賑々しや夜の町
「お姉さん。飴はいらんかい? 竹とんぼに紙風船もあるよ」
顔の真ん中に大きな目が一つと小さな鼻と口。浴衣を着た子供が両手で持った竹の籠を見せながら寄って来た。籠の中に視線を注ぐと、中には砂糖をまぶした色とりどりの飴玉や竹トンボ、独楽やビー玉などがぎっしりと詰まっていた。しばらく考えて、その中から赤い吹き戻しを一本取り上げる。
「これがいい。いくら?」
「十だよ」
スカートのポケットから四角い銅貨を取り出して子供の手に乗せてやると、子供は大きなひとつ目を細め、にこりと笑った。
「毎度あり。時にお姉さん、名前は?」
「ユズリ」
短く答えると、子供は不満そうに唇を捻じ曲げた。
「何だい。やっぱり素人じゃねえのか」
「残念ながら。狙うならもっと素人素人したのを狙いな」
ユズリは吹き戻しの先で子供の額を叩き、軽く手を振って道の先へと進んだ。素人なんてそうそういるかい、とぼやく子供の声を背に聞きながら。
ピーと音を立て、吹いた先はくるくると巻きとられて戻ってくる。吹き戻しを吹きながら、ユズリは大通りの店先を冷やかしながら歩いた。そう言えば最近映画だったかテレビだったかで見た、江戸時代の色町は丁度このような雰囲気だったなと思いながら咥えた吹き戻しを吹き遊ぶ。
刀を差した袴姿の男や首が二メートルほどにょろにょろと伸びた若い女、リンゴ飴片手に笑い合う揃いのワンピース姿の少女達などとすれ違いながら、ユズリはあちらこちらへと視線を遣った。大概彼は町の中心にある十二階建ての塔に続く大通りの何処かの店で誰かと飲んでいるか話し込んでいるかするのだが、今日はいないのだろうか。
赤や青の鬼火を縁日の綿あめ売りか風鈴売りのように売っている男。二足歩行し、粋に浴衣を着こなした狸と会話を楽しむスーツ姿の男。訪ね人はなかなか見つからない。
しばらく行くと、少し先の飲み屋の店先で将棋に興じる男二人の姿が目に入った。片方はポロシャツを着て腕を組んだ、四十を幾らか過ぎた男。もう片方はTシャツにジーンズ姿の若い男。
探し人はずっとここで将棋を指していたらしい。別に待ち合わせをしていたわけではないのだからいいが、こうも人が真剣に探していたのに呑気に見知らぬ男と将棋に興じていたのかと思うと逆恨みしたくもなる。気心の知れた相手だとどうしてこうも理不尽な行動に出たくなるのか不思議だが、今はそれより先にようやっと見つけた訪ね人に一言文句を言ってやりたい。
「ちょっと」
ユズリは有無を言わさず吹き戻しで男の肩を叩きつけた。
「私ずっと探してたのに、何こんなところで将棋なんかやってるの」
丁度将棋を指していた二人の間に立つ形になったユズリを、二人の男は同時に見上げた。
「おや、ユズリ」
ポロシャツを着た年長の方の男が呑気に顔と声を上げる。
「お前、真剣勝負の最中に何をするんだ? その上いきなり肩を叩くなんて礼儀知らずな真似はよしなさい」
「うるさいなぁ。ずっと探してたのに見つからないのが悪いんじゃん」
ユズリはぷいと男から顔を背けた。
「まったく……お父さんに手を上げるなんてそんな悪い子に育てた覚えはないぞ」
「奇遇だね。私もお父さんに子育てされた記憶は殆どない」
胸を張って言うと、ポロシャツの男ははぁとわざとらしく溜め息を吐き、不思議な顔で二人を見ていた真剣勝負の相手とやらに苦笑してみせた。
「ああ、すまないね。うちの娘なんだよ。どうにもこうにも躾がなっていなくてお恥ずかしいが」
「恥ずかしいって何よ。失礼な。それよりお腹すいた。チョコバナナ買って」
ユズリが右手を差し出すと、父はまた盛大に溜め息を吐いた。
「吹き戻しにチョコバナナって……お前はもう十八になっただろうに」
「童心を忘れないように日々努力してるの。あ、やっぱりかき氷食べたい」
店の暖簾の横に『氷』と書かれた旗を見つけ、ユズリは店の奥に声をかけた。
「すみませーん。氷いちご一つ」
「あいよっ」
薄暗い店の奥から威勢の良い声が聞こえてきたのを確認し、ユズリは将棋盤と男二人が座した縁台の手前に置かれたもう一つの縁台に腰を下ろした。
「お父さんは出さないぞ」
「今日はもう手持ちがない。お父さんが払ってくれないと無銭飲食になって私捕まる。私捕まるとお母さんが困る」
早口でまくし立てると、父は渋い顔をして銀色の長方形の小銭を一枚差し出してきた。ユズリはしてやったりと満面の笑みを浮かべた。
「ありがとー。さすがお父さん」
「全く誰に似たんだかなぁ」
「お父さん以外の誰に似たって言うのさ。私は生まれたその日から父親に瓜二つと言われて育ったんだから」
ねじり鉢巻をした頭の禿げあがった男に運ばれてきたガラスの器に入った氷いちごを受け取りながら、ユズリは軽く笑う。ますます渋い顔をした父から視線を外すと若い男が不思議そうな顔をしてユズリ達親子を見ていた。
ユズリはスプーンで氷を崩しながら男を見た。
「名前は?」
男は一拍置いた後、高くも低くもない声で答えた。
「遊佐」
「遊佐? それ苗字? 名前?」
男は答えない。
それを見てユズリは先程同様の質問をしてきた、あの一つ目の子供と同じく不満に口をへし曲げた。
「何だ。見ない顔だから迷子だと思ったのに」
「ユズリ、お前はまた」
「お父さんの入れ知恵? 本名を名乗るなって」
このまま言わせておくと小言が続きそうなので、先に質問をしておくことにする。読み通り父は小言よりも先にユズリの質問に答えてくれた。
「お父さんでなく、こちらはこちらできちんと知っていたよ。この町で名乗ってはいけないと」
「ふうん」
ユズリはスプーンを口に運びながら男に目をやった。
口数も少なければ、表情の変化にも乏しい。年の頃はユズリと同じか若干上といったところだろうから学生か社会人か。髪を染めていないところを見ると、規則のうるさい会社勤めか役所勤めか。否、左耳だけピアスを一つしているからやはり学生か。不躾なまでのユズリの視線にも男は動じない。
表情らしい表情のない顔ではあるが、整ってはいると思う。例えるなら文楽で見た源太の頭を更に線を細くしたようであるし、やはり顔は悪くない部類だろう。少なくとも源太に似ているのなら古典的な美男ではあるはずだ。別に顔が良いから何だと言うこともないのだが、この町での他人観察は癖のようなものだった。そしてその癖を作る原因、相手をきちんと見ろと幼いユズリに教えたのは誰でもない、将棋盤を前に座っている実の父親だ。
「で、見ない顔だけどちゃんとこの町を知ってそうなお兄さんとお父さんは何してんの?」
「ああ、こちらは人を捜しているそうでね」
「へぇ」
父はこの町では顔が広い。それこそ幼い時分からここに出入りしていたというから店の殆どとは顔なじみだし、似たような面子の集まるこの町では自発的にやってきた者と偶然迷い込んだ者との区別もつく。確かに人探しに頼るには適した相手だろう。
「それでタダで教えてやるのは駄目だとか言って、お金を請求したか将棋で三本勝負ってとこ?」
「惜しいな。持ち合わせが足りないとのことで、将棋一本勝負でそちらが勝ったら話を聞くと言うことで話はついたんだよ」
「ケチなお父さんにしては随分良心的だね」
「こちらはお父さんの高校の後輩に当たるらしくてね。お父さんも後輩は可愛いもので親切心が湧いてきたんだよ」
「へぇ。で、どっちが勝ったの?」
「さっきから一向に勝負がつかないんだよ。将棋やチェスの類には随分自信があったんだが、君は若いのにやるねぇ」
父は感心したように遊佐と名乗った男を見て笑う。
遊佐は軽く頭を下げた。
「まだまだです」
「そう謙遜することはないよ。正直なところ、こうも楽しい勝負ができるとは思っていなかったよ。随分昔にどこかの元プロ棋士だとか言うじいさんと指して以来のいい勝負だ」
愉快そうに父は言い、遊佐は「はぁ」と気の抜けた声で答えていた。
「まぁせっかくの楽しい勝負だが、このままでは数時間では決着はつかないな。君、朝には帰るんだろう?」
「いえ。聞ける事を聞くまではここにいます」
「あんまり長くいると、帰れなくなるよ」
ユズリはかき氷を半分ほど平らげてから、さしたる関心もなく言った。
「私だってもう十年以上ここには通っているのに、未だに朝までには追い返されてるもの」
「ユズリも放っておくと帰れなくなりそうだからね」
父はそう言って遊佐に向き直った。
「ここはあまり君達のような子が来るべき場所ではない。迷ってしまえば何処ぞへ引かれてしまうよ」
真剣みを帯びた父の声に、遊佐は小さく頷いた。
「知っています」
「私だって知ってる。ああ、あそこのオッサンは迷ったね、引かれてる」
ユズリは視線だけを大通りを歩く男に向けた。
仕立ては良いのによれたスーツにネクタイ。恰幅の良い体つき。伸び放題の髭に目の下の隈は濃い。その手前には派手な化粧を施し、襟も裾も肌蹴た女が歩いている。
男のほうは顔も名も、昼の日の当たる世界ではよく知られた人間だ。特にここ最近はテレビや新聞を賑わせていたのでユズリの記憶にもよく残っている。
同様の者は多いらしく、通りのあちらこちらからも声が漏れ聞こえてくる。
――ああ、迷い込んだか。
――見る影もないな。随分図太いおやじかと思えば。
――ほら、前を歩く女。あの親父の名前を手に入れた。これであの男は女の物だ。
――お気の毒。
――一体どこに行くんだかなぁ。
喧噪に乗って囁き合うような声が耳に届く。
「――ああなってからでは遅いからね」
父の言葉に、ユズリは迷い引かれた男から目を逸らした。
「あんなのと一緒にされるなんて心外」
「人間は脆い部分を衝かれるととことん弱い生き物なんだよ。どんな人間であれね」
妙に大人ぶった物言いをする父の言葉から顔を背け、ユズリは一心にかき氷を口に運んだ。もうほとんど溶けてしまっていてこうなっては最早ただの甘ったるいだけの液体だ。甘さが妙に舌に残って不快だが、ここで手を止める事は憚られた。
父は父で娘のそんな心情を知ってか知らずか、早々に話の矛先を遊佐へと向けた。
「君も気をつけなさい。私は善人ではないが、そこそこの良心は持ち合わせている。まだ若い君があんな風になっては後味が悪い」
「なりませんよ。俺は引かれない。名乗らない」
区切るようにはっきりと、遊佐は言う。
「ここで迷えば静かに死ぬことも出来なくなる。一応その程度の知識はあるんで。だから俺はここでは迷わない。迷い隙が出来れば『悪いもの』が寄ってくる」
「……ああ。ちゃんとこの町のことを知っているのか。珍しいな。君のような若さで。私の子供の頃でも知る人間は随分少なくなっていたのに」
遊佐は答えない。不用意にここで自らに関する言葉を発してはいけないと知っているらしい。
――珍しい奴。
ガラスの器の底に残った氷水を喉に流し込みながら、そう思った。