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凪の海に潜む波

横読み推奨

 瞬くと、凪のやさしい波打ち際に二つの足跡が続いていた。

「遠くまで来ちゃったね」

 振り返って男が言う。

 女は、潮風に揺らぐ長い髪を抑えながら自分達の辿ってきた道を省みる。


 初めて人前で手をつないで歩いた。

 いつもは人目を気にして、外に出ると他人のふりをしている。

 周囲におびえる必要のない場所を求めて高速道路を飛ばし、とある浜辺に降り立っていた。


「疲れた?」

 会っている時の彼はやさしい。

 底抜けに。

「あそこでちょっと休もうか」

 そう言って考える間もなく手を引いてくれる。

 私はそれに身を委ねるだけでいい。


 男女の足跡は波打ち際に沿って延々とつづいている。

 凪といえど波音はとめどなく押し寄せ、まとわりつくような潮風が、時折、女の髪を揺らす。

 二人は海岸の端にあるベンチに腰かけて、しばらくその弱々しい波間を眺めた。


「聞いてくれるかい」

 女はどこかの波に目を向けている男の横顔を見た。

「今日はこんな所まで付き合ってくれてありがとう」

 話の枕にそう言って男はかすかに女を見やる。

 女ははにかみ、そして普段の忙しない逢瀬に想いを馳せる。


 ひたすら彼の時間が空くのを待つ二番目の女。

 いつの間にかそうなっていた。

 どうしてこんなことになってしまったのか。

今では思い出せない。

 はじめて会った時から彼は薬指に光る指輪を隠さなかった―――。

 でも、会っている時の彼は底抜けにやさしいのだ。

 一時だけでも、間違いなく自分が一番なのだと感じさせてくれる。


「突然どうしたの」

 女はその言葉にいくつもの意味を込める。

 が、男はしばらく応えない。

 その間が開くほど女の呼吸は苦しくなり、答えを放棄してもいいように思えてしまう。

「君とゆっくりとした時間が過ごしたくなってね」

 だから、そんな言葉がすんなりと自分の中に沁み込んでくるのがわかり、深いため息をついてしまう。

「ゆっくりとした時間なんて、ここのところ全くなかったから」

 反応を見ずに男は続ける。

「家では、心が休まる時なんてないんだ」

 家―――彼の、奥さんと子供たちが待っている。

「妻とももう、子供のこと以外は話していない」

 家庭内別居だ、と苦く笑う。

 男は自嘲にたっぷりと時間をかけた後、

「俺の心には、もう君しかいないんだよ」

 と零すように呟いた。 

 そして今度は真正面に女に向き直り、手を痛いくらいきつく握ると、

「ごめんな、こんな事」

 と許しを乞うた。

 女はその言葉を額面通りに受け取りながらも、一方で凪の海に潜む波をひそかに探している自分に気づいていた。

 握りしめた手を緩めた後、男は波音に気付いたように顔を背ける。

「でも、知っていて欲しかったんだ」

 そう言ってもう一度、手をやさしく握り直した。


 ★★★★★★★


 薄闇の中で裸体をシーツに絡ませた女が半身を起こす。

 遠出から戻った二人は高速道路沿いの、いつものホテルに行き着いていた。

「もう行っちゃうの」

 気づけばいつも通りの時間。

シャワー室から出てくるなり用意していたワイシャツに袖を通し始める姿を見て女は訊く。

 海水の染みたジーンズは几帳面に畳まれ、スーツの入っていた持参のバッグに仕舞われた。

 男は緩慢な所作なく、簡潔に服を着る。

 波打ち際での告白や、まして先ほどまでの情事のことなどすでに頭の片隅にもないと言わんばかりに。

 ベルトの穴は一つ余し、ネクタイの長さはバックルの半分まで、わずかに乱れた髪は指で撫でつける。

「―――時間だ。行かなくちゃ」

 最後に鏡の前でメタルブローの眼鏡を掛けた自分の姿を一通りチェックして、男はカバンを持った。

「今度、いつ会えるの?」

「連絡する」

 言いながら男は腕時計を確かめる。

「また、一緒に海に行きましょう」 

「行けたらいいね」

「・・・今日、楽しかったね」

「うん」

「・・・」

「・・・」

「じゃあ、行くぞ?」

 そのまま精算機に向かおうとする背中に、女は思わず声を掛ける。

「ねえ」

「なに」

 男はあからさまなため息をつき、振り返る。

 だから女は次の言葉を忘れてしまう。

 たっぷりと時間をかけて腕時計の位置を調整してから、男は女の待つベッドの端へ腰掛けた。

「わかってくれよ」

 そして常套句を口に出し、次の言葉を制したのだった。


 ★★★★★★★


 ホテルを出た男は時計を見た。

 午後6時半。

 夕飯までには家に帰れる。

【今から帰る】

 足早にホテル街を離れながらLINEを流す。

【今日も忙しかった。でも、夕飯には間に合うよ】

 数組のカップルとすれ違い、商店街の雑踏を抜け、やがてサラリーマンの帰宅ラッシュの群れに紛れ込む。

【子供たちは? 今日はお風呂入れるよ】

 電車に乗り込むなり、我が子の様子を思い浮かべ、ホクホク顔を浮かべる。

 ドアに映り込む自分の顔があまりに幸福そうで、男は笑みを漏らすほどだった。


 最寄り駅に着いた頃、携帯電話が震えた。

【お幸せに】

 その返信の一行で送信相手を間違えたことに気付いた男は、履歴を見返してひとしきり慄いたあと、それでもなお、女を懐柔できる言い訳はないかと頭を回転させるのだった。

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