第壱話 奪われた秘伝書
煌々とした月は厚い雲に隠れ、全てを飲み込むかのように闇に閉ざした。
夜気は湿り、山の木々は一切の声を失っている。
里の夜は静かだ。灯るかがり火、虫の声、人の気配はそこはかとなく感じられる程度だ。
だが、その夜は違った。
静かすぎた。闇に紛れ、微かな足音が近づいてくる。
――突如、轟音が切り裂いた。
地を揺るがす爆ぜる音と共に、屋敷から黒煙が噴き上がる。次の瞬間、火柱が闇を突き破り、瞬く間に屋敷は炎に包まれた。
夜空へ舞い上がった火の粉が、雪のように里へ降り注ぐ。
里中の戸が開き、忍びたちが一斉に駆け出した。
怒号、金属のぶつかる音、悲鳴。
静寂だった闇は一瞬で戦場へと変わる。
火の粉が舞う中、そこに忽然と姿を現したのは、翁の面をつけた不穏な集団。
無機質な面の奥で光る冷徹な瞳が、燃え盛る里をなめていた。
「……ばあさんッ! どこだ!」
喉を焼くような熱気の中、一人の男が火の海へと飛び込んだ。
忍び・玄瑞。
炎が屋根を舐め、梁が軋む。
降り注ぐ火の粉を庇いながら、玄瑞は奥へと駆ける。
梁が崩れ落ち、行く手を阻む。煙が視界を曇らせる。それでも止まるわけにはいかなかった。ここは里の中心、頭領である紅梅の屋敷だ。もし彼女に何かあれば、里は終わる。
「――ばあさんッ!」
熱風を突き破り、玄瑞は崩れ落ちた広間へと踏み込んだ。
煙が目に沁みる。呼吸するたびに、肺が焼けるように熱い。
最奥の部屋に踏み込むと、崩れ落ちた梁の下で、紅梅が力なく伏し、何かを睨みつけているのが分かる。
幼い頃から、紅梅の背中を見て育った。
刃も、気配も、忍びの掟も――すべてあの人に叩き込まれた。
厳しく、容赦なく、だが誰よりも里や仲間を想う人だった。親のいない玄瑞にとって、母、同然だった。
その紅梅が今。
血に濡れ、炎の中に倒れている。
視線の先、揺らめく火影の中に、一人の男が立っていた。
冷たい翁の面が、火に照らされて不気味な笑みを浮かべているように見える。
男の手には、里外不出の秘伝書が握られていた。
「玄瑞……、来たか。待っておったぞ」
面の奥から漏れ出たのは、低くくぐもった声。
しかし、その響きには、玄瑞の背筋を凍らせるような妙な馴染みがあった。
(俺の名を知っている……? 誰だ、この声は……どこかで)
記憶の底をかき乱されるような感覚に、玄瑞の動きがわずかに止まる。
(これ以上、この男に近づいてはいけない)
自分の中の無意識がそうさせ、一歩を踏み出す事ができなかった。
男はしわがれた、高らかな嗤いを上げる。
「知っておるか、玄瑞。これさえあれば、死の恐怖に怯える日々は終わる。未来永劫……『不老不死』の理を手にするのだ!」
不老不死。
その呪わしい言葉が、爆炎の音に混じって玄瑞の耳にこびりついた。
「いかん! それを里から出してはいかんのじゃっ! 秘伝書を……秘伝書を返せっ!」
紅梅は力の限りを振り絞り、手を差し伸べる。
(秘伝書? 不老不死? 里にそのようなものがあったなど、聞いたこともない)
初めてその巻物を目にし、玄瑞は訝しげな顔を浮かべる。その表情を読み取ってか、翁の男は再び笑った。
「おや? その顔。やはり、この巻物を見るのは初めてか。紅梅も人が悪い。このような丸薬を独り占めとは。その名も『強靭丹』。『人間の力を底上げし、繁栄をもたらす。未来永劫続くものなり』。これがこの里に代々伝わる秘伝の書よ。ほんに、肝心なところで詰めが甘いのう、玄瑞」
「『代々伝わる』……だと?」
玄瑞は、翁の男を睨みつけながら、紅梅を気に掛ける。
屋敷の外からは、仲間の忍びたちが翁の面の一団と切り結ぶ、激しい金属音が響いていた。
里の手だれたちが総出で迎え撃っているはずだ。
だが、聞こえてくるのは仲間の悲鳴と、圧倒的な力の差を見せつけるような、無機質な風切り音ばかりだった。
(くそっ……あいつら、何者だ。里の精鋭が、手も足も出ないというのか……!)
「それを……返せッ!」
声を震わせながら、絞り出すのが精一杯だった。
「ふっ。我らが、まほろばの為……」
「まほろば……」
焦燥に駆られる玄瑞の眼前で、一言だけ置き去り、翁の男は音もなく闇へと溶け込むように跳んだ。
立ち尽くす玄瑞の足元で紅梅が小さく呻き、その手が力なく彼を求めて宙を彷徨う。
「――ばあさん!」
玄瑞は追跡を断念し、血に染まった紅梅の体を抱き上げる。
彼女の呼吸は浅く、今にも消え入る火のようだった。
「……玄瑞……。……取り返して……おくれ……。里の……秘伝書を……。強靭丹を……」
「わかった、喋るな! すぐに手当てを――」
「……頼んだぞ……」
紅梅の瞳から光が失われ、その首がガクリと力なく垂れる。
「おいっ! ばあさんッ! ばあさんッ!」
その瞬間、屋敷の梁が大きく軋んだ。
炎が天井を飲み込み、崩れ落ちた火の粉が玄瑞の肩へ降り注ぐ。
紅梅を抱え、屋敷を出た直後、凄まじい轟音とともに崩れ落ちた。
玄瑞は紅梅の亡骸を抱きしめたまま、周りを見渡す。
崩れ落ちた屋敷。
赤く燃える夜空。
仲間たちの叫び。
秘伝書は奪われた。
紅梅は死んだ。
里は炎に包まれている。
胸の奥で、何かが音を立てて砕けた。
「……くそッ!」
玄瑞の絶叫が、燃え上がる里の夜空へと虚しく響き渡った。
火の粉が空へ舞い上がる。
それはまるで、天に登りゆく、紅梅の魂のようだった。
腕の中の紅梅はもう動かない。
厳しい言葉で叱り飛ばしながらも、誰より優しい人だった。
その背中は、もういない。
拳が震える。
爪が食い込み、血が滲む。
(……あいつは、この里のことを知っていた)
あの声。
あの言葉。
そして、秘伝書。
燃え盛る屋敷の向こう、男が消えた闇を玄瑞は睨みつけた。
(なぜ、なぜあの時、俺は動けなかった……ッ!)
炎の熱で涙すら乾いていく。
敵を目の前にして、動けなかった自分を悔やむ。
「あんな古びた書物がなんだってんだ……。てめぇの命の方が大事だろっ!?」
玄瑞の脳裏に、紅梅の最後の言葉が響いた。
「わかったよ。ばあさんの最後の望み。叶えてやるよ」
玄瑞は、紅梅の顔を胸に焼き付けた。
【あとがき:解説】
まほろば:住みやすく素晴らしい場所、または美しい理想郷を意味する日本の古語です。『古事記』等で倭建命が故郷の奈良・大和を称えた言葉が由来で、類語には楽園、桃源郷、至極の場所などがあります。現代では、奈良を指す言葉や、施設・楽曲名など幅広く使われています。




