ラストゲーム
後半の三十九分。焼けるように熱いグラウンドで、背番号七は輝いていた。彼は疾走する。空を舞うツバメのように、敵陣を掻い潜る。脈打つ鼓動は恐ろしいほど速く、激しい。唾液を嚥下することさえ難しく、彼は苦しい表情を浮かべた。
「川原! 走れ!」
ボールを持った味方が、華麗な足さばきで相手を翻弄する。一人、二人と置き去りにして。やがて混戦状態を脱した。
それを確認した彼は、加速と停止を織り交ぜる。そして、ピタリと立ち止まった。腰を低く落として、相手のユニフォームを強く握る。彼は味方にボールを要求。するとすぐに、一直線にボールが飛んできた。
「川原、フリーだ! そのままゴールまで!」
熱い体温を背中に感じながら、彼はボールをつま先に乗せ、そのままふわりと浮かせる。その一連の動作に観客は息を呑んだ。
彼が敵を振り抜けば、ゴールまでの間に誰もいない。つまりは、この一瞬で勝敗が決まる。時間が止まったような静寂。彼の頬を伝って流れる汗は、ゆっくりと地に落ちる。
「っ――」
頭上を通過していく白黒の球体。陽射しに照らされ、太陽が二つになったように彼は錯覚した。落下するボール。そして、弾む。バウンド音はとても小さかった。
刹那――いけ、走れ、決めろと、味方からもベンチからも怒声に近い叫びが飛び交った。対して敵側からは、戻れ戻れと、ヤジのような叫び声。
「―――」
彼は、背中を押すような風を感じながら、ひたすらボールを蹴り続ける。一切の無駄を排除したドリブル。猛牛のようにゴールを目指していく。
やがて彼の視界には、ゴールキーパーの姿が入る。約一秒、彼は瞼を下ろした。そしてもう一秒で目を開く。睫から滴る汗が目に沁みて、痛い。
「―――」
守るという意志のもと、両手を広げて彼を威嚇するキーパー。距離が縮まる。ここから先は、わずかな失敗も許されない。彼の頭にピリッとした刺激が走る。それは興奮から生じたものというより、天啓に近い感覚であった。
彼の瞳に映りこむ、ゴールキーパー。彼を殺すような目つきに、ギュッと引き結んだ唇。その様は、勇猛果敢ないつしかの英雄のようだった。
「―――」
見入るあまり、中断されていた応援。
それが再び、地響きのようにフィールドに鳴り響いた。
燃えろ、燃えろ、熱く燃えろ。
決めろ、決めろ、お前が決めろ。
ゴール、ゴール、ゴールが見たい。
その応援歌には、軍歌のような、妙に興奮を煽るものがあった。彼は自分の呼吸音と味方の応援を聞きながら、右足を後ろに引いた。
「―――」
彼が見ているのは、ゴールキーパーではない。ゴールの右隅でキラリと輝く何か。それを見ていた。きっと、あそこだ。そう思いながら彼は、一気に右足を振り抜く。
「―――」
意表を突かれたように目を見開き、キーパーは慌てて真横に飛びこんだ。腕を出来る限り伸ばして、指先をも必死に伸ばして。けれど、想いむなしく、ゴールネットが揺れた。
「えっ――」
いくらか遅れて歓声が沸き起こった。それと同時に、小さな悲鳴も。
「いっ……痛っ……くそっ……なんで……」
異変にすぐに、みな気がついた。喜びを爆発させたのも束の間、味方はこぞって彼の元へと駆け寄る。
「川原っ!? おっ、おい……大丈夫かよ……?」
大丈夫か、という問いに答えることは出来なかった。彼は黙って、痛みに耐える。まず、自分の身に何が起きたのか。それを考えるのが先だった。
「足が……なんで……」
どうやら、激痛は右足から伝わってくるようだ。骨が折れたか、もしくはヒビが入ったのか。いや、と彼は肩で息をしながら結論を導き出す。いまだかつて感じたことのない、この痛み。全身の血液が沸騰して、内側から皮膚を溶かしていくような、そういう痛みだった。つまり、骨に異常をきたしたわけではなかった。
「………」
心配する味方をよそに、彼は首を左右に振った。それは、もう無理だという合図であった。
レフリーは一度、笛を鳴らして試合を止める。そうしてから、彼にいくつか質問をした。
「君、動けるかい?」
一度、首を横に振る。
「じゃあ、立てるかい」
もう一度、首を横に振る。
彼は心の中では、ずっと首を縦に振っていた。まだ動ける。そういう強い想いはあった。けれど身体は、どうしても意思に反してしまう。
「じゃあ、担架が必要だね。ちょっと、待っていて」
彼は、伏し目がちに頷いた。
------------------------
ユニフォーム姿のままで、彼は病院の控室に座っていた。横には松葉づえが置かれている。
マスクをした老人や、頬を赤くしている子供。そういう人々に紛れてしまうと、背番号七は、病院では何の意味も持たなかった。
診断結果は、靱帯断裂であった。手術をしなければいけないと、医者は彼に告げた。単なる怪我だけれど、彼は余命宣告を受けたような気分だった。
最低でも、全治六か月。最悪の場合、一年はかかるらしかった。リハビリの時間も含めてしまえば、もっと時間がかかる。
「………」
酸っぱい汗の匂いが、彼の鼻腔に広がる。ツンと、鼻の奥が痛む。汗の匂いを嗅いでいると、無性に目頭が熱くなった。涙を流すことはない。しかし、泣いているのと変わらない気分だった。彼は松葉づえを使って、ゆっくりと立ち上がる。
引退試合には、間に合わない。その事実だけが、重く彼の心にのしかかった。
--------------------------------------
サッカーと離れた日常は、たまらなく虚しいものであった。自身の半身が、ごっそりそのまま消えてしまったような感覚だった。
彼は、ベッドに横たわりながら、ため息をつく。安静にすることを強いられて、やることがなかったのだ。明日はいよいよ手術。不安などはなく、もはや面倒だとすら思えた。
どうせ試合に間に合わないなら、と彼は心の中で呟く。
「………」
何ともなしに、窓の外へと視線を移す。夜の空には綺麗な半月が浮かんでいた。白くて、儚い。それを見ていると、腹の底からドス黒い感情がせり上がった。
「お前が……連れて、いきやがったんだな……返せよ、俺の片割れを返せ!」
叫びも虚しく、月が雲に隠された。ぼんやりと光る黄色。それはまるで、微笑む悪魔の片目のようだった。彼は身体を震わせる。
「なんで……俺なんだよ……」
そんな独り言は、彼をますます惨めな思いにさせた。
----------------------------------------
手術が無事に終わり、幾日か経った頃。彼は仲間の応援をしていた。黄色いメガホンを片手に、覚えたばかりの応援歌を叫ぶ。味方の好プレーには称賛の声を。失敗には励ましを。そうして彼らは、場外からチームメイトの背中を押してやる。
背番号七だけが不在のチーム。けれど、彼がいないからといって、何かが変わるわけではなかった。彼がいなくても試合はできる。彼がいなくても、勝つことだって出来るのかもしれない。そう思うと、彼はいっそう孤独を感じた。
応援をすることに、意味があるのだろうか。そんなことすらも考えた。結局、綺麗事を並べようと戦うのは十一人。たったの十一人だけが、戦うことを許されたのだ。
かつて自分もその中にいたと思うと、優越感がこみ上げる。
だが、今はもう違う。
彼は試合から目を逸らして、小さく呟いた。負けてしまえばいいのに、と。自分のいないチームの勝利など、彼にとってすれば敗北と変わらない。
彼の足は、自然と動きだした。正確には、松葉づえをついているから、動いたのは腕であったが。いずれにせよ、輝かしい仲間の姿は彼の目には毒であった。
こっそりと会場を出て、彼は自宅に戻った。両親と二、三言だけ会話をして部屋に引きこもる。悶々としながら、彼はこんなことを考えた。
自分からサッカーを取ったら、いったい何が残るのだろうか。
答えは闇の中。やはり彼には、わからなかった。わからなければ、不安になる。不安になれば、その不安を除きたくなる。
彼の頭に、あの光景がチラついた。微笑した悪魔の片目のような半月。
彼からサッカーを奪おうとしているのは、あの妖しい月。
怒りの奔流に押し流されて、彼は悪魔を憎悪した。あれは月などではない。ただの、悪魔。そう考えた途端に、全身から力が漲ってくるような気がした。
怒り、憎しみ、悲しみ。それらの想いは強くなればなるほど、人の心をおかしくする。けれど彼は、気づかない。自分の心が汚れはじめたことに、気づけなかった。
それからというもの、彼は変わってしまった。月明かりの綺麗な夜になると、彼は決まって外へ出る。憎しみを宿した瞳で、じっと月を睨みつける。そうして空が白んでくると、彼はようやく眠りにつく。それが彼の日常となった。
しかし、唯一の救いもあった。月を消し去る太陽は、彼にとっては天使のような存在であったのだ。欠けることなき真ん丸の太陽。彼にはあの球体が、たまらず愛おしく思えた。
そうしているうちに、不図、彼は気がついた。太陽とサッカーボールが似ていることに。
まさか、と彼は驚いた。共通点は、ただ丸いという部分だけ。それを除けば何も似ていない。けれど、あの輝きはなんだろうか。眩しくて、明るくて、見ているだけで心が安らぐ。この感覚は、いったいどういうことなのだろうか。
彼はわからなくなった。自分が何を考えているのかが、わからなくなった。
------------------------------------------
結局、彼の高校サッカー人生は終わりを迎えた。準決勝敗退という、残念な結果であった。けれど、しばらくサッカーから距離を置いていたせいか、特別な感情を抱くことはなかった。
彼不在のチームなど、彼とはなんら関係もないのだ。
時は流れて、彼は引退をした。引退といっても、応援にも練習にも顔を出さなくなった彼のことなど、誰も気にも留めなかった。
夏が過ぎて、冬が過ぎて、やがて卒業を迎えた。心にぽっかりと穴を開けたまま、彼の高校生活は終わってしまったのだ。
辛うじて大学に合格した彼であったが、別段、キャンパスライフを待ち望んでいたわけではなかった。何となく、進学する。それが彼の選択であった。
すっかりこの頃には、怪我も完治して、不自由なく生活することができた。けれど、完全なる自由というわけではなかった。
彼は考える。この、胸のあたりに感じる痛みは、なんなのだろうか。
大学生となった彼は、依然として胸の突っかかりを抱えたまま。気づいた時には、大学を卒業していた。時計の針が、狂っている。そう自覚したのは、彼が三十歳になった頃。
恐ろしい早さで進む時間。彼はようやく気がついた。時の流れに乗るのではなく、乗らされているということに。
彼は、切なさのあまり、泣き出しそうになった。時計の針が止まってくれたのなら、どれだけ喜ばしいことだろうか。彼は、出勤途中でもあったにも関わらず、たまらずどこかへ駆け出した。目的はなく、ただただ走りたかったのだ。
街中を疾走する。車が行ったり来たりと、騒がしい。彼は衰えた両足で、人混みを掻い潜る。脈打つ鼓動は、速く激しい。唾液を飲みこむことすら、辛かった。
「―――」
加速と停止を織り交ぜて、彼はようやく混雑した街中から抜け出した。
「っ――」
彼は立ち止まると、空を見上げた。そこでは、どこか愛着のある太陽が、にっこりと微笑んでいるような気がした。
何かの始まり感じさせる静寂。彼の頬を伝って流れる汗が、ゆっくりと地に落ちる。
「………」
彼の目の前には、一人の少年がいた。少年は汗だくになりながら、頭上を通過していく白黒の球体を眺めている。ボールは陽射しに照らされて、まるで太陽が二つになったようだった。ボールは落下する。そして、弾む。バウンド音はとても、小さかった。
「………」
少年は背を向けて駆け出した。背中には、燃えるように輝く数字の七が、刻まれていた。蜃気楼に揺れるように、少年の後ろ姿はゆれている。そうして、やがて静かに消えていった。