1-3(シェルミの希うこと)
シェルミの視界がかすむ。短く意識を失い、頭を風神に凭れかけさせる。
「母上?」
「ああ、ごめんなさい」
弱く笑って、シェルミは小さく息を吐いた。身体が重い。けっして短くはない人生で、これまで感じたことがない程の疲労感がある。
「家までお送りしましょう」
風神の声は変わらない。しかし、心のうちに動揺がある。シェルミの身を案じている。
「大丈夫よ。一人で帰れるわ」
「いまの母上をお一人で帰らせたりしたら、兄弟姉妹が激怒するでしょう。何より、私の方が心配で、仕事どころではなくなります」
シェルミが笑う。
「判ったわ。お願い、風神」
「はい」
シェルミの家のある“祖師たちの大地”は静かだった。見送ってくれた娘たちの姿も、庭にはなかった。
「ありがとう、風神」
「後は我々に任せて、ごゆっくりお休みください。母上」
「ええ」
風神が姿を消す。
シェルミは視線を上げた。
シェルミの見上げる空、雲の上を、シェルミが止められなかった月の欠片が、真っ赤に燃えた月の欠片が走り過ぎていく。
雲の上だ。
本来の意味での視覚では、月の欠片そのものを見ることはできない。
しかし、シェルミには見える。
音は聞こえない。
衝撃波もない、届かない。
月が失われ、名なき神となったかつての月神が残って、ここを護っている。
先程よりも小さな月の欠片が空を横切る。自らの衝撃波で砕け、更に小さな欠片となって流れていく。
ここに家を移したのはそれほど前のことではない。黒い剣が出現する未来が近づいていることを感知し、フランの意見もあって、デアを離れ、岩盤の安定しているこの地に新たな国を建てた。
人口は多くない。
魔術師協会をはじめとして、デアから従ってきてくれた者。元々この地に住んでいた者。建国後に加わった者。
娘たちを守る。
ただその為だけに人々は集い、この国は建てられた。
「お母さま」
シェルミの帰還に気づいたのだろう、リビアがひとり、庭に姿を現した。
「お帰りなさいませ」
「ただいま。皆、無事?」
「はい。ですが、子供たちが不安を覚えています」
「どこにいるの?」
「こちらへ」
出迎えてくれたリビアに案内されて、シェルミは玄関を潜った。
「お母さま!」
皆がいるという図書室に入ると、まだ幼い子がしがみついてきた。がたがたと震えている。
シェルミはしがみついてきた子を抱きしめた。
「可哀想に。あなたには聞こえるのね」
世界には死が満ちている。
多くの、それこそ数え切れないほどの死が、世界を覆っている。
名なき神となった月神は、世界に満ちる死の衝撃もまた、防いでくれてはいる。しかし、余りにも死が多い。
シェルミの懐にいる子は力が強い。
「大丈夫。ここにいれば何も心配することはないわ」
言葉とは別に、暗示を与える。大丈夫よ。大丈夫。力を心に届け、不安を排し、障壁とする。
そうしながらシェルミは、別の子を呼んだ。
懐の子より少しだけ年長の子だ。
この子も力が強い。気の強い子だが、不安に顔が強張っている。
「あなたが手を握って、支えてあげて頂戴」
「はい。お母さま」
頷いた娘の心に、方向性が生まれる。目的を与えられ、不安が和らぐ。
「お願いね」
優しく微笑んで立ち上がったシェルミに、「お母さま」と、リビアが声をかけてきた。
彼女の中にも不安がある。
しかしそれは、子供たちとは異なる不安だった。
「分岐が複雑すぎるわ」
リビアの問いを聞くことなく、シェルミは答えた。
「複雑に絡んで、変化し続けてる。あの子たちが助かるかどうかは、わたしにも判らないわ」
あの子たち。
家を出た娘たちのことだ。
成人し、家を出る娘たちは少なくない。
リビアが不安に思っているのは、ここにいない妹たちのことだ。家に戻るようにと促したが、家族の許に残り、戻ってこなかった妹たちのことだ。
リビアが唇を噛む。
ふと、シェルミは中空へと視線を向けた。
こちらへと迫ってくる月の欠片を、屋敷の壁の向こう、雲の上にシェルミは認めた。直撃はしない。しかし、近すぎる--とシェルミが思った時には、大気の断熱圧縮により真っ赤な炎に包まれた月の欠片の前に、光が、一柱の神が現れた。金色の髪。黒い肌。まだ10代初めとしか見えない姿をした神。雷神だ。雷神の身体から稲妻が幾筋も迸り、月の欠片を撃ち抜いて粉々に砕き、跡形もなく消した。
雷神は振り返らない。
思いだけを残して、降り続ける月の欠片から人々を守るために転移する。消える。
シェルミはリビアに視線を戻した。
「残ることを選んだあの子たちの決断を、神々を、信じましょう」
「はい--」
シェルミはリビアに歩み寄り、彼女の腕に、心に触れた。
「無力なのは、わたしも同じよ」
「え」
「だから自分を責めないで。フランの様子を見てくるわ。子供たちをお願いね」
「はい」
大きく息を吸い、不安を飲み込むように、リビアは頷いた。
「あなたがこんなに歳を取るまで生きているなんて、珍しいわね」
イーリカを下がらせ、枕元に据えた椅子に座り、シェルミは眠るフランに話しかけた。
「あなたに初めて会った時、まるで宝石みたい、と思ったわ。
ラクドの王宮にも宝石はたくさんあったけど、わたし、少しもきれいだと思えなかった。どうしてみんな、あんなものをきれいって言うのか、ぜんぜん判らなかった。わたしの視覚の問題かと思っていたけれど、あなたに会って、あなたの心を見て、初めて、わたし以外のみんなが宝石を美しいって言う意味が判った気がしたの。
前の世界が滅んで、過去へ飛んで、人が人になって、神々もいたし、娘たちもいたわ。寂しくなんかなかったはずだけど、あなたが会いに来てくれて、わたし、本当にうれしかったのよ」
シェルミが眠るフランの頬に手を伸ばす。
優しく撫でる。
「ねえ、フラン。あなたは、どうしてわたしを恨まないの?」
フランは眠っている。
「わたしは恨んだわ」
先に死んでいった者たち。夫。子。みんな死んだ。
「だから」
短く沈黙する。
「あなたは、きっと反対するわね」
軽く笑って、シェルミは立ち上がった。部屋を出て、そっと扉を閉じる。フランは眠っている。
「イーリカ」
「はい」
「フランに知られないように、娘たちだけに伝えていって貰いたいことがあるの」
「はい」
硬い声でイーリカが頷く。
「いずれ、それがいつになるかは判らないけれど、遠い未来に、黒い髪と黒い瞳をした若い男が、闇の神々が封じた黒い剣を使う者が現れるわ」
「はい」
「彼は死ななければならない」
イーリカは黙ってシェルミを見つめている。
「フランのために」
意外の念がイーリカの栗色の瞳を掠める。イーリカの細い唇が声もなく動き、こくりと頷いて、「承知いたしました」と、イーリカは応じた。
「ありがとう」
シェルミの意識が途切れそうになる。
「少し、休むわ」
「はい」
シェルミは寝室へと足を向けた。イーリカの視線が届かないところまで足を進めて、壁に手をつく。
『母上。大事ないですか?』
名なき神となった月神が問う。
「ええ」
大丈夫。
「ありがとう。セレナ」
いまは失くした名で、名なき神に答える。『ゆっくりお休みください』喜びを滲ませて、名なき神の気配が遠ざかっていく。
短く息を吐く。
「フラン」
わたしはあなたを守りたいの。
と思う。
『たとえ、すべての星が、天から落ちてきたとしても』
顔を上げる。
未来へ、複雑に絡んだ分岐の先へと視線を走らせる。
夜空に輝く星々の間を駆けるように、分岐の先を探り、更に狭い隙間に視線を進め、やがて彼女の周囲に深い闇以外、何も見えなくなってもシェルミは未来を探り続けた。
背後には人の嘆きがある。
怨嗟の声がある。
祈りがあり、絶望が絡みついてくる。
足元さえ定かではない、上下さえも判らない空間に、ただひとつ、光がある。床も壁も見える。実在している。壁に触れた指先に熱がある。小さく弱く、遠く掴み取ることもできず、けれども確かに輝き続ける光に顔を向け、シェルミは両手を差し伸べ、独り力強く足を踏みしめた。