通夜
通夜が始まった。
老婆は姿を見せない。
悠人は読経を聞きながら、此れから一体如何すべきを考えていた。
『逃げられはせんぞ』
老婆は言った。本当にそうなのか。膝に付いた手形が疼く気がする。
今すぐ都会へ逃げ帰れば……。思考がどんどんと追い詰められていく。
黒いスーツの膝を強く握る悠人に構わず、通夜は滞りなく済んで、通夜振舞いへと場が流れた。
用意された豪勢な食事も食べたいと思えない。けれど断るのは流石に悪い。礼を失する事の無いように末席に着く。
あちらこちらから漏れる声。可哀想に、良い子だったのに、なんて空々しい会話が聞こえる。
周囲に勧められて無理から寿司を摘み、咀嚼する。普段なら喜んで食べるネタも今はただ生臭くて、嫌に喉に引っかかる。気分を変えよう、と吸い物の椀を手に取った。
なにか、おかしい。
澄んだ出汁が、歪む。
豆腐が、ぐんにゃりと奇妙に捻れ、そうして、嗤った。
あの赤ん坊の顔で。
固まった悠人に向かって手が伸びてくる。
黒塗りの椀の底から、わんさと手が伸びてくる。
辛うじて悲鳴を飲み込んで畳の上に椀を叩きつけた。
まだ豆腐やらの具が動きそうな気がして踏みつける。
畳の上でぐちゃぐちゃになった吸い物が、まるで生肉を踏みつけたように、ぐちゃ、にちゃと悲鳴を上げるのも聞こえない。動きを封じないと、殺される。頭の中に警報が鳴り続けて、無言のまま踏み荒らす。
心拍も呼吸もまるで落ち着かない。
怖い。怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
なんとかしなければ。逃げなければ。相手を始末してでも逃げなければ。
でないと殺されて仕舞う。二人みたいに殺されるのは嫌だ。
昂った脳に突き刺さった泣き声。
後ろにいる。
きっ、と振り返った悠人が見たのは、黒いワンピース姿の少女だった。
怯えて震えながら、しゃくり上げている。その肩を守るように抱いているのは母親か。
皆が恐ろしい物を見る目で遠巻きに悠人を見ていた。若者も年寄りも男も女も皆怯えていた。
「ち、がう……」
違う。自分は何もしていない。
だって……いや、吸い物から化物が出て来たなんて、狂人でしかない。
さぁ、と血の気が引いて、視線の輪から逃れるように庭へ転がりでる。
走って走って、一体何処へ行こうというのか。
こんな辺鄙な場所で、自分は何を。
もう悠人には分からなかった。
前後不覚で、息も切れ切れにただひた走る。
もう肺が爆発しそうになって足を止めた時、悠人はぞっとした。
そこは、幼い日に遊び場とした、あの神社の前だったのだ。
何かに呼ばれているのかもしれない。
上へ、吸い込まれるように伸びている階段を一歩、踏みしめる。
ここまで靴も履かずに走ってきたというのに、不思議と足の痛みは感じない。
ひんやりした石段を靴下越しに感じながら、ふらふらとまた、一歩を踏み出す。
もうすぐ境内。ひらり、と踊る薄桃色のワンピースの幻想がちらつく。もう、誰もいないのに。
幼い頃はだだっ広く感じた境内も、今見るとこじんまりして見える。
鳥居を潜ってすぐにある申し訳程度の手水舎。阿吽の狛犬。古ぼけた拝殿。全部箱庭みたいだ。
じゃり、と足元で砂が鳴く。
懐かしい。
神木の幹に触れる。「おとしおとし」をする時はいつも、オニはこの巨木の幹の前で屈んでいた。
境内一杯を走り回って、開いている事なんて無い社務所の前を通って、オニを交替して。
幼い頃にきらきらした思い出が、なんでこんな事になって仕舞ったのだろう。
感傷に浸りかけた思考を引き戻したのは、どん、という大きな音だった。
思わず肩が跳ねる。恐る恐る振り返る。境内の隅にある倉庫の扉が風で揺れていた。普段は南京錠で確りと施錠されているはずなのに。
ごくり、と息を飲んで悠人はゆっくりと一歩ずつ脚を踏み出す。
倉庫の中には様々な物が雑多に詰め込まれていた。
樹々の剪定に使うらしい鋏や掃除用具、太鼓などの祭祀関係の品、それに日用品のような物まである。恐らくは神主が住み込みだった頃の遺物だろう。月明りの中で薄ぼんやりと佇むそれらは、其処にあるだけで不気味だった。それに、奥は全く見えない。
もう出ようか、と思った矢先、手に何か触れた。懐中電灯。誂えたようなタイミングにぞくり、とするがここまできたらもう此れくらいで恐れてはいられない。
古ぼけた懐中電灯を手に取る。付かないでいてくれたら、と一瞬願うが、見た目に反して手の中の機械は強い光を倉庫内へと投げた。
思っていたより、奥行きがある。
足元に注意をしながら進む。
壁に、木の板がかかっていた。
墨で文字が書かれているが、うまく見えない。
適当に転がっていた木箱に乗りあがって灯りを近づける。
暗い中で、掠れた手書きの墨文字を読む。骨の折れる作業だ。じっくり拾って、読み上げて。
――そのまま、へたりこんだ。
あの歌が、書いてあった。
堕とし堕とし
水の子血の子
針突いてとんとん
鶏鳴いたら終わり
腹減った
「……そういうことかよ」
こんな歌で遊んでいたのだ。呪われて当然だったのだ。
禍々(まがまが)しい。これは遊び唄なんかじゃぁない。
水の子は水子の事だろう。血の子は堕としと合わせて血堕とし、堕胎の事だ。
針突いて、はあの老婆が語った毒を塗った針の事か。そして秘密の商売は夜だけ。鶏の鳴く朝には終わり。腹減った、は女の膨れた胎が赤子を流して引っ込む事だろう。
堕胎・間引きが禁止されてから作られた商い歌だ。
自分たちは、何も知らずにこの村の暗い歴史で遊んでいた。
こんなモノ、あの祠と合わせれば、祟りを信じない人間でもどうなるか分かるというものだ。
実際、祟りは起きた。
15年前あきちゃん。
15年前から今まではきぃちゃんの傍に。
そして……今は悠人の隣にひぃ様がいる。
ぶるり、と身を震わせて悠人は倉庫から転がり出た。
もう、足元を気にする余裕もない。
何か、何かこの呪いを断つ方法は無いか。
ふ、と月明りが曇った。
厚い雲が上空を流れていく。
そして、ゆっくり月が姿を現わした。
まるで悠人を笑うように、再び現れた月明りが煌々(こうこう)と照らしたのは拝殿の中で微笑む恵比寿様。
がっくり、と膝が折れた。
もう立っていることも出来なかった。
恵比寿は海の神。
その出自は、蛭子――形を持たぬ赤子。
こんな海の無い場所でこの神が祀られている理由なんて、もう分かり切っている。
ひぃ様、と呼ばれている時点で気付くべきだった。ひぃ様は蛭子様、つまり堕胎された子も、間引かれた子も、この寒村にとっては豊穣の神なのだ。
きぃちゃんも、この事実を知って仕舞ったのだろう。
神に祟られた自分にはもう助かる術は無いのだ、と。
だから、だから自ら命を絶った。毎日繰り返す恐怖に疲れ果てて。
次は、自分がそうなる。
悠人は身体を丸めて細かく身体を震わせた。
笑っているのか泣いているのか、もう自分でも分からない。
――朝、彼は自分を抱き締めたままの姿で村人に発見された。
――その姿はまるで胎児のようだったという。




