武装グループの一人だ。
「危ないなぁ、ぶつかっちゃうじゃないかー」
「お前がおせーのが悪ィんだろうが」
言って、遼平は純也の横に瞬時で移動していた。背後には一段と分厚いシャッター、前方にはステンドグラスを見事に打ち破ってぞろぞろと侵入してきている武装グループ達。ざっと今この休憩所に侵入してきている分だけで三十人はいる。
「いいねぇ、ひっさびさに楽しませてくれそーじゃねぇか」
嬉しそうにいつもより一層ニヤつきながら遼平は正装の上着を脱ぎ捨て、苦しそうだったワイシャツの第一ボタンを外した。投げ捨てられた上着を純也がキャッチし、丁寧に折りたたんで隅へ置く。
「これレンタルなんだからもっとしっかり扱ってよ〜。……それと、あんまりやり過ぎないでね、遼」
「純也こそ、手ェ抜き過ぎんじゃねーぞ。仕事なんだからな」
「その台詞、そっくり返すよ。お仕事なんだからちゃんと護ってよね」
「へっ、攻撃は最大の防御なり、だぜ!」
「……どうしてそーいう言葉は無駄に覚えてるのかなぁ……」
その言葉が彼らの仕事始めの合図だった。一斉にこちらに向けて発射された銃弾を両脇に跳んで避け、互いに戦闘態勢をとりながら武装グループへ向っていく。
「はぁっ!」
純也の小さな身体に風が渦巻き、銃弾を弾き返す。真っ直ぐ突っ込んでいって敵の腕を掴み、引き寄せて床に叩きつける!
軽いステップで侵入者の間を通り抜けながら、隙が出来た敵から次々と投げ飛ばしていく。純也の腕を取り巻く風と遠心力が相まって、普段より格段に威力が上がっている。純也が使用する投げ技や押さえ込み技は合気道、と呼ばれる武術に似ていた。
「おりゃあぁぁ!」
床が貫けるのではないかという轟音で、遼平の拳が三人を一気に大理石の床へ叩きつけていた。そんな警備員に銃口が向けられ引き金が引かれた時には、遼平はその武装侵入者の背後に。
「ひっ!?」
「……おせぇんだよっ」
ぎょっとして、一瞬侵入者が警備員と眼が合ったと思った次の瞬間には、遼平の足蹴りで壁に吹っ飛ばされていた。さすがは大理石、人間が勢いよく叩きつけられても目立った傷はできない。
それに満足したのか、遼平のペースはどんどん上がっていった。弾丸や刃物が多少かすろうとも、敵を攻撃する手は緩まない。むしろその顔は悦楽に染まっていく。
いきなりの猛攻撃に武装グループは怯んでいた。たった警備員二人……しかも一人は子供なのに、もはや仲間の半数は床に横たわっているのだ。やがて、暴れまくる警備員を倒す事より目的を達成させる事を優先させたのか、武装グループの数人はシャッターに向って体当たりしたり武器を向けた。
「先には行かせないよ!」
傷ついてきたシャッターを見て、純也は複数の敵の元へと走り、大きく右腕を振って疾風でそのままシャッターに叩きつける。風が及ばなかった範囲の敵の首へ手刀を軽く落とし、両手を床につけて全体重を支えたら、横の男には最低限気絶させるぐらいの力にセーブして鳩尾に蹴りを喰らわせる。
が、背後に青竜刀を振りかぶった男の影が迫っている。純也の後頭部目掛け、思いっきり振り下ろされた!
「ハイパードロップキーック!」
ズドンッと、青竜刀で純也を狙っていた男の脳天に遼平の左脚が埋め込まれる。ここまで驚異の跳躍力で跳んできての踵落としだ、純也は男が脳震盪になってしまったのではないかと心配する。
「……いつもの事だけどさぁ、その無駄に長いネーミングセンスはどうかと思うよ?」
「うっせぇなー、必殺技とかあったっていいだろ?」
「いや、そのへんは本人の自由だと思うけどさ……なんか聞いてるこっちが恥ずかしくなるんだよね。しかもその場で考えてるから毎回技名違うし……」
「そうだったっけか?」
「そうだよ、前回は『スーパーロイヤルキック』だったじゃないか。あの時もすごく恥ずかしかったんだから」
「あー……、じゃあ今度から『ハイパーロイヤルドロップキック』にしよう。よし、決定!」
「……もうどうでもいいけど、舌噛まないでね……」
新しい技名を嬉々として喜ぶ遼平の横で純也は頭を抱える。そんなかなり変な警備員達をいつの間にか武装グループが取り囲んでいた。
二人に向う機関銃の連射。囲まれていた警備員へ、容赦無く凶弾が襲った。