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紅き天使の黙示録  作者: 碧亜
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第一章 -3- 脱走

 ラグナの手をとって立ち上がり、ラキエルは天井を仰いだ。


 壁の高い位置に取り付けられた小さな窓から、陽の光が差し込んでいる。窓には牢を囲う柵と同じものが取り付けられていて、とてもそこからの脱出は叶いそうにない。がらりとした鉄の檻の出口は、分厚い錠がかけられていた。身一つで放り込まれたラキエルに、それを外す術はない。


 脱出といってもどうすれば良いのか、ラキエルには見当も付かない。


 隣の牢にいるラグナに視線を向けると、彼は口元に手を当てて、何か考え込んでいるようだった。


「どうやって出るんだ?」


 ラグナは眉間に皺を寄せて小さく唸ってから、目線を上げた。


「いや、出るのは簡単なんだけどな」


 ラグナは手に持っていた十字を象った杖を肩にかけて、両手の指を複雑に絡ませて呪を呼ぶ印を切る。印を切った指先に微かな光が零れたかと思うと、ラグナの身体が淡く霞む。するとラグナの姿が柔らかな光にほどけるようにして消えた。


 まるで、最初からそこには何も存在していなかったように。


 ラキエルが瞬きをする間もなく、次の瞬間ラグナは音も無く牢の外側へ移動していた。


「まあ、こんな感じでな」


 身体を広げて見せて、ラグナは余裕ぶった口調で言う。


「あんたも出してやれるけど……白昼どうどうと脱走なんかしてみろ。神殿から出る前に捕まるぞ」


 オレ一人なら逃げられるけどな、と付け足してラグナは不適に微笑んだ。


 さもラキエルの事をお荷物と言いたげな口調に、ラキエルは表情を険しくする。逃げるに関しては百戦錬磨のラグナから見れば、ラキエルが頼りなく見えるのは致し方ない。けれど、あからさまに足手まといだと決め付けられるのは、ラキエルとしても面白くない。


 鉄の柵を両手で掴み、ラキエルは一歩ラグナに詰め寄る。それに気付いたラグナは、ラキエルに止まれとでも言うように、手を前に差し出した。


「怒るなって。別にあんたがお荷物だなんて言ってねぇだろ」


 琥珀色の瞳を細めて、ラグナがラキエルを見据える。


 心を読まれたかのような言葉を耳にして、ラキエルは開いた口を閉じた。ラグナを訝しむように見つめる。ラグナは軽く息を吐いて、呆れたといった感じで肩を竦めた。


「あんたさぁ、口数が少ない割りに分かりやすいよな。そんなんだから、朝みたいに絡まれて騒動にまで発展するんだよ。そういう性格は悪くないけど、面倒に巻き込まれるぜ?」


「……そうなのか?」


 ラキエルは自分なりに、感情的にならないようにと努めてきたつもりだ。感情的になるのは心の未熟さ故と己を叱咤し、余計な事を口走らぬようにと極力声を押し殺してきた。


 だが、ラグナにはラキエルの行動がお見通しのようだ。ラグナが何か特殊な力を使ったのかと思ったが、そうでもないらしい。ラグナは何か術を使う時、呪文を唱えるか指で呪印を描いている。それは魔術を使うために必要な事項であり、それを欠かしての魔術発動は特殊な例を除いてありえない。世の中には心を覗き見る術もあるらしいが、酷く高度な術であり、長い詠唱を必要とされている。月の女神の寵愛を得ているラグナといえども、かんたんに扱えるものではないだろう。


「ああ、典型的な直情径行だな。思ってる事がすぐに顔に出る」


「……おまえは分かり難い」


 ラキエルが不満げに呟くと、ラグナは満足そうに笑った。


 ラグナの笑顔は楽しそうだが、どこか馬鹿にしているようにも見える。その表情だけでは、何を思っているのか分からない。口数が多くお喋りなラグナは、見かけに反して感情を曝け出さない。ラキエルよりもずっと。笑顔を表面に貼り付けて、その下に隠れている思惑を欠片も外へ出さないのだ。


 そう言えば、ラグナに関しての噂で、彼がよく嘘を吐くというのも有名だ。誰かを騙しては喜んで、腹を抱えて笑う愉快犯だと聞いた事がある。ふと思い起こし、ラキエルの脳裏に悪夢めいた予想が浮かぶ。


 押し黙りラグナを見つめるラキエルの様子に、やはりラグナは笑うだけだった。


「安心しろって。オレはあんたをからかうためにここにいるんじゃない。それだけは本当だ」


「おまえの言葉は嘘くさい。……でも信じるよ。どの道、おまえがいなければ、ここから出る事も出来ないみたいだからな」


 一人だけでは牢から出る事も叶わない今、頼みの綱は目の前で笑っている問題児だけだ。彼の魔術無しに、牢獄からの脱出は不可能に近い。


 ラキエルは魔術が得意でなかった。


 まだ若いせいというのも多少はあるが、基礎魔術の多くは習っている。けれどそれを思い通りに使いこなすまで至らないのだ。真面目に勉学に励んではきたが、努力だけではどうにもならない事もあるのだ。実際、語学や古代語、武術や歴史、精神学や哲学などの方面は優等生を演じてきたが、魔術と法力だけは落第寸前の成績しか残せていない。


 それに比べ、ラグナはどうだろう。真面目に講義に出た事など無いだろうに、彼はいともかんたんに高度とされている移動魔術を使ってみせた。彼が神殿を預かる責任者ディエルをことごとく出し抜いてきたのも、運だけではないはずだ。


 ラグナの協力があれば、ラキエルもこの牢獄から出れる。けれど今は、ラグナの力無しにここから出るなど、無理な話なのである。ラキエルにはラグナを信じるより他に道は無い。


「ここからは出してやるさ。でも、逃げるのは夜だ。昼は天使どもが徘徊してるし、あんたがまた神殿の奴らに絡まれたりしても厄介だからな」


「じゃあ、それまでここに隠れているのか?」


「ああ。あんたはここで静かにしてればいい。オレは外の様子を見てくる。夜になったら迎えに来るから、それまでは寝たふりしてろ」


「なんでふりなんだ?」


 寝てろとは言わないラグナの言葉に疑問を持ち、ラキエルは尋ねる。


「またここにじじぃが来たとして、あんたが嘘を吐き続けられるか怪しいからな。じじぃなら寝てる奴を起こそうとはしないだろ。だからって本当に眠って、オレに起こす手間を掛けさせんな」


 実に自分本位答えを返され、ラキエルは閉口した。


 なるほど、これではディエルも頭を抱えるわけだ。ラグナはわざと相手を怒らせるような言葉を投げては、その反応を楽しんでいるのだ。そんなラグナの言動にいちいち言い返していては、ラキエルの方が参ってしまう。


 あえてラグナの言葉を無視して、ラキエルは軽く頷いた。


 壁際まで下がるとそのまま床へと腰を下ろす。それを見届けたラグナは一瞬つまらなそうに瞳を細めた。


「じゃ、また後でな。寝てたら置いていくからな」


 ひらりと手を振って、ラグナは牢獄の出口へすたすたと出て行く。黒衣で身を包んだ三枚羽の天使は、突き当たりの壁にぽっかりと大口をあけている暗い回廊へ、飲み込まれるようにして消えた。


 再び薄暗い牢獄に静寂が満ちて、ラキエルは身体から力を抜く。


 薄い法衣越しに感じるひんやりとした石の感触が、今は心地よい。


 ほんの少しの間に運命が二度も転向し、命の危機に陥っているなどとは思えないほど、心は静かであった。


 ラグナの思惑は未だに理解しかねるが、彼の差し伸べた手を掴んでしまった今、後戻りをする気にはなれなかった。


 運命に委ねようと思っていたこの命。生きながらえさせた先に何があるのかは、ラキエルにも分からない。ただ、生きていたいという思いだけで、茨の道を選んだ。それが正しいとは思わない。過ちを犯そうとしているのも、十分に理解しているつもりだ。けれど、負い目を感じるのと同じだけ、生への願いが存在している。


 最終的に、罪悪感よりも生への執着が勝ってしまった。


 ただ、それだけだ。


「……天に坐す我らが母よ、我が愚かな決断をお許し下さい」


 瞳を伏せて、ラキエルは最後の祈りの言葉を紡ぐ。


 幾千も昔に大地と共に眠りについた太古の神々へ、届かぬと知りながらも許しを請うた。罪無き罰を背負い空へ還るより、神より与えられたこの命を生かす道を選ぶ傲慢さを、どうか優しく見届け給え。


 紅い煌きを持つ瞳で窓より差し込む光を見つめ、ラキエルは瞼を下ろした。


◆◇◆◇◆


 黒塗りされた闇に、ひとしずくの透明な涙が零れた。


 雫は音も無く、漆黒の深淵にかき消されるようにして消える。


 右も左も存在しない常闇の中には天と地の理も無く、重力すらも感じさせない。濃い闇は霧のようで、触れる事無くただ全てを黒く染め上げている。


 暗くわびしい空間だった。


 その中で、一人の娘が泣いていた。


 一人きりの寂しさを儚んで、取り残される悲しみを涙に代えて。


 娘は真珠色の頬に透明な雫を零した。


 両手で瞳を覆い、娘は掠れて消え入りそうなほど小さい声で何かを囁く。薄紅色の薔薇の蕾に似た唇を震わせて、娘は叶わぬ願いを暗闇に向かい投げかけた。その声は悲哀に満ちていて、零れる涙は途切れる事無く永遠に悲しみだけを訴える。


 けれど何も存在しない闇の中では、誰も彼女に気付かない。


 澄んだ嘆きの声も、絶え間なく零れ落ちる透明な涙も、光すら届かない闇の中に飲み込まれて消えていく。


 今にも闇に溶けてしまいそうなその姿が、あまりにも憐れで、それを見ていた青年は手を伸ばした。


 しかし、頬を滑る涙を拭ってやろうとした手は届かなかった。


 娘は何かに縋るように、闇の彼方へ白く細い腕を伸ばす。


『――いかないで』


 か細く呟いて、娘はまた一筋涙を零した。


 水晶のように澄んだ雫は、闇に溶けて。


 娘の姿は闇の霧に包まれて消えた。


「……エル」


 一瞬のうちに闇が霧散して、視界が開けた。


 黒の残り香を振り払おうとまばたきを繰り返すと、薄暗い部屋の石壁が目に映る。


「おい、ラキエル」


 ぼやける意識を懸命に取り戻して、名を呼ぶ方へ目を向ける。


 ひどく身体が重く、思うとおりに動けない。声は背後から聞こえているのに、身体を後ろに向ける事が出来なかった。


「重い」


「あ? もう一回言ってみろ。ぶっ飛ばすぞ」


 振り降りてきた言葉を聞き、ラキエルははっとして身体を起こそうとした。けれど何か重量のあるものが背に乗りかかっているようで、立ち上がれずに勢い余って石の床に顎を打ち付ける。呻き声を押し殺し、ラキエルは顎を手で押さえた。


「お目覚めか、ラキエル」


 うつ伏せのラキエルの上に乗っているらしい誰かが、悠々とした声音で問いかける。


 同時に、背中に感じていた重みがさっと退いた。身体が解放されて、ラキエルは深く溜息を吐いた。


 己が気付かぬうちに、浅い眠りの世界に旅立っていたようだ。陽が傾き、赤みを帯びた陽光が牢を照らしていた頃までは記憶があった。だが、その後うつらうつらしているうちに意識を手放してしまったようだ。


 頭がぼんやりとしていて、黒と白の粒子が広がるような眩暈が目前を過ぎる。


 一度瞳を深く閉じて、再び目を開けた。


 自由になった身体を起こすと、すぐそばでラグナが立っていた。


 牢の中は一段と暗く、窓より一筋の光も入り込んでいない。それでも視界に不自由が無いのは、ラグナの杖の先端に淡い光が灯っていたからだろう。


「……もっとましな起こし方は無いのか」


 微かに痛む背骨をさすり、ラキエルは飄々としているラグナを睨みつけた。眠ってしまったラキエルも悪いが、このような起こし方はいただけない。


「爽やかな目覚めをご希望なら、オレより先に寝ない事だな」


 悪戯っぽい笑みを浮かべて、ラグナはご機嫌な様子で言う。


 ラキエルはもう一度、盛大な溜息を吐いた。


「さて、ラキエル。あんまりゆっくりしてる暇は無いみたいだぜ? 何でか知らねぇけど、じじぃがオレまで探し始めやがった。面倒な事にならないうちに、さっさと神殿から出るぞ」


 急に真面目な面持ちで、ラグナが切り出す。


 脱出劇を開始すると言っているが、ラグナが武器らしいものを手に持っている様子は無い。昼間と同じ、黒く染め上げた細身で裾の長い法衣に、十字を象った杖一本だけ。頭には防寒具としても防具としてもまるで役に立たないであろう、風変わりな帽子。身長を誤魔化すためと思われる厚底のブーツは、走る事に向いているとは思えない。


 あからさまな軽装のラグナをまじまじと見つめていると、ラグナは軽く鼻で笑った。


「一つだけ言っておこうか。オレは非戦闘要員だ」


「……は?」


 自信満々に告げられた言葉に、ラキエルは呆気に取られる。


「だから、オレは戦えねぇの。分かる? もし見つかって剣先突きつけられても、オレは何も出来ない」


 さも当然といわんばかりに、ラグナは強気な態度のまま豪語する。その勢いに飲まれかけながら、ラキエルはおずおずと問い返す。


「おまえは魔術を使えるんじゃないのか?」


 先程、様々な魔術を披露したラグナだ。今更「魔術が使えない」などの嘘を吐くのは不可能である。けれど至って真面目な面持ちのラグナは、短く一言だけを返した。


「オレの力は暴力沙汰には向かねぇんだ」


 無邪気な笑顔をラキエルに向けて、ラグナはラキエルの肩に手を置いた。


「つー訳で、あんたはオレを護衛しろ。道案内と応援だけはしてやるから」


 人に物を頼む態度とは思えない高慢な言葉に、ラキエルは言葉を詰まらせた。この男は一体何なのだろうか。罪人であるラキエルに脱出を持ちかけたり、高度な魔術を操るかと思えば、戦えないだの護衛しろだの。今一、ラキエルにはラグナの真意が読めない。


 それに、護衛しろといわれてもラキエルには先立つものが無い。武器らしい武器など持ってはいないし、体術に自信があるわけでもない。魔術も得意でないとくれば、戦闘能力はラグナと大して変わらない。


「武器も無しに行くって言うのか?」


 てっきりラグナが昼間のうちに脱出のための道具や武器を用意しているものだと思っていた。だが、細身の法衣に武器を隠しているとは思えないし、鞄も袋も見当たらない。つまり、文字通り身一つの状況だ。


 表情を曇らせるラキエルに対して、ラグナはけろりとした様子で答えた。


「まさか。あんたがやられたらオレにも被害が及ぶ。武器は考えてあるさ。ただ、とても持ち出せそうに無かったからな、これから拝借しに行こうと思ってる」


「演習用の剣か?」


「いや、そんなんじゃ心もとないだろ。あんたさ、確か剣術の成績は悪く無かったよな?」


 唐突に問われて、ラキエルは一度考える。


 武芸の科目の中では、ラキエルは剣術が一番得意だ。他に弓や槍などの武術科目が小分けしてあるが、そのどれよりも剣術の成績が高い。特別秀でているとまではいかないが、神殿の中ではそれなりの使い手だと評価されている。


「……ああ。でも剣をどこで手に入れるんだ?」


 武芸の実技演習の時には、飾り気も無ければ殺傷能力も低い質素な鉄製の剣を使う。それは神殿の武芸の間の倉庫に収められていて、必要時以外はディエルが鍵をかけてしまっている。神殿にある武器といえば、演習用のそれらだけだ。


 演習用の剣でさえ手に入れるのが難しいというのに、それ以外のものをどこで調達するのか、ラキエルには見当もつかない。だがラグナは不適な笑みを浮かべて、大丈夫だと答えた。


「まぁ、説明するよりも目で見た方が早い。それに、あんま時間も無いからな。行こうぜ?」


 余裕たっぷりの態度にやや呆れつつ、ラキエルは静かに頷いた。


「まずは祈りの間に移動する。それから武器を取って、一気に時空の門まで行く。良いか?」


 時空の門とは天界から地上界へ降りるための唯一の扉だ。神殿より出て西に行った場所に門は存在する。多少の警備はあるだろうが、前に見学した時はそれほど厳重な警備ではなかった。門より出てしまえば、警備の者も追っては来ないだろう。天界より地上に行くのは、たとえ緊急事態であろうとも御法度なのだ。


 許可無く門より出て行くのは、天への反逆でしかない。


 今度こそ本当に、罪を犯すのだ。


 けれどもう、後戻りは出来ない。戻っても死が待つだけだ。


 微かな罪悪感が心を刺した。だがラキエルは深く頷いて、ラグナを見据える。もうやめる気は無いと、無言のままラキエルは答えた。


 ラグナはラキエルの意を汲み取り、こくりと頷き返す。


「じゃ、行くぜ? 移動はあんまり良い気分はしないが、我慢しろ」


 ラグナはラキエルに向き直り、二人の間で印を結ぶ。小さく何かを呟くと、杖の先端に灯っていた光が消えた。暗闇の中で月のような琥珀色の瞳が浮かび、金色の光を帯びる。ゆっくりと瞼を閉じて、ラグナは一言呪を紡ぎ、慣れた手つきで印を切った。


 次の瞬間、暗闇の牢獄に静寂が戻る。


 雲の合間より出てきた月が、小さな窓より光を差し伸べたが、鉄の折の中には誰も照らし出されない。無人となった折は閑散としていて、不気味なまでに静かであった。


 誰もいなくなった牢獄に、透明な雫が一滴零れ落ちた。


 石の床に弾けて、雫は光の粒子に姿を変え、一瞬のうちに儚く消えた。


◆◇◆◇◆


 身体がとゆらゆらと不規則に揺れている気がした。


 蜘蛛の糸のように粘着質な空気が全身に纏わりつき、うまく呼吸が出来ず酷く息苦しい。瞳を開けても閉じても暗い闇ばかり。胃液が逆流する感覚に吐き気を催し、口元を抑えた。


 だがそれはすぐに過ぎ去り、代わりに天地がひっくり返ったような衝撃が頭から足まで走り抜けた。同時に暗く濃い闇は消えて、見覚えのある光景が広がる。


 丸い部屋だった。高い天井には繊細な紋様が彫られ、複雑な幾何学模様を刻んだ太い柱が降りている。高い壁の場所には色取り取りのステンドグラスが張り巡らされていた。大理石の床は黒く神秘的な雰囲気を醸し出す。奥には、太陽神をモチーフにした雄々しくも優しげな男の石像が、静かにラキエルを見下ろしていた。


 ラキエルの良く知る、祈りの間だ。


「移動成功。流石に二人まとめて長距離移動はしんどいわ」


 ラグナが身体を伸ばしながら部屋を見回す。


「ここからどこに行く?」


「ん? ああ。まずはそれを頂戴する」


 ラグナはすらりとした人差し指を石像の方に向けた。指先が示すそちらに視線を向けると、そこには太陽神の石像が存在している。


 滑らかな白い石を切り取って彫られた石像は美しく、堂々たる風格を持ち合わせていた。


「……石像を?」


 ありがたい太陽神の像とはいえ、今頂戴してもお荷物にしかならない。困惑するラキエルを一瞥し、ラグナは指先をもう少し高い位置へ移動させた。


「いや、あんなのいらねぇよ。石像の上だよ」


 言われて像より少し高い場所を仰ぐと、純白の壁に一振りの剣が飾られていた。


 片手で扱うにはいささか重そうな、刃の長い長剣だ。落ち着いた色合いの金の柄には細やかな浮き彫りがなされている。深い色合いの青玉の埋め込まれた鍔。鞘に収められているので刃を見ることは出来なかったが、素晴らしく美しい剣であった。


 それは、太陽神より天使に贈られたものだという。


「……まさかあれを盗る気じゃないだろうな?」


 神殿の中でもっとも貴重で大切なものを、盗むという気だろうか。


 いくらラグナであろうとも、そればかりは良心が留めてくれると信じて、黒衣の天使を見つめる。だがラグナは冷めた視線で剣を眺め、短く「そうだ」と答えた。


 ラグナの反応に、ラキエルはがくりと肩を落とす。


「ディエル様が決して触れるなと言っていたはずだ。他のものを探そう」


 そそくさと祈りの間を出ようとするラキエルの服を引っ張り、ラグナは剣を指差す。


「馬鹿言うな。時間がねぇんだよ。嫌なら牢に戻って潔く死ね」


「馬鹿を言ってるのはおまえだ! あの剣は特別だ。俺が触れていいものじゃない」


 太陽神より贈られた剣というのだから、名刀に間違いないだろう。だが、神に祈りを捧げる場所で盗みを働くなど、ラキエルの良心が許さない。天使にとってはもちろん、この剣はディエルにとっても大切なものだ。誰かが盗んだとなれば、あの優しい老天使は悲しむだろう。


 そんなラキエルの心知らず、ラグナはひょいっと翼をはばたかせて飛び上がる。


 制止しようとしたラキエルの手は届かず、ラグナは当然のように壁の剣を掴んだ。


「ラグナ!」


 ラキエルが非難の声を上げた。


 ラグナは楽しそうに笑いながらラキエルを振り返る。


 しかし、一瞬のうちに余裕ぶった表情が崩れた。


 突然手に持つ杖を振り上げて、同時に何かを叫ぶ。ラグナの前に薄く丸い硝子のようなものが浮かんだかと思うと、それは突然飛んできた白い光によって打ち砕かれた。


 鼓膜を突き破るような高い破裂音が響き、部屋の中に目も開けられないほどの光が爆発する。爆風がラキエルの元まで届き、ラキエルは顔面を庇いその場に伏せた。


「そこまでだ、ラグナ」


 聞き覚えのある厳格な声が、部屋の隅々まではっきりと響いた。


 その声を聞き、ラキエルは我が耳を疑った。恐らく空耳などではないそれは、ラキエルにとってもっとも聞き馴染んだ声だ。そして先程まで薄れていた後ろめたさが心に溢れる。


 現実から目を背けたたいと思いつつ、恐る恐る顔を上げて声のした方を見やった。


 部屋の入り口に、土煙の隙間から数人の天使の姿がちらついていた。


「天使様のくせに、祈りの間を破壊するのかよ」


 白い光を振り払い、ラグナが片手に剣を片手に杖を持ったまま、どこか刺々しい口調で叫んだ。ラキエルがラグナを仰ぐと、彼は傷一つ負っておらず、三枚の翼でしっかりと空に浮かんでいる。だが、ラグナの背後や周辺は酷く損なわれていた。ステンドグラスは砕け、白い壁は原型をとどめないほどに崩れている。全く容赦の無い攻撃に、ラキエルは絶句した。


「そなたを牢へぶち込むためならば、多少の犠牲も厭わん」


 爆風により舞い上がっていた塵煙がおさまり、祈りの間の入り口に立つ人物がはっきりと窺えた。長く鋭い槍を構えた数人の天使が後ろに控え、手前には純白の法衣を纏った天使が堂々と立っている。見間違えるはずも無い老天使ディエルが、静かにラグナを見つめていた。


「ご苦労な事だな。だけどオレはもう二度と牢に入る気はないんでね。あんた達のくだらないお遊びに付き合ってる暇は無いんだ」


 侮蔑を孕んだような声色で、突き放すようにラグナは言う。その表情に笑顔こそ存在しているが、どこか冷たい笑顔であった。


「……だからラキエルと共に脱走すると言う訳か。だが、そなた達を逃がすわけにはいかぬのだ。諦めよ」


「オレを出し抜ける自信があるんだったら、やってみろよ」


 にやりと微笑んで、ラグナは壁から取った剣をラキエルに放り投げた。


 急に投げつけられた剣を慌てて受け取り、ラキエルはラグナとディエルを交互に見やる。一触即発といった二人の様子に、どうする事もできずにただ押し黙る。


「ラキエル……、何故この愚か者の手を取った?」


 視線はラグナに向けたまま、ディエルはラキエルに問いかけた。


 ラキエルは手にした剣に視線を落とす。何と応えてよいのか分からず、ディエルの目を見ないようにと勤めた。


「ラキエル、じじぃの戯言なんか聞くな。……くそじじぃ、何でもかんでも思い通りになると思ったら大間違いだ。どんな優等生でも、一歩道を踏み外せば変わるもんさ。こいつはもう、あんたに従順な天使じゃない」


「そなたには聞いておらん。ラキエル、応えよ」


 ディエルの声がまるで、責めているように聞こえ、ラキエルは瞳を伏せた。


 逆らうつもりなど無かったはずだったのに。どうしてかラグナの手を取ってしまった。柵の合間より差し伸べられたその手を、振り払う事もできたはずであったのに。罪悪感も存在していた。けれど結局、ラキエルはディエルに背いてしまった。決してラグナが強要したわけではない。ただ、ラキエルがそう願ったのだ。


「……俺が生を望んだから。だから、ラグナが手を差し伸べてくれた」


 今までディエルの存在はラキエルの心の支えであった。けれど最後の最後で、ディエルはラキエルを救ってはくれなかった。見ず知らずのラグナだけが、ラキエルに生きるための道を示してくれた。その手に縋ってしまったのは、ラキエルの心の弱さ故なのかもしれない。けれど、今更後戻りはできないのだ。


「お許し下さい。……俺は、生きます」


 ゆっくりと立ち上がって、ラキエルは剣を鞘から抜いた。白銀の刀身が姿を現して、その鏡の如き刃に映った己の瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。


 剣の柄はぴたりと手に吸い付き、その巨大な刃に似合わず不思議なほど軽かった。使い心地を確かめるように一振りして、ラキエルは剣を構えた。


「ラキエル……、そなたは天を裏切ってはならぬ」


「しつこいぞ、じじぃ。諦めるのはあんただ」


 ラグナが鋭く一喝して、ラキエルの傍に降り立つ。


 ディエルは悲しげに瞳を伏せて、俯いた。誰にも聞き取れぬほど小さな声で何かを呟き、ディエルは胸に手を当てた。


 悲しげなディエルの様子に、ラキエルは心を抉り取られるような痛みを覚えた。ディエルが悪いわけではない。ただ、ラキエルの願うものと、ディエルの望むものが違ってしまったのだ。ラキエルはもう後ろに引く事はできないし、ディエルとて同じだろう。ラキエルにとってディエルは敬愛すべき者であり、恩師であり、父であった。その人を裏切るという事に、罪悪感が無いわけがない。


 鈍る決意を誤魔化そうと、ラキエルは深紅の瞳でディエルを見つめる。


 ディエルもまた、灰色の瞳で真っ直ぐにラキエルを捕らえていた。


「……ならば仕方が無かろう。この者達を捕らえよ。抵抗するならば、傷つけても構わん!」


 後ろに控えた天使たちに命じると、ディエルは手を上げた。


 それを合図に、武装した十人ほどの天使は、勢い良く祈りの間の中へ足を踏み入れる。鋭い穂先は真っ直ぐにラキエルに向けられている。


 ラキエルは剣を握る腕に力を込めた。


 相手は十人程度だが、対するこちらはラキエル一人だ。ラグナを護りながら戦えというには、あまりにも分が悪い。けれどこの場に逃げ道は無い。後ろは崩れた壁と、恐らく戦ってはくれないラグナ。前には怒涛の勢いで迫る天使達。


 槍先がラキエルの剣の届く位置まで近づき、ラキエルは覚悟を決めて剣を振り上げた。


『――やめて』


 風の鳴る音に混じり、小さな囁きが耳元を掠めた。


 はっとして動きを止めたラキエルに、異変が生じる。


 身体がふわりと浮き上がったような気がして、慌てて身をよじったが自由が利かない。薄い金色の膜状のものがラキエルを包み込み、宙へと浮かばせた。


 ラグナが移動魔術を使ったのかとも思ったが、先程とは違う。どこか包み込む優しさのようなものが感じられて、ラキエルは抵抗もせずに身を委ねた。


 目の前では槍を持った天使たちが驚愕に瞳を開き、呆然としていた。


 次第に眩い光が全身を包み、ラキエルは瞳を閉じた。


 光が一層濃く輝くと同時に、身体から重力が消えた。

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