さてはいずこの異形か
「橋?」
遊佐は座ったまま聞き返してきた。
「橋はこの町の出入り口だから、その目立つ赤い人が出入りしたなら橋番……門番の橋バージョンね。それが覚えているかもしれないから。まぁ職務怠慢なことも少なくないけど」
言いながら今日町に入った時、橋番らしき者はいただろうかと記憶を辿る。橋番が番人らしい風体でいてくれることはまずない。彼等はただ命じられたまま町に出入りする者を見届けているだけであり、橋が見える範囲にさえいればそれだけで最低限の義務は果たしたことになる。そのため橋付近の飲み屋で酒を片手に番をしているという、昼の世界の常識とは大いにかけ離れた姿もまま見られる。
「今日の橋番が少しは真面目な奴であることを祈るしかないか。……ああそうだ、もう一つ」
「何だ?」
「探し人は人? それとも別の何か?」
遊佐は軽く眉を顰めた。
「人じゃない何かって言うのは?」
「そのままの意味」
そして二人の間に沈黙が訪れる。
その沈黙を先に破ったのは遊佐のほうだった。
「……たとえば幽霊だとか化け物だとか、そういう物は本当にいるのか?」
「何を今さら」
ユズリは鼻を鳴らして辺りをぐるりと見回した。
「見たまんまよ」
そう言ったユズリの視線の先には二足歩行に燕尾服に身を固めた、目も鼻も口もない、つるんとした顔の男。有り体に言うならばのっぺらぼう。少し先には町中を舞う鬼火を捕まえて、顔の半分以上もの大きさがある口でひと飲みにしている子供。
「少なくとも一般人の常識じゃのっぺらぼうが渋谷を歩いていたり、顔半分サイズの口で火の玉をばくばくむしゃむしゃ食べる人間なんていないと思うけどあんたは違うの?」
「……あれは俺の幻覚じゃなかったのか」
「この町にいるのは皆、あんたと同じものを見てるから安心したら?」
「ああ。とうとう頭がおかしくなったんでなくて良かった」
ユズリの嫌味めいた言葉に、遊佐は張り合いのない言葉と共にひとり頷いた。
「……」
何だか肩すかしを食った気分だ。
「……じゃ、橋行こう。朝が来たら私は帰るし」
ユズリはぼやきながら元来た道を歩き出した。その後を遊佐がついてくる。
「ああ、学生だっけ」
「そうよ。ここに入り浸って留年しましたなんて言ったらお父さんに一生出入り禁止くらうわ。……言っとくけどあんたも帰るんだからね」
ユズリは顔だけで振り返り、遊佐を見た。能面じみた無表情に、ほんの少し不満の色が滲む。
「何で俺も」
「さっきうちのお父さんに言われたでしょ? 話聞いてなかったの? ここは得体の知れない奴がそこかしこにいる。隙を見せないように細心の注意を払ったって、僅かな隙を見つけて付け込んでくるようなのがごろごろと。今はまだいいけど、橋が閉じたら今以上に危険な場所になる」
「橋が、『閉じる』?」
訝しげに遊佐が聞き返す。
確かに日本語としては変だ。だが表現としてはこれが一番的確だと思うので、ユズリは答えず再び先へと歩き出した。
「この町には橋が複数あるの。その数は私も把握してない。けどひとつの世界から繋がる橋はひとつだけ。あんたの探し人があんたと同じ世界から迷ったなら、その橋を通らずにこの町に入ることはできない」
「違う世界は複数あるのか?」
「あるって聞いてるけど、実際どうかは知らない。見たことないもの。ま、あの辺が同じ世界から来ましたって言われても納得は出来ないけどね」
そう言って、全身を覆い隠すように被った外套の下から二メートルはありそうな爪を覗かせる人物へと視線を向けた。
「確かに」
納得したように答えた遊佐にユズリは不審な目を向けた。
「あんた、一体どれくらいここのこと知ってるの?」
「どれくらい?」
大通りの喧騒の中、ユズリと遊佐だけがそこに縫いとめられたように立ち止まっていた。
「この町のこと、どんな場所だと認識してるのかって訊いてるの」
少なくとも遊佐は偶然ここに迷い込んだ人間ではないらしい。そもそも名を名乗ってはいけないというこの町で一番に身を守る術を知っていた以上、全くの予備知識もなくここに来たとは思えない。
「ここで名を名乗ってはいけないってさっきうちの親父も言ってたでしょ。ここで本名を知られるのは命を握られるも同然だから。で、何でそんなこと知ってるの? ここに留まるつもりがあるなら最低限の知識はあったほうがいい。そうでなければそこらの小狡い連中にカモにされて二度と戻れなくなる」
「戻れなく?」
「普通に寝起きして遊んだり働いたり勉強したりする、私やあんたが太陽の下で過ごす世界に」
ユズリはまっすぐに遊佐を見た。
「別に戻りたくないなら止めやしないけど」
「……どうだろう」
遊佐は軽く眉を顰めて呟いた。
「戻りたくなくない……わけじゃない、と思う。だからと言って、絶対に戻りたいかと言われたら別にそうでもないような」
「はぁ?」
あまりに真剣な声音かつ曖昧な返答に、思わず声が裏返ってしまった。
「あんた、何考えてるの?」
意識せず棘々しくなるユズリの声にも遊佐は動じない。ただ能面じみた無表情で答えるだけだ。
「とりあえずは赤い奴を捕まえることを考えてる」
「あ、そう」
つくづくやりにくい相手だ。天然だかボケてるのだかかと思えば、聞いたこと全てに答えるわけではない。この奇妙な場所故の警戒心からそうなのか、それともどこへ行こうとこうなのか。
とにかく付き合いやすい相手でない事は確かだが。
こんな付き合いにくい相手とは早々に縁を切るに限る。そのためにも遊佐の言う赤い奴とやらを見つけなければ。
「路地裏とか怪しい情報屋とかに話聞き出せればいいんだけど、あいつら絶対ぼったくりだし」
ユズリは眉間に皺を寄せ、吹き流しを口にくわえて薄暗い店と店の間の細い闇を見やった。
表通りの明るさ、喧騒とは裏腹に少し裏道に逸れてしまえば光が届かない。闇に紛れどのような連中がいるのかもよく知れない。
ユズリが生きてきた十倍以上もの時をその闇と共に暮らしてきたような連中と対等に渡り合う自信もない。父がいるならともかく、せいぜい十年程度通っているだけの小娘と素人同然のわけのわからない男ではうまくぼったくられ偽の情報を掴まされるに決まっている。
重苦しい溜め息と共に吹き戻しが伸びる。それがくるくると巻き戻ってくると、少し離れた場所から濡れたような声が聞こえてきた。
「それ、いいナ」
思わずユズリが身を引くと、路地裏の前に全身を濡らした小柄な人影が立っていた。
水に濡れた重たそうな着物から伸びた手足や頬には鱗が生えていて、口は異様に大きい。右目は潰れ、開いた左目だけでユズリを見ている。年齢も性別もよく分からないがこの薄ら寒い気配は恐らく路地裏の闇の住人だ。
「……何か用?」
迷うな。
付け入る隙を与えるな。
そうでなければ引かれてしまう。
こういう輩と関わるには常に毅然としていなければならない。決して自分を見失ってはならない。
「ソレ、くるくるって、いいネ」
紫の爪が生えた指先が吹き戻しに向けられた。
「くるくる? 吹き戻しのこと?」
「それ、そんな名前なんダ? いいナ、ソレ。くれたら情報やるヨ?」
「情報? あんた、情報屋?」
「違うけど、裏側にいると表じゃ聞こえない色んな話が聞こえて来るんだヨ。シノのお嬢ちゃン」
シノは父のこの町での呼び名だ。この奇妙な人物はユズリのことも知っているらしい。
「お父さんの知り合い?」
「何度か情報を売ったことがあル。前はベーゴマ……その前はべっこう飴と交換しタ」
金銭ではなく物々交換のタイプか。しかしだとしたら随分と安上がりだ。
「オレは青目。シノから聞いたことはないかイ?」
「青目……ああ、常にずぶ濡れの気色悪い物知りってあんたのこと?」
「気色悪くて悪かったネ……」
幾分気分を害したように青目はじっとりとした目を向けてきた。
やはり気色悪い。口に出すべきではなかったと少し反省したが、反射的に口に出してしまう気色悪さだ。
青目は仕切りなおすように咳払いしてから軽く首を傾げた。
「それでお嬢ちゃんは買うかイ? 今ならそのクルクルと交換ダ」
「吹き戻しとねぇ」
片手に持った吹き戻しと青目とを交互に見比べる。
「そう言えばあんた、何でいい歳してそんなオモチャを持ってるんだ?」
今まで黙っていた遊佐が不思議そうに後ろから吹き戻しを覗き込んだ。
「いいでしょ。たまにはこういう懐かしいものに触れたいの。……ま、いいか。また買えばいいし。わかった。これあげるから情報と交換」
「いいヨ。何が知りたい?」
青目の左目がわずかに細められる。
……嬉しいらしい。
「赤い奴、探してるの。詳しい事は、えっと遊佐? だっけ。あんたが教えて」
遊佐は頷き、青目を見た。
「赤い打ち掛けに赤い柄巻の脇差をもった奴、知らないか?」
「赤い打ち掛けは知らんが、赤い柄の刀を持った奴なら知ってるヨ」
「本当っ?」
反射的に身を乗り出して、青目に詰め寄った。
「本当だとモ。教えてほしければそのクルクルをお寄こシ」
青目は鱗の生えた右手を催促するように差し出してきた。嘘だったらしばき倒してやろうと密かに決意しユズリは吹き戻しを手渡した。
それを握りしめ、青目はニカッとどう見てもかわいいとは言い難い笑みを浮かべた。
「確かに受け取ったヨ。欲しいのは赤い柄の刀の奴だったネ。それならさっき『枝垂れ屋』っていう遊女屋の辺りで騒いでたヨ。随分激しく刀を振り回してたネ……」
その青目の濡れた声を遮るように、破壊音と悲鳴が少し遠くから聞こえてきた。
「ああ、あれだヨ。多分ネ。何でも心中したいらしくてネ、店の者も大慌てダ」
「それは面倒くさそうな奴だこと。とりあえず情報ありがとう」
「またおいデ。シノのお嬢ちゃんに此岸の坊ヤ」
「どうも」
そう答えている間にも破壊音と甲高い悲鳴が町中に響き渡っている。
「俺は坊やって歳じゃないけど、一応ありがとうって言うべきか?」
「何かしてもらったら礼を言ウ。共通の礼儀だヨ。君のは正解ダ」
「そうか。ならよかった」
「とろくさいことやってないで、さっさと行くわよ」
「気をつけてお行キ」
吹き戻しを握った手で青目は軽く手を振り、ペタペタという濡れた足音を残し路地裏の闇に消えていった。
ユズリは遊佐を見上げた。
「心中したい奴だって。あんたの探してる奴?」
「さぁ? でも刀振り回してるなら可能性はある」
「……どんな危ない奴よ、それ」
ユズリはげんなりと答え、遊佐と共に破壊と悲鳴の中心へと向かった。走るべきなのかとも思ったが当の遊佐に走る気はないようだったのでやめた。
この町の人々は基本的に他人に無関心だ。そのため自分に害が及ばぬ限り、目の前で他人がどのような目に遭っていようと気にも留めないことも珍しくはない。
だからだろう。今も遠くから悲鳴だ怒声だは聞こえてくるが、道ですれ違う人々はさしたる興味もないようだ。たまに何事かと顔を上げる者がいる程度で、それ以上騒ごうとする者はいない。
「変な場所だな」
辺りを見て、遊佐が呟く。
「化け物はいるし、金の代わりにオモチャを請求してくる奴はいるし、ファザコンはいるし」
「……ちょっと待って。最後のファザコンて誰のこと?」
ユズリが遊佐を睨みつけて振り返ると、彼は飄々とした調子で答えた。
「そこで怒るってことは、わかってるんだろうに」
「やっぱり私のことか! 誰がファザコンなのよ!」
「お父さんお父さん言ってるところが」
一切の迷いなくきっぱりと言い切られると、怒るこちらが間違っているのではないかという気すらしてくるから恐ろしい。だがここで否定しなければ負けだ。否定しないという事は肯定しているも同然だ。
「私はファザコンじゃないわよ。一応あんな性悪オヤジでも尊敬してるの。この町でお父さんに逆らえる奴なんていないんだから」
「その父親を褒めそやすあたりが小学生臭いと言うか何と言うか」
「違うっつってんでしょ! これだから素人は!」
何て忌々しい奴。揶揄めいた雰囲気はなく、能面のような無表情で言ってくるから余計に腹も立つというものだ。
「うちの父親はあれでこの町の管理をしてるの!」
「ああ、そんな噂は聞いた。この町に一番精通してるって噂を聞いてそれで会いに行ったんだからな」
「そう、凄いの。この町の管理なんてそんじょそこらの奴には出来ないんだから」
「それで立派な父親を持ったあまりファザコンになったと……」
「ファザコンじゃないっつってんでしょ! しまいにゃ微塵切りにするわよ、この能面野郎!」
「どんな脅し文句?」
この無駄な冷静さがどうにも神経を逆撫でしてくる。
(冗談抜きで微塵切りにしてやりたい……っ)
人間でなかったら絶対にそのまま五寸刻みにしてやると言うのに。何故こんな奇っ怪な輩が人間なのか。むしろ妖怪の類だろう、この能面野郎は。
だが悲しいことに、遊佐はどう見てもどう考えても町に跋扈するいわゆる異形とは異なる。外見も気配も紛うことなく人間のそれだ。
一体どこでどのように育てばこんな珍妙な奴が出来上がると言うのか。少なくともユズリは生れて十八年、遊佐ほど奇妙でわけのわからない人間に出会ったことは一度もない。
「あ」
「何よっ!」
「あれ」
淡々とした遊佐の口調と同時、ユズリの長い髪を掠めて背後に何かが落ちてきた。
そう思った瞬間、耳を覆いたくなるような破壊音が辺りに響き渡った。