〜古代中国から現代で地理の授業を受ける件〜
足を止めれば殺されるーーー。
その焦燥だけが男の足を動かしていた。
皮肉にも、貧しい村民から取り立てた税の代物、美しい絹の装束、そして男の体にまとわりついた汚い脂肪が彼の走りを妨害していた。背中に強い殺気を感じる。”奴”の気配だ。長江の川べりの草むらを、蛇のように強かに、確実に、”奴”は男との間合いを詰めていた。2人の距離は刻一刻と近づいていく。
もう終わりだ。男が絶望を感じたその瞬間であった。一筋の光が2人の間に差し込んだ。かと思うと、その途端、”奴”はその場に倒れ込んでしまった。死んだのかーー?一体誰が、思考を働かせる間もなく、男は気を失った。
「どうやら無駄足だったようね」
楊李娜は1人呟く。一層静かになった川べりで、彼女は剣を一振りして鞘に収めた。湿った風は彼女の美しく切りそろえられた髪を揺らし、月明かりは彼女の鍛えられたしなやかな身体を水面に写し込んだ。
ふと、鈴の音がして1匹の猫が現れる。
「あら、来ていたの。今回も”違った”わよ」
猫はリナの足の周りをくるりと一周すると一声、にゃあと鳴いて男の姿に変貌した。
薄紫の煙の中から、男は髪をふわりとかきあげて、出てくる。長身とは対照的に細い身体に、白金のような
色の髪が良く似合う。時折暗闇に光る琥珀色の目が妖艶で、なんとも形容し難い色男である。
男はリナの顔を覗き込んで満足気ににんまりと笑うと、今しがたリナの倒した男に近づいていった。リナはその後ろを半歩遅れてついて行く。
男はナイフを振りかざす。
「...嫌なら、見なくていいんだぜ」
「別に」
リナは月影に姿を隠した。表情を気取られないように。
「そうか。」
グシャリ、と音がして男は”奴”の肩に刃先を滑り込ませた。