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獣の譬  作者: 灰撒しずる
山犬の瞳
3/20

変化

 まだ(そり)を使うには早く、私は愛馬と猟犬と、八人の部下を従えて城を出た。濁った色の空からは雪がちらついていたが、変わったことではない。この分ならば大降りになることもないだろう。冷え込んではいるが、温い空気よりは眼が冴えて好い。

 温みは人を腐らせる。気温にしても、環境にしてもそうだ。長い間いるのなら、たとえ向かい風でも刺激があったほうが好ましい。

 腐りかけの私は戯れに馬を急かす。黒い木々の林が視界の端を流れていく。小さな雪の欠片が目元で砕け、煩わしさにぐいと拭った。凍ります、との忠告に仕方なく襟巻を鼻まで引き上げ、吐息を封じ込める。耳を隠すのも好かないが、この寒さでは千切れかねないので髪と帽子についた毛皮とで覆うことになる。

 馬は機嫌よく私に従った。寒さに強い彼女は、こうして此処を駆けるのが嫌いでないらしい。狩りで牙を持つ獣に遭ったとしても落ち着き払っている、畝る見事な鬣が自慢の淑女だ。

 林の中を駆け回って体を温め、水辺の近くまで走らせる。未だ凍らぬ場所を見下ろせば十羽ほどで羽を休める雁の姿が見えた。

 この山は猟場として申し分ない。獲物は豊富にいるが、領主――つまり私の持ち物である故に、猟師たちもおいそれとは立ち入らない。だから獣たちも幾分気が緩んでいる。簡単な的だ。勿論障害物はあるが、適度。馬で走り橇を走らせることができるほどなだらかで、遊びで狩るには最適だ。

 寛ぐ鳥を眺め、十字弓(スバラ・ルーク)を構えた。一際見栄えよい、嘴が鮮やかに目を惹いた一羽に狙いを定めて矢を放つ。カンと鳴る乾いた射出音に続く慌ただしい羽音。悲鳴を上げて飛び立つ群れに置いて行かれ、一羽は冷えた水面に伏した。

 待っていた犬たちが薄く積もる雪を蹴って獲物へと駆けていく。横からは、お見事です、と褒めそやす声。悪い気はしないが格別に良い気分でもない。矢を吐いた弓を撫で、鷹揚に頷いて見せる。私はこうしたやりとりにもう慣れてしまったのだ。とうの、昔に。

 騒音がしたのはそんな折だった。林の奥から、雁が飛び立つときより騒々しく、羽や枝を打つ音が聞こえた。

「アナトーリ様、あちらに何か居るようです」

 私と同じように口元を覆っている為に、囁きのようになるくぐもった声が言う。見遣れば、雁を引きずっていた犬も耳を立てて色めいているのが窺えた。部下たちと同じように私を伺っている。相手が普通の獣であればこのような動きはしない。

「人か?」

「どうも普通ではなさそうですが」

 耳を塞ぐ布を払う。葉擦れのような音にぎゃあぎゃあと悲鳴に似た声が混じっている。その中に本当の、人の声があるような気がした。

 考えたところで埒も明かぬと顎で示した。犬たちが咆えて導く、その後ろに馬を急き立てた男たちが続く。

 そのさらに後ろに続いた。羽根を零して転がる雁の死体が見えたが、特別持ち帰りたかったわけでもない。横を過ぎて岸を回る。この地では浅瀬を通るだけでも馬の脚を凍らせかねないのが面倒だ。

 傾斜を駆けあがって下を見れば、そこも狩場だった。

 思わず顔を顰める騒音。人の身の丈ほどもある翼を広げて鋭い嘴を突きだしているのは、普段は洞窟に籠って暮らすクリク鳥の白色種だった。豪奢な尾羽を切ったとしても、先程の雁などよりもよほど大きい。ただでも脅威となる体躯と鋭い嘴に加え、餌の毒蜥蜴から得た毒を持つ、魔物だ。

 人の叫びに似た声で狂ったように喚きながら、地で暴れまわる。その間にやはり、紛い物ではない人の叫びが混じっていた。赤い血が飛び散って薄く白い地面に撒かれる。

「――――!」

 木槌のように振るわれる嘴と蹴り上げようとする強靭な足から逃げ回る、毛皮を纏った人の姿。小柄なその姿は、目を凝らせば、顔を抉られたようだった。泣き叫ぶ声は何を言ったのか知れない。

 襲われているのが子供だと知れて弓を構えていた部下たちが、その手を下げた。原因には私も同時に気づいている。鳥の羽毛とは対照的に、襲われている子供の髪は黒かった。

「……グラシナロですな」

 泥の輩(グラシナロ)。カグー連峰の山中を移動しながら疎らに居住する、我が国の庇護下に入らない少数民族だ。我らが国民、そして領民とはまるで違う黒く汚れた髪で、獣と同じ目をして、顔に泥を塗って暮らしているのだと云う。神と王から顔を背けた、獣と同等の蛮族。

 クリク鳥も、グラシナロも、こんな人里近くに降りてくるのは珍しい。鳥が人を襲うのも、領民よりも狩猟に長けるものが襲われているのも。珍しいもの同士の取り合わせだ。子供のほうはどうやら武器は手にしているが、もうかなり弱っているのか動きがない。顔は赤く染まり、自分よりも大きな鳥に遊ぶように転がされている。

 今日は出てきて正解だったかもしれない。いつもとは違うものが見れた。

 私は無言で矢筒から矢を抜き取り、十字弓を構えた。眇めた目の先ではまだ鳥と子供が躍っている。山の中では幾度となく繰り返されてきた捕食か何かの風景、しかし特異な組み合わせ。これほど離れて、しかも襟巻で口元を塞いでいるというのに、血の臭いが鼻に触れるような気がした。聞こえるわけのない、グラシナロの荒れた息さえ捉えられそうだ。

 こちらに気づかないまま動き回る生き物は、先の獲物よりも格段に狙いがつけづらい。だが、どうなったところで咎める者などいない。普通の狩りと同じように構えるだけでよかった。

 部下が窺う中で引き金を引く。飛んだ矢は上手くクリクの翼の付け根を射た。威嚇とはまた違う声が上がったが、巨体に一矢では軽くつつかれた程度のものらしい。倒れはしなかった。

「逃がすな。里に下りると面倒だ」

「どちらを」

「まずは鳥だ。殺せ」

 命じれば臆することなく、部下は揃って弓を構えなおした。彼らは皆、私よりも腕が立つ。何も心配など要らなかった。

 子供が這って逃げ出すのを眺める間に、乾いた音が続いて鳴った。追いかけようとした鳥の体に八本の矢が順に突き立つ。うち一本が目玉から頭を貫いた。勿体つけるように身を捩って、ようやっとどうと倒れる。血の上に羽根が散った、その横にグラシナロの子供が倒れていた。

 愛馬を促して斜面を駆け降りる。

 地に伏せていれば響くだろう蹄の音にも馬の嘶きにも、子供は反応しなかった。毛皮の服はじっとりと血を吸っている。伸び放題の髪も絡んで汚れて酷い有様だった。

 孤児院にいる子供だって、こんなに酷くはない。これが蛮族。泥塗れた、神を知らぬ、畜生に等しい者どもか。

 背後で部下たちが声を上げても、追ってきた犬たちが鼻を鳴らして様子を見ても、伏して応じない。もうそんな気力も奪われてしまったのだろうか。血を流し過ぎたか、鳥の毒に蝕まれたか――それとも、既に?

「アナトーリ様!」

 鞍から下り、呼ぶ声を無視して濡れた肩に手をかけた。

 胸倉を掴み、伏した体を引き上げる。射ち殺した獲物を引き上げるような感覚だった。引かれる体に従って腕も引かれ、ぐらりと、据わらぬ頭が揺れた。

「おやめくださいませ。手負いではありますが領主様に何をしでかすか」

 さて、色見目はこのようだが一応人の(なり)はしている。仰向けにしてやると、胸が浅く早く上下しているのがわかった。顔にかかる髪を除けて見れば抉られているのは顔ではなく目で、右目が潰れ、血と共にその肉を零しているのも見えた。まったく酷い有様だった。顔は血と泥で汚れている。これは好きで塗っているわけではあるまい。

 目玉が消えた輪郭をなぞると、逆の目が開いた。灰褐色の瞳。成程、獣の持ち物によく似ている。これは狼の色だ。

 一つきりになったその目は起き抜けのようにこちらを見て、徐々に瞠られた。

 乾いた口が動いて吐息を漏らした。喉で潰れた声は、言葉なのか、ただの悲鳴か、私には知れたところではない。

「……領主様、どうなさるおつもりです」

 目は瞬きもせずにこちらを見ていた。力の無い体とは真逆の力強さで、食い入るように。

 どうやら、これはまだ生きている。逝く獣の眼差しではない。苦しんで泣くなら殺してやろうと思ったが、その必要はなさそうだ。必要ある措置は、そう。

「思いのほか生きが良い」

 言葉を返さない私を、部下たちは根気強く待っていた。いつもそうなのだ。彼らは私の行いを諌めることこそすれ、咎めることなどありはしない。私は自由だ。こんな時でさえも。

 彼らは座った犬たちと同じように、従順に私の指示を待っていた。こちらからは窺えない彼らの目はどんな風に私を見ていることか。

 誰でも、ここまで力強くはあるまい。この獣のようではあるまい。

「誰か、先に走って医者を呼んでおけ」

 見開かれたままの茶色の瞳。その残滓が残る右の頬骨に手をかけた。手袋は外さない。毒が残っているに違いなく――あの毒は確か、触れるだけでも好くない。

「生け捕りとでも言おうか」

 誰かが返事をする前に一人呟いて指を埋め込んだ。子供の体が震え、悲鳴が冷えた空気を裂いた。犬が驚いて咆え、馬が怯えて跳ねあがる。人間は皆黙っていた。

 冷えた指先を半端な硬さで包む物からは、あまり温度が感じられなかった。血か肉か目玉か、もしくは他の何かか、混ざって判らなくなっている物を掻きだして捨てる。地に落ちて泥のような、脂のように固まりかけている黒いものがクリクの毒だろう。量は然程多くはなかった。苦痛に閉ざされ涙を流しながらもまた開いた左目と同じものがあったはずの場所は、瞼もほとんど取られて歪な穴だけが残っている。そこからは噎せ返るほどの血の臭いがしていた。

「グラシナロがこうして我々の前に姿を現すことも珍しかろう。よい土産ができた。帰るぞ、お前たち」

 悲鳴の端が呻き、浅い息に変わっていた。城に帰るまでにその息が絶えなければ良いが、どうだろうか。

 生きるならどうしてやろうか?

 この辺境の濁った色の山奥で、変わらず繰り返していた日常に訪れた変化がどれほど長持ちするものか、私は興味があった。

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