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紅き天使の黙示録  作者: 碧亜
第二章
11/17

-10- 騒動

 シシリアの館でラキエルが目覚めたのは、治療を受けてから三日後の事だった。


 最初の一日目の夜に痺れを切らしたラグナが、拳骨をくれてもみぞおちに一撃を入れても、目覚めはしなかった。何をしても起きないので、ラグナもちょっかいを出すのをやめにして、大人しく目覚めを待った。傷はシシリアが塞いでくれた事により、本来の自己治癒能力よって完治しているといっても過言ではないはず。それでも二日間一度も目覚めないまま、三度目の朝が巡った。


 早朝、ラキエルの様子を伺いに来たシシリアは、扉を押した先で動きを止めた。寝台の上で身体を起こしているラキエルを見つけ、驚きながらも声を掛けた。


「おはようございます。お加減はいかがですか?」


 黒髪の青年はシシリアの声に反応を示し、ゆっくりと振り返る。強張った表情の彼は、唇は中途半端に開かれたままで、言葉は返ってこなかった。


「私はシシリア・ヴェルディスと申します。貴方とラグナが街道で倒れているのを見つけたので、差し出がましくも保護させていただきました」


 怪しまれないよう、シシリアは極力優しい声で話しかける。ぼんやりとした目で彼女を見つめていたラキエルは、シシリアの説明を受けてようやく声を発した。


「俺はラキエル。……世話になったようで、礼を言う」


「いいえ。困った方を救えというのが、母の教えでしたから」


 ゆっくりと浅黄色の服の裾を揺らし、シシリアはラキエルの寝台へ近寄る。


 手に持っていた水差しとグラスをサイドの棚に置き、水差しの水をグラスに注ぐ。透き通る透明な容器に水が満ちると、丁寧な手つきでラキエルに差し出した。


 ラキエルは一瞬、戸惑ったような表情を浮かべた。当然のように行われた親切に、どう反応するべきか迷う。微妙な沈黙を挟んだが、小さく礼をしてグラスを受け取った。ひとくち口に含むと渇ききっていた喉に清涼な水が通り、ひりひりとした痛みを沈めていく。澄んだ水の冷たさに、喉元が洗われるような感じがした。


 ほっと一息つき、ラキエルはグラスをサイドの棚の上に音を立てないように置いた。


「お体の具合はいかがですか? どこか痛むところは?」


 ラキエルは意識を手放す前に感じていた焼けつくような痛みを思い出した。不思議なことに、今は痛みなど微塵も感じない。


「……大丈夫だ。俺よりも、ラグナは?」


 そこで、近くにラグナがいないことに気付いた。


 背負っていたときのラグナは、酷く生気がなかった。体温が下がり、血の気が引き、ぐったりとしたままの彼を思い出し、ラキエルは僅かに焦る。


 シシリアは蒼穹を閉じ込めた瞳を優しく細めて、薄紅色の唇に微笑を浮かべた。


「安心してください。ラグナは元気ですよ。まだ、お隣の部屋で寝ていると思いますけど、あとで呼んできますね」


「怪我をしていたんだ」


「ええ。二人とも、とても深い傷で驚いたわ。でも、もう大丈夫」


 大丈夫だと告げられて、ラキエルの頭に疑問が浮かぶ。ラグナのように大きな風穴を開けられたわけではなかったが、ラキエルも十分に傷を負っていた。多量の出血により意識を手放したのだが、その辺の記憶は曖昧で、何があったのか覚えてはいない。


 無意識にラキエルは傷のあった脇腹などに手を伸ばす。肌触りの良い滑らかな生地の布が肌を覆っていたが、その先に痛みはなかった。


 傷が癒えているのだと気付き、ラキエルは不思議そうにシシリアを見上げた。


「私が貴方たちを見つけられたのは、神のお導きでしょう。こうして会えたのも何かの縁、どうぞゆっくりしていってください」


 見返りを求めないような慈愛に満ちた親切に戸惑いながら、ラキエルは軽く頭を下げる。


「……ありがとう」


 ぎこちない彼の言動に、シシリアは初々しさを感じながら微笑んだ。


「お気になさらず。そう言えば、ラグナから聞いたんですけど、旅の途中だとか。どこへ向かわれる予定でしたの?」


 寝台の傍に置いてあった小さな丸椅子を手繰り寄せながら、シシリアは興味深そうに問いかける。


「今のところ、当てなんて……」


 何と答えてよいか分からず、正直な本音を告げると、シシリアはまた笑った。


「では放浪中でしたのね。もしご迷惑でなければ、どちらから来たのか教えてくださいません? 私、ドルミーレの村からあまり出ないので、外の世界を知りたいんです」


「俺たちが来たのは、空の――」


 ラキエルが言葉を続ける途中で、シシリアが入ってきた扉が勢い良く開いた。加減を知らず、木製の扉は蝶番の限界まで開き、軋んだ音を立てて跳ね返る。それを扉の先から伸びた手が、叩きつけるようにとどめた。


 突然の喧騒と共に部屋に飛び込んできたのは、淡い色の、恐ろしく似合わない部屋着を纏ったラグナだった。


「よお、ラキ。随分と寝ぼけてたみてぇじゃねーか」


 寝癖の広がる鳶色の髪を直しもせず、パタパタと部屋履きを鳴らしてラキエルの寝台に近づく。


 吊り上った琥珀色の瞳を細めて、ラグナはラキエルに向けて、口元を歪め微笑んだ。


 シシリアは乱入してきたラグナに嫌な顔はせず、軽く会釈を交わす。


「あら、おはようございます、ラグナ」


「ああ、おはようシシリア。ちょっとそこのネボスケと話したいんだが、いいか?」


 ラキエルに人差し指を向けて問われたシシリアは、快く頷いた。


「ええ、勿論。朝ごはんの仕度が整ったら、呼びに窺うわ」


「ああ、ありがとな」


 人の良さそうな笑顔を残して、シシリアは部屋を後にした。


 残されたラキエルは気まずそうにラグナから視線を外す。


 うっかりと、言ってはならない事を口にしかけたと気付き、目で見るより明らかなラグナの怒りに備える。冷や汗が背中を伝う。しばらくしても怒鳴り声を上げないラグナを訝しみ、目線を向けた。


 ラグナは満面の笑みを浮かべ、握りこぶしを固めながらラグナに近づいていた。


「お前な、何でもかんでも馬鹿正直に答えりゃ良いってもんじゃねぇだろ」


 口調は軽々しいのに、ラグナから発せられる殺気は恐らく気のせいではない。ラキエルは返す言葉もなく、ラグナが進む方向に身体を後退させた。


「いや、そんな……」


「つもりじゃねーって言っても、一度口走った事は消せねーよ。ったく、これじゃおちおちと寝てらんねぇな」


 盛大な溜息を吐いて、ラグナは先ほどまでシシリアが座っていた椅子に腰掛ける。


 ラキエルは元気そうなラグナの様子に安堵した。同時に何故無事でいるのか、疑問が浮かぶ。眉間に皺を寄せて怪訝にラグナを見つめていると、視線に気付いた彼は鼻を鳴らして笑った。


「釈然としない感じだな。傷が癒えている事と、どうしてここにいるのかってところか」


 ラキエルの疑問を見透かしたように言い当てる。


「オレも同じ疑問を持ったぜ。まず、どうしてここにいるかだが、さっきの女、シシリアがお前とオレを見つけたそうだ」


「……らしいな」


「で、どうも彼女がオレらの傷を癒したらしい」


「可能なのか? 人間に」


 癒しの術は、法力の中で最も高度な術だ。天使は皆学びの神殿で教わるものの、使いこなすに至るのは百年に一人の逸材とさえ言われている。他の術で高い成績を収めていた者でも、その扱いの難しさに諦める者の方が多い。


 生まれながらに法力を授かり、訓練を受けてきた天使でさえ習得が難しいそれを、どうして人間が。


 人間を馬鹿にしているわけではないが、彼らは生まれつき魔力を持つものが極めて少ない。加え、彼らは人に無い力を「魔術」と称し、それを扱う者を悪魔に魂を売り渡した背信者として裁いてきた。そんな世界で、高度な術を扱える者が現れるはずもない。


「普通に考えりゃ不可能だろうな。だけど、もしも別の力が宿ってるんだとしたら?」


 人や天使を選ばず与えられる奇跡を、彼女が授かっていたというのならば話は別だ。


 ラグナの言わんとする事を悟り、ラキエルはまさかと小さく呟いた。


「癒しを司るのは水の神か、いや命を司るのは……大地母神。でも水の神はアルヴェリアに恩寵を与えたはず。そうすると……」


「そっ。シシリアは恐らく、この数百年沈黙を守り続けてきた大地母神の恩寵を受けている」


 神々の恩寵は授かったものが死ねば、間を置かず別の誰かが選ばれる。今までずっとそうであった。

神々の恩寵は一人だけが受けることの出来る奇蹟。この広い世界で、恩寵は転々としていた。最も力の強い大地母神の恩寵を残して。


 十二の神の恩寵を得たアルヴェリアでさえ授からなかったものを、人間の娘が受けていようとは。神の意志とは、人にも天使にも推し量る事はできないのだろう。


「俺達はシシリアに救われたのか……」


 彼女が出会えた事を神の導きと言ったのは、本当なのかもしれない。ラキエルを拾ったのが彼女でなければ、最悪今頃どうなっていたか分からない。


 彼女に巡り会えた事が神の意志ならば、感謝せずにはいられないだろう。


 心の中で神へ感謝の意を唱えるラキエルに向けて、ラグナは口元に手を当てたまま呟いた。


「……だけど、大地母神の恩寵は、滅びの女神に次いで恐ろしいと思うね」


「どうしてそう思う?」


「別に。何となく思っただけさ」


 意味深な発言にそぐわない笑みを浮かべ、ラグナは腕を頭の後ろに回して上半身を反らした。


「で、どうするよ? 目も覚めたし、今後の事を決めようじゃねーか」


「決めるのも大事だが、まずやる事がある」


 話を切り替え提案したラグナに、ラキエルは真面目な顔で告げる。


 ラグナは出鼻をくじかれた気分になり、心の中で朝飯とか言うなよと突っ込みつつ、「何?」と短く返した。


「助けてもらったお礼」


 緩やかな朝日が窓から燦々と注ぐ穏やかな朝、小鳥の可憐なさえずりが響くのみの二人の青年の部屋は沈黙に満ちた。再び部屋に声が響いたのは、手伝いの娘ミーナが、食事の支度が整った事を知らせに来た時だった。


◆◇◆◇◆


「危ないですよー。気を付けて下さいねー」


 ヴェルディス家に幼い頃から仕えていると言う、手伝いの少女ミーナの明るい声が響く。


 その声援を受けながら、ラキエルは屋根の高い位置に取り付けられた煙突を目指して、梯子を上っていた。


 食事に招かれた時に、シシリアとその弟であるローティアに改めて挨拶と感謝の意を述べた。ローティアには素っ気無く「別に僕が助けたんじゃない」と丁寧に切り返された。シシリアは再び、気になさらずと言ったが、ラキエルはお礼に何か出来る事はないかと尋ねた。そこで、後ろに控えていたミーナが、嬉々とした様子で提案してくれたのだ。


「お嬢様、煙突掃除を頼んでみてはいかがでしょう? わたくしは先日荷を運ぶ際に腰を痛めてしまいまして……。ローティア様は高い場所が苦手でいらっしゃいますし、家には適任者がおりませんから、困っていたところなのですよ」


 シシリアやローティアよりもずっと幼く見えるミーナは、実はシシリアよりもお姉さんだという。どうして歳を取らないんだろうと真面目顔で呟いたラキエルを拳で殴ったラグナは、「遠慮なくこき使ってやって下さい」とラキエルを差し出した。


 そして朝食を済ませて今に至る。


 ラキエルは自分から申し出た以上、どんな事でもやるつもりではあった。煙突を掃除するならば、まずは煙突の中の煤を叩き落とさねばならない。掃除用具を片手に、空へと飛び立とうとしたところで、再びラグナから鉄拳が飛んできた。


 翼は使うなと釘を刺され、梯子を使う事となった。だが、翼が使えないとなると、途端に高い場所に恐怖が芽生える。落ちればただでは済まないだろう。死にはしないだろうが痛みは当然ある。最悪、骨折も視野に入れておかねばならない。


 人間とは不便なものだと痛感しつつ、ラキエルはおぼつかない足取りで掃除に取り掛かった。


 初めて使う道具と煙突の掃除に手間取り、ラキエルが全てを済ませたのは昇りきった陽が傾いた頃だった。


 煤を掃い、本来の煉瓦の色を取り戻すまで磨いた暖炉は、赤々と燃える薪の火を受けて輝いていて見えた。


 黒髪はもとより、色素の薄いはずの肌から服に至るまで煤塗れになったラキエルを、ラグナは指差して笑った。


 お前は何していたんだ、と怒りを向けようとした所でミーナに湯浴みを勧められ、ラグナを睨みつつラキエルは小柄なミーナの後に続いた。


 湯浴みを済ませたラキエルは、ミーナの用意してくれた服(恐らくローティアのものであろう)を拝借して、昼食に案内された。


 卓上には柔らかくふわふわとした白いパンや絞りたての濃厚なミルク、底の浅い皿に注がれた黄色くどろりとした液体。色取り取りの旬の野菜を盛り合わせたサラダの上には、等間隔で切り分けられた羊肉の燻製が綺麗に並べられていた。朝食の時も驚いたものだが、人間の食事とは奥が深いとラキエルは目を見張った。


 しかし、肉を食べる気にはなれず、丁寧な断りを入れて白いパンとサラダを少しだけかじるに留めた。ラキエルの隣ではラグナが平然と燻製肉を食べている。


「美味いのに勿体ねー。折角糧となってくれた羊さんにも悪いだろ」


 と軽口を叩き、ラキエルの残した肉を綺麗に平らげる。


 昼食にはシシリアの姿もローティアの姿もなかった。


 ミーナに二人の行方を尋ねようとしたが、ラキエルの疑問を察したラグナが聞かれてもいないのに答えた。


「シシリアなら教会に行った。ローティアは部屋で勉強中。朝と晩以外は部屋で取ってるんだと」


 パンを直接かじりながらラグナは言う。ラキエルはパンをちぎっていた手を止め、口に含んでいたものを咀嚼してから問いかけた。


「勉強?」


「はい。ローティア様は医学の勉強をされていらっしゃいます。いつかドルミーレに病院を作ってくださるんだそうですよ」


 ラグナの豪快な食べ方を微笑ましく見ていたミーナが、ラキエルの疑問に答える。


「ドルミーレには病院がないのか?」


「はい。ここいらの町や村は都から離れていますし、隣国で戦争があったとかで医者が不足してるんです。……ローティア様のお母様も、ご病気で亡くなられました。重い病ではなかったんです。きちんとしたお医者様がいらっしゃったなら、きっと……」


 悲しげに睫を伏せるミーナに、ラキエルは心苦しそうに「そうか」と相槌を打った。


「ローティア様はきっと、亡くなられたお母様の為にも頑張ってらっしゃるんだと思います。仕える身で差し出がましいかもしれませんが、わたくしローティア様ならきっと良いお医者様になられると思うんです」


 薄っすらと頬を染めて、ミーナは夢見る少女のように瞳を輝かせた。


 朝食の時にも感じたが、姉弟であるシシリアとローティアはもとより、手伝いのミーナも主従関係とは思い難いほど主と親しい。広い屋敷にはシシリアとローティア、それにこのミーナの三人が暮らしている。とてもミーナ一人で家事をこなすには難しい広さの屋敷だ。だがローティアやシシリアが彼女を手伝っている為、それほど負担にならずに済んでいるようだ。


 人間の主従関係がどのようなものかは知らないが、裕福な家の主が進んで家事をこなすとは思い難い。恐らく、手伝いと言うのは名目で、ミーナは家族の一員なのだろう。自分の事のように話す彼女からは、溢れんばかりの深い想いが伝わってくるようだ。


「ローティア様がお医者様になられたら、わたくし助手になるって約束してるんですよー」


 嬉しそうに語るミーナに、ラキエルの口元が自然と緩んだ。


「それじゃあ邪魔しちゃ悪いな。何か他にやる事があれば、手伝うぜ? ラキが」


 ラグナが珍しくまともな事を言ったかと思えば、語尾についた名前にラキエルは肩を落とす。恨めしく二つ目のパンをかじるラグナを睨むが、再びミーナの嬉しそうな声が響き腹をくくる。


「本当ですかー。じゃあ、お嬢様に荷物を届けて欲しいんです。果物を持っていく予定でしたのに、お嬢様がお忘れになってしまわれていたので、後でローティア様が届ける予定だったんです。もしご迷惑でなければ、お願いしても宜しいですか?」


 無邪気なミーナの頼みを無下に出来るはずもなく、ラキエルは快く引き受ける。


「ああ。教会の場所を教えてくれれば、行ってくる」


「ありがとうございます。では、お食事の後、一休みしてからお願いしますね」


 丁寧に礼をして、ミーナは空になった皿を一つ一つ盆に載せて片付けていく。明るく溌剌とした印象からは想像できない優雅な動きを見つめ、ラキエルはこくりと頷いた。


「ラグナは暇だろうから、何かあれば使ってくれ」


「いいんですか? 助かりますー」


 嬉しそうに微笑むミーナは、食後の紅茶を飲もうとして噴出したラグナに気付かず、鼻歌を歌いながら厨房へと消えた。


「……ってめぇ」


 テーブルの下の足を軽く蹴っ飛ばされたラキエルは、それでも知らん振りをした。ラキエルのささやかな反抗に、ラグナは面白くなさそうに眉を潜めた。


◆◇◆◇◆


 ドルミーレの村で教会を探すのは簡単な事だった。


 目に付くほとんどの建造物は一階建てであり、二階以上があるのは集団住居くらいのもので、それも天井が低く設計されているのか大した高さはなかった。三角屋根の屋敷もほとんどなく、ドルミーレの村に来る前に通った小さな村の、簡素な作りの石の箱のような家が大半を占めている。その中で高い鐘塔と先端の十字架が目立つ教会は、そう広くはないドルミーレの村であっさりと見つける事ができた。


 教会の扉を押して中へと立ち入ると、そこはに消毒液のようなつんとした薬品臭に満ちていた。ラキエルは一瞬立ち入る事を躊躇ったが、右手に持った果物の籠の重さを思い出し、ゆっくりと足を踏み入れる。


 人々が祈りを捧げるはずの空間は、朝にローティアの言っていた通り、仮初の病室となっていた。椅子の上に、毛布に包まった人の姿があちらこちらにいた。全身を包帯で巻いている者。苦しげにうめき声をあげる者。痩せこけた小さな赤子を抱いた母や、全身にまだら模様を浮かべた、息も絶え絶えに乾ききった唇を声もなく動かす者。症状は様々だったが、お世辞にも健康とは言いがたい人間達が、所狭しと教会を埋め尽くしていた。


 修道女達は患者の相手をしながら、できる限りの手当てを施している。それでも、患者の数に比べ修道女の数はあまりに少なく、救いを求める声が至るところから上がった。


 老若男女問わない声の中に、聞き知った名詞が混じっている事に気付き、ラキエルは足を止めた。耳を澄ませば、苦しげな声にシシリアを求める声があった。聞き間違いかとも思ったが、何度も何度も耳元を掠める声は確かに、彼女の名を呼んでいた。


「……聖女シシリア様……お救い下さい」


「痛いよ……、シシリア様……助けて」


 重奏のように絶え間なく、シシリアを求める声がする。


 力ない人々の嘆きが、救いを求める声が、ラキエルには痛々しく感じ、無意識に瞳を閉じて胸の前で祈りの印を切っていた。


「ラキエル?」


 背後からかけられた知っている声に、ラキエルは瞳を開いた。


 振り返ればそこに、髪を結い上げて包帯や薬などの籠を抱えたシシリアがいた。


「身体の具合は大丈夫? ミーナが遠慮なく色々と頼んでるんじゃないか心配だったの」


「身体はもう問題ない……ミーナに頼まれてこれをシシリアに」


 心配そうな視線を向けてくるシシリアに、どうしていいか分からずラキエルは手に持っていた果物の籠を差し出した。


「あら、それ忘れてきたんだった。ありがとう、ラキエル」


 優しい笑顔を浮かべて、シシリアはラキエルから籠を受け取った。


「忙しそうだな」


「そうでもないわ。今は怪我人も少ない方だし。命の危険がある患者もいないもの」


「いつも、こんなことを?」


 聞いた話によれば、シシリアは医者でもなければ修道女でもない。


 癒しの力を持っているとはいえ、その力以外にもこうやって病気や怪我で苦しむ人々を介抱する姿は、賞賛に値すると同時に不思議でもあった。何故、こうまでして身を削り人々の為に働くのか。彼女は本当に聖女なのだろうか。浮かんだ素朴な疑問を問いかければ、シシリアは口元に笑みを浮かべたまま、視線を床に落とした。


「ええ。神父様やシスター達のお手伝いを。私にできる事は少ないかもしれない。でも、それで喜んでくれる人がいる。私はそれが嬉しいの」


 ラキエルの脳裏に、慈愛と命を司る大地母神の姿が浮かぶ。シシリアはまるで、大地母神が人の姿を借りて地上へ降り立ったようにも見えた。救いを求める人々に手を差し伸べ、その優しさと力を以って救世主となる存在。


 きっとこの教会でシシリアに助けられた人間は皆、彼女を聖女と思っているのだろう。


 彼女の存在は光に似ている。人々を照らし安らぎを与え、希望となる。しかしそれは、彼女を普通の人間から遠ざけてしまう。そんな気がした。


「そうか……でも無理は、しないほうがいい」


 ラキエルは余計だと思いながらも、引っかかる気持ちを言葉にした。


「え?」


 シシリアは不思議そうにラキエルを見上げる。ラキエルは頭を振って視線を外した。


「いや、なんでもない」


「そう?」


 大きな空色の瞳を何度か瞬きながら、シシリアは小首を傾げた。


 彼女は自分の存在の大きさを自覚していないのだろう。大地母神の力を惜しげもなく使い、人々に求められるままに生きている。それが、大事にならなければいいが。


「シシリア」


 不意にシシリアの背後より彼女を呼びかける声がした。


「神父様」


 青白い法衣を纏った老人は、シシリアの前まで移動すると、彼女の手元に視線を向けた。


「すまないな、いつも……」


「いいえ。こんなことでお役に立てるなら、本望です」


 口元に優しい笑みを浮かべてシシリアはこともなげに言う。


「そうか……ところで、あの話のことを考えてはくれたか?」


 途端、シシリアの表情がぎこちなく曇る。


 シシリアは視線を床に落とし、眉を潜めた。


「その件は、お断りしたはずです……。私には家のこともありますし、ローティアを置いてはいけません」


「そなたの気持ちがわからぬ訳ではない。しかし、いずれ迎えが来よう」


「そんな……」


 悲愴な面持ちで、シシリアは瞳を閉じて祈るように手を胸の前で組んだ。


「どうか、時間をください。弟が……ローティアが独り立ちできるまでの時間を」


「そうしてやりたいが、わしの制止などかの王の前にはあまりにも無力だ」


 痛々しげに告げる神父の表情は硬い。


 静かに見守っていたラキエルは浮かんだ疑問を投げかけた。


「なにか問題でもあるのか?」


 シシリアの後ろに控えていたラキエルに視線を向けた神父は、見慣れぬ青年に小首を傾げた。


「シシリア、こちらの方は?」


「あ……先日、道で倒れていたので、私の屋敷で休んで頂いていたのです。なんでも、旅の僧侶だとか」


「ラキエルという。シシリアは恩人だ。困っていることがあれば力になりたい」


「ありがとう、ラキエル。でも、これは貴方がどうにかできる問題でもないの……」


 目を伏せて悲しげにシシリアは呟いた。


 それ以上言葉を発する様子のないシシリアを見て、神父はラキエルに理由を教えた。


「この国の王が、シシリアをご所望なのだ……」


「それは……?」


「妃にと言うわけではない。病を看よという名目だ」


 神父は重々しい口調で語り出した。


 権力と兵力を振りかざし、暴虐の限りを尽くしていたこの国の王が病に倒れたのは最近の事だった。西の大国の外れにあるドルミーレの村に、病も怪我もたちどころに癒やす聖女がいるという噂を聞きつけた王ゼルスは、シシリアに城へ上がるよう命じたのだという。シシリアはそれに対し、首を縦には振らないのだという。


「私は……まだ、行けません。どうかご理解ください」


「しかし、王は気が短い。強硬手段に出ぬとも限らぬ」


「わかっています……村に迷惑は掛けないようにします」


 小さな声でそれだけ言うと、シシリアは手にしていた果物の籠を神父に差し出した。


「果樹園でとれたものです。皆さんで召し上がってください。今日はこれで失礼しますね」


 籠を受け取った神父が言葉を発するよりも早く、丁寧に礼をしたシシリアは踵を返して歩き出す。神父は言葉を続けることができずに、うなだれたように肩を落とした。


 ラキエルは神父にかける言葉も浮かばず、一礼してからシシリア続いて教会の出口を目指す。軋む木製の扉を押し開けたシシリアは、ラキエルが着いてくるのを確認するとそのまま教会を後にした。


◆◇◆◇◆


 帰路につくシシリアの表情は硬く、沈んでいるようにも見えた。


 足取りは重く、時折小さくため息をつく様子に、ラキエルは疑問を投げかけた。


「王のことはよく知らないが、行くと何か問題があるのか?」


 ラキエルの数歩先を歩いていたシシリアは足を止めると、振り向かないまま話し始めた。


「王の元へ行って帰ってきた人の話は無いわ」


「何故?」


「……美しさを買われた商人の娘は不用意な一言で怒りを買って処刑された。悪政に苦しむ民衆の代表は税を軽くして欲しいと嘆願書を届けに行って、その日の晩に見せしめとして断頭台の露と消えた……」


「それは事実なのか?」


「ラキエルはこの国の事、あまり知らないのね。王ぜルスの悪逆非道の行いは大陸全土に知られてるわ。多少噂に尾びれがついていても、ぜルスがやってきた事は事実として残ってる」


 ある時は暇潰しの余興にと、封鎖した空間に奴隷や戦争捕虜と獣を放ち、逃げ惑う者の阿鼻叫喚を眺め狂喜したという。


 またある時は千の歴史を刻む国の美姫を手に入れるために戦を仕掛け、滅ぼしたという。


 そんな王のもとへ行って、シシリアが無事に帰れる保証はどこにもない。


「私はまだ、行くわけにはいかいの。……あの子を一人残すことなんてできない」


 己に言い聞かせるように、シシリアは呟いた。


 常にシシリアを気遣う弟の優しい笑顔を思い出しながら、シシリアは知らず胸の前で手を組む。その小さな背を見つめながら、ラキエルは視線を落とした。


 誰を想い祈るのか、シシリアをまだ深く知らないラキエルには分からない。


 ただ、静かな日常を望むのであれば、彼女は大地母神の恩寵を軽々しく使うべきではなかった。その人離れした力は、シシリアを平穏から遠ざける。


 ふとラグナの言う言葉が思い出された。


「神々の恩寵はただの呪いさ」


 望む望まないに関わらず与えられる、人の身に余る力。それは持たぬ者の欲望を叶えるために利用される事だってあるだろう。


 シシリアが愚かな娘だとは思わないが、優しさ故に聖母のように誰にでも手を差しのべる姿は、慈愛に満ちている反面、己の身を切り売りするような危うさを覚える。その優しさにつけ込む者も少なくはなかったのではないか。


「シシリア、俺が言えたことではないかもしれない……だけど、その治癒能力は不用意に使うべきじゃない」


 ラキエルの言葉に、シシリアは驚いたように大きな瞳を見開いてラキエルを振り返った。


「気付いていたの?」


「……ああ」


「そう……」


 居心地が悪そうに視線を落とすシシリアに、ラキエルはゆっくりと語りかけた。


「君と同じように、神の恩寵を与えられた人を知っている。その力は奇跡を起こすことができるかもしれない……だけど、それは君を人から遠ざける」


「神の恩寵?」


「そうだ。天に存在するとされる十五神が、選びし者へ与える力を恩寵という。君は、大地母神の恩寵を与えられて生まれてきた。身体のどこかに、痣のような紋があるはずだ」


「痣のような……紋……」


 思い当たる節があったのだろう。シシリアは己の左の肩にそっと触れた。


「静かに暮らしたいのであれば、多分、その力は使わない方がいい」


 俯くシシリアにそう言葉を告げた時だった。遠くから甲高い少女の声が響いた


「お嬢様ー! 大変です、お嬢様ぁぁ!」


 それは、ヴェルディス家の手伝いの少女、ミーナの声だった。


 ラキエルとシシリアが声のした道の先に視線を向ければ、長いドレスの裾を揺らして駆けてくるミーナの姿があった。彼女は息を切らしながらシシリアの前までたどり着くと、息を整える間もないまま話し出した。


「お嬢様! 大変です! はぁっはぁっ……ゼルス王の使者がお屋敷に押し掛けてきてぇ! ローティア様が! 坊ちゃまが! 大変なんですぅ!」


 苦しそうに息をしながら、ミーナは早口で言う。慌てたミーナの様子に只ならぬものを感じたシシリアは、さっと青ざめた。


「落ち着いて、ミーナ。何があったの?」


「あのっゼルス王の使者とやらがお嬢様を出せって威圧的に言ってきて、ローティア様がそれを断ったんですぅー。そうしたら、使者たちが無理やりお屋敷に入って暴れながらお嬢様を探し出して……ローティア様、怒ってそれを止めようとなさって……」


「ローティアに何かあったの!?」


「それが、いきなりお屋敷に火がついて……使者が暴れて燭台倒したのかもしれないんですけど、もう訳が分からなくなって慌ててたら、ローティア様がシシリア様のところに行けって仰ってっ、それでっここまで走ってきたんですぅー」


「そんな……早く帰らなくちゃ」


 シシリアは屋敷のある西の方角を不安げに見つめる。その空が赤いのは、夕日のせいなのか、それとも……。


 こみ上げる不安をぬぐい切れないシシリアが駆けだそうとする。それに気づいたミーナはシシリアの腕を両手で捕まえた。


「駄目です! お嬢様! お屋敷にはゼルス王の使者が……お嬢様連れていかれちゃいますぅ!」


「でも、ローティアが心配なの!」


 ミーナの腕を振り払うこともできず、シシリアは西の屋敷の方に視線だけ向ける。今こうしている間にも、ローティアがひどい目に合わされているかもしれない。屋敷が燃えていることよりも、弟の安否を確かめたかった。


 それでも離すまいとミーナの腕の力は強まるばかりで、シシリアは乱暴に扱うわけにもいかず苦しそうにローティアの名を呟いた。


 その時だった。


「僕なら無事だよ、姉さん」


 突然、シシリア達の背後より聞き覚えのある声がした。


 その場にいた全員が背後を振り返る。そこには、夕日に照らされて燃えるような赤に金髪を染めたローティアがいた。


「ローティア!」


「ローティア様!?」


 シシリアとミーナがほぼ同時にその名を呼ぶ。


 ローティアはにこりと安心させるように微笑むと、シシリアに手を差し伸べた。


「姉さん……逃げよう。ゼルス王は姉さんを力ずくでも連れていくつもりだ」


「逃げるって……どこへ? それに王の使者たちは? ローティアは無事なの?」


 シシリアが浮かぶ様々な疑問を口にすれば、ローティアは癖のない金髪を揺らして首を横に振った。


「今はそれに答えてる暇はないんだ。さぁ、姉さん、ミーナこっちに」


 弟の心配そうな表情に、シシリアは心を痛めた。何故、こんなことになってしまったのか。


 先ほどの神父の言葉が思い出された。


 ――王は気が短い。強硬手段に出ぬとも限らぬ、と。


 それでもこんなに早く使いの者が来るとは想像していなかった。シシリアは己の考えの甘さを悟る。


 ゼルス王の命令に背いてきた結果、弟やミーナに多大な迷惑をかけてしまった。


 その手を取るべきか、シシリアは迷った。手を取り逃げれば、この先ローティアやミーナを苦しめてしまうのではないだろうか。村の人にも被害が及ぶのではないだろうか。そんな疑問が浮かび、シシリアは決断できずにローティアより差し出された手をただ見つめた。


「姉さん……早く」


 時間がないんだと言わんばかりに、ローティアは一歩前へ足を踏み出す。


 シシリアは迷いを捨てきれず、首を横に振った。


「逃げれば……貴方達も追われてしまう」


 手を取らないシシリアに、ローティアは悲しげに俯く。


「姉さん……できれば自分の意志で来てほしかったけど……」


 差し出した手をそっとひっこめると、ローティアは俯いたまま小さく何かを呟く。


 成り行きを見守っていたラキエルは、弾かれたように顔を上げた。


 それは呪文によく似ていた。ラグナが魔術を使役するのと同じように、辺りの気の流れに変化が生じる。


 シシリアとミーナはローティアが呪文を唱えているとは気付いていないようだ。


「何をする気だ?」


 ラキエルはシシリアとミーナを背にかばうようにして前に出る。ローティアが魔術を使役するのだと確信して、防護壁を作る魔術の詠唱を始めた。魔術などは不得意なラキエルだが、防護壁程度は問題なく作れる。しかし、ラキエルの術が完成するより早く、詠唱を終えたローティアがラキエル達の方へ手をかざした。


 淡い光が大地から吹き出したかと思うと、シシリアとミーナを包み込むように光が膜状に変化していく。すぐ背後で起きた異変に気付いたラキエルは咄嗟に腕を伸ばした。


 驚愕の表情を浮かべたシシリアは、ラキエルの腕に気付き手を伸ばす。しかし、二人の手が触れ合うよりも早く、光は強くなり、目も開けていられないほどに輝きを放った。目が眩んだラキエルが瞳を閉じたほんの僅かな時間に、光に包まれたシシリアとミーナの姿は忽然と消えた。


 再び目を開けたラキエルの視界には、シシリアとミーナの姿は無かった。


「ローティア、何故魔術を……?」


 術を使ったであろうローティアを振り返れば、そこに人の姿は無く、教会へ続く道の先に夕日に照らされた村があるだけだった。

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