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紅き天使の黙示録  作者: 碧亜
第三章
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-16- 天の裁き

 暗雲が空を覆い月の光を遮り、渓谷の街を暗くする。月明かりのない渓谷の街は暗闇に閉ざされて足元もおぼつかなかった。そんな中でも人々はゼルス軍の知らせを聞き、慌てふためきながらも避難する準備を進めていた。


 街の男たちは武具や投石用の岩を運び、街の防備を強固とすべく木と石で防護壁を組み立てる。準備をしてきたというセイの言葉通り、それらは迅速かつ手際よく進んだ。


 街が喧騒に包まれる中、セイの屋敷の一角で街の様子を伺っていたラグナは空を見上げた。


 空がやけに暗い。分厚い雲が月の光を遮っているだけだろうか。月の光の届く範囲ならば、夜だろうと世界中を見渡せる目を持つラグナだが、今はこの街を見ることができなかった。肉眼でしか状況を把握できないことに焦燥感を覚えるも、原因がわからずただ空を仰いだ。やけに静かな夜だ。


 嫌な予感がする。ラキエル達にそう言ったのは本当だった。


 嬉しくないことに経験上、予感はいつも的中するのだ。


「のんびりしすぎたな……」


 シシリアが目を覚まさなかったとはいえ、三日街に滞在したのは誤算だった。


 明日の夜に出発をすると言ったものの、そんな猶予は残されていそうにない。ラグナは使い慣れた十字の杖を掴み取ると、踵を返して部屋を出た。ラキエルとシシリアを呼びに行くべく、すぐ隣の部屋を訪れる。木製のドアを押し開けば、窓辺に腰かけて外を伺っているラキエルがいた。


 ラキエルは突然の訪問に驚いた様子もなく、ラグナを一瞥してすぐに窓の外に視線を戻す。ラグナは後ろ手に扉を閉めると、手を挙げてラキエルに声をかけた。


「よぉ、少し早いけど今晩出発するぞ」


「……何かあったのか? やけに外が騒がしい」


 事情を呑み込めていないラキエルは、慌ただしく走り回る人々に疑問を持つ。セイに確認しようとも思ったが屋敷から出ているらしく、衛兵に部屋で大人しくしてるようにと追い返された。


「ゼルスの軍が近くまで来てるらしい。攻めてくる可能性があるから迎撃の準備をしてるんだと」


「戦いになるのか?」


「さてね。そうなる前に、この街を出るぞ」


 ラグナの一言に、ラキエルは眉を顰める。予想通りの反応にラグナは鼻を鳴らすと、反論する隙を与えずに畳みかけた。


「戦いに参加するってのは無しな。シシリアの安全が優先だ」


「だがセイには恩がある。それにゼルスの軍は俺達を追ってきた可能性も……」


「セイはもともとゼルス軍とやりあうつもりだったらしいぜ。準備もばっちりだそうだ」


 窓の外を一瞥して言うラグナに、ラキエルはなおも食い下がる。


「何もせずに行くのはどうなんだ」


 引く気配を見せないラキエルに、ラグナはため息をついた。


「オレらが戦いに加わったところで、勝てるとは限らない」


「だからって逃げるのか?」


「ラキ、お人好しもそれくらいにしておけ。戦になれば、人が大勢死ぬ。シシリアが黙ってそれを見ていられると思うか?」


 心優しい聖女は最後の力を振り絞って癒しを行うかもしれない。ラグナの言わんとすることを察し、ラキエルは押し黙った。


「明日までは待てない、行くぞ」


 納得がいかないのか、ラキエルは俯き思案する。ラグナの言うことも理解できる。だが、本当にそれで良いのだろうか。シシリアを安全な場所へ連れていくべきだと頭では理解している。それでもラキエルの良心がそれを拒む。


 悩むような様子のラキエルにラグナはもう一押しとばかりに告げた。


「シシリアがどうなってもいいんなら、残ってもいいぜ?」


 内心意地が悪い言い方だと思いながらも、ラグナは告げた。どうもラキエルはシシリアに弱い。優しく親切にされた経験が無いからなのかもしれないが、ラキエルはシシリアを気にかけている。シシリアが傷つくことを由としないはずだ。


 わずかに沈黙をはさみ、ラキエルは視線を上げて観念したように声を出した。


「……わかった。行こう」


「そうそう、素直なのが一番だぜ」


 得意げな様子のラグナを恨めしそうに見つめ、ラキエルはため息をついた。


「じゃあ、シシリアんとこ行くぞ、ほら」


 部屋の入り口にかけてあったフード付きの外套をラキエルに放り投げて、ラグナは扉を押し開く。外套を受け取ったラキエルはフードを目深にかぶり、近くに置いていた剣を背負い、部屋を後にした。


 その時、近くの部屋から硝子を割るような音がした。シシリアのいる部屋からだということに気づいたラキエルは、考えるよりも先に駆け出す。ラグナもそれに続き、二つ隣の部屋の扉を勢いよく押し開いた。


「シシリア!?」


 部屋に入ると、ラキエルの頬を風が撫でた。灯りをともしていない部屋は暗く、肉眼では何も見えなかった。ラグナがすかさず呪文を唱え十字の杖の先端を魔術で光らせる。ぼんやりと照らし出された部屋の奥に、シシリアではない人影を見つけたラキエルは剣を抜き放った。


 割れた窓の傍でどこかで見たような白い装束の男が一人、立っていた。


 警戒したままラキエルが男に問いかける。


「誰だ?」


 シシリアの姿を探せば、彼女は男の腕に抱きかかえられていた。意識が無いのかぐったりとしているようで返事はない。


 男は部屋に入ってきたラキエル達を一瞥するが、何も言わずすぐさま身をひるがえして割れた窓の外へと飛び出した。


「待て!」


 男を追いかけて、ラキエルも割れた窓へ駆け出す。男は人ひとり抱えているとは思えない俊敏さで屋敷を後にすると、暗い渓谷の街の人通りのない道へ入っていく。ラキエルとラグナは逃がさんとばかりに男を追った。ラグナの杖の先端に灯った光がシシリアの金の髪に反射するのを目印に、二人は男を追い続ける。


 全速力で追いかけているにも関わらず、男とラキエル達の距離は縮まらない。人間離れした身体能力に、ラキエルは違和感を感じた。


 何かがおかしい。


 それはラグナも感じたのか、ラキエルの横を走りながら小さく呟く。


「ラキ、気をつけろ。あいつ、人間じゃねぇ」


「ああ、それに街から離れていくみたいだ」


 街の裏道を抜け、人の気配から遠ざかるように男は駆けていく。時折男がラキエル達を振り返った。まるでついてきているのを確認しているかのように。


 どれほど走っただろうか。後を追うラキエルの息が上がり始めたころ、街から少し離れた行き止まりの崖の前で男は足を止めた。ラキエル達を待ち構えるようにゆっくりと振り返る。


 ラキエルは手の中の剣を握り直し、切っ先を男に向けた。少し遅れて、ラグナが追い付いてくる。


「シシリアを離せ!」


「待てラキエル。様子がおかしい」


 今にも男に斬りかかりそうな勢いのラキエルに対し、ラグナが制止するように杖で牽制する。


 男はゆっくりとフードを下ろした。ラキエルの知らない、若い男だった。


「……そういうことか」


 知った顔だったのか。ラグナが低く呟いた。


「悪趣味だな。こんな回りくどいやり方しやがって……いるんだろ、じじい」


 呼ばれた名称に、ラキエルは血の気が引くのを感じた。まさか。そんなはずはない。彼は天界にいるはずだ。かつての恩師が地上へ降りてくるわけがない。


 しかしラキエルの否定する思考を嘲笑うかのように、確かに聞き知っている声が上から響いた。


「久しいなラグナエル。……そしてラキエルよ」


 行き止まりの崖の上の暗がりからしゃがれた声が降ってきた。同時に呪文を唱える声が幾重にも聞こえ、ぼんやりと辺りを照らす光が浮かび上がる。光は一つではなかった。崖の上からラキエル達を囲うようにして、いくつもの光が周囲を照らす。光の傍にはラキエルの知らない天使たちが無表情でこちらを見下ろしていた。数にして十人ほどだろうか。中央に、その人はいた。背に一対の純白の翼、白い法衣を纏い、銀の長杖を片手に持った白髪の老天使ディエルが、静かにこちらを見下ろしている。ラキエルは凍り付いたように動けなくなった。


「ディエル様……?」


 ラキエルの深紅の瞳に映るのは、かつての恩師。いつも柔和な笑顔を浮かべていた老天使は無表情にラキエル達を見据えていた。


「フィーオ殿の命により、ラグナエル、そなたを捕えに参った」


「ふーん、オレだけねぇ」


 硬直しているラキエルの横で、ラグナはこともなげに口元に笑みを浮かべた。


「フィーオも随分暇だな」


 小馬鹿にしたように鼻で笑い、ラグナは杖の切っ先をディエルに向けた。


「悪いが捕まる気はないんでね。手荒にいかせてもらうぜ」


 そう言ってラグナは固まっているラキエルの足を軽く蹴った。思考が停止していたラキエルは状況を判断する。相手は十人余り。数では圧倒的に不利だ。それに、シシリアが捕まっている。


「抵抗するか……ならば、やれ」


 ディエルの声を皮切りに、杖を構えていた天使たちが一斉に呪文を唱え始める。


 ラグナもすぐさま呪文を唱え印を結んだ。


 術が完成するのは同時だった。ラグナはラキエルとラグナを覆うような光の天蓋を作り出す。


 天使たちの術は杖先から白い光を放ち、ラキエル達へ向けて飛ばす。しかし魔法障壁によって軌道をそらされた光が大地を削り、いくつもの小さな爆発を起こす。砂煙が舞い上がり、視界が悪くなる中、崖上の天使たちはさらに呪文を唱え続けた。


 ラグナはため息をつくと杖先で円を描くようにして術を操った。細い光が雨のように降り注ぐ中、魔法障壁に当たった光が軌道を変え、光を放つ術者へと戻っていく。堪らず天使たちは術の詠唱を中断し身を翻らせた。


「さっさと天に帰るんだな」


 おまけとばかりに光の一つをディエルに向けて打ち返す。ディエルは素早く呪文を唱え、小さな魔法障壁を造りだし光を弾いた。


「それはできない相談だ。ラグナエルよ、痛い思いをしたくなければ大人しくすることだ」


「たった十人そこらで、オレを相手にできるって思うわけ?」


 可笑しくてたまらないとでも言いたげにラグナは笑った。


「……気づいていないようだな。今がどういう状況なのか」


 落ち着き払った低い声で、ディエルが告げる。


 静かにディエルは杖を掲げた。呪文を唱え術が完成すると、杖の切っ先から白い光の柱が空高く上った。光は上昇するごとに輝きを放ち、暗雲を突き抜けていく。刹那、光が一瞬凝縮したかと思うと、霧散するようにして光が広範囲に広がっていく。光は雲を払い消し去った後、輝きを失っていった。


 雲が消えたものの暗い空は変わらず、魔術で光を灯していなければ肉眼で何かを見つけるのも難しい。


 ラキエルはやけに暗い空に違和感を覚える。そして一つの事実に気づく。


 ――月が無い。


 闇夜を照らすはずの光である月がどこにもないのだ。


 暗雲に隠れているだけだと思っていたが、雲が消えた今、月が天高く存在している頃合いであろうに、琥珀色の輝きはどこにもなかった。


「月食……?」


 唖然とした様子で、ラキエルが呟く。


「月の加護なきそなたに勝ち目はない。大人しく投降せよ」


 ラキエルの横で空を見上げたラグナは、ラキエルにだけ聞こえるように言葉を吐き出した。


「ラキ、月食はいずれ終わる。時間を稼げ」


「……時間を稼ぐにも、多勢に無勢だ。そんなには稼げないぞ」


「一筋でいい、月の光が戻ったらシシリアを連れて転移する。それまで持ちこたえろ」


 そう言ってラグナは杖の先端をディエルに向けた。


「別に恩寵が無くったって、フィーオの手下なんかにはやられねぇぜ?」


 不敵に笑いラグナは呪文を唱えた。抗戦の構えを解かないラグナに、ディエルは呟いた。


「……お灸が必要なようだな」


 おもむろにディエルが懐から何かを取り出す。それは加工された水晶のような六角柱の半透明な石だった。淡い紫色の水晶を手にしたディエルは他の天使に目配せする。陣形を乱していた天使たちは各々配置につき、呪文を唱え始めた。それを確認したディエルもまた、呪文を唱え水晶をかざす。


 次第に水晶が輝き始めたところで、ラグナの術は完成し新たな魔法障壁を作り出す。最初の障壁よりも分厚い守りだった。


「無駄だ、ラグナエル」


 ディエルが水晶を大地に向けて放り投げた。水晶は光り輝きながら大地に落下し弾けた。途端、水晶の当たった地面に光がほとばしる。光はラキエルとラグナを囲うように複雑な円を描き走り抜ける。魔法陣のようなものが描きあがると光は一層増した。


 それがなんであるか気づいたラキエルは背後を振り返り叫んだ。


「ラグナ、出るんだ!」


 魔法陣がラグナの魔法障壁を包み込む。ラグナは魔法障壁を強化すべくさらに魔力を練り上げた。


「封印石か……くそっ」


 封印石、かつてアルヴェリアを撃退するために使われた神の遺物だというそれは、魔力を封印する作用を持つ石だ。あまりにも貴重なため、天の神殿の最奥に厳重に保管されているような代物だ。よもやそんなものを持ち出してくるとは。


 想定していない事態に、ラグナの顔から笑みが消えた。


 魔法障壁を維持しようとするラグナを徐々に魔法陣の力が阻んでいく。一進一退、魔力を増強する力と魔力を封じる力がせめぎあい、次第にラグナから余裕が消えていく。そうしているうちに、崖上の天使たちの術が完成した。天使たちは一斉に杖を振り上げる。すると暗い空に暗雲が立ち込め、低い唸り声のような音を轟かせ雷が空を舞い始める。


「ディエル様やめてください!」


 届かないとわかっていながら、ラキエルは叫んだ。


 青い閃光が鋭い爆発音を響かせ、魔法障壁に撃ちつける。一閃。また一閃。稲妻がラグナの魔法障壁に当たるたび、ひび割れるような音を響かせる。手をかざして障壁を増強するラグナの額に汗がにじんだ。恩寵の力ではない、ラグナ本来の魔力だけで障壁を維持しているものの、そう長くは持たないだろう。そう判断したラキエルは、翼を具現化させ稲妻を操る天使に向けて飛び立った。


 少しでも攻撃の手を止めようと天使へと斬りかかる。しかし天使たちは稲妻を二つに分けると、一つをラキエルに向けて飛ばした。ラキエルはとっさにかわすが、かすめた雷が法衣と腕を焦がした。痺れるような痛みに顔を顰める。しかし、稲妻は容赦なく降り注ぎ、ラキエルの攻撃を許そうとはしなかった。


 ラグナの魔法障壁は硝子が砕けるような音を出し始め、次第に魔法陣の光がラグナを包んでいく。それを押しとどめようとするも、魔法障壁は形を保てずに枝分かれするようにひびを走らせた。


「……裁きのときだ」


 ディエルが呟く。苦し紛れにラグナはディエルを睨みつけた。


「くそじじい……」


 次の瞬間、魔法障壁が割れ、ひと際大きな稲妻がラグナに降り注いだ。目も眩むほどの光が走り抜け、続けて轟音が響き渡る。ラキエルは振り返った先で稲妻に焼かれるラグナの名を呼んだ。


 断末魔のような叫びが上がり、次第に声は小さくなり消えた。


 ラキエルは身をひるがえし、ラグナの元へと舞い戻る。直視できないほどだった光が消えると、そこには杖を握りしめたままうつ伏せに倒れるラグナがいた。黒衣は無残に焼けこげ、露出した肌からは血がにじんでいる。遠目に見ても酷い姿だった。


「ラグナ!」


 地に足を付けラグナに駆け寄ろうとすれば、それは稲妻によって阻まれた。


 忌々し気に雷を操る天使たちを睨みつける。


「ラキエル、諦めよ」


 ラグナが倒れ、シシリアは天使に捕まったまま意識が戻らない。絶体絶命だった。


 このままではラグナは処刑されてしまう。シシリアも、恩寵を授かっている娘だ。放っておくとは思い難い。


 一呼吸の間を挟み、ラキエルは手にした剣を手放した。


「……ディエル様、降参です」


 乾いた音を立てて、剣が地面を転がる。ラキエルは観念したように手を挙げた。


「俺はどうなっても構わない。だけど、ラグナとシシリアは見逃してくれ」


 命の恩人であるラグナとシシリア。二人だけは何としても助けたかった。矜持など必要ない。ラキエルは祈るような気持ちで告げた。


「それは不可能だ、ラキエル」


 厳粛な声色で淡々と返すディエルに、ラキエルはなおも食い下がる。


「俺が二人を巻き込んだ。……裁かれるのは俺だけだったはずだ」


 逃亡においてラグナは共犯だったかもしれない。だが、逃げる必要があったのはラキエルだけだ。ラグナはただ、ラキエルを生かそうとしてくれただけ。本人がどう思っていたかなど知る由もないが、本来裁きを受けるべきはラキエル一人だったはずだ。


「……フィーオ殿はラグナエルを捕らえるよう命じた。そしてその娘は保護するよう仰せつかっている」


 ラキエルの希望を打ち砕くように、粛々とディエルは言う。


「ラキエルよ、そなたには別の命が下っておる」


「別の命?」


「そうだ。……ラグナエルと娘を解放して欲しくば……」


 そこまで言って、ディエルは言葉を止めた。ラキエルは訝しむようにディエルを見つめる。


「解放して欲しくば……?」


 続きを促すよう問い返す。ディエルは静かに瞳を閉ざし、重々しく言った。


「……アルヴェリアを見つけ出し……討伐せよ」


「俺が、アルヴェリアを?」


 かつて至高の存在であった天使。すべてを憎み、天地を滅ぼす予言を残して姿を消した、ラグナとの旅の目的であった存在。十二の神の恩寵を持つ堕天使アルヴェリア。


 一瞬できるはずがないと否定する気持ちが浮かんだ。


 ラキエルは剣の腕こそ人並み以上にはあるが、術を操る才能は無く、戦力差を考えても不可能に近い。かつて反旗を翻したアルヴェリアを討伐するべく、天使の軍が編成され地上に派遣された。数にして千を越える天使が作戦に参加したが、帰ってきたものはいないという話だった。そんな存在を一人で討ち取ることができるのか。


 倒れているラグナとシシリアを一瞥する。


 やれるやれないの話ではない。


 やらなければいけない。二人を助けることができるのはラキエルだけだ。


 覚悟を決めたように、ラキエルは胸に手を当ててディエルを見上げた。


「……わかりました。では約束してください。アルヴェリアを討伐すれば、二人を解放すると」


「よかろう」


 神秘的な灰色の瞳で真っ直ぐにラキエルを見下ろし、ディエルは言った。


「話は終わりだ」


 ディエルの言葉を合図に、二人の天使が舞い降りてきて動かないラグナを担ぎ上げた。シシリアを抱きかかえていた男も翼を具現化させ、ディエルの元へと舞い上がる。ディエルと天使たちはそのまま空の彼方へと飛び立っていった。


 その姿が見えなくなるまで、ラキエルは茫然と見送る。


 やがて静寂が戻り、ラキエルはゆっくりと動き出した。転がっていた剣を拾い鞘に納める。ラグナとシシリアの身を案じるが、踵を返してその場を離れた。


 暗闇に閉ざされていた渓谷の街に、一筋の光が差し地面を照らす。月食から解放された月が、顔をのぞかせたのだ。


 ラキエルは初めて月を疎ましく感じた。十人もの稲妻の術を己の魔力だけで凌いだラグナの術の才能は驚異的だが、それでも恩寵が無ければただの一天使だ。すさまじい稲妻をその身に受けて、生きているかも定かではない。月が顔を隠していなければ、ラグナは余裕をもって逃げおおせたはずだ。


 振り返り悔しさにこぶしを握る。


 違う。月が悪いわけではない。肝心なところでラグナに頼ってばかりで弱いラキエルが悪いのだ。ラキエルにもっと力があれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。湧き上がる感情は無力感と己に対する怒りだった。それでもまだ終わったわけではない。アルヴェリアを討てば、希望はある。


 アルヴェリア討伐を果たせなかった天使の兵十人にすら勝てなかった自分に、果たしてアルヴェリアが討てるのだろうか。


 不安で弱気になりそうになる自分を叱咤し、すぐさまラキエルは考えを改めた。


(強くならなければ……)


 初めてラキエルは力を渇望した。誰にも負けず、誰かを守れる力を。その為には、手段なんて選んではいられない。


 ラキエルは決意したように渓谷の街へと歩き出した。

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