溶けゆく氷
私たちは地下室を出て、ユーゴは“指を怪我するといけないから”と、割れたカップを私の代わりにトレーの上へと載せてくれる。
「お手数かけてすみません。お茶、またあとで入れてきますから」
余計な仕事を増やしてしまった、と心苦しく思っていると、ユーゴはトレーを持ち上げ、リビングの方に歩き出した。
「いや、茶はいらないよ。それより、来てくれないか。見せたいものがあるんだ」
そう言って、キッチンにたどり着いた彼はトレーを置き、そこからさらに向かった先は、裏口の扉だった。
「ねぇユーゴ、外に行くつもりなの? 私、夜間は外に出てはいけないと決められているのだけれど」
教会から定められた禁忌の一つ“夜間に外に出てはいけない”
これは誰もが知るもので、ユーゴも例外ではないだろう。
それなのに彼は、躊躇う様子もなくドアを開けた。
「誰かに見つからなければ、問題はないだろう。それにこの庭も僕の家の敷地内。つまりは家の中だ」
「そうかもしれないけど……」
果たしてそんな言い訳がハンス司祭に通じるのだろうか。
二の足を踏んでいると、ユーゴは急かすように手招きをしてきた。
「行こう。今日を逃したら、あと三年は見られないから」
三年。その言葉に導かれるように、私ははじめて夜空の下へと飛び出した。
ユーゴは子を成す気はないため、私たちが共にいられるのは、あと一年半もない。
彼が見せたいと思ってくれている“何か”を次の機会に一緒に見たいと思っても、それはきっと、叶わないことだから。
寒さのせいだろうか、外気に触れた指先だけでなく胸の奥までも痛くて、苦しい。
先程まで降っていた雪はもうやんでいて、地面に粉砂糖がかけられたかのように、うっすらと積もっている。
空を仰ぐと、そこには無数の星が瞬いていた。
落ちてきそうなほどに星が光る夜空は想像していた以上に美しくて見惚れてしまい、立ち尽くすことしかできなくなる。
「レイラ。こっちに」
庭の端にある水瓶の前でユーゴは私の名を呼んできた。
「すみません、すぐ行きます、って、きゃあ!」
小走りで彼の元に向かうと、雪に滑ってバランスを崩してしまう。
思わず目の前にいたユーゴに抱きついた。
ぶつかっても倒れることのない、女の自分とは違う身体と、触れあう場所から伝わってくる温もりとに、どきりとする。
男の人の身体に触れたことがないからだろうか。
緊張と動揺が止まらず、まともにユーゴを見られない。
「す、すみません」
「いや、問題ない。大丈夫かい」
上から降ってくるどこか優しい低い声に鼓動が跳ねて、慌てて離れ、視線をそらす。
視線を送った先には水瓶があった。
中には水が張られ、水面が鏡のようになっていて、夜空の星をつかまえたかのように輝いている。
「すごい、ここにも夜空があるのね」
綺麗だと思って見つめていると、ユーゴは水瓶の前に座り込み、中を指差した。
「もっと奥底を覗いてみてくれ」
私も彼の隣に座り、言われるがままに瓶の中を覗きこむ。
すると、澄んだ水の底に、マーガレットに似た一輪の花が咲いていた。
それは氷でできているかのように透明で繊細で。
まるで星の海に沈んでいるかのようだ。
あまりの美しさに言葉を失い、ほうと感嘆のため息をつくしかできないでいると、隣からユーゴの声が聞こえてくる。
「この花は三年に一度、しかもこの時期の新月の夜にしか咲かないんだ」
「もしかして、この花を見せたいと思ってくれたのですか?」
「ああ、なぜだろうな。ふと、そうしたいと思った」
ユーゴの言葉に、これまで感じたことのない柔らかな想いがどこからか溢れてくる。
胸がいっぱいになり、胸だけでは収まりきらなかったのか、涙となってぽろぽろとこぼれ落ちていく。
「レイラ、どうした……? もしかして、嫌なことでも思い出したのかい?」
ユーゴは心配そうに尋ねてきて、私は何度も首を横に振った。
「違うの。すごく嬉しくて、幸せで。こんな気持ちになるのは生まれてはじめてよ。ありがとう」
ユーゴを見つめて泣きながら微笑むと、彼はじいっと私を見つめてきて、そっと口を開いた。
「……そうか、やっとわかった。僕はきっと……」
温かい指に頬を優しく撫でられ、静かに距離が縮まる。
どきどきと胸が高鳴り、ユーゴから目をそらせない。
そっとまぶたを閉じると、唇に柔らかく温かな感触があった。
きゅっと胸が甘く切なく締め付けられて目を開けると、彼と視線が重なる。
「……ッ! レイラ、本当にすまない! 嫌だったよな、僕はなんてことを……」
我に帰ったようなユーゴが、めずらしく大慌てになっている。
その様が面白くて、くすくすと笑いが止まらなくなってしまう。
「ねぇ、ユーゴ」
「レイラ、本当に申し訳な……ッ!」
ユーゴの両頬に手を伸ばして包み込み、彼に飛び込むようにして唇を重ねた。
「キスというものは、大切で愛しいと思う人にするものなのでしょう?」
驚いた様子のユーゴを上目で覗きこみ、尋ねる。
まさか私がこんなにも大胆なことをするなんて、と、自分で自分の行動に驚いてしまう。
でも、走り出した想いを止めることなんて、できなかった。
私はユーゴに、こんなにも惹かれている。
「レイラ……」
切なげに名を呼ばれて、どくんと鼓動が跳ねる。
距離が縮まり、背中にユーゴの手がまわってきて、彼はぎゅうと抱きしめてくれた。
「僕は偏屈で、嫌味な上に頑固でわがまま。決して親切な人ではないんだよ? それでも……」
「偏屈で頑固でわがまま。そんなの全部、知ってるわ」
彼の肩に顔を埋めて、きゅっと抱きしめ返す。
厳しい寒さも、彼の腕の中なら暖かい。
ユーゴからは、優しい花の香りがした。
「君は、温かいね」
「あなたのほうが、もっともっと温かい」
ずっと独りの寒さに凍えていた私を、彼は救ってくれた。
こんなに温かい人に、出会えたことはない。
こんなにも、この心が満たされたことなど一度だってない。
温かくて穏やかで、それでいて、どきどきと胸が高鳴っていく。
星降る夜の下、私たちはもう一度キスをして見つめ合う。
そして、無言のまま照れたように微笑み合ったのだった。




