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獣の譬  作者: 灰撒しずる
山犬の瞳
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平伏

 城の端部屋の扉を開けさせると、寝台を囲む医者と部下とが揃ってこちらを見た。薬臭い部屋だ。どことなく物々しい雰囲気は、当然か。緑衣の老人が目礼し口を開いた。

「これで死ぬことはないでしょう。元が健康ですので、少し休めば動けます」

 寝台には小さな体。手負いの兵士のように裸で寝かされ、毛布を掛けられている。顔の半分は清潔な布と包帯で隠れていたが、呼吸で上下する胸は、前よりはっきりとしている。血色も悪くない。何かを観念したように目を閉じて横たわっているが、これでも起きているという。髪は相変わらず黒く、絡んだままに広がっていた。

 怪我の治療と、毒抜き。頼んだ時はそれは渋い顔をされたものだが、医者はよくやってくれた。手がなかったと言って殺されるのではないかと思っていたが、私の部下も彼も、誰一人そのような気を持ったとして、行動に移したものはいないようだ。

「やはり貴方の腕は確かだ。安心して風邪を引くことができる」

 笑って言うと、彼はまた目礼した。その横でこの前と変わらぬ狼のような目が開く。ああ本当に目覚めていたのだと思ううちにこちらを見つけ、また――そう、やはりあの時と同じように――丸く見開かれる。

「パンジャミ」

 声はそのように聞こえた。掠れた低い声。その後は一瞬で、声を覆すように慌ただしく、布が捲れる音と酷く急いだ足音が一度に聞こえた。寝台から転げ落ちるように飛び出した体は、床に倒れたように見えた。

 呆気にとられる間の出来事。私の部下が身構えるより早い。

 笑いが漏れた。

「休むまでもないか。頑丈な獣に、人の見立ては甘いようだ、先生」

 ただでも、蛮族の子。今この時ならば、領主に襲いかかる賊としていくらでも切り捨ててやれただろうに、誰も剣を抜く暇を作ることができなかった。それだけ急で、素早い動きだった。まったく獣のようだ。私は今、喉笛を食いちぎられていたかも知れない。

 そうならなかったのは果たして何の為なのか、私には分からない。獣にも恩を感じる心があるということなのか。私の行いに、温情でも感じたのか。それとも恐怖からの行動なのか。

 いくら暖炉があるとはいえ、この部屋は端部屋で寒かろう。絨毯も敷かれていない石の床は冷たく硬いに違いない。毒を抜いた後の体は、力も入らず震えるはずだ。武器を持った者たちに囲まれた中でそんなことをするのは、私たちには考えもつかないことだった。

 長い黒髪が床でうねる。鼻は、口は、もしかしたら床に付いているかも知れない。罪人が首を差し出すように、膝をついて体を折り曲げ、地に頭を擦りつけて、グラシナロは平伏する。犬が縮こまっているような姿勢だ。

 青白い背はきれいなものだった。あれだけ鳥に転がされていたが、怪我をしたのは目だけらしい。幸運にもと言うべきか。

「顔を見せろ」

 言っても反応が無い。――ああそうだ、これは蛮族、獣の子供だ。我々の言葉も通じないのだった。初めて扱うものだから、失念していた。

 顔を上げない蛮族の代わりに動いたのは、忠実な部下の一人だった。汚れた黒い毛を掴み、引き上げる。小さな体は、やはり見つけたときと変わりなく、息絶えた獲物のように無抵抗に動いた。首を持ち上げられてまた見えた目は私を映してはっきりと開いている。

 少し視線を横に逸らすと、周囲が身構えているのが見えた。手が、剣の柄にかかっているのも。まるで屠畜の支度をしているようだ。

 それを知りながら、グラシナロの顔を覗きこんだ。

 半分が覆われ一番酷い見てくれの部分が隠れた顔も、背のようにきれいなものだった。むしろ、治療の為に丹念に泥も血も拭われたのだろう。乾いてかさついた肌は他よりは清潔で、薄黒いのは汚れではなく雪焼けと知れる。見返しても逸らされぬ瞳は、一体何を見ているのか。

 薬と垢の混じった饐えた臭いを感じ、顔を離す。

「傷が塞がったなら風呂に入れておけ。私が戻るまでに、見れる形にしておくように」

「何処かへお発ちに?」

 返る言葉には非難に似た色が滲んでいる。思わず笑んだ口を押えて足を前に出す。並んだ者たちを眺め、一人選ぶ。この中では一番年上の、しかしまだ十分に動き回れる年の者を選べばよかった。

「貢物を見繕って明日には発つ。――初姫の祝いだ。しばらく都に居る。留守はエフィンに任せる」

 顔にも声にも見えた色を無視して問いにだけ答え、選んだ男の肩を叩く。横暴な領主を見返し、彼は胸の前で手を合わせて、低い声で伺った。

「どうなさるおつもりです」

 視線は、床に這ったままの獣に向いた。

 まだ髪を掴まれているグラシナロは大人しい。獣のくせに、牙も爪も、闘争の意思も、隠すどころか持ち合わせが無いように見える。兎でもこうして耳を掴まれればもう少し動きそうなものだが。

「王も山猫を飼ってらっしゃるだろう。隣国(ユフト)の城では、熊を飼い慣らしているとも聞くぞ。私が獣一匹懐に入れたところで、なんでもなかろうよ」

「これはグラシナロですが」

「考えろ。今までほとんど我々の前に姿を見せずに逃げ回っていて、稀に姿を見せたと思えば矢を射かけ石を投げつけてくる奴らだ。それが、見ろ」

 見下ろした姿は、奴隷という言葉が最も適当なように思えた。縄も鎖もつけてはいないが、丸裸で床に転がる姿はそれ以外の何だと言うのか。これは我々に屈服している。

「猟犬たちのようなものだ。何が違う?」

 こちらを見る眼差しだけがそれらと違ってはっきりと意思を持っている。虚ろに瞬きを繰り返すだけではない、獣の瞳が見開かれている。

「……暴れたら殺せばよい。大人しいなら、調教でも何でも。蛮族を飼い慣らせるものか試してみようではないか」

 青白い喉に剣を添えるのは、おそらく簡単なこと。足を痛めた馬を、翼を腐らせた鳥を屠るように、持て余すならば殺せばよいのだ。

 狼相手でも変わるまい。いや、そのように凶暴ではないか。あれは人に与しないが、これは。

山犬の仔(シュノー)、お前に神を教えてやろうか」

 狩った狼の子を手懐けて畑を守るのに使うのを、領民は山犬と(そう)呼んだ。これはさしずめその辺りだろう。獣には違いないが、少しは人に馴れている。どういうわけかは、知れないが。

 周囲が唾を呑む音が聞こえたが、山犬は相変わらず、言葉も具合も分からぬままに、考えなしの顔でこちらを見上げていた。その髪を掴む手は緩まず手綱でも握るようになっている。部下も扱いかねているのだと知れたが、何か指図してやることもなく、任せることにした。私が此処を出れば、多分放してやるだろう。そして私が城を出た後も、どうにかするだろう。それも彼らに任せるところだ。他人任せながら、どうなろうが一向に構わない。

 ――馬鹿が馬鹿なのは、神を知らず、神がお与えになった知性を目覚めさせていないからだ。腹が減った、疲れた、寒い、女が欲しい……愚か者は獣の条理で生きている。ならば、その愚か者に、神の示し給うた人の理を見せてやったら? 蛮族も人に近づけるのだろうか。狼が犬になるくらいのことは、起こるのかもしれぬ。蛮族だって人の形をしているのだから。

 試してみよう。カグーの山裾で燕麦の畑が作れるか、やってみようと提案した時と同じ心地だった。どうにかならずとも、どうにかなるが、どうにかなるなら面白い。

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