2-1(1200年後 1)
シェルミの視覚は人とは違う。
「どう違うんですか?」
と、アキラは揺れる馬車の中でフランに尋ねた。ショナの南方、新大陸と旧大陸を隔てる多島海に面した街、カズナから、ショナの首都であるデアへと向かう貸切馬車の中である。
「こう言えば判ってもらえるかしら。
シェルミ様はね、床に置いた湯呑と手で持ち上げた湯呑は別の物として見えるし、矢筒の中にある矢と、弓から放たれて飛んでいる矢は、別の物として見えるのよ」
小さな頭をフランの膝に預けて眠るシェルミの銀色の髪を優しく撫でながら、フランが答える。
「え」
アキラとナーナは揃って驚きの声を上げたが、肩の上に狼の頭を乗せた獣人、ヴラドは首を捻った。
「なんだ、そりゃ」
「フランさん、それって、シェルミ様は、位置エネルギーや運動エネルギーによる違いを見分けているってこと?」
声を躓かせながらナーナがフランに確認する。
「そうよ、お姫ちゃん」
「……そうか。神官王様が言われていた、過去と現在、未来とは別に、シェルミ様が見られているものって、エネルギーだったのか……」
「何を言ってんだ?オメエらは」
野太い声を狼男が響かせる。
「ラクドにいる時に神官王様から聞いた話です。
神官王様は、過去と現在、それと未来が幾つも重なって見えて、どれが本当の今か特定するのが難しいって言われていたんですけど、シェルミ様はそれとは別の何かを見ているって言われてたんです。
それが何か、神官王様にも判らないって。
シェルミ様が何をご覧になっているのかずっと気になっていたんですが、ようやく判りました。
でも、そうだとすると、シェルミ様は本当は何も見えていないってことなんですか?」
「見る、ということの意味が違うってことでしょうね」
「オメエらが何を言ってるか、さっぱり判らねぇ。フラン、悪いが、オレにも判るように説明してくれねぇか?」
「ねえ、おおかみくん、あたしたち、光を見ることってできると思う?」
「そりゃ、できるだろ?ちゃんと見えてるぜ。オメエの自慢の、赤いきれいな髪もよ」
フランがにこやかに笑う。
「ありがとう、おおかみくん。褒めてくれて嬉しいけれど、光って、あたしたちには見ることができないものなのよ」
「ん?」
「昼間が明るいのは、太陽から光が射しているからでしょう?この射している光が、もし、雲や霧のように見えたとしたら、ああ、空から降るという意味では、雨に例えた方がいいかしら、その向こう側は、見えると思う?」
「光が雨のようにか」
ヴラドが短く考え、首を振る。
「いや。もしそうだとしたら、向こう側は見えねぇだろうな」
「見習君が言ったのはそういう意味よ。
あたしたちは光そのものを見ている訳じゃないの。雲や、霧や、雨に当たって反射した光を目の奥の網膜で受けて、そこで受けた刺激を脳で解釈して映像として意識しているだけなのよ。
シェルミ様は、光も、空気も、全てを、物体としてだけじゃなく、エネルギーの動きとして見られているのよ」
「それは--」
ラクドで神官王から聞いた話をアキラが思い出す。
『姉が死んだ時にあれが少し暴走してね。無理矢理あれの見ている世界を見せられた。私と同じように無理矢理同化させられた侍女は全員、発狂するか、弱いものは死んでしまったよ』
発狂するのも無理はない、と思う。不規則で秩序のない混乱しかない世界を、人はとても理解できないだろう。
『言葉にするのは無理だな』
神官王様がそう言われたのも無理はない、と思う。
「だとすると、地球が自転していることも見られているんですか?シェルミ様は」
ふと疑問に思い、アキラはフランに尋ねた。
「あたしもそうかなと思っていたんだけど、お母さまに訊くと、地球が動いているようには見えないそうよ。
だから、あたしが説明するまでは、お母さま、地球じゃなくて太陽の方が動いていると思われていたわ」
「天動説の世界に生きていた、ということですね」
「ええ」
「なあ、ちょっと訊いていいか?」
「何かしら?おおかみくん」
「オメエらが話してる、エネルギーって、そもそも何だ?」
「物理的な定義になりますが、仕事をする能力、ということになりますね。物体を動かすことを仕事だと定義すると、ある物体をどれだけ動かすことができるか、という物理量になります。
物体が持つ可能性という説明も何かで読んだことがありますよ」
「なんだそりゃ」
ヴラドが肩をすくめ、フランが首をひねる。
「んー。お姫ちゃんと見習君にちょっと訊きたいんだけど、いいかしら」
「なに?フランさん」
「今、見習君、物理的な定義だとか、物理量だとか、すらすら答えたけど、それって、あまり日常的に使わない言葉よねぇ?
エネルギーもそうだけど」
「え?」
「それって、当然、お姫ちゃんが見習君に教えたんでしょう?」
「あ、うん。そう、かな」
「ふたりっきりになった時、お姫ちゃんたちって、そんなことばかり話しているのかなぁって思ったの。
することもしないで」
「す、することって」
「そりゃ嬢ちゃん、男と女だ。ひとつしかねぇだろ?なあ、アキラ」
「いやいや。そこで同意を求められても」
フランがため息を落とす。
「困ったものねえ」
「な、なんにも困ったことじゃありません!」
顔を赤くして叫んだナーナの声に眠っていたシェルミが薄く目を開け、周囲を確認し、いつも通りと安心して、再び、穏やかな眠りの中に沈んでいった。