第壱話 かの男を殺さねばならぬ――★
『あたしはあなただけを世界で一番愛しているから、あなたを傷つける者は絶対に許さない――』
淫らで厚顔無恥、人を人とも思わないかの男を殺さねばならぬ、とあたしは決意した。
祝言を挙げた嫁がいるというのに……女遊びに現を抜かし、あたしの大切な人を傷つけた。かの唾棄すべき男を、あたしは絶対に許せない……。
このままでは壊れてしまう……あたしの命よりも大切な妹は壊れてしまう……。妹は男と祝言を二年前に挙げ結ばれた。
あたしと妹は産まれたときから、ずっと苦楽を共にし暮らして来た。
妹はあたしより二つ下で、生き写しが如く、身長から容姿までよく似ていた。
人形みたいに艶のある、黒く長い髪。
切れ長の目。
あたしが言うのもおかしいけれど、綺麗な子なのだ。
だけど性格は正反対と言ってもいい。
妹はあたしよりやさしい子で、あたしより何でもできて、あたしより足が速くて、あたしより賢くて、あたしより明るくて、病弱で、あたしより傷つきやすい子だった。
父母はあたし達が幼いころに大火事で亡くなり、その後は二人で生きてきた。
庄屋や裕福な人々が養子に引き取る、という話もあったが、あたし達二人をもらってくれる、ところはいなかった。離ればなれになることだけは、あたし達二人とも是としなかった。
あたし達は二人で生きることを決めた。
町人たちが助けてくれるので、幼いあたし達でも何とか生活するに困らなかった。
あたしは妹を養うために、色々な仕事をかけ持った。
当時はまだ十ほどのあたしにできる仕事は限られていたが、できる仕事は何でもやった。
茶屋のお茶くみや、豆腐売り、油売り、野菜売り、民家の掃除。
呼子や、機織り。非力なあたしでもできる仕事は何でもやった。
妹を立派に育て上げるために……あたしは何だってやった……。
妹が幸せになるのなら、苦とは思わなかった。
そんな妹が十九になったとき、男ができた。
はじめは妹を奪われた、という想いから悔しかったが、男と妹の仲睦まじい姿を見るうちに交際を許そうと思った。当時は非の打ち所がない男だと思ったのだ。
優しくて、頼りになるいい男だと本気で思っていたのだ……。
妹も男のことを信頼している様子だったし、あたしも信頼していた……。今思えば当時のあたしは男を見抜く目を持たない阿呆だった……。
妹は翌年、二十で祝言を挙げた。
妹と別れるのは寂しかったが、妹の幸せを願いあたしから身を引いた。
妹は男と家を借り、暮らしはじめた。
妹を失った当時は激しい喪失感と悲しさから、何も手に付かなかった。
だが、妹が幸せに暮らしていると思うと立ち直ることもできたのだ。
悲願ではいられない。
自分が幸せになることは、妹を幸せにすることなのだから。
今度はあたしが、いい男を見つける番だった。
男と結ばれてからも、妹とはたまに会うこともできた。
*
祝言を挙げて一年が過ぎたころ、久々に会った妹の変化にあたしは気が付いたのだ。いつもにこやかに微笑んでいた妹の顔に、笑顔が消えていた……。
会えば花のような笑顔であたしに微笑みかけてくれたのに、そのときの妹の笑顔は花弁を閉ざしたつぼみだった。
笑顔だけど、本当の笑顔ではない。
無理して笑っているのだと、あたしにはわかる。
あたしだからわかる。
どうしたの、とあたしは訊ねた。
けれど妹は「どうもしないよ」と作り笑いを浮かべるだけだった。
そのときはまだ、ちょっと調子が悪いだけなんだな、と深くは考えなかった。
だが会うたびに妹の様子が、おかしいのだ……。あたしは鈍感だけど、ここまで妹の様子が変わってしまえばさすがに気付く。
「最近あなた変よ……。やっぱり、何かあったんじゃないの? 困ったことがあるならあたしに相談してよ。助け合って今までも生きてきたじゃない。たった二人だけの姉妹でしょ……。困ったときはあたしを頼ってよ……」
「本当に何でもないよ。心配してくれてありがとう。姉さんは昔からやさしいね」
妹は昔から苦しみを一人で溜め込む、悪い癖があった……。
あたしを心配させたくない、という思いやりなのだろうけど……それがあたしにとっての心配の種だった。
変に頑固な子だから、どれだけ妹を問いただそうと教えてくれないだろう。あたしはその日から、妹を観察することにした。
*
近所づきあいもしっかりとこなして、成長したものだと嬉しくなった。
昔から人見知りで、あたしの後ろにばかり隠れていたのに。
妹の成長は嬉しいけれど、悲しくもあった。
どんどんあたしから離れていく……。
手の届かない場所まで離れてゆく。
妹と開いた距離感が、よそよそしさを生んでしまっているのだろうか?
妹はあたしから距離を取ろうとしているのだろうか……?
やはりあたしの思い過ごしで、妹はどこもおかしくないのかもしれない……。
そう思いあたしは帰ることにした。
あたしもそろそろ妹離れしなければな……。
それから数日は何事もなく過ぎたが、ある日の夕時にあたしは見てしまった。男が知らない女と親し気にしているところを……。
不審に思ったあたしは男の後をつけた。
すると男はその知らない女と安宿に入り、半刻(一時間)ほど出てこなかった。恐る恐るあたしは安宿の障子に針先ほどの穴を開けて、中の様子を見ると……男は女と姦淫している場面を目撃した……。
あたしは言葉を失った。
妹の元気がなかったわけがわかった……。
*
その日からあたしは男を観察することに決めた。
尻尾はすぐにつかんだ……。
男は朝っぱらから、働きもせず何人もの女と体を重ね合わせているのだ……。
間違いない、妹は男の浮気性で悩んでいた。
だがこれは夫婦間の問題……。
いくら姉といえども口を挟んでいいものか……?
だけど……妹は一人で苦しんでいるのだ。
姉であるあたしが助けなくて、誰が助けるというのだろう。
男を許すことはできない……。妹を悲しませる者は許さない……。
あたしは妹に男の女関係のことを洗いざらい打ち明けた。
妹は悲しむだろうが、これからもっと苦しむなら早い方がいい。
「あの男は次から次に女を作って、安宿に連れ込んでいるのよ……。あんな男捨てて、とっとと別れた方がいい……。あなたならすぐにいい人が見つかるわ」
あたしの言うことを聞き入れてくれると自負していた。
だけど……返って来た言葉は予想に反していた。
妹はそんな男でも愛しているのだとあたしの話を聞いてくれなかったのだ。
何で? あんな浮気男のどこがいいっているの?
どこを愛せるの?
どうしたらいいのだろう……。
あんな男のために妹が苦しむなど、不条理だ。
このまま指をくわえて見守るしかないの?
そんなあるとき、あたしの決意を固める事件が起きた……。いや以前から起きていたのに、あたしが気付かなかっただけだ……。
ふと見えた妹のはだけた胸元に大きな痣ができていた……。
あたしは妹の着物を無理やり引っ剥がした。
すると予想以上に、妹の体には無数の痣や火傷の痕ができていたのだ。
着物を着っていれば、見えない箇所ばかりに痣や火傷ができている……。
「これはどうしたのッ!」
妹は目を合わせてくれなかった。聞くまでもない……こんなことをするのは……できるのは一人だけだ……。
「あたしと一緒に帰るわよッ。大丈夫あたしが護ってあげるから……。あの男が押しかけてきても、あたしが護ってあげるから。ね、だからあたしと一緒に帰ろ」
妹の手を引きこの家からすぐに逃げなければと思った。
このままでは妹が殺されてしまう……。
だが妹はあたしについて来なかった……。
「どうしたの? 早く逃げないとあいつが帰って来ちゃう……」
「彼をおいていけない……」
「何を言ってるの……?」
あたしには妹の言っている言葉の意味がわからなかった。
“彼をおいていけない„とはどういう意味だ?
こんなに酷い扱いを受けているのに……彼をおいていけない?
「彼にはわたしが必要なの。彼はわたしがいないと生きていけないの……。わたしに毎日言ってくれるんだよ……『愛してる』って。『おまえがいなきゃ、俺は生きられない』って」
頬を染めて嬉しそうに妹は言った。水面に口を出し餌をねだる鯉みたいに、あたしはパクパクと口を動かし返す言葉を探した――。