眼中
「それで、アナトーリ様。こやつ、歳は十七と」
「十七?」
囁きには思わず聞き返す。見てくれは精々十四、五というところだろう。それも、上に見積もっての話だ。
聞き間違いかと思ったが、頷いた彼は犬を引き立たせて続けた。立ち上がってなお見下ろすことのできる黒髪の旋毛は、部下と並ぶとおよそ顎と同じあたりにあった。
「グラシナロは女も男も皆子供のようだと聞きます。その割に、体つき自体は悪くありませんが」
引き立たされても驚き動じることはない。ただ姿勢よく立って、顔はこちらを伺っていた。
仔犬でないならば一層、このしおらしさが奇異に見える。十七なら最早、分別がどうこうと言う年でもあるまい。それが蛮族の性分と言うのなら分からないでもないが、見れば逃げるか噛みついてくるかのグラシナロの大人が、こうしていることなど。
ああ、しかし。思えばこれは、見つけたときからそうだった。
化け鳥に襲われ、逃げ出すことも仕返しに噛みつくこともできずに、ただ諦めたような風情で地に転がっていた。
「名は? 蛮族にもそれぐらいはあるだろう。名乗らなかったか」
「貴方様がお呼びになられたでしょう。あれを」
「……山犬か」
「はい、パンジャミ」
笑んで応えたのはヴラスではなく、当の山犬だった。名づけたつもりなどなかったが、大方これも、部下たちが適当にかける言葉もなく呼びやったのを覚えたのだろう。賢いのだか愚かなのだか分かったものではない。
じっと、こちらを見つめる一つ目の眼差し。
山犬の瞳は相変わらず人間の双眸に睨まれるよりも力が強い。焼き付くような気配があった。
「これは私を何と思っているんだ」
どうも私の事を言っているらしい、何度も繰り返されている奇妙な言葉だけは、オーダンク語の響きではない。グラシナロの言葉なのか。問うと、ヴラスには困惑した顔をされた。見下ろした犬はどこか不思議そうな顔をしている。間の抜けた顔だ。
調べさせましょうか、との問いに頷いて、荷解き途中の円卓の上を見遣った。侍女は強張った顔をして落ち着かない様子で、グラシナロと私とを見ていた。
「……その包みをとってくれ」
返事は細く、平素より高い声になった。これほど大人しくとも、蛮族が身近に、野放しにされていると恐ろしいらしい。腕の立つ騎士が近くにいなければ、同じ部屋にも居たくはないという蒼い顔だ。
そんな震える手でも、彼女は主の望みどおりに小さな布の包みを取り上げ、こちらまで持ってきた。受け取った後に逃げ帰るようになったのは仕方あるまい。それを怒るほど狭量ではなく、詰るほど悪趣味でもないつもりだ。それに、今は暇と言うわけでもない。
布を開き、陶製の百合十字を下げた首飾りを取り出す。つい先程まで忘れていたが、友人が、グラシナロに持って行けと持たせてくれた代物だ。真っ当な扱いをし人に近づかせるのを目的とするならば渡してやってもよかろうと、そういう趣向だった。
卑しく逃げ回る蛮族ではなく国から地を預かる領主に下ったのならば、そして賢く、見込みがあるのならば。神を知るべきだ。もし蛮族も人の魂を持つのであれば――百合の祈りを胸に抱いた者こそ私の城に相応しい。
ヴラスが目を見開いて私の手元を凝視しているのが感じられた。今度こそ呆れ叱責されても仕方のない振舞いかと思っていたが、彼も、私の素性を知る為か何も言わないどころか胸に手を当てた。
讃美歌でも聞いたような、神妙な顔だが。この一幕は彼の目にはそう映るのだろうか。この領主の、蛮族相手の僧侶か何かの真似事が。
首輪にしては緩い、玉を連ねた輪を年不相応に低い位置にある頭にかける。胸元に百合十字が落ちると、獣の瞳はそれを追って見下ろし、静かに両の指先で触れた。
祈りの所作と似た様に、笑いが漏れた。
「それが神への証立てだ。忘れるな」
言葉をかけてやればまた上を向く。僅かな時間のことだっただろう。何を考える、理解すると言うほどの時間ではなかったはずだ。けれども、その瞬間ばかりは、私も言葉を失った。
こちらを見上げやった山犬の顔が、聖いものを見つけた者の無垢な、一切の邪気のない信仰の面持ちに見えた。木立の間からこちらを睨む狼と同じ瞳は、しかし神を見つけた者の光に満ちていた。嫉妬や羨望を感じかねないほど――それすら退けるほど、美しい表情をしていた。
眩暈を覚えた。大雪の間城に引きこもり続け、はじめての晴れ間に外に出て、新雪の眩さに目を射られた時のような心地がした。
神を知るには思考の余地など、不要なのかも知れぬ。目の前に示されて瞬時にそうと理解できるものが、そうなのだ。恐らくは、きっと。
ああ、なんて顔をする。
「――アナトーリ様、湯の支度ができましたが、如何なさいましょう?」
胸を焼いた嫉みか嘆きか、払い拭うように侍女の声がした。荷解きをさせていたのとは違う、風呂の支度を言いつけていた娘のほうだ。年嵩の彼女もまたいくらか硬い顔をしていたが、年功の分か、臆せずこちらに近づき普段と変わらぬ礼の姿勢をとっていた。
彼女の飾り襟の下にも、百合十字があるだろう。彼女は、こいつと同じものを見たことがあるのだろうか? 直向きに心を注げる存在を、目の当たりにしたことが?
私には無い。
「すぐに行く」
百合十字を握った拳から顔を背けて応じた。遠巻きな暖炉の火のお陰で、指も足も、上手く動くようになった。頭も幾らかはよく動くようになっただろう。並程度でも。
酒は皆で分けろとヴラスに告げ、日が沈む前に仕事をするからお前たちも支度をしておけと続ける。こうして指示をするのは久方ぶりのことだった。人から持て成されるよりはこちらの方が、性にあっている。
眼差しを背に感じながらも、振り返らずに浴室を目指した。絡むような視線だったが追ってくるようなことはなく、私の耳が捉えられる限りは何の物音も聞こえなかった。やはり大人しく、躾けられた犬のようだ。その相手もまた部下任せにできるあたり、私は本当に部下に恵まれている。
開かれた扉を潜って、乱雑に脱いだ服を押しつけ、侍女を退ける。蛮族の横に居たときよりもよほど強張った顔で出ていくのを見送ったところで、いくらかは落ち着いた。
一人で奥の重い扉を開くと、温みを帯びた湿気が肌に触れる。溜められて湯気を撒く湯に触れれば、大分温まったと思っていた指先でも痺れるような感覚がある。喉から息が押し出された。
神を、知るのは――言葉で以て他者に教えられる前に神を知ることは、どれほど幸福なことなのだろうか。きっと冷え切った手足を熱い湯に浸すように鮮烈で、そして何より幸福なのだろう。伝え聞きでぼやけた曖昧な御姿ではなく、光輝を纏って眩いものが見えるに違いない。きっと魂の湧き上がる思いがするのだ。
私も見たい。願って、どれほどの歳月が過ぎたか。獣の目は一度で開くと言うのに、どうして私の目は開かれぬのか。とやかく考えすぎて、言葉で飾りすぎている所為なのか。私の祝福が名ばかり、立場ばかりだと言ったなら、王や民はどのような反応をするだろう。
濡れた手で触れた水晶の百合十字は肌と似たような温度になっていて、私に何も齎さなかった。これからもそうなのだろう。乾いた床に雫が落ちた。
ああ、――まだ目がちらつくようだ。夜に聖典を読んでやろうか。そうしたら、あれはどんな顔をするだろうか。きっとあの目に神は映っているのだろう。私もその中に、神を見出せるだろうか。




