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空白の薬指

シェイラと一緒にお忍びで街に出かけた。別に用事などない。シェイラの気まぐれだ。シェイラはあちこちの露店を覗いてははしゃいでいる。その無邪気な様子は微笑ましい気持ちを起こさせる。シェイラは幼馴染だった頃から、賑やかなところが好きだったから。メリッサ母上に連れられて一緒に蚤の市に出かけた思い出などをひっそりと思い出す。

色々な露店を覗いているとばったりとロレッタ嬢と出くわした。ロレッタ嬢も今日は平民姿であるようだ。手入れの行き届いた美しさと上品さは全く隠せていないけど。

ロレッタ嬢にお会いすると先日のことが思い出されてしまう。恋人のいらっしゃるロレッタ嬢。僕が可愛いと思っても無駄な相手。


「ロレッタ嬢、刺繍糸を購入されていたのですか?」


僕の心の内には複雑なものがあるが、折角お会いしたというのに露骨に嫌な態度をとるのも気が咎めて、友好的に接してみた。

刺繍糸を並べている露店に代金を払っているように見えた。


「見てわからない?(訳:そうよ)」


くだらないことを聞くな、という意味だろうか。


「刺繍はお得意ですか?」

「あまり上手くはないわ(訳:普通の腕前よ)」

「僕の妹は中々上手なのですよ」


シェイラは手先の器用な娘だ。料理や針仕事など、とても上手にこなす。シェイラは僕に褒められて嬉しそうに笑った。


「お兄様。今度お兄様のハンカチに刺繍を入れて差し上げるわ」


シェイラがはしゃいで僕の袖を引いた。


「有難う、シェイラ。ではシェイラもここで糸を買っていくかい?」


おねだりなら買ってあげてもいい。シェイラは露店の刺繍糸を見た。


「お兄様、こんな茶色の糸ばかりでは、枯れ葉しか刺繍できませんわ」


確かにこの露店に並んでいるのはどれも渋い色合いの糸ばかりだ。シェイラに指摘された露天商が悲しそうな顔をした。


「それはシェイラ様にセンスがないだけですわ(訳:こちらの糸は十分素敵よ)」


ロレッタ嬢はシェイラを貶した…………ように見せかけて、本当のところは悲しい顔をした露天商を庇っただけではないだろうか。


「まあ、ではお手本を見せてくださる? ところでわたくし、あなたのこと存じ上げないのですけれど」


シェイラは可愛らしく小首を傾げた。確かに自己紹介も交わしていない相手に話しかけるのは礼を欠いた行為だ。

ロレッタ嬢が恥じ入ったような表情をされた。マナー違反をしたご自分を恥じているのかもしれない。


「ロレッタ・シェルガムと申しますわ」

「シェイラ・パルテルですわ、こちらの露店で買った糸だけを使って刺繍してみせてくださいな。お兄様がお貸ししているハンカチがあるから丁度良いでしょう?」


ロレッタ嬢が僕を見たので頷いた。


「ロレッタ様のセンスを拝見いたしましょう。ハンカチは刺繍して返してください」

「わかりましたわ」


ロレッタ嬢の刺繍のハンカチを手にできると思ったら心が少し浮ついた。ロレッタ嬢には心に決めた相手がいるというのに。本当に男というのは単純なものだ。


「わたくしもお兄様に刺繍のハンカチを差し上げますね」

「有難う、シェイラ」


シェイラの優しい気遣いに微笑んだ。


「兄離れできない妹と、妹離れできない兄ですのね(訳:仲が良いのね)」


兄妹の仲の良さを悪意を持ってあげつらわれてムッとした。兄妹仲が良いことのどこが悪いというのか。仲が悪いよりいい方が良いではないか。


「ロレッタ様、もしかしてそれはヤキモチですの?」


そんなはずはない…と思っていた僕の心に反してロレッタ嬢はさっと頬を赤く染め、シェイラを睨んでいる。まるで本当に嫉妬しているかのように。

シェイラは怯えた表情で僕に縋っている。シェイラは心のか弱い娘だから、ロレッタ嬢に睨まれて委縮してしまったのだろう。僕はロレッタ嬢に反感を……持たなかった。

嫉妬してくださったのかもしれないと思うとふわふわと心が浮ついた。


「……ロレッタ嬢は僕にヤキモチを…」

「待たせたな、ロレッタ!」


「妬いていたのですか?」と問いかけようとしたところで元気のよい男性の声が割り込んできた。赤毛の中々の美男子。以前夜会でロレッタ嬢の腰を抱いていた男性だと気がついて鼻白んだ。ロレッタ嬢は今日は一人でお出かけしていたわけではなく、この男性とデートを楽しんでいたのだ…そう思ったら心がささくれだった。


「これ、ロレッタの分な」


男性は手に持ったクレープの片方をロレッタ嬢に渡した。


「食べながら歩こうぜ?」

「お行儀が悪いですわ」


二人は至って親しげな様子。嫉妬に駆られて険しい顔をしてしまう。

ロレッタ嬢に当てつけるようにシェイラを引き寄せて撫でた。「僕にだって親しい女性はいるのだぞ」と。それがただの妹だと思うとなんとも情けないが。シェイラは嬉しそうに、恥ずかしそうにはにかんで、頬を桜色に染めた。当てつけに使ってしまったので、純粋に喜ばれるとなんとも申し訳ない気持ちになる。


「シェイラ、僕らもクレープを食べようか? シェイラの好きなカスタードのクレープがあるかもしれないよ」

「はい! お兄様」


シェイラは上機嫌に自分の腕を僕の腕に絡めた。


「それでは、失礼するよ、ロレッタ嬢。刺繍は、出来たら、先触れを出してディナトール家までお持ちください。お茶くらいはご馳走します」

「ええ」


ロレッタ嬢に当てつけるためにシェイラを使ってしまったお詫びに、今日はシェイラのおねだりを沢山叶えてあげよう。……お金足りるかな?

ロレッタ嬢に心に決めたお相手がいるのならきちんと諦めて、別の女性に視線を向けるべきだとは思うけど……ロレッタ嬢が可愛いのだ。今日のヤキモチ(?)を指摘されて恥ずかしがって怒った様子など、とても可愛かった。

奪う…という選択肢はあるのだろうか。恋人がいるような口ぶりではあったけれど、ロレッタ嬢の左手の薬指に指輪はない。まだ誰ともご婚約はされていないのだろう。奪う…その思考が頭から離れない。



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