第陸話【閑話】かりねの野べの 露のあけぼの
玄瑞が旅立ち、すぐ。刹は未だ死の淵に立っていた。
夢の中で、見知らぬ少女が刹の手を握りしめ、懸命に自分の名前を呼ぶ。
それに応えるように、手を握り変えすと、温かさと共に光の中へ吸い込まれた。
刹が目を覚ますと、そこには夢で見た少女がいた。彼女は刹の額に手を当て、心配そうに顔を覗き込んでいる。
刹は夢の中と同じく、思わず少女の手をがっちりと掴んでしまった。少女が一瞬恐ろしく口元を引き攣らせ嫌な顔を見せた気がしたが、朦朧とした頭ではよくわからなかった。
「え、と……あの」
戸惑う少女に、刹は思わず手を離した。
「す、すんません……」
「あ、目が覚めたんですね。よかったぁ」
刹は恥ずかしさから、咄嗟に再び目を閉じた。そして、目を閉じたまま尋ねる。
「俺……どうしてここに……。君は……」
「私の名前は梓。玄瑞さんに刹さんの看病を頼まれました」
梓。
熱にうなされながらも、まさに可憐な彼女にぴったりの名前だと思った。
それから、梓は懸命に自分の世話をしてくれた。手とり足とり看病に尽くす。まさに、仏のよう。玄瑞の事も、訳あって今は使いに出ていると説明してくれた。
彼女は薬師だというが、まだ若い。自分と変わらないぐらいだろうか?刹の心が奪われるのに、そう時間はかからなかった。
――このまま玄瑞が帰ってこなければいいのに。
熱に浮かされながらも、つい、そんなことを考えてしまう。
梓が作った栄養剤を匙で刹の口に運ぶ。味は、正直美味くはないが、梓の作ったものだと思うと、さほど気にはならなかった。
『このまま、二人でここで暮らしたい』と、何度喉の奥に飲み込んだことか。
刹は、梓の献身的な看病のおかげで、みるみるうちに元気になっていった。
「うっ……う……ん……」
刹は寝苦しさにうなされていた。
刹が運ばれてから三日が経ち、死の淵からは脱したものの、まだ身体は重い。
(喉がカラカラだ。水……)
刹が目を覚まし、起き上がろうとするが、やはり体が重い。
(やっぱり、まだ回復しきってねェな。一人で体を起こすことも出来ねえなんて……)
いや。違う。体が重いのではない。
ふと目を開けると、首元に風が当たる。
風?……いや、違う。寝息だ。
「ふっ」っと温かい吐息が首筋をかすめる。
息が近い。
視界は闇に沈んでいたが、確かに自分の上に誰かが覆いかぶさっている気配があった。
「……っ!」
刹の胸が跳ね上がる。薬草の匂いが鼻を掠めた。
(間違いない、梓さんだっ! か……顔がっ! 近いっ!)
動揺を隠せなかった。
梓が自分の身体に上半身を重ねている。
冷や汗が首筋を伝う。
看病に疲れたのか、隣で眠っていたはずの梓が、寝返りを打つうちに刹の寝床まで侵食してしまったらしい。
刹は息を呑み、そのあどけない寝顔をゆっくりと覗き込んだ。
「……っ!」
(可愛い……)
動揺が止まらない。梓が小さな唇を動かし、「ん……」と微かな吐息を漏らすたび、刹の理性は薄氷を踏むように「ぴしっ」と軋んだ。
彼女は献身的に自分を救ってくれた命の恩人だ。邪な心を抱くなど……男として以ての外だ。
必死に自分を説得し、刹は梓の身体を静かに元の場所へずらそうと手を伸ばした。
だが、運命は刹に味方しなかった。
何とも都合よく雲間から現れた月明かりが、窓の隙間から差し込み、梓の姿を青白く照らし出したのだ。着物の裾がはだけ、すらりと伸びた白い足が露わになる。
「むにゃ……せ(っかく)……つ(んだのに)……」
(寝言! しかも俺の名を呼びやがった!)
刹は雷に打たれたように硬直した。心臓は暴れ馬のように喉元までせり上がってくる。
月光に縁取られた長い睫毛。
規則正しく胸が上下する度に、何故か無駄に興奮してしまう。
一瞬、頭が真っ白になる。
……これはまずい。実にまずい。
(とにかく、梓さんを起こさずに身体をずらし、離れなければ! そうすれば変な誤解は避けられる……はず! 下手に起こして騒がれでもしたら……! 絶対に嫌われるッ! ……まずいっ!やっぱり、まずいっ!)
脳内でそんな結論にたどり着き、刹は息を潜めて、ゆっくりと梓の身体をずらし始めた。
だが次の瞬間、梓の足がぬるりと蛇のように刹の腰に絡みつき、がっちりと身体を梓に包まれてしまった。
刹は凍りついた。身動きが取れない。心臓はさらに暴れ馬のように跳ね回る。
(どうする? どうすればいい!?)
「……っっ!?!」
さらに追い打ちをかけるように、梓の唇が刹の首筋を掠める。
(違うっ! 違うっ! 違うんだ! 俺は何もしてねぇ! 事故だ! これは事故なんだァ!)
完全に危険領域。刹は頭の中で鐘を鳴らしながら錯乱状態に陥った。
(やばい!やばい!やばい!起きるな!梓さん!絶対に起きるなっ!)
必死にもがき、なんとか足を外すことに成功した。
その反動か、梓の体がゴロンと仰向けの状態になる。梓の子供のようにあどけない寝顔が露になると、もはや刹の興奮が頂点に達した。
(落ち着け! 俺ッ! 落ち着くんだッ!)
煩悩という名の毒が、鎌の傷よりも深く刹の全身に回っていた。
もはや抗う術はなかった。刹は吸い寄せられるように、ゆっくりと梓の唇へと顔を近づけていく。
互いの吐息が混じり合う、その瞬間。
「……(薬草が)だめぇー(になる)」
梓が、本日一番の勢いで寝返りを打った。
「ぐはっ……!?」
凄まじい速度で振り上げられた梓の膝が、無防備な刹の左脇腹に入る。
一瞬肋骨が折れたかと思うほどに、「みしっ」と言う音がした。そして……刹は悶絶しながらその場へ倒れ込み、意識は闇に沈んで行った。
翌朝、刹の脇腹を見た梓は刹を叱りつけた。
「刹さん! 寝相が悪すぎます! また、怪我が増えてるじゃないですかっ!」
「はい……。すみませんでした」
刹の脇腹には、丸く紫色の痣がくっきり出来ていた。
玄瑞が潮の香りを纏いながら帰った後、梓の事実を知らされ、こうして刹の初恋は、朝露のようにあっけなく消えた。
【あとがき:解説】
忘れめや 葵を草に引き結び かりねの野べの 露のあけぼの:百人一首のひとつで、式子内親王が歌ったとされる恋歌です。
題名に使わせていただきました。
現代語訳:忘れることがあるでしょうか。葵の葉を枕として結んで旅寝した野辺の一夜があけて、露の置いたあの曙の景色を。
刹と梓は、一夜明けたら、刹の脇腹に曙のごとく痣がついていました。




