裏の顔
一時間後。
悠人は倉田家の座敷にいた。
これ以上の事は、自力では調べられない。誰かに聞くなら、今朝話しかけてきたあの老女しかいないと思った。封印していたせいか、15年も経っているというのに、全く記憶は色褪せていない。あきちゃんの家までは迷わずに歩いて来られた。
「民俗学の課題で、ご年配の方に村の伝承とかを聞いてまして……」
偽りの訪問理由は、特に疑われることもなく、座敷に通された。
もうじきに、あの老女が此処にくる。
出された麦茶の中で氷が融けて、音を立てる。
古めかしい振り子時計が重々しく時を刻む。
酷く時間の流れが遅く感じる。何時間も待ったような気がしたが、実際は数分の事だったはずだ。
みしりと板張りの廊下の軋む音に、思わず背筋が伸びた。
微かに金属の擦れる音。彼女が、来る。暑さとはまた別の汗が額に浮く。
女性―恐らく今朝車椅子を押していたのと同一人物だろう―の声がして、す、っと襖が開く。
老女の腰かけた車椅子がゆっくり座敷に入ってくる。入り切ったところで、襖はまた閉ざされた。
「ひぃ様の事じゃろう?」
嗄れた声でくつくつと、笑いながら、老婆は枯れ枝のような腕で肘掛をむんずと掴んで、震えながら身体を持ち上げた。
あ、と思った時には遅かった。
腕の力が負けたのだろう。痩せた身体が畳の上に崩れる。悠人は慌てて助け起こそうと立ち上がったが、顔を上げた彼女の眼力に縫い留められて仕舞った。
「何を知りたい?」
伏したまま爛々とした目だけが悠人を見上げる
知らず、口が言葉を紡いだ。
「……祠の、絵を見ました」
「そうかい、そうかい」
質問を遮って、細い腕で畳に爪を立て立て、少しずつ、這うように、老婆が足元へ寄ってくる。
「お座り」
逆らえず畳の上に正座すると、悠人の膝を支えに老婆も身を起こした。
彼女の口から紡がれた内容は凡そ察していた物と相違なかった。しかし其れだけにショックも大きかった。心の何処かで、馬鹿な事、と笑い飛ばされる事を期待していたのかもしれない。
ここは冬になれば雪に閉ざされる村だ。
夏の実りが少なければ、冬は何も得るものがない。飢えるしか無い。飢えれば寒さに耐えられずに死んでいく。
何の運命の悪戯だろうか。
裏の山に自生する草に毒があると分かったのは、飢えた子が口にして死んだ日。
それから、この村はもう一つの顔を持つ事になった。
不義密通の奥方様、食い詰めた農民、孕み遊女をお客にしての堕胎と間引き。
毒草を煎じて針につけて女の胎に刺せば必ず子は流れ、産まれた赤ん坊の胸に刺せばあっという間に天に返せた。
最初は村を訪れた者相手の商売が、何時しか行商になり、毒草の煎じた物も良く売れた。
その度に、祠には地蔵が増えていく。
「昔々の話じゃあない。戦後も良く売れた」
敗戦後、米国兵士を相手に身売りをする女。
混乱した世情で男に襲われ望まぬ子を宿す女。
兵隊に取られた亭主が帰ってくるというのに腹の膨れた女。
そんな女たちは子を産む金も中絶する金も無い。
そうして、また地蔵が増える。
「そんな子らが集まってひぃ様になったんだ。
あたしの姉もなぁ、昔ひぃ様と遊んで連れて行かれた」
長く語って疲れたのだろうか、彼女は深く息を吐く。濁った眼がぼんやりと虚空を見遣る。
その姿は何か、先ほどまでより一回り程彼女が小さくなったように思われた。
声を掛けよう、と悠人が口を開きかけた時、膝が酷く痛んで目線を下げる。
老婆の手が強く膝を掴んでいた。瞳は虚空を見たままだ。
「あきも、針道の坊やもひぃ様の御許じゃ。
お前も逃げられはせんぞ」
ぐるり、と濁った眼が悠人を睨みつける。とても、正気の人間の眼では無かった。
「楽しみじゃなぁ、ひぃさま」
がくん、と首が落ちて、そのまま老婆その場に倒れ込んだ。急いで家人を呼ぶ。バタバタと運ばれていく姿を追おうとしたが、二人の女性に抓み出されるような恰好で帰宅を余儀なくされた。
きぃちゃんの通夜も近い。気にはなったが、仕方なく畦道を辿る。
「あ」
靴紐が、解けた。
結びなおそう、と屈んで悠人は思わず叫んだ。
カーキ色のハーフパンツの裾から覗いた膝小僧。先ほど老婆に掴まれた其処に、くっきり手形が付いていた。
赤ん坊の物のような、小さな小さな手形が。