はじめての朝
その日の夜、彼は研究室と呼ばれる部屋にこもっていて、私は寝室で一人眠った。
小鳥のさえずりが聞こえ、カーテンの隙間から射し込んでくる朝の光に目を覚ます。
隣のベッドのシーツはシワ一つなく、昨晩と変わらないように見える。
どうやらユーゴは一晩中研究室にいたようで、本当に私に興味がないらしい。
彼の関心は植物とその研究のことだけのようだ。
身支度を済ませ、あまり使われていない様子のキッチンでたまごとベーコンを焼き、二人分の朝食の準備をしていく。
すると、足音とあくびが聞こえてきた。
「ずいぶんと早いんだな、バァサンかよ……それに僕はいつも朝食を食べないんだ。君が二人分食べるか捨てるかしてくれ」
眼鏡を拭くのに集中しているユーゴは、十近く年下の女を年寄り呼ばわりしてきて、さらには作ったものを捨てろと言う。
呆れてしまうほどに、デリカシーがない人のようだ。
悪気もないようで、椅子に腰掛けてぼんやりと窓の外を眺めている。
だけど、配慮がなかったのは私も同じかもしれない。
朝早くから行動し、彼に確認もしないまま朝食を作ってしまった。
一般の家庭では、こういうことはしないのかもしれない。
何せ、私は普通の生活というものがよくわからないから。
「ごめんなさい、うるさくして起こしてしまった? だけど、年上の貴方にバァサン呼ばわりされる筋合いはないと思うの」
作った朝食をユーゴの前に置いて淡々と言うと、彼は私を見上げてきて無言のまま目を丸くした。
「それに、朝食はちゃんと摂ったほうが、研究もはかどると思うのだけど。だって、土いじりしたりもするんでしょう? 結婚式だっていうのに昨日、爪の間に泥入っていたものね。だから、はいどうぞ」
親切心のつもりでナイフとフォークを差し出すと、呆気にとられたような顔をしたユーゴは素直にそれを受け取ってくれた。
「君は、無表情で気弱そうなのに、案外変わっていて押しが強いね……朝食を食べさせられるのは十年以上ぶりだよ」
ユーゴはおいしいとも不味いとも言わず、黙々と朝食を食べて庭へと出ていってしまう。
残されなかったということは、食うに耐えないもの、というわけではなかったのだろう。
ユーゴからは研究室にさえ入らなければ好きに過ごしていいと言われているけれど、いざ自由を手に入れると何をしていいのかわからない。
暇を潰すために編んでいたレースも昨日捨ててしまったため、彼の様子を見に行くことに決めた。
玄関を出てあたりを見渡すと、ユーゴは昨日司祭様が見ていた白い花のところにいた。
「やることもないので、少し見ていても?」
「好きにしろ。僕の邪魔さえしなけりゃ何でもいい」
彼はこちらを見もせずに、黙々と花のスケッチをして、模様のように文字をつらつらと書きこんでいる。
「ねぇ、ユーゴ。私、この白い花どころか、下の草も見覚えないのだけれど。本当に雑草なのかしら?」
彼の隣に座り込んで尋ねる。
すると、彼はぴくりと身体を震わせて、どこか満足そうな顔を見せてきた。
「へぇ、あの司祭よりはわかってるんだね。こいつは、その花の下にしか生えない草で、薬の原料になるんだよ。君、まさか巫女様の清い手で、草取りでもさせられてたのかい?」
巫女様、という言葉にちくりと胸の奥が痛む。
未だにこうやって、どうにもならない運命を嘆いて、受け入れられない自分が嫌になる。
もう何も感じないようにしよう、そう決めていたのに。
大きく息を吸い込み、目を閉じる。
心を失くせ。そうしてしまえば、早く楽になれるのだから。
ゆっくりと息を吐き出してまぶたを開けると、ようやくいつもの私に戻ることができた。
「草取り……そうね、庭の手入れは自分でやっていたから。ここと、そこのは雑草。合ってるでしょう?」
ぴょこぴょこと生える小さな芽を指差すと、彼はなぜか驚いたような顔で苦笑いをしてきた。
「はは……イヤミで追い返そうと思ったのに。気づかないとは、ホント変わってる」
「イヤミ?」
どこにイヤミが隠されていたのだろう。
全くと言っていいほどにわからない。
「誇り高き巫女が草取りなんて、バカにするな。そう怒って、どこかに行くと思ったんだ。この町にやって来た神職は皆、プライドばかり高くて中身のないヤツばかりだったから、君も同じだろうと思ってね」
ユーゴの言葉に「そうであったなら、どれほどいいか」と呟く。
「誇り高いなんて、思っているのは周りだけ。私自身は巫女の家系に生まれたことを誇りに思ったことなんて、一度だってないのに」