老婆
結局、悠人は縁側で夜を明かした。
わざわざ蒲団に運んでくれたのに申し訳ないとは思ったが、とてもあの部屋に戻って眠る気にはなれなかったのだ。幸い夏場だったから身体を冷やす事はなかった。しかし、固い床に座ったままで眠ったから、節々は痛い。
縮こまった関節を伸ばそうと、立ちあがる。昨日は暗くて分からなかったが、縁側の外は立派な庭だった。確か、前に来た時には、この辺りから外に出られたが……と窓の外を覗き込むように歩くと、やはりあった。男女誰でも履けるような、つっかけ。
本当に、自分は此処にいたのだ。
一晩経って、少し冷静になってみると、奇妙な心地がした。欠けて仕舞っていた自分の一部分が未だ馴染まないような、現実感の無い浮遊感に似た感覚。
あきちゃんが死んで仕舞った事を思い出した事も大きな要因だと思う。
ふと、今耳元で目覚ましが鳴ってくれないか、と空想する。目覚めたら自分の暮らすアパートで全部夢だったのなら……。
「いてっ」
思い切り自分の頬を抓って悠人は顔を顰めた。
間違いなく、全て現実なのだと、ひりひりする頬が突きつける。痛みを訴える箇所を掌で摩りながら、窓のクレセント錠をはずし、開け放つ。寒村だからだろうか、朝の空気は都会よりずっとひんやりと感じた。混乱と恐怖で疲れ切った脳に新鮮な空気が染み渡る。庭をゆっくり散策すれば、嫌な事も洗い流せそうな清々しい朝。つっかけに足を突っ込んで、一歩踏み出してみる。
きぃちゃんが好きだった花、一緒に蝉を獲った木、縁側で食べた西瓜。
――幼い日の幻像が庭を横切った。
薄情にも昨日まで全く忘れていた癖に、思い出すと急に切なくなった。たった数ヶ月だけれど本当に仲の良い友だった。
でも、せっかく思い出した彼は、もうこの世にいない。
この15年、君に一体何があった?
君はなんで死んで仕舞った?
行き場の無い問いかけが幻像と一緒に朝日の中に消えていく。
気付いた時には庭の端まで歩いてきていた。
少し寒い。もう母屋に戻ろうかと思った時、思わず身体が硬くなった。
きぃぃ、と固い音を立てる車椅子に腰かけた老婆の姿が目の端に映ったからだ。
一瞬、脳裏に昨晩の赤子の姿をした化物が蘇る。だが、老婆の後には、車椅子を押す女の姿があった。生きている人間だ。失礼だが、思わずほっと息をついた。
母屋へ一歩を踏み出す。
「ねぇ」
嗄れた声で呼び止められたのは、その時だった。
「ひぃ様が憑いてるよ」
真っ直ぐに此方を射抜く視線に足が竦む。
老婆がにっかり、欠けた歯を晒して笑った。
「ひぃ様が笑っとる」
「倉田さん、駄目よ」
車椅子を押していた女性に助けられて、悠人はやっと自分が息を詰めていた事に気付いた。
なんとか、唇を動かして酸素を肺に取り込む。
「ごめんなさい、気にしないでね?
お孫さんを亡くされてから、少し……」
女性は労わるように老婆の髪を梳いて、一礼するとゆっくり遠ざかっていく。
孫を亡くした……。
そうだ、確か、あきちゃんの名前は倉田秋奈といわなかっただろうか?




