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1-1(30分前)

 シェルミの愛する娘は何も忘れない。

 忘れることができない。

 今もそうだ。

「朝ごはんは食べたかしら」

 と、妹たちの一人に問い、「食べましたよ、フラン姉さま。忘れちゃったんですか」と笑いながら言われ、

「ああ、そうだったわ。あたしが忘れる訳、ないでしょう?」

 そう笑って答えていても、本当は忘れている。忘れていることを認めたくなくて取り繕っている。

 けれども憶えている。

 今は忘れていても、フランは憶え続けている。今の命が終わり、再び赤子として生まれ直せば、老いを脱ぎ捨て、何があったか答えることができるようになる。

 フランが、言葉が話せるようになるまで成長すれば、だが。

 そうしたフランの記憶がどこに蓄えられているのか、シェルミにも判らない。

 別の時間の流れの中で、別の彼女自身が術を施した筈だが、それがどんな術だったのか、術を施される前だったフランの記憶の中にもない。

『母上』

 シェルミの脳裡で声が響く。

 雷神だ。

『いま行くわ』

 声なき声で雷神に応えて、シェルミは椅子に座ってにこにこと微笑んでいるフランに歩み寄った。

「それじゃあ、行ってくるわ。フラン」

 白くなったフランの髪を優しく撫で、皺だらけの額に口づけをする。

「行ってらっしゃいませ。シェルミ様」

 機嫌よく笑ってフランが応じる。

 お母さまとではなく、シェルミ様とフランに呼ばれ、シェルミは微笑んだ。今のフランに自分はどう見えているのかしら。と思う。

 そもそもフランが見ているのが本当に自分かどうかも判らない。お母さまと、シェルミ様と呼ばれてはいても、フランが見ているのはフランの記憶の中に生きている別の自分かも知れない。

「イーリカ、フランをお願いね」

「はい。お母さま」

 傍に控えた娘たちのひとり、イーリカが頷く。

『任せて』『任せておいて』

 フランの影の中に潜む妖魔たちも、ざわざわと蠢きながら応える。

『頼りにしているわ』

 手を振るフランに見送られて出た屋敷の庭には、神々がいた。最高神である雷神と風神をはじめとする光の神々だ。

 海を統べる海神もいる。河の神である龍翁もいる。狩猟と復讐を司る狂泉、大平原を支配する平原公主、愛と美の女神であるスフィア。赤々と身体から炎を噴き上げているのは太陽神ゾーイだ。

 闇の神々はいない。

 クマルビをはじめとする闇の神々は、黒い剣を封じる封印となって、いずれはラクドの黒い城壁と呼ばれることになる封印となって、務めを果たした。

 空は厚く重い雲に覆われ、太陽は見えない。

 月はない。

 黒い剣の出現とともに粉々に砕かれ、大部分は、遥か深淵へと飛び去った。しかし、砕かれた月の一部が地球に向かって落ちて来ている。もしそのまま落ちるに任せていれば、人は、いや、地球上の生物のほとんどは死滅してしまうだろう。

 欠片の大半は今、自転する地球の反対側にある。もし雲がなかったとしても空に見ることはできない。

 庭には神々だけではなく、娘たちもいる。

「お気をつけて。お母さま」

 フランを除けば最も年長の娘であるリビアが、眉根に緊張感を漂わせて声をかける。

「行ってくるわね」

 シェルミは神々に歩み寄り、「お願い。風神」と、風神に声をかけた。

「はい。母上」

 風神が腰を屈めてシェルミを抱き上げ、シェルミを抱いたまま姿を消し、風神に続いて他の神々も姿を消した。

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