最終話 あたしはあなただけを世界で一番愛しているから――★
灯りなど持っていない。
辺りは暗黒で、星の光だけが唯一の光源だった。
まさか……まさか……まさか……まさか……まさか……まさか……。
あたしの思い過ごしであればそれでいい。
きっと思い過ごしだ……。
思い過ごしなのだッ……。
草木も眠る時刻の町は静まり返っていた。
草履が土や砂を踏むシャリシャリという音だけが、静寂を破る唯一の音だと思いたかった。
カーンカーン、カーンカーン――。
澄んだ空気に乗り、その音はどこからともなく聴こえて来た……。
あたしはこの音を知っている……。
この怨念に満ちた禍々しい音をあたしは知っている……。
あたしは草履が脱げたのも構わず、音が鳴る方角に向けて走り続けた。
足の裏が小石で切れて痛かったけど、あたしは強く地を蹴って走り続けた。息が上がり、上手く空気が吸えない。
空気が吸えないのは、息が上がっているせいだけではない。空気に混じった禍々しいにおいが泥のみたいに喉に絡みつき、空気を取り込むことができないのだ……。
禍々しい空気の尾が漂う方角にあたしは駆けた。
“思い過ごしであってくれ„と仏さまに願いながら、あたしは神社の石段を駆け上がった。カーンカーンカーンカーン。
森中に反響するこの音はどこから聴こえてくるのだろう……?
あたしは石段を抜けて、真夜中の森に入る。
枝が寝間着に引っかかり、破れるが気にしていられない。
どこ……カーンカーンカーンカーン――。
音が大きくなって来た。
カーンカーンカーンカーン――。
妹もあたしも、御神木はあれしか知らない……。
カーンカーンカーンカーン――。
樹間の間に蝋燭の灯りが見えた。
カーンカーンカーンカーン――。
耳の裏に心臓がついているのではないかと思うほどに、鼓動と金槌が金属を打つ音で世界は埋め尽くされた。
カーンカーン――。
五徳をかぶり三本の蝋燭を頭につけ、白装束に身を包んだ“誰か„が金槌を振り上げては、御神木に向けて振り下ろしている……。
カーンカーン――。
白装束の“誰か„の動きが止まった。
嘘よ……夢なんだわ……こんなの夢に決まっている……。
あたしの頭にあのとき聞いた“人ならざる者„の声が蘇った。
〈おまえもわかっていてやったんだよね。人を呪った時点で、自分も地獄に落ちることになるって。人を呪わば穴二つ。生きながらに地獄の苦しみを味わい、死んでからも楽にはなれない。人を呪う者に待つのは地獄のみ。おまえにその覚悟はあるか〉
こんな地獄ってあるの……。
これが地獄なの……。
白装束の“誰か„はゆっくりと振り向いた。
顔は白粉で真っ白で、胸元の手鏡が蝋燭の灯を反射して、口には櫛を加えてる。
「そこに誰かいるのですか? 見ましたか?」
その声は冬の透き通る空気よりも澄んでいて、静かで、冷たかった――。
これが地獄――。
人を呪わば、それ以上の災いが自分に跳ね返ってくる……。
〈人を呪う者に待つのは地獄のみ〉
「ねえ。そこに誰かいるのでしょ?」
あたしの体は震えていた。
怖いからではない、怒りで震えが止まらなかったのだ。
このようなことになった元凶である、男えの恨みで震えが止まらなかった。
枯れた草や枝をパキパキ踏みながら、白装束の“誰か„――妹は懐に忍ばせた護り刀を抜いた。刀身の輝きは誰に向けられているものなの……?
妹は誰を呪い殺そうとしているの……?
男を殺した“誰か„を?
あたしは金縛りにあったように動けず、声もでなかった……。
「ごめんなさい……あなたに恨みはないのです」
妹はすぐ目の前まで迫っていた。
あたしから妹の顔は見ているけれど、妹からあたしの顔は見ていない。
「本当にごめんなさい……」
蝋燭の灯りに照らされた刀身が、不気味な殺意の輝きを煌々と放っていた。
「死んでください……」
目の前の妹はあたしを殺そうとしていて、あたしを呪い殺そうとしている……。ここであたしは死ぬの……。この場を逃げれば妹が死ぬの……?
ここであたしが死んだとしても、あたしがどれだけ説得しても、妹は最後まで刻参りを行うに決まっている……。それほどまでに、妹はあの男を愛していたから……。
どちらにしろ、地獄じゃない……。どちらにしろ地獄だとしても、妹が地獄に落ちることだけは阻止しなくては……。
それだけは何とか阻止しなくてはならない……。
妹が駆けたことにより、蝋燭の炎はスーっと消えた。
草木があたし達をあざ笑っているみたいに、ザワザワとうるさく鳴いた。雲に隠れていた月が顔を覗かせ、護り刀の刀身が一筋の白い線を引いた。
刹那――。
刀はあたしの腹部を貫いていた。
あたしが死ぬと……この子はどうなるのだろう……。
胃から、食道から、嘔吐物がこみ上げてくるみたいな感覚で血が噴き出た。あたしが死ぬと……この子の呪いはどこに向かうのだろう……。
願いを満願することができても、あたしはもういないのに……。
この子は無意味に……地獄に落ちることになるの……。
そんなの……あんまりじゃないか……。
地獄に落ちるのはあたしだけで十分だ。
この子はあたしと違ってやさしい子なのだから。
人を呪って地獄に落ちるなんて、馬鹿げている……。
雲が完全に晴れ、朝の如く明るい月明りが森に降り注いだ。
皮肉なことに今日の月はとても明るかった。
眩しいくらいだ……。
「そんな……そんな……」
妹は護り刀の柄を放して、一歩後ろにのけぞり距離を取った。
「そんな……なんで……姉さんが……何でこんなところに……」
今まで鬼の形相だった妹の顔が、少女のように幼く、か弱く、あどけなく見えた。
「あなたは地獄に落ちては駄目よ……」
口の中に溢れ出る血で言葉を紡ぐのに苦労した。
まるで水の中でしゃべっているみたいに。
「ごめんね……あなただけは幸せな人生を送って欲しかったのに……。そのためにあたしは、今まで頑張って来たのに……。こんなことになってしまって……」
すべてが狂いはじめたのは、やはりあの男に出会ってからだ……。
あのときもっと反対しているんだった。
絶対に駄目だ、と認めなければよかった……。
視界が縁から暗くなっていく。
妹の姿が二重に見えた。
ああ……本当にあたしそっくりだ。
「自分が地獄に落ちてもいいと思うほど……あの男のことを愛しているなんて……。あたし以上に、あの男を愛しているなんて……。本当にごめんね……。だけどあなただけは地獄に落ちては駄目よ。あんな奴のために、地獄に落ちる必要なんてない……」
息ができなかった。
護り刀の刀身があたしの内臓を傷つけているのだ。
真っ白だったあたしの寝間着は、腹部部分から真っ赤に浸食しはじめていた。
「あなたには、あなただけには地獄に落ちて欲しくないの……。あなた以外なら誰でも地獄に落ちて構わない……だけど、あなただけは落ちて欲しくない。身勝手な酷い姉さんを許してね……」
あたしは腹部に刺さった護り刀を、鞘から刀を引き抜くみたいにゆっくりと抜いた。刃があたしの内臓や肉をゆっくりと切り裂く痛覚は、頭の核を鋸でギコギコやられているような気分と痛みを訴えた……。
「だから……」
地面が揺れているのか、足下がおぼつかない……。
いや、地面が揺れているのではなく、視界が揺れているのだ。
「姉……さん……どうし……て……」
あたしは護り刀を下から上に振り上げて、妹の左胸下を刺し抜いていた。
「ごめんね……ごめんね……。あなたを地獄に送らないために……あたしには……この方法しか思いつかなかったの……刻参りが満願する前なら……まだ間に合うの……」
あたしが男を殺したのだとは言えなかった……。
あたしが殺したのだと言って、妹に理解させれば……刻参りを辞めさせられたかもしれない……。だが、あたしは言えなかった……。
その秘密は墓場まで持って行く……。
だって……妹に嫌われたくない……。
世界中の人すべてに嫌われても、妹だけには嫌われたくないのだ……。
あの男をあたしが殺した、といえば絶対にあたしは嫌われてしまうから……。
「あたしは悪い子だけど、あなたは本当にいい子だもの……。あなただけは地獄に落ちてはだめよ……」
月明りがあたしと妹だけを照らしていた。
糸が切れた人形みたいに、妹の体から力が抜け前のめりに倒れ込んだ。
あたしは妹を受け止め、その場にしゃがみ込んだ。
「――人を呪うなんて……わたし何考えていたんだろう……? 姉さんが……止めてくれなかったら……取り返しのつかないことを……してしまう……ところだった……」
妹の声は先細りする線香花火みたいに、儚い綺麗な声だった。
「あたしはあなただけを、いつまでも愛しているから……。世界で一番、愛しているから……。地獄に落ちて欲しくないの……本当にごめんね……酷い姉さんを許して……」
今あたしの頬を伝っているのが、涙なのか血なのかわからない。
妹は弱々しくなった目を最期の力を振り絞って開き、あたしの頬に手を添えた。
「わたしも……姉さんを……いつまでも愛しているよ……。本当に愛しているから……。姉さんを酷い人間だなて想わないよ……」
真実を知ったら、そのようなことは言ってくれないだろう……。
言わなくてよかった、と思うあたしはやっぱり酷い姉だ……。
妹の憎悪に歪んでいた顔が赤ちゃんのような穏やかなものに変わると、静かに息を引き取った。ごめんね……何も言えなかったあたしを呪わないで……。
もし言ってしまえば、あなたはあたしを愛しているなんて……言えなくなる……。自分勝手なお姉ちゃんを許して……。
妹を抱きしめたまま、あたしは背後に倒れた。体に力が入らず、石になったみたいに体は冷たく、指一本動かすこともできない。
見上げた夜空に浮かぶ月は、綺麗な満月だった。
ああ……本当に……人なんて呪うもんじゃないわね……。
〈二人とも死んじゃったね〉
〈二人とも死んじゃったね~〉
〈本当のことを言っていれば、妹は助かったかもしれないのに〉
〈妹に嫌われたくなかったのさ〉
〈それじゃあ、『あなたのことを一番に想っている』って嘘じゃないか。本当に愛しているなら、嫌われても真実を伝えるべきなんだよ。それが本当の“愛„っていうものだろ? そうすれば、妹は憎い姉のことなんて綺麗さっぱり忘れて、新しい人生を歩めていたかもしれないのにね〉
〈つまりは、自分がかわいかったのさ。妹に嫌われるのが怖かったから、伝えられなかった。妹を一番に想っているなんて嘘だね。一番に想っているのは自分で、妹は二の次さ〉
〈まったく人間って生き物は嫌になるね。しょうもないことで人を恨んで疎んで、自分が地獄に落ちてもいいから憎い奴を呪うんだから。それで、絶対に最期は後悔するんだ〉
〈だけど、それゆえに愛おしいくて、面白いね。人間って面白いね。人間が絶望に暮れる顔を見るのは面白いね〉
〈本当に人間って面白いね。昔も、今も、これからも人間はくだらないことで人間を呪い続ける。変わることはないね〉
〈だから、自分たちが存在できているんだから、人間には感謝しないといけないね。ほら、見て。恨みを抱えた人間がまたやって来たよ〉
〈本当だ。人間って懲りないね。だから飽きないね。今度はどんな恨みを抱えているのかな? 今度はどんな絶望が見られるかな。楽しみだね――〉