探求する足跡
第九回創作五枚回投稿作品
テーマ『砂漠』
禁則事項「擬人法、擬態法の使用禁止」
2000文字
付き合い始めたばかりだと言うのに、コンクールが近いと言う理由で彼女はちっとも会ってくれない。
どうしても一緒にいたい僕は、邪魔にならないよう美術室の隅でその姿を見守ることにした。
彼女は美術室に入ると決まってはじめに窓を開け、室内に籠もった空気を換気する。
そして大きく深呼吸した後に自分の作品を棚から取り出し、部屋の中央にセットする。
そのまま後ろに歩を引き、壁に寄りかかり、その絵を眺める。
彼女の描いている作品は、一面、砂だった。
カンバスは幾種類かの黄色で埋め尽くされていた。
彼女は丹念に練り込んだ様々な色の油絵の具を混ぜ合わせ、薄めたりそのまま塗りつけたりした。
その筆先は時に大胆に、時に緻密に動かされた。
日射しに当てられ極限まで乾き、焼ける砂。
一方で、丘の稜線の内側で冷やされる。
激しい風に舞い上がり、砂嵐となって移動する。
流砂が大いにうねり、地形を変形させる。
恐らく彼女は、その中を歩いていた。
絵画の中には必ずどこかに足跡が残されていた。
彼女は止め処なく続く砂の大地を巡り、何かを探し求めているようだった。
足跡は砂丘を登り、超え、稜線を辿り、カンバスの中を縦横無尽に横切った。
「あれ、いつ完成するの?」
日の落ちた帰路を彼女と二人、自転車で併走する。
「もう少しだと思う」
とだけ彼女は答える。
あれは何なのか。
訊いても教えてはくれないだろう。
僕はそう思いながら凹凸のついた黄色いその絵を頭に思い浮かべる。
同時に、油絵の具がついた彼女の手が思い浮かぶ。
全く、まだ手も握れていない。
憤然とした気持ちになる。
僕はその感触を想像してやまない。
暗闇に浮かび上がるひどく青白い手は、筆を握るとエネルギーが満ちたように血色をよくするのだった。
もし僕が彼女を抱きしめたなら、その脈動を感じられるだろうか。
「じゃあまた明日」
考えていると、彼女は手を振って分かれ道を行ってしまった。
その笑顔があまりに無防備で、僕は苦く笑う他なかった。
きっと今は作品のことばかり頭にあるのだろう。
やはり絵だ。
とにかく今は、あの絵を完成させなければならない。
遠ざかる後姿を見ながら、僕は強くそう思った。
コンクール間近。
彼女の絵は未だ完成していない。
放課後、暫く賑やかだった校庭から音が消え、陽が落ち、暗闇が急速に辺りを覆っていった。
僕は美術室にある細長い机の上に座り、油絵の具の匂いを胸いっぱいに吸い込んでいた。
隣で壁に凭れ掛かり、遠目から作品を眺める彼女。
彼女はこれまで、何度も同じような工程で色の塗り直しを行ってきただけだった。
カンバスは、未だに複雑な黄色一色だ。
乾かす時間などを考えると、今日が絵を完成させる日程のリミットだった。
以前からその事を聞いていた僕は、なんだか当の本人より焦って落ち着かなくなっていた。
「出て行ったほうがいい?」
立ったり座ったりを頻繁に繰り返す自分に気づいた僕は、席を外そうとした。
が、彼女は首を横に振る。
「いて」
と呟き、僕の隣に腰掛ける。
そこまで密着したことがなかった僕は更に落ち着きを失くした。
彼女の太ももの感触がわかる。
陽はすっかり落ちて月の白光が部屋に差し込んでいた。
何も喋らず絵を見つめている彼女の唇は、暗闇の中でひどく熱を持っているようだった。
良く見るとその額には汗が滲んでいる。
僕はその時、気がついた。
黙々と絵と向き合っている彼女は、飄々としているようで実は激しく戦っているのだと。
自分の出来る得る限りをカンバスにぶつけようと、必死にもがいているのだと。
だから彼女の手や唇は血色を良くし、額に汗が滲むのだと。
気付くと同時に、体が動いていた。
僕は無性に胸が苦しくなって、彼女にしがみついていた。
それが、抱きしめたいという気持ちだと気付いたのはずっと後だった。
腕の中の彼女は、とても温かかった。
呼吸の音が聞こえる。
髪の毛に埋めた鼻に柑橘系のシャンプーの匂いが届いた。
抱いた肩が僅かに震えている。
そっとその顔を覗くと、彼女は上目遣いでこちらを窺ってくる。
唇がひどく赤かった。
僕は無意識に、その膨らみに吸い寄せられていった。
ふと目を開けると、彼女は驚いた顔をした後、無言で作品に向かい始めた。
彼女の筆は、カンバスの足跡を急かすように走らせた。
その鬼気迫る雰囲気を、僕は息を呑みながら見守る他なかった。
彼女は歳月をかけ描いてきた砂丘を、鮮やかな青で大胆に塗り潰した。
幾重にも重ねられた終わりのない砂の層が、見る間に青に染められていく。
生命力に満ちた水脈が飛沫を上げて砂の間から噴き出してくる。
夜が明ける頃には、カンバスは溢れんばかりの水が一面に煌めく水面に変わっていた。
「できた」
振り向いた彼女の笑顔は、一番に輝いていた。
僕はその頭を思い切り撫でて褒めてやった。
そして柔らかな日差しの中、もう一度、丁寧にキスを交わした。
絵画は朝日を浴びて瑞々しく輝いている。
そこには、水辺に辿り着いた二人の足跡が並んでいた。
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