未達のバレンタイン
「また外した……」
街中が甘ったるい匂いに包まれる二月。
尖ったビルの屋上で、僕──ピートは、弦の切れた弓を手に途方に暮れていた。
目の前では、僕が放ったはずの『恋の矢』が、ターゲットの青年ではなく、通りすがりの宅配便の台車に虚しく突き刺さっている。
キューピット歴三年。成立させたカップル、ゼロ。
僕は、神様から渡された「幸福のノルマ」を眺め、ため息をついた。
「恋なんて、狙ってさせるもんじゃないよ……」
「おい、そこの落ちこぼれ。お前の羽、ずいぶん透けてきてるぞ」
同僚の優秀なキューピット──金髪で鼻持ちならないエリートのルカが、上空を旋回しながら嘲笑う。
彼の放つ矢は、狙った獲物を逃さない。今日だけで十組の「即席カップル」を量産したらしい。
「うるさいな。僕は、納得がいかないだけだ。無理やり好きにさせるなんて、催眠術と変わらないじゃないか」
「それが仕事だ。……いいか、タイムリミットは今夜。ターゲットはあそこのベンチで俯いている、冴えない大学生。あいつの恋を叶えなきゃ、お前は明日からただの人間だ。
……せいぜい、無駄な努力をするんだな」
ルカが去った後、僕は地上に降りた。
ターゲットの青年、佐藤くんは、コンビニの袋に入った安物のチョコレートを握りしめ、スマホの画面を睨んでいる。
送ろうとして消し、また打っては消す、告白のメッセージ。
僕は彼の背後に回り込み、矢を番えた。
至近距離。これなら外さない。
「恋の矢」が刺されば、彼は理性を失い、猛然と意中の相手に愛を叫ぶだろう。
だが、彼の肩が、微かに震えているのが見えた。
それは、魔法で誤魔化していいような、軽々しい緊張じゃなかった。
「もし断られたら、今の友達としての関係すら壊れてしまう」
そんな、臆病で、切実な、人間らしい誠実な恐怖。
「……あーあ。やっぱり無理だ」
僕は弓を地面に放り出した。
神様、ごめんなさい。やっぱり僕に、こいつの覚悟を魔法で汚すことはできない。
僕は指を鳴らして、白い翼を隠した。
ただの、少しお節介な通行人を装って、彼の隣に座る。
「……あの、それ、渡さないんですか?」
「えっ!? あ、いや……」
佐藤くんが飛び上がる。
僕は、彼の手にあるチョコレートを指差して笑った。
「そのチョコ、きっと美味しいですよ。
だって、そんなにボロボロになるまで握りしめてたんだから。
中身は溶けてるかもしれないけど、気持ちはたぶん、パンパンに詰まってる」
「……君、誰?」
「ただの通りすがり。でも、魔法を使わない勇気なら、ちょっとだけ分けてあげられるかもしれない」
僕はノルマなんてどうでもよくなっていた。
このバレンタインという戦場で、必死に自分と戦っているこの一人の人間に、矢ではなく「言葉」を贈りたかった。
「当たって砕けろなんて言いません。でも、伝えないまま消えていく気持ちより、伝えて傷つく気持ちの方が、きっといつか、あんたを強くする。
……と、思うけど」
佐藤くんは驚いた顔で僕を見つめ、やがて、小さく吹き出した。
「変な奴……。
でも、そうだな。溶けたチョコを一生持ってるよりは、マシかもな」
彼は立ち上がった。
足取りはまだ覚束ない。けれど、その背中に魔法の矢は必要なかった。
彼は自分の足で、夕暮れの街へと駆け出していった。
結局、佐藤くんの告白は実らなかった。
公園の街灯の下、彼は深々と頭を下げられ、ひとり残された。
けれど、戻ってきた彼の顔には、不思議と澱みがない。彼は僕を見て、少し照れくさそうに笑った。
「ダメだった。
……でも、言ってよかった。
サンキュー、お節介な通りすがりくん」
その瞬間、僕の背中がふっと軽くなった。
消えていく翼。
白かった羽は、夜風に溶けてただの光の粒子になった。
僕はもう、空を飛ぶことも、人の心を操ることもできない、
「ただの人間」になったんだ。
「……あーあ。本当に、クビになっちゃった」
僕は夜空を見上げた。
そこには、僕の代わりにノルマを完璧にこなしたルカが、金色の光を纏って滞空していた。
彼は手にした弓をしまい、鼻を鳴らす。
「お前みたいなバカ、見たことねぇ。
……ノルマも達成できねぇで、人間になっちまって。
お前、明日からどうすんだよ」
口ぶりは相変わらず最悪だったけれど、その唇の端は、微かに、本当に微かに上がっていた。
ルカは僕に向けて、空から一片の羽を落とした。
それは僕の胸元に触れると、小さな、けれど消えない温もりとなった。
「……せいぜい、その『お節介』とやらで、泥臭く生きてみるんだな」
ルカは翼を翻し、さらに高い雲の向こうへ消えていった。
それから、数年後のバレンタイン。
街の小さなカフェで、せっせと働く一人の男がいる。
僕だ。
僕の店には、なぜか「迷い」を抱えた客が集まる。
好きな人に声をかけられない女子高生。
喧嘩別れしそうなカップル。
「いらっしゃい。
……あ、お姉さん。今、追いかけないと後悔するよ。そのチョコ、渡すまでが賞味期限なんだから」
僕は相変わらず矢を持っていない。
けれど、僕が背中を押した人たちは、魔法で恋をさせられた人たちよりも、ずっと深く、長く、笑いあっている。
僕がくっつけた数は、相変わらず少ない。
けれど、僕の店を出ていく背中には、みんな「魔法よりも強い勇気」が宿っている。
窓の外では、雪が降り始めた。
ふと空を見上げると、一筋の金色の光が、雲を裂いて流れていくのが見えた。
「……見てるかい、ルカ。
人間ってのは、魔法がなくても結構幸せになれるんだよ」
僕はエプロンを締め直し、温かいキッチンへと戻る。
新しい客に、最高の一杯を淹れるために。
(完)




