夢と現の夜
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じりじりと皮膚を焼く日差し。
肌を流れる汗。何処か遠くで鳴る風鈴。
悠人の前に、自分よりほんの少し大きな背中があった。
「きぃちゃん、まってよ!」
伸ばした手がぎゅ、と握られられた。
振り返った少年は眼鏡のよく似合う顔でにっと笑った。
「はやくいくぞ」
手を繋いで、砂利を蹴飛ばして、畦道を走る。
森に入って、階段を上って。向かう先は神社の境内。
其処が何時もの集合場所。
薄桃色のワンピースの裾が視界で踊った。
「あきちゃん!」
「おまたせ!」
あきちゃんは村の子だった。透き通るような白い肌にくりくりと大きな瞳のお人形みたいな女の子。
子ども自体が少ないし、遊びにも乏しい村だったから、3人は何時も一緒だった。
特に「おとしおとし」をするのが、この頃は楽しくて仕方なかった。
「おとしおとし」はこの村に伝わる、「かごめかごめ」と「だるまさんがころんだ」を足したような遊びだ。
ルールは簡単。まずはオニを決める。
その日最初のオニは悠人だった。
目を瞑って地面に蹲る。
「おとしおとし
みずのこちのこ」
あきちゃんときぃちゃんが歌いながら近づいてくる。
「はりついてとんとん」
肩が叩かれた。
「こっこないたらおわり
はらへった」
歌いながら逃げ出す二人を追いかける。
自分の肩を叩いたと思う方を捕まえて、当たっていたらオニは交替。はずれていたらもう一回。
たったそれだけの簡単な遊びだけれど、3人揃ったら夢中になって遊んでいた。
その日も、そうやって境内で日暮れまで遊ぶ、はずだった。
「ねぇ、しってる?」
あきちゃんが「おばあちゃんから、きいたの」と話し出す前は。
絶対に村の手前にある祠をオニにして「おとしおとし」をしてはいけない。恐ろしい事が起こるから。
その話をするあきちゃんの眼は輝いていた。
まだ幼い子どもだった自分たちは【恐ろしい】の本当の意味は何も分かっていなかった。
「やってみよう!」
多分、きぃちゃんも自分も、彼女が好きだった。
だから、少しでもあきちゃんにかっこいいところを見せたい、なんて気持ちもあったのだと思う。
きぃちゃんが先頭に立って3人は階段を下って、森を抜けて、祠を目指した。
着いた頃には少し日が傾いて、辺りは不気味だったけれど、何が起こるか好奇心もあって3人で祠の後ろに並んだ。
「おとしおとし」
歌いながら近づいていく。
黒く煤けたような祠が段々と近づいてくる。
「とんとん」
と、祠を叩いたのはあきちゃんの白い手だった。
歌いながら3人バラバラに逃げた。
何も、起こらなかった。
「なんだよ」
詰まらなそうに言ったきぃちゃん。
「ほんとうだね」
ほっとしたような気持ちで悠人は笑って頷いた。
けれど、あきちゃんは何時まで待っても決めていた集合場所に来なかった。
神社や、良く遊ぶ場所、あきちゃんの家にも行ったけれどいなかった。
日が沈んでから村の大人たちが懐中電灯を手に手にあきちゃんを探した。
裏の山も、森の中も、田んぼやみんなの家まで探して。
見つかったあきちゃんは冷たくなっていた。
山の上の溜め池に浮かんでいたらしい。
誰かが言った。「あんなところ、子ども一人で行けるはずもないのに」と。
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は、っと目が覚めた。
心臓が痛いくらいに脈を打っている。
水でも浴びたように汗をかいていて気持ち悪い。
夢?
いや違う。アレは記憶だ。
本当にあった事だ。あの後直ぐにこの村を離れた悠人は村での記憶の全てに蓋をした。
禁忌を破ったせいで、あきちゃんが死んだ。その後ろめたさと恐ろしさが幼い心には重すぎたから。
何度も深く息をする。やっと心臓が落ち着いた。
段々に呼吸が整って、やっと周りを見る余裕が出来た。如何やら自分は今蒲団に寝かされているらしい。人の気配も無いから、きっと針道家の数ある部屋の一つだろう。倒れたのを見て、誰かが運んでくれたのだろうか。お礼を言わないといけない。あと、できれば水が欲しい。からからに干乾びた喉が貼り付いて気持ち悪い。
起き上がろう。
身体に力を込めて凍り付く。
身体が動かない。指の先だってぴくりともしない。
金縛りだ、と思うと余計に身体の芯が冷えた。
その時。
部屋の空気がビリビリと震えるような【声】がした。
その【声】が最初何か分からなかった。
徐々に形を持つ【声】。
其れは火の付いたように泣き叫ぶ赤ん坊の【声】。
何処から、と思った途端、どすん、と何かが腹の上に落ちた。
見たくない、と思うのに目がそちらへ向いて仕舞う。
腹の上にソレはいた。
両の掌に収まって仕舞いそうな小さな身体。不釣り合いに大きな頭。影は何の変哲も無い赤ん坊だった。
だが、腹の上のソレたった今産み落とされたかのように血に塗れて、嗤っていた。
まだ開いていない目を無理から弓のように捻じ曲げ、耳まで裂けたような歪な唇から「おんぎゃぁああああ!おんぎゃぁあああっ!」と凄まじい泣き声が零れている。その【声】はじわじわと大きさを増していく。何人もの赤ん坊の声が重なり合っているのだ。
おぞましい形相の、化け物。
ずるり、ずりゅ。引き摺るような音を立てて此方に、来る。
逃げたいのに身体は動かない。
汗の滲む手足に何か触れた。
手、だった。氷のように冷たい、無数の手だった。
「うわあぁぁあああああああ!」
思わず腹の底から叫んだ拍子に金縛りが解けた。
蒲団を蹴飛ばして転がり出る。畳を這って、雪見障子を開け放って、縁側へまろび出る。
縁側は何事も無かったように伸びていた。
夏の湿った熱気がむわり、と悠人の頬を撫でる。
何でもない現実的光景に安堵して、縁側に四つん這いになったまま荒く息を付く。身体は未だ震えていて、全く止まらない。あまりにも生々しくて、とても夢とは思えなかった。部屋を振り返る事すら恐ろしい。
「いったい、なんなんだよ……」
窓硝子越しに冷たい月を見上げて悠人はただ途方に暮れた。