重み
テーマ『歓喜』 禁則事項~心理描写の禁止
未明。
国道を飛ばす一台の車。
充血した目を見開いて、寿士は前方を注視していた。
ハンドルを握る手にはジットリと汗が滲んでいる。
もう、美月は病院へ着いているはずだ。
痛がる妻の姿が目に浮かぶ。
噛んだ下唇が切れ、舌にざらついた血の味が広がる。
「またか」
遥か前方で黄色に変わる信号を見て、歯軋りしながらアクセルを踏む足を緩める。
誰もいない交差点で歩行者信号が緩慢に点滅している。
手持ち無沙汰で無意味に携帯電話を開けると、ディスプレイの中で美月が笑っていた。
彼女は電話の向こうで平静を装った。
―――急がなくていいから
―――心配しなくてもいいよ
―――大丈夫だから
そう言った。
時折、息を詰めながら。
でも、ひどく柔らかな声で。
寿士は信号が変わると、努めて慎重にアクセルを踏み込んだ。
ここで速度超過などで捕まっても仕方がない。
そう頭に言い聞かせた。
※※※
朝のラッシュが始まり、目と鼻の先にまで近づいた病院に中々たどり着けない。
六時半。
交差点を右折できる車は信号が変わるまで、多くて三台。
寿士は前方に並ぶ車両の数をざっと見て、溜息をつく。
美月は、病院へ向かう車に乗ってから漸く連絡をいれてきた。
―――どうしてもっと早く連絡して来なかった
―――だって、心配するじゃない
―――今から行っても、間に合うかわからないぞ
―――わかってる
―――絶対まってろよ
乱暴に通話を切り、着の身着のまま寿士は部屋を後にしたのだった。
※※※
病院の駐車場に着くと、寿士は短い距離を全力で走った。
エレベーターに乗るのが煩わしく、階段を三階まで駆け上がる。
「お義母さん、美月は?」
上がる息を無理に抑えながらそう訊く。
待合室には義父母が立っていた。
「もうそろそろみたいよ。早く行ってあげて」
義父に挨拶する間もなく義母に背を押される。
「こちらです」
看護士に案内され、寿士は歩を早める。
パタパタというスリッパの音が廊下に響く。
現実感の無さに戸惑う。
それでもどうして、心臓はデタラメに脈を打っている。
「なんて顔してるのよ」
通された分娩室で、美月は寿士の顔を見るなりそう言った。
無理に笑顔を作る彼女の額には、珠のような汗が滲んでいる。
「お前こそ…」
分娩台に上った美月もまた、血の気がすっかり失せていた。
汗を拭い、水を口に含ませる。
「もうちょっとなの」
美月は眉を寄せ、夫を見上げる。
肯くだけで精一杯の寿士は、口を開く代わりに手を握った。
「頭は出ているから、もう一息」
そう医師が言う。
陣痛が来るたびに美月は歯を食いしばり、息む。
小さな波をやり過ごし、来る大波に向けて息を整える。
「そろそろ覚悟を決めなさい」
看護師が二人に厳しく発破を掛ける。
「頑張れ」
寿士はありきたりな言葉を言って見守ることしかできない。
「―――来た」
その声と共に、握られた手に力が込められる。
「まだ! 吸って。吐いて」
赤らむ美月の顔を見て、助産師が注意する。
彼女は苦しそうに肯き、もどかしげに息を吸う。
「今、息んで!」
その声を合図に、美月は唸り声を上げた。
一瞬の沈黙。
―――瞬間、彼女の表情から苦痛が抜け落ちた。
息を荒げながら美月は医師を窺う。
寿士も固唾を呑んで助産師と医師の処置を見守る。
―――間もなく、か細くも力強い泣き声が分娩室に響き渡った。
「元気な男の子ですよ」
助産師が生まれたての赤ん坊を抱きかかえてくる。
「よくやった」
寿士は何度も美月の頭を撫でた。
彼女は肩を撫で下ろし、ひどく穏やかな表情をして見せた。
※※※
しかし、子供の顔を見てもいまいち実感が湧かなかった。
「生まれました」
呆然とそう言うと、義父母は待合室の中を飛び跳ねた。
「お父さん、こちらへ」
助産師にそう呼ばれても、うまく反応できない。
通された部屋には新生児の体重計があった。
助産師の腕には布に包まれた赤ん坊がいた。
「2460グラム、抱っこしてみます?」
にこやかな申し出に断る理由もなく、ぎこちなくそれを受け取る。
―――予想よりとても小さく、何より軽かった。
「軽いんですね」
思わずそう告げると、
「じゃあ、少し抱っこしていてもらえますか」
と言って助産師は分娩室へ戻って行ってしまった。
我が子と二人きりになる。
まだ目も開かず、震えているように見える。
今にも壊れてしまいそう。
だが、必死に泣いている。
少しすると腕が張ってきた。
「重い…」
その重さが伝わると、体のどこかから、えも言われぬ痺れが湧いてきた。
その熱が伝わると、全身が温もりに包まれた。
「重いよな、お前は」
小さな体を包み込む。
「これからずっと抱っこしていくんだからな」
寿士は鼻を啜りながら、満面の笑みを我が子に向ける。
「ずっと一緒に生きていくんだ」
その耳元に彼は囁きかける。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
やがて泣くことを止めた赤ん坊は、穏やかな寝息を立て始める。
その頬に、一滴、また一滴と温かな雫が零れ落ちる。
「ありがとう」
長かった夜が明け、眩しい朝の光が新しい親子に降り注いだ。
今回の禁則事項である心理描写の禁止に対する捉えかたは人それぞれであると考えます。
個人的価値観に基づいて禁則事項を守ったつもりではありますが、正直、自信がありません(笑)
ご意見など、お気軽にお寄せくださいませ